688:新人艦長:2025/10/23(木) 18:26:12 HOST:KD106133108169.au-net.ne.jp
末期戦な感じなのでちょっとお口直しにカッコいい海軍のお話を
重巡洋艦ザイドリッツと空母グラーフ・ツェッペリン:ドイツ海軍最後の希望
重巡洋艦ザイドリッツはドイツ海軍が建造した最後の重巡である。
史実では空母改装計画など色々と持ち上がった末に未完成で終わったがこの世界では違った。
1941年12月、米機動艦隊の奇襲攻撃でブレスト艦隊が壊滅した。
戦艦2隻と重巡1隻他補助艦艇多数などを失い、ドイツ海軍の水上戦力はただでさえ不足していたのにさらに不足した。
海軍は速やかに損失を補充することを希望し、当時建造中の大型艦は急ピッチで建造が進められた。
レーダー元帥だけでなくカイテルやゲーリングやヒトラーも揃って「洋上戦力がなければ次は本土を襲われる」と察した。
そのため連合国艦隊の独本土接近阻止のために海軍の再編成は急務。
補充となる艦艇の建造は強制労働のユダヤ人や政治犯を大量投入するほどだった。
その中でも目玉が空母グラーフ・ツェッペリンと重巡洋艦ザイドリッツ。
ドイツ軍は自ら空母機動艦隊の破壊力を身に受けた事で空母の可能性を認識した。
空母建造で揉めていた海軍と空軍も最終的に航空関係要員は空軍軍人で、海軍の艦長指揮下に入る事で合意。これは空母をなんとしてもモノにしろというヒトラーの圧もあった。
1942年6月にはドイツ海軍は新たにフランス海軍の拿捕に成功、戦艦プロヴァンスとダンケルクは無傷で、ストラスブールは光学機器こそ破壊されたがそれ以外は無傷で入手した。
さらにそれ以外では僅かに軽巡マルセイエーズが自沈処置をするも、不十分だったため復旧可能な程度の座礁をした以外は軽微な破壊が実施された程度であった。
拿捕艦艇の数はなんと戦艦3隻、重巡4隻、軽巡3隻、駆逐艦30隻、水雷艇3隻、潜水艦20隻、タンカー4隻、その他補助艦多数というものだった。
これにより一気に地中海の枢軸海軍はその戦力を回復、ドイツ海軍も一息ついた。
ところがこの回復はあまりにも急激であったため、水兵の不足、燃料不足が深刻化した。
結果、これら艦艇が十全に活かせる機会は少なかった。
彼らの拿捕後のお話は別にしよう。
翌1943年になると北極海航路を脅かしていたティルピッツ関係の情勢が変化した。
ハルゼーの機動艦隊が攻撃を仕掛け始めたのだ。
ブレストの被害から空母部隊を「過剰評価」していたドイツ海軍はティルピッツの本土回航を決定。
護衛艦艇と共にオスロ経由で向かったがオスロ沖で待ち構えていたアイオワ以下の戦艦部隊に捕捉されてティルピッツは撃沈された。
最終的に1943年末にはドイツ海軍は地中海以外の戦力の大半をコペンハーゲンとキールとケーニヒスベルク、そしてゴーテンハーフェンに終結させた。
その戦力は
重巡:リュッツォウ、アドミラル・シェーア、アドミラル・ヒッパー、ザイドリッツ
空母:グラーフ・ツェッペリン
軽巡:エムデン、ケルン、ライプツィヒ、ニュルンベルク
海防戦艦:ノルトラント
駆逐艦と水雷艇多数
689:新人艦長:2025/10/23(木) 18:26:43 HOST:KD106133108169.au-net.ne.jp
そんな中で本国艦隊の最新鋭艦艇として期待と希望とそして切なる願いを一心に浴びて就役したのがザイドリッツとグラーフ・ツェッペリンだった。
ザイドリッツは42年12月、グラーフ・ツェッペリンは43年2月に就役した。
ザイドリッツはスペックはアドミラル・ヒッパー級と同じ。
一方グラーフ・ツェッペリンは艦載機で事情が変わっていた。
艦載機には新たに開発されたFw190 T-4(Fw190A-4をベースに艦載機に改造された特注機)が戦闘爆撃機として配備。
雷撃機にはJu87 D-4が調達された。
これら艦載機部隊はバルト海で急ピッチで訓練が実施された。
1943年中ザイドリッツとグラーフ・ツェッペリンは殆んど訓練に終始した。
そしてその初陣となったのは1944年1月、レニングラードからエストニアへ北方軍集団が撤退するアスター作戦支援のためであった。
グラーフ・ツェッペリンを旗艦にザイドリッツとアドミラル・ヒッパーが護衛する艦隊は氷が張ったバルト海を北進しエストニア沖で艦載機を発進、ソ連軍戦車部隊を空爆した。
作戦は成功し北方軍集団は無事エストニアのナルヴァへ撤収した。
その後1944年前半はノルウェー方面の戦闘を避けるのもあり本国艦隊は散発的にソ連軍を攻撃していたが、6月、バグラチオン作戦で中央軍集団が大打撃を蒙り、北方軍集団と中央軍集団の接続が途絶しかかると積極的な反撃を実施した。
この行動により北方軍集団は史実ではクールラントに閉じ込められたがこの世界ではリトアニアから東プロシア一帯の保持に成功した。
そしてその後ドイツ艦隊はその全力をもって東プロシアやバルト三国から難民を救出するハンニバル作戦を発動した。
この作戦でこれら水上艦艇はその燃料が尽きるまでタリン、リガ、ベンツピルス、リバウ、クライペダ、ケーニヒスベルクなどから大量の難民と兵士を輸送し続けた。
1945年4月、連合軍がポーランドに上陸。
その時本国艦隊主力はキールにおり、殆どの艦艇が燃料不足で浮き砲台として使用されていた。
艦隊はドイツの降伏とともに連合軍の軍門に降った。
その時、無事使用可能な艦艇は僅かに駆逐艦8隻と軽巡2隻、そしてザイドリッツだけ。
アドミラル・ヒッパーは中破状態でドックで放置。
アドミラル・シェーアは空爆でひっくり返っていた。
リュッツォウは機関故障でメーメルで浮き砲台にされていた。
それ以外は悉くが撃沈された。
グラーフ・ツェッペリンは艦載機もパイロットも消耗し尽くし、甲板に被弾して中破状態で係留されていた。
これら艦艇群は戦後、調査の後大半が解体されて焦土からの復興を開始したドイツの礎として溶鉱炉に消えるという任務を果たした。
クリークス・マリーネは義務を尽くし、消えていった。
最後に。
ザイドリッツとグラーフ・ツェッペリンは
アメリカにて調査された後、1953年に再建されたドイツ海軍に供与されて、イギリスから供与されたアドミラル・ヒッパーと共にドイツ連邦海軍(ブンデス・マリーネ)の主力として1960年代まで奉公し続けた。
現在3隻を偲ぶものは、キールのドイツ連邦海軍博物館に展示されている3隻のスクリューや錨、マストなど一部だけである。
690:新人艦長:2025/10/23(木) 18:27:59 HOST:KD106133108169.au-net.ne.jp
以上です。
ドイツ海軍の第二次大戦後半史。
水上艦隊の解体なんていうバカなことをヒトラーが言わず、空母の破壊力を目の当たりにしたドイツ軍。
空母をものにし、戦力を温存し、そして最後にハンニバル作戦でその戦力を使い切るという。
最終更新:2025年10月27日 16:38