130:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:51:16 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
日米枢軸ルート 小ネタ 両洋艦隊計画

両洋艦隊計画は1875年から1902年にかけて行われた日本の海軍軍備計画。
帝国議会創設前に立案・予算措置が取られた為、日本帝国海軍の軍備計画としては唯一帝国議会の審議を受けずに予算措置が取られた軍備計画でもあり、日本海軍という組織としては最後に政権が独断で予算を通せた計画である。

この計画は両洋艦隊計画と言う文字面から艦艇のみに注力した軍備計画と誤解されることが多いが、その実これらの艦艇を建造・整備する造船所や艦艇や兵員を運用するために必要な基地・泊地の新設・拡大、人員の増員とそのための育成能力の拡充、海軍予備艦隊及び海軍予備船隊制度の創設、組織改革など様々な事業・計画を複合した統合的な軍備整備計画であった。
両洋艦隊計画により日本海軍の規模は計画開始前より120%拡大したと言われている。

背景
1870年代、日本は世界で2タイプしか存在しない『戦艦』を欧州に派遣、後に扶桑ショックと呼ばれる示威行為を実施しその海軍力を世界に顕示した。
『扶桑型戦艦』をはじめとした『戦艦』と呼ばれることになる新たな艦種は、他国の主力艦と比べると圧倒的に強力な艦艇であった。
本型とその前身たる『相模型戦艦』を保有する日本海軍は、文字通り全世界の海軍を纏めて敵に回してもこれを撃滅できる海軍であり、『扶桑ショック』を通してその事実を全世界に知らしめた。

これが世界情勢にもたらした事態は非常に深刻だった。
何しろ『デヴァスタシオン級装甲艦』や『デヴァステーション級装甲艦』、『カイオ・ドゥイリオ級装甲艦』など当時欧州諸国で建造中だった最新鋭主力艦群が軒並み陳腐化を余儀なくされたのだ。
世界のパワーバランスは大きく日本に傾き、日本は文字通り世界最大最強の海軍大国として世界に躍り出たのだ。

日本はこの圧倒的な海軍力を地中海や大西洋に展開させ、植民地から富を搾取するがゆえに列強たり得ている欧州列強に無言の圧力を加えることで、その莫大な工業力と技術力などを活かした安価な製品を各国の市場に流し込み、圧倒的な対欧州貿易黒字を出していく。
しかし、軍事力を背景にして市場を開放させたため日本は貿易黒字の対価として欧州諸国の恨みを多く買ってしまった。

特に日本相手に莫大な貿易赤字を叩き出していたイギリスでは、1875年に議会において日本を名指しで仮想敵国とした1875年年海軍防衛法が成立。
明言こそされなかったものの他国でも同様に日本を仮想敵とした海軍整備が開始された。

自らの繁栄が強大な海軍力の裏打ちあってこそと十分理解している日本は、扶桑ショック後に欧州で発生した建艦競争を座して見ているわけにはいかなかった。
日本海軍の軍備に関する諮問機関である海軍将官会議は、欧州諸国において急速に進む海軍力の拡大に対応するべく新型戦艦4隻を主力とした艦隊を4個、新型巡洋戦艦4隻を主力とした艦隊を4個整備し太平洋地域に配置すると同時に、既存式の主力艦6隻を主力とする艦隊を大西洋と地中海それぞれに常時2個艦隊ずつ配置できる体制を構築することを目指す『両洋艦隊計画』を海軍の戦力整備に関する基本方針案として立案する。

この基本方針案に従えば最低でも新型戦艦16隻、新型巡洋戦艦16隻、従来型戦艦24隻、装甲巡洋艦24隻と主力艦だけでも80隻も運用する必要がある。
それには天文学的と言えるほどの巨額を投ずる必要があり当時の政府を紛糾させたが、上記の通り当時の日本は圧倒的な海軍力と技術・工業力、そして通貨管理制度がもたらす円の安さから圧倒的な貿易黒字国で、世界中から集めた富を国内の再開発の投じることでイザナミ景気という歴史的な好景気を迎えていた。
莫大な艦艇整備計画に予算を投じても何ともない程度には日本の経済は絶好調だったのだ。

海軍将官会議の基本方針案は最終的に1875年11月に国家安全保障会議においても承認され、日本政府はこの方針に従い予算措置を定めた法律を制定する。
この法律は日本海軍の戦略(太平洋に主力を配置しつつ大西洋・地中海方面にも常時4個艦隊を配置すること)から両洋艦隊計画と名付けられ、両洋艦隊計画を以後30年間で達成するために必要な予算措置をとることを定めた法律は両洋艦隊法と名付けられた。

131:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:51:50 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
計画内容
【主力艦】
当時の日本海軍は1870年度海軍整備計画ですでに新世代戦艦である周防型戦艦4隻、新世代巡洋戦艦である伊予型巡洋戦艦4隻を就役させていた。
そのため新規に建造が認められたのは戦艦12隻・巡洋戦艦12隻であった。

周防型戦艦・伊予型巡洋戦艦共に45口径35.6cm連装砲を主砲としており、周防型戦艦は6基12門、伊予型戦艦でも4基8門の45口径35.6cm砲を搭載している。
当時のイギリスの最新鋭主力艦である『インフレキシブル級装甲艦』でも16口径31.75cm連装砲を 2基4門しか搭載していない状況で、これだけの性能はオーバースペック以外のなにものでもなかった。
しかし、ここで現状に甘んじる人間が海軍の主流派に居るはずがなかった。

彼らは45口径41cm砲を主砲とする戦艦と巡洋戦艦、そして世界最大規模の45口径46cm砲を主砲とする戦艦と巡洋戦艦の整備を掲げ、両洋艦隊計画に盛り込まれた。

これらの戦艦・巡洋戦艦群は史実で超弩級戦艦と名付けられる革新的なコンセプトの下に設計されていたため、少なくとも20世紀に入るまではその存在を徹底的に秘匿することが決められた。
そのため日本海軍は老朽化が進む相模型戦艦や装甲巡洋艦群の代艦としてこれらの新造戦艦群を動かすことが難しく、表立って諸外国を牽制するための戦力として上記とは別に、満載排水量22,000トンの薩摩型戦艦16隻、満載排水量16,000トンの黒姫型装甲巡洋艦16隻の建造が認められた。

戦艦
  • 長門型戦艦×6隻
(満載排水量:72,000トン 兵装:45口径46cm連装砲×4基、54口径127 mm連装両用砲×10基、60口径40mm機関砲×80門、60口径20 mm機関砲×68門)

  • 石見型戦艦×6隻
(満載排水量:57,600トン 兵装:45口径41cm三連装砲×3基、38口127mm連装高角砲×10基、60口径40mm機関砲×80門、60口径20 mm機関砲×60門)

  • 薩摩型戦艦×16隻
(満載排水量:22,000トン 兵装:45口径30.5cm連装砲2基、45口径20.3cm連装砲×4基、45口径15.2cm単装砲×12基、45口径7.6cm単装砲 ×10基)


巡洋戦艦
  • 早池峰型巡洋戦艦×6隻
(満載排水量:73,000トン 兵装:45口径46cm連装砲×4基、54口径127 mm連装両用砲×10基、60口径40mm機関砲×80門、60口径20 mm機関砲×68門)

  • 天城型巡洋戦艦×6隻
(満載排水量:56,000トン 兵装:45口径41cm三連装砲×4基、38口127mm連装高角砲×10基、60口径40mm機関砲×60門、60口径20 mm機関砲×40門)

  • 黒穂型巡洋戦艦×16隻
(満載排水量:18,600トン 兵装:45口径30.5cm連装砲2基、45口径20.3cm連装砲×4基、45口径15.2cm単装砲×8基、45口径7.6cm単装砲 ×8基)

132:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:53:22 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
【航空母艦】
1859年に倉崎製作所が実用化した動力を備えた航空機と言う新たな存在は、文字通り世界の歴史を大きく塗り替える事となる。

転生者と言うイレギュラーを組織の中心とする日本海軍は、将来的にはこの航行機こそ海軍の主戦力となると理解していた。
しかし当時の技術力では未だそこまでの打撃力を航空機に期待する事は出来ず、当面の間航空戦力に期待されていたのはあくまでの主力艦群の補助戦力としての役割であった。

それでも艦隊航空戦のノウハウの研究を目的とし、日本海軍は1868年に給炭艦『飛鳥』『神崎』を改修して世界初のアイランド型航空母艦である『飛鳥型航空母艦』を就役させ、同時に貨物船を改修する形で世界初の水上機母艦である『千代田』『白鷺』『舞鶴』が就役させた。
さらに1870年には艤装工事中だった装甲巡洋艦『龍神』とその姉妹艦3隻を空母に改修して就役させ、1870年代には空母6隻、水上機母艦3隻を運用していた。

日本海軍は航空母艦と水上機母艦の運用で得た知見を下に、艦隊航空戦力の中核は航空母艦が担い、水上機母艦は飛行場などを整備できない離島や臨時拠点において水上機の運用を支援する移動基地としての役割を担うといった運用構想を策定する。
これに合わせて2隻の航空母艦と護衛艦からなる航空戦隊と言う新たな部隊も編成された。

両洋艦隊計画では平時であっても常時最低5時個の航空戦隊を前線に展開できる体制の構築が目標とし、30隻の空母を新たに整備することが目指された。
当初の日本海軍はこれら30隻の航空母艦を全て「最初から航空母艦として設計された純粋な航空母艦」とすることを望んでいた。
しかし、ただでさえ戦艦28隻、巡洋戦艦28隻の建造が予定されている状況で、それを許すほど日本政府の財布の紐は緩くはない。

最終的に第二次両洋艦隊法で排水量20,000トンクラスの中型空母4隻と排水量18,000トン級の小型空母4隻の、ついで1885年の第三次両洋艦隊法にて排水量32,000トン級航空母艦4隻、小型空母4隻の建造予算が成立し、1890年に成立した第4次両洋艦隊法では43,000 トン級の『蒼龍型航空母艦』8隻と小型空母6隻の建造予算が一括で承認された。

一方で水上機母艦に関しては第一次海軍整備計画にて『白鶴型水上機母艦』5隻の新規建造が認められ、第二次海軍整備計画では初期に建造された3隻の代艦として同艦3隻の追加建造が認められた。

航空母艦
  • 蒼龍型航空母艦×8隻
(排水量:43,100トン 兵装:38口127mm連装砲×4基、60口径40mm機関砲×32門、60口径20 mm機関砲×46門 搭載機数×100機)

  • 鸞驤型航空母艦×4隻
(排水量:32,060トン 兵装:38口127mm連装砲×6基、60口径40mm機関砲×16門、60口径20 mm機関砲×24門 搭載機数×98機)

  • 瑞鳳型航空母艦×4隻
(排水量:20,080トン 兵装:38口127mm連装砲×6基、60口径40mm機関砲×16門、60口径20 mm機関砲×24門 搭載機数× 76機)

  • 三鷹型航空母艦×14隻
(排水量:18,000トン 兵装:60口径40mm機関砲×24門、60口径20 mm機関砲×32門 搭載機数×52機)

水上機母艦
  • 白鶴型水上機母艦×8隻
(排水量:6,180トン 兵装:38口127mm連装砲×2基、60口径40mm機関砲×18門、60口径20 mm機関砲×12門、艦載機:水上機×32機)

133:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:54:02 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
【巡洋艦】
19世紀半ばより日本海軍は『装甲巡洋艦』『防護巡洋艦』『偵察巡洋艦』『水雷巡洋艦』の4つの異なる目的の巡洋艦を整備してきた。
しかし、技術革新により燃料が重油に移行していくに従い防護巡洋艦や偵察巡洋艦などが陳腐化し、水雷巡洋艦も駆逐艦へと発展していったことで建造が打ち切られてしまう。

こうした時代の変化を受け、日本海軍は1870年代より防護巡洋艦や偵察巡洋艦に代わる新たな艦種として『軽装甲巡洋艦(軽巡洋艦)』と、軽巡洋艦を基により重武装・大型化が図られた『重巡洋艦』と言う新たな二種類の巡洋艦の整備に着手、1875年までに16隻の『阿武隈型軽巡洋艦』と8隻の『剣型重巡洋艦』を就役させた。

当時の日本海軍が軽巡洋艦に求めた役割は、防護巡洋艦に代わり水雷戦時に駆逐艦を率いて敵艦隊に殴り込むことであり、偵察巡洋艦に代わり艦隊偵察任務を行うであった。
運用側の要求を達成するため『阿武隈型軽巡洋艦』は満載排水量6,000トン、50口径15.2cm単装速射砲8門、61cm連装発射管2基、61cm三連装発射管2基を主兵装とした、いわゆる教導艦と呼ばれる水雷戦隊旗艦としての役割を重視した巡洋艦として完成する。

両洋艦隊計画でも『阿武隈型軽巡洋艦』をさらに発展させた仮称8,300トン型軽巡洋艦の整備が検討されていた。
しかし、当時は駆逐艦の大型化や各国での装甲巡洋艦戦力の拡大、日本の海上勢力圏内の拡大など内外にて様々な変革が訪れていた時代である。
そうであるが故に艦隊のワークホースたる軽巡洋艦には水雷戦のみならず、平時・有事を問わず通商防衛や威圧任務など多様な任務に対応する能力が求められ、『8,300トン型軽巡洋艦』は些か能力が不足していると判断されてしまう。

『8,300トン型軽巡洋艦』を御蔵入りにした艦政本部が幾重もの思案の後、最終的にたどり着いたのが排水量1万トンオーバーと大型の巡洋艦である『五十嵐型軽巡洋艦』で、両洋艦隊計画において本型は改修や設計変更が行われながら52隻整備された。

軽巡洋艦の整備が精力的に進められる一方、両洋艦隊計画においては引き続き重巡洋艦の整備も行われ、『剣型重巡洋艦』を発展させた17,000トン級巡洋艦である『筑波型重巡洋艦』26隻の建造が行われた。

軽巡洋艦
  • 五十嵐型軽巡洋艦後期建造型×12隻
(満載排水量:14,500トン 兵装:47口径15.2cm三連装砲×4基、38口径12.7cm連装速射砲×6基、60口径40mm機関砲×24門、60口径20 mm機関砲×20門)

  • 五十嵐型軽巡洋艦中期建造型×20隻
(満載排水量:13,700トン 兵装:47口径15.2cm三連装砲×5基、38口径12.7cm連装速射砲×8基、60口径40mm機関砲×16門、60口径20 mm機関砲×24門、50口径12.7mm機関銃×20丁)

  • 五十嵐型軽巡洋艦前期建造型×20隻
(満載排水量:13,600トン 兵装:47口径15.2cm三連装砲×5基、38口径12.7cm単装速射砲×4基、60口径40mm機関砲×8門、60口径20 mm機関砲×8門、533mm四連装魚雷発射管×4基)


重巡洋艦
  • 筑波型重巡洋艦後期建造型×10隻
(満載排水量:17,800トン 兵装:55口径20.3cm三連装砲×3基、38口径12.7cm連装速射砲×6基、50口径76mm速射砲×10門、60口径20 mm機関砲×23門)

  • 筑波型重巡洋艦前期建造型×16隻
(満載排水量:17,300トン 兵装:55口径20.3cm三連装砲×3基、38口径12.7cm連装速射砲×6基、60口径40mm機関砲×48 門、60口径20 mm機関砲×23門)

134:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:55:23 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
【駆逐艦】
日本海軍は1820年代に魚雷を実用化して以降、日本海軍は魚雷を主兵装とした水雷巡洋艦の整備を進めてきた。
これにより日本海軍は中小型艦艇であっても欧州列強の主力艦を撃沈することが可能となったが、1850年代に入ると欧州諸国でも魚雷が相次いで実用化に成功し、水雷艇の整備が積極的に進められていくようになる。

魚雷と言う兵器の恐ろしさをどの国よりも知っている日本はこれに対抗するべく、雷撃能力を保持しつつ水雷艇を撃攘できる安価な高速艦艇を求めるようになった。
これに対して日本海軍は水雷艇を発展させた大型水雷艇(水雷艇駆逐艦)の整備に踏み切り、1860年より雷型大型水雷艇の整備に踏み出した。
しかし、日米同盟の締結と1864年に勃発したアメリカ市民戦争へ介入したことで大型水雷艇の抱える航洋性の低さが問題視されるようになり、代わって水雷巡洋艦を発展された大型の水雷駆逐艦と言う新たな艦種が構想され、両洋艦隊計画においては1876年より排水量2,200トン級の『峯風型駆逐艦』の建造が開始された。

『峯風型駆逐艦』は満載排水量2,000トンの『千鳥型水雷巡洋艦』を発展させた中型の艦艇で、5年間という短期間のうちに275隻と言う莫大な数が建造された。
ついで1881年からは2,450トン級の艦隊型駆逐艦である『春風型駆逐艦』152隻が整備されたことで、1900年代までに日本の艦隊型駆逐艦戦力が構築される。

艦隊型駆逐艦
  • 春風型駆逐艦×152隻
(満載排水量:3,600トン 兵装:38口径12.7cm連装速射砲×3基、50口径76mm連装速射砲×3基、533mm四連装魚雷発射管×2基、爆雷投射機×6基 、爆雷投下軌条×2基)

  • 峯風型駆逐艦×275隻
(満載排水量:3520トン 兵装:38口径12.7cm連装速射砲×3基、60口径40mm旗艦砲×12門、533mm四連装魚雷発射管×2基、爆雷投射機×6基、爆雷投下軌条×2基)


【巡防艦】
日本海軍は艦隊型駆逐艦の整備を進める一方で、これらの大型駆逐艦を補完し同時に国土や植民地、保護国の近海・沿岸海域の防備を担う2線級の小型護衛艦の整備も本格的に開始する。

もともと近海・沿岸海域の警備や防衛などは第一線を退いた戦艦や巡洋艦、コルベット、スループなどが分類される護衛艦がこれを担っていた。
しかし、老朽化や陳腐化の著しいこれらの艦艇を使い続けるのはオブラートに包んで言っても費用対効果に優れているとは言えない。
そのため護衛艦に代わる大型水雷艇を発展させる形で『若竹型巡防艦』を建造、ついでその改良型である『飛梅型巡防艦』、『初櫻型巡防艦』が建造されていった。

巡防艦
  • 初櫻型巡防艦×103隻
(満載排水量:1,700トン 兵装:50口径76mm単装砲×3基、60口径40mm機関砲×2門、60口径20mm機関砲×9門、533mm連装魚雷発射管×2基、爆雷投射機×4基、爆雷投下軌条×2条)

  • 飛梅型巡防艦×62隻
(満載排水量:1,300トン 兵装:50口径76mm単装砲×3基、60口径20mm機関砲×4門、533mm連装魚雷発射管×2基、爆雷投射機×4基、爆雷投下軌条×1条)

  • 若竹型巡防艦×86隻
(満載排水量:1,100トン 兵装:50口径76mm単装砲×3基、60口径20mm機関砲×4門、533mm連装魚雷発射管×1基、爆雷投射機×4基、爆雷投下軌条×1条)

135:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:55:53 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
【潜水艦】
当時誕生したばかりの新艦種である潜水艦は航空機と並んで日本海軍の秘密兵器として期待されていた。
1860年より日本海軍は18隻の試作潜水艦を建造。そのノウハウをもとに本格的な艦隊型潜水艦の設計に乗り出した。
両洋艦隊法では実働8働個潜水隊群と練習部隊として2個潜水隊群の計10個潜水隊群の整備を目指すとされ、総計120隻の艦隊型潜水艦の整備が認められた。

1876年には水中排水量2,300トンと大型の艦隊型潜水艦である海大1型潜水艦の建造に着手し34隻が就役した。
1884年には水中排水量2,400トンの海大2型潜水艦の建造が開始され、96年からは海大2型潜水艦を発展させた海大3型36隻の建造予算が認められた。


  • 海大3型潜水艦×36隻
(水中排水量:2,430トン 兵装:533mm魚雷発射管×10基、25口径127mm単装砲×1門、85口径20mm機関砲×2門)

  • 海大2型潜水艦×50隻
(水中排水量:2,410トン 兵装:533mm魚雷発射管×10門、25口径127mm単装砲×1門、85口径20mm機関砲×2門)

  • 海大1型潜水艦×34隻
(水中排水量:2,300トン 兵装:533mm魚雷発射管×6門、25口径127mm単装砲×1門、85口径20mm機関砲×1門)

【補助艦艇】
両洋艦隊計画において日本海軍はその艦隊規模を2倍以上まで拡大させた。
当然、これらを支える補助艦艇もまた増強が図られた。
とくに給油艦や給炭艦、弾薬輸送艦、給糧艦など正面戦力を支える後方支援戦力の拡大は近々の課題とされ、民間の造船所の力をフル活用することで両洋艦隊計画によって毎年ダース単位の補助艦艇が着工していった。
また、大陸の租界を防衛する目的の砲艦や小型艦艇を支援するための駆逐艦母艦や潜水艦母艦、機雷および海底ケーブル敷設艦や工作艦などの各種補助艦艇も多く建造されて言った。

136:ホワイトベアー:2025/04/12(土) 23:56:33 HOST:softbank060067081109.bbtec.net
以上になります。
wikiへの転載はOKです。

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年09月12日 20:37