63:新人艦長:2025/06/03(火) 18:53:18 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
勢いのままに書いたイギリス軍の3Vボマー後継機ネタ

アブロ733 ヴェンジャー戦略爆撃機
全長:50.5m
全幅:28.6m
全高:11.5m
翼面積:330平方メートル
最高速度:マッハ1.6以上
航続距離:1万キロ以上
固定武装:なし
爆装:最大60トン以上
エンジン:ロールス・ロイス・スネクマ593-23R-110オリンパスⅡターボファンエンジン×4
乗員:5名(機長、副操縦士、航空機関士、兵装士官、航法士、その他3名分の補助席)

 アブロ733ヴェンジャーはイギリスが開発した最後の戦略爆撃機である。
 ヴェンジャー(英:Venger) とは復讐者という意味である。

(開発前史:核兵器と爆撃機の分離)
 1950年代、米国は核戦力としての爆撃機を完全に見切っていた。
 核戦力は将来的にICBM、SLBM、空中発射型ミサイルの3種類に絞って運用するという方針を固め、そのミサイルを米英日3カ国で共有する「トライデント計画」を進めていた。
 そのトライデント計画の中に爆撃機があった。
 トライデント計画爆撃機はALBMなどの長距離ミサイルを発射可能で汎用性のある通常爆弾を大量に積載可能な重爆撃機であった。
 この要項を共通するのみでそれ以外は全くの自由のこの計画で日米はB-58ハスラーと五八式重爆撃機という兄弟機を産み出した。
 一方英国はこの役割に3Vボマーを割り振っていた。
 そして1950年代にはトライデント爆撃機の後継爆撃機の開発が検討され始めた。
 折しもビルマ戦争で爆撃機の需要が高まっていたのと従来型重爆撃機が活躍していたことがより開発を刺激した。
 イギリス航空省は運用要求RB.200としてまとめられた。

64:新人艦長:2025/06/03(火) 18:54:12 HOST:KD106146077088.au-net.ne.jp
(開発:RB.200の開発要求)
 RB.200計画は1957年防衛白書で中止されたアブロ731などの爆撃機計画を不十分だと考えて計画された。
 アブロ731の問題点として
  • 速度特化で汎用性がない
  • 極めて高コスト
  • あまりにも最新技術を投入しすぎているため失敗リスクが高い
 などが挙げられた。
 RB200計画は次のような計画としてまとめられた。
  • 最高速度マッハ1.5~2
  • 航続距離1万キロ
  • 最大巡航ミサイル30発もしくは爆装を機内機外合わせて60トン
  • 空中給油能力を有する
 などである。

(構造)
 ヴェンジャーは同時期に開発されていたコンコルドの影響を受けた構造となっている。
 先ず主翼平面型がコンコルドと同じオージー翼を採用、これに水平尾翼がついている点がコンコルドと異なる。
 操縦系統にはコンコルドと同じアナログフライバイワイヤが使用されているのも同じである。
 機首もよく似た細長く針のような機首であり、そのために機首の可変機構が試作機では搭載されていたが、量産機では機首が少し短くなることで可変機構は無くなっている。
 コンコルドと比べるとかなり太い円形の胴体からブレンデッド・ウィングボディになるように滑らかにオージー型の低翼配置の主翼に接続している。
 オージー翼の下には4基のエンジンが装備され、その周りにはさらにハードポイントが設置されている。

 エンジンはコンコルドのオリンポスエンジンを改良したターボファンエンジンであるオリンポスⅡが採用された。
 オリンポスⅡはオリンポスエンジンをアドーアエンジンの技術を基にターボファン化したエンジンである。
 バイパス比は低いがファンがつけられている。
 アフターバーナーも搭載されアフターバーナー無しで最高出力は4万lbfにまで達した。
 アフターバーナーを使用した場合には4万5千以上を発揮可能で当時ターボファンエンジンとしては最もハイパワーであった。
 その分機械的には故障が多く未熟な面も多かったが、70年代にオリンポスⅡ B型という改良型に全機がエンジンを換装し改善している。

 胴体内部には三区画の爆弾倉がある。
 その区分けは前二区画が可動式で可変可能で搭載兵器によって区画を変更するだけでなく、隔壁を取り払い一つの大きな爆弾倉としても使用可能である。
 爆弾倉はコックピット後ろの機械室後方から主翼中央部のエンジンエアインテーク前の主脚部分までの長い二区画と主脚後ろの小さな一区画に分かれている。
 胴体は機首から
レドーム
操縦室(直下に前脚)
機械室
A爆弾倉
B爆弾倉
主脚及び中央燃料タンク
C爆弾倉
後部機械区画
尾翼
テールコーンとエアブレーキ
 に分かれている。
 乗員は機長、副操縦士、航空機関士、航法士、兵装士官の5名が基本で交代操縦士2名と交代機関士が同乗可能で最大8名の搭乗が可能である。
 乗員の全座席は射出座席が基本になっている。

 基本形式は爆撃機であったが偵察機型と哨戒機型が存在した。
 偵察機型はレーダーを強化、爆弾倉を撤去してレーダーや写真偵察機器、燃料タンクに変更された機体である。
 こちらは40機ほど生産された最も生産された派生型で、イランにも輸出されている。

 この機体の欠点は着陸操縦の難しさであった。
 まずこの機体は機首が長く、着陸時の下方視界が悪かった。
 次にオージー翼特有の低速域では揚力が発生しずらい性質である。低速域では操縦が不安定になりやすく着陸速度が他機種よりも高速なので事故が発生しやすかった。
 また前輪と主脚の間隔がかなり広い機体であったため離着陸時のバウンドがかなり発生しやすい、そしてそれがコックピットからでは感知し難いという問題も抱えていた。
 さらにフライバイワイヤであったためパイロット遊動振動が発生しやすく、特に導入当初は操縦に慣れていないパイロットによる操作ミスが相次いだ。
 そしてそれを補正する自動操縦やコンピュータの性能が低かったためすぐに補正できない場合が多かった。
 ハードランディングで主脚が跳ねているのに機首があまり上がっていないためそのまま無理矢理機首を下げた結果、横転する事故が発生している。

65:新人艦長:2025/06/03(火) 18:54:50 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
(生産)
 試作初号機は1967年に初飛行し、1年のテストを経て1968年に正式採用されてヴェンジャーと命名された。
 当時ビルマ戦争で3Vボマーの損耗(特に空中分解事故を起こしたヴァリアント)が激しく、その代替として当時としては異例のスピードで生産が計画された。
 最終的には事故損耗などでの補充分も合わせて1978年までに英軍向けは爆撃機250機と偵察機40機が生産され3Vボマーと全機交代した。
 さらに1970年にインドが重爆撃機として爆撃機型を30機購入している。
 これらはヴィジャヤという名前で1974年までに全機が納入された。
 これはビルマ戦争参加の褒美としての面もあり、インド向けに格安で売却された。
 同じ年にはイランが偵察機型15機と爆撃機型20機を発注している。
 こちらは79年までに全機納入された。
 最終的な総生産数は360機(内試作5機)

(運用)
 1968年夏より配備が開始され、初期は主に核パトロールに参加した。
 1969年のNATO演習で最初の対ソ連のお披露目となった。
 1970年には5機がタイに派遣されてビルマ戦争に参加、ビルマだけでなく雲南まで進出して中国やビルマの反乱軍を空爆している。
 次の実戦となったのは1974年、インドが核実験に成功したときであった。
 インドは核実験に成功し、さらに翌年模擬核爆弾を演習で投下、核攻撃能力があることを全世界に誇示した。
 79年より始まったアーザールバイジャーン紛争ではソビエト・アゼルバイジャン共和国を爆撃するなどイラン軍の機体が活躍。
 第5次中東戦争に発展すると西側中東諸国唯一の重爆として爆撃任務を敢行、バグダードなどを爆撃している。
 そして1982年のフォークランド紛争ではほとんど全機が投入された。
 紛争前のアルゼンチン強行偵察やフォークランド諸島占領後の爆撃と偵察作戦のブラックバック作戦に約20機が参加、同時に実施されたアルゼンチン本土爆撃作戦には20機が参加し、ブエノスアイレスやコモドロリバダビアなどを爆撃している。
 フォークランド紛争終結までに約1万ソーティの任務をこなし、数千トンの爆弾を投下することに成功した。
 その後はゴビ砂漠戦争にも従事したほか、現在も続いているロシア内戦でNATOの英軍部隊として行動している。
 またインド軍機は現在も核戦力の一部として活動している。

66:新人艦長:2025/06/03(火) 18:55:53 HOST:182-166-38-132f1.osk2.eonet.ne.jp
(事故)
 この機体は試作当初から操縦、特に着陸操作が難しい機体であった。
 そのため現在までに着陸に失敗して横転炎上する事故が6件、その他の原因による事故が4件発生している。

 1968年12月10日、試作4号機がベルゲンで実施された寒冷地での片肺飛行試験時に吹雪でベルゲン空港の滑走路を逸れて格納庫に激突、格納庫にいた23名のノルウェー兵が死亡。パイロットは墜落直前に射出に成功し助かった。
 事故原因はパイロットの空間識失調と機体の低速域での操縦特性に習熟していなかったこと、着氷による操縦特性の変化、気象の急激な変化、ベルゲン空港の管制官の不適切な管制業務などが挙げられた。
 特に天候が急激に悪化していたにもかかわらず機体を着陸復行させなかった航空管制に問題があるとされた。(1968年ベルゲンヴェンジャー墜落事故)

 1969年2月6日、ワディントン空軍基地で着陸訓練中だった機体がバウンドして横転爆発炎上。訓練生4名と教官3名が死亡。
 訓練生の操作ミスとそれをフォローしきれなかった教官が機体特性を理解していなかった点。(1968年ワディントン空軍基地ヴェンジャー着陸失敗事故)

 1970年7月19日、ホルビーチ演習場で夜間低空侵入爆撃訓練中のヴェンジャーがバードストライクによるエンジン停止後の操作を誤り墜落、乗員5名全員死亡。
 夜間であったため緊急上昇時に機首を上げすぎて失速し墜落。
 パイロットが低空でのエンジン停止訓練を十分に習熟していなかった、独断専行型の機長が操縦に没頭していたため姿勢の問題について他の乗員が指摘できなかったクルー管理の問題、空間識失調などが原因とされた。(1970年ホルビーチ墜落事故)

 1971年4月6日、空軍納入前の試験飛行中だった生産59号機がファーンボロー空港で着陸に失敗して大破炎上。テストパイロット3名は重傷を負うも脱出に成功。
 事故原因は着陸直前の横風に気を取られ垂直方向の減速に失敗したパイロットのミス。その背景としてパイロットにとってこれが事故前24時間で8回目の離着陸だった点を指摘。(1971年ファーンボローヴェンジャー着陸失敗事故)

 1973年3月21日、フェアフォード空軍基地で着陸したヴェンジャーがバウンドして横転。乗員3名が重傷を負う。
 乗務員のフレア操作が遅れて致命的なバウンドを起こし、それを立て直そうと急激な加速と機首上げを行おうとした結果、パイロット誘導振動が発生して再び着地しギアが破損して大破した。(1973年フェアフォード空軍基地ヴェンジャー着陸失敗事故)

 1976年10月8日、ロジーマス空軍基地で着陸したヴェンジャーが横転、乗員全員と消火にあたった消防士一名の6名が死亡。
 着地時にやや早めに降下したためフレアが一瞬遅れて機体がバウンド、バウンドに気が付かなかったためそのまま機首を下げてしまい横転。(1976年ロジーマス空軍基地ヴェンジャー着陸失敗事故)

 1979年12月18日、ドイツマンハイム空軍基地で離陸直後のヴェンジャーが着氷により失速し墜落。乗員5名が死亡。
 パイロットが十分な除氷を実施しなかったのが原因。(1979年マンハイム空軍基地ヴェンジャー墜落事故)

67:新人艦長:2025/06/03(火) 18:56:07 HOST:KD106146077088.au-net.ne.jp
 1982年4月13日、アセンション島ワイドアウェーク基地で機体故障のためアルゼンチン本土爆撃から帰還したヴェンジャーが着陸に失敗して横転、爆発炎上。
 乗員全員と爆発の破片で基地要員1名の計9名が死亡した。
 この事故でワイドアウェーク基地は1週間閉鎖され、出撃中の空中給油機とヴェンジャーは英連邦ガイアナに着陸した。
 事故原因は爆弾を抱えたまま着陸するという特殊事情故の低速域の飛行特性変化にパイロットが対応できず、乱暴な着地になってしまったから。さらに戦時であるとして緩められた安全基礎などが指摘された。
 この事故後、着陸装置の着地ランプの追加や着陸訓練の見直しが実施された。(1982年アセンション島ヴェンジャー着陸失敗事故)

 1987年6月6日、南フランスで実施されたNATO演習から帰還中のヴェンジャー爆撃機とマドリードからベルリンに向かっていたルフトハンザ航空5888便(ボーイング747-200F)が空中衝突。ヴェンジャーは左主翼の先端を失うも、シャルル・ド・ゴール国際空港に緊急着陸するがルフトハンザ5888便は乗員全員の4名が死亡。
 事故原因はフランスの管制官の極度の疲労と仕事量に忙殺されていたことによる管制ミス。
 事故直後、フランス全土で軍民問わない管制官の大規模ストが発生した。(ルフトハンザ航空5888便空中衝突事故)

 1995年8月16日、英領広州の広州国際空港で日英米仏共同軍事演習「イースタンタイガー95」中に広州空港に着陸しようとした機体がハードランディングで横転、大破炎上、滑走路を横断するために待機中だった厦門航空78便(ボーイング737-300)と衝突、ヴェンジャーの乗員全員と厦門航空78便の乗員乗客110名中98名が死亡。事故原因は着陸直前に発生したウィンドシア、演習に伴うパイロットの疲労による判断の遅れ及びミス。
 特に軍で当時民間航空で実施されていたのと同じ乗務員に対する疲労対策や過重労働対策、乗務規制、疲労管理を実施していなかったため、機長と副操縦士は18時間の睡眠負債を、航空機関士は11時間も抱えていた事を事故調査報告書では指摘し、着陸時には極度の疲労と睡眠不足で判断力や思考力が急激に落ちていた可能性が極めて高くこれが事故の主要因であると指摘。AIA808便事故と並ぶ疲労そのものが事故原因となった初期の例とされる。
 事故後英空軍は全将兵に対する疲労管理の研究を開始した。(広州空港ヴェンジャー着陸失敗事故)

68:新人艦長:2025/06/03(火) 18:59:47 HOST:KD106146077088.au-net.ne.jp
以上です。
3Vボマー、特にヴァリアントが機体強度の関係で早期退役したので後継機は必須かなぁ、と
そんな中でまさに超音速大型機としてコンコルドがいるのでその影響を受けてB-1っぽさも出た機体に。
インドとかイランも買ったのでセールス的にはそこそこだけどやっぱり高いのでTSR-2君は死亡してる可能性が高い。
ちなみにヴェンジャーは古い英語での復讐者

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最終更新:2025年06月13日 22:30