142:基盤屋:2025/04/13(日) 17:15:46 HOST:156.146.231.153.ap.dti.ne.jp
2025年日本国際博覧会開催によせて:紀元二千六百年記念日本万国博覧会のこと
19世紀末から20世紀初頭にかけて、多くの国が産業振興や貿易促進の手段として博覧会を開催した。
しかし、これら博覧会の乱立は参加国の負担増や内容の公平性の問題が指摘され、開催数の制限が議論されることになる。
第一次世界大戦等における延期を経て、1928年に巴里における国際会議で国際博覧会条約が採択され、日本もこの条約を批准した。
1929年に民間から提案された万国博覧会の開催に対し、商工会議所および各府知事が賛同し、1932年に日本万国博覧会協会が設立。
企画過程において、皇紀二千六百年行事として1940年の開催計画としたが、このときに持ち上がったのが開催場所の問題であった。
当初はテーマである「東西文化の融合と人類の進歩・調和」から、震災復興での都市計画において導入された東西の思想の融合……
すなわち、西洋に範をとる放射・環状構造の道路計画と、東洋の伝統である条坊制を組み合わせた都心部。
英国における狩猟地・庭園の開放としての公園と、江戸時代より地域の中心地と防災用地を兼ねた火除地の概念的融合。
あるいは、自然との共生や職住接近を目指し郊外に設置される田園都市と、東京都制施行に伴い拡大した東京の郊外における下町文化の再興。
これらを理由に、東西文化を融合させ、新しい時代の都市となりつつあることを理由として、東京を中心とした開催を計画した。
しかしこれに対し、
「五輪の開催があることを考えると、流石に両立は難しいのではないか」
「東京一極集中は避けるべきだ、というのが社会的合意である」
「別の場所で開催する方が経済効果が波及するため、東京以外とするのが望ましい」
という声が協会内外から上がる。
また、震災復興と大改造を同時に進める東京では業者と資材の逼迫・高騰が発生しており、ここに土地造成が必要となる新規工事を追加する余裕はなかった。
(五輪大会に関しては、1924年に完成した明治神宮外苑競技場を主として使うため、新規の工事はほとんど必要なかった)
そこで、他の大都市の中でも、財政的に余裕があり、大阪城公園と近代建築の調和する大阪が開催地として選定された。
この当時、大阪は世界有数の大都市であり「大大阪」と呼ばれる繁栄の絶頂期にあった。
人口こそ都制移行した東京には敵わないものの、元より天下の台所と称された経済地盤を活かした商業と、日露戦争・第一次世界大戦による紡績・鉄鋼など工業分野での隆盛も著しかった。
文化・芸術・産業の中心として近代建築が華開き、金融街に連なる堺筋に百貨店がひしめく街をモボ・モガが闊歩する、華やかで活気にあふれた黄金時代であった。
大阪城天守の再建や御堂筋の大拡幅、大阪市営地下鉄の建設など、伝統と進歩を調和させた大都市へと発展を続けていた。
かつては奠都先としても名が上がるなど、東京への対抗心は並々ならぬものがあった。
であるがゆえに、東京でも開催できない万博を開催し、満天下にその名を轟かせることは、長年の悲願でもあったと言える。
会場には千里丘陵が選定された。
この地域ではもともと、大阪都市圏における人口増加と住環境悪化への対策として、千里丘陵住宅地区開発事業(現在の千里山新市街の造成)が行われていた。
これに連動する形で、アクセスのために北大阪急行電鉄が阪急・大阪府などの出資で設立。
新京阪千里線や尼宝電鉄高槻線などでも支線や新駅が設置されたり、大阪第二飛行場の大規模化や高速道路網整備などが行われ、北摂地域における社会基盤が一気に整備される契機ともなった。
それまで日本が経験したことのない超巨大プロジェクトゆえに物議を醸す部分はあったし、アジア人蔑視の風潮も色濃い当時にあってはなお失敗の許されないものでもあった。
世界情勢は平和とはほど遠い状態であり、経済的にも軍事的にも決して安定していた時代ではなかった。
しかし、少ないながらも友好国の協力や、何よりも官民総力を挙げて一体となり遂行したことで、無事に準備が完了し、開催を迎えることが出来た。
実際に開催されて以後の盛り上がりは、我々もよく知るところである。
本日開幕した大阪・関西万博についても同様に、様々な方面で批判や物議、諸問題が取り沙汰された。
このような中であっても開催にこぎつけた関係者に賛辞を贈るとともに、会の成功を願ってやまない。
143:基盤屋:2025/04/13(日) 17:17:44 HOST:156.146.231.153.ap.dti.ne.jp
補遺:万博と新幹線
大阪での開催で問題になったのは、未だ脆弱だった都市間交通であった。
1925年に公布された地方総監府官制に基づく都市開発は進められていたものの、まだ個別の都市での出来事であり全体としての連携は出来ていなかった。
もともと皇紀二千六百年記念行事により全国規模での旅行客移動が想定されている現状である。
ここに東京夏季五輪・札幌冬季五輪の同年開催、大阪での万国博覧会開催まで加わると、既に逼迫している各本線の許容量を超過するだろうことは容易に想像できた。
そこで、鉄道省に設置された「鉄道幹線調査会」が検討中であった
「朝鮮半島・満州方面との接続円滑化のために、東海道本線・山陽本線の代替となる高規格の鉄道を敷設する」
計画、通称「弾丸列車計画」を前倒しし、東京~札幌間を追加して1940年までに完成させることで対応することとされた。
ただし、当時まだ青函隧道は未完成であり、ほかと比べても非常な難工事が予想されることから、青森から函館までは青函連絡船で車両ごと輸送することとなった。
(青函隧道が完成して直通運転が可能となったのは1954年※)
この結果、途中で航路を挟むとはいえ、札幌から下関まで、鉄道による直通が実現。
それまでの移動手段から大幅に短縮し、3日程度で移動可能となったことは、国内での観光需要を大幅に喚起するきっかけとなると共に、日本の鉄道技術を世界に知らしめることにもなった。
※1954年:史実における洞爺丸事故の発生年。青函トンネル建設の必要性を周知し、計画が本格的に浮上した。
144:基盤屋:2025/04/13(日) 17:22:26 HOST:156.146.231.153.ap.dti.ne.jp
以上となります。
wiki転載はご自由に。
折角これだけの大イベントが開催されるということで、温めていた新幹線・鉄道ネタと史実の万博ネタ、これまでの投稿ネタなどを混ぜて出力しました。
ベース世界線は無幻世界線ですが、一応ほかでもありそうな感じで。
そして毎回のように「書きたいテーマの説得力を持たせたら蛇足になって補遺に逃がす」ということをやっているわけですが……
わたしは前回の万博は体験していませんし、今回はせっかく自国開催なので行ってみたいなあと思っています。
このようなイベントが開催できるだけ、我が国は平和なんだなあ、とも。
最終更新:2025年09月12日 20:39