736:新人艦長:2025/10/25(土) 22:19:50 HOST:KD106133109153.au-net.ne.jp
アメリカ夢幻会ネタ
アメリカ夢幻会世界のB-32の話
三式一号重爆撃機
全長:25.32m
全幅:41.15m
全高:10.06m
エンジン:中島ハ50空冷4連星形28気筒エンジン4000馬力×4
最高速度:607キロ
航続距離:7600キロ
武装:ホ103 12.7ミリ連装機銃5基10門、ホ5 20ミリ連装機銃2基4門
爆装:最大9.5トン
生産機数:合計約4000機
三式一号重爆撃機とは第二次世界大戦中に日本軍が使用した重爆撃機である。
日本軍にとっては三式二号重爆撃機と並び初めて本格的な近代的重爆撃機として渡洋爆撃や独本土空襲で活躍した。
その実態は、それぞれB-32とB-29を日本でライセンス生産したものである。
737:新人艦長:2025/10/25(土) 22:20:34 HOST:KD106133109153.au-net.ne.jp
(経緯)
1940年、アメリカは大々的に新型重爆撃機B-29を世間一般に公表した。
その衝撃は遠く離れた日本にまで届き恐怖した。
性能だけを考えるならグアムやフィリピンから一方的に本土や沖縄や台湾を爆撃できるのである。
だが幸いなことにアメリカは同盟国であった。
そのため当面はこれを迎撃する戦闘機開発をするだけで良かった。
ところが翌年日本は世界大戦に参戦し、欧州ではドイツへの空爆、
アジアでは中国への爆撃に参加することになり、既存の一〇〇式や九七式ではあまりにも弱かった。
航続距離、防御力、速度、そして何より爆弾が足りない。
そう、B-29と比較して、いやイギリスのハリファックスやスターリングやランカスターと比較しても当時の日本軍爆撃機は貧弱すぎた。
例として1942年半ばに欧州での空爆の初陣を飾った九七式と呑龍の混成爆撃部隊は初戦のオランダのロッテルダムにあった造船所への爆撃で34機を失う大損害を被り一回の空襲で「作戦能力を喪失」している。
この理由は護衛機ではなく爆撃機自体の性能に問題があった。
特に九七式は旧式でBf109やFw190が守るドイツでは鴨に等しかった。
MG151などを数発喰らうだけで爆散する重爆しかないというのは大きな問題だった。
前線で使う戦術爆撃機としては全機それなりの性能であり、実際エンジン周りを交換した一〇〇式は戦中通して活躍した。
しかし戦略爆撃機としてはあんまりにも貧弱。
だが日本にはB-29のような機体を新規に作る余裕などない。
そこで日本側は42年初頭には早くもアメリカにB-29のライセンス生産を持ちかけた。
ところがここで問題が発生した。
必要な技術が不足しているのだ。
アメリカの技術の粋を集めたB-29を日本が作れるかといえば極めて難しかった。
生産数自体が不足しているB-29を追加で生産してくれるのはありがたいが作れないのでは問題がある。
さらにいくら同盟国でもB-29の生産権を渡すのは国家機密の関係で揉めそうであった。
そこで当時存在が宙に浮いていた機体のライセンス生産を持ちかけた。
それがXB-32ドミネーター、史実ではB-32になった機体だ。
この世界ではB-29が問題なく実用化されたことで試作止まりで終わりそうだったが治具など一式が揃い性能面では遜色ないこの機体を日本で生産させるのだ。
日本向けに与圧装置などを取り外しても良いなど日本向けにある程度ローカライズした機体の生産案が策定され、日本側もB-29は無理だが同等の機体の生産を支援するというこの話に乗りトントン拍子に話は進んだ。
コンソリーテッド社は日本に生産ラインを作ることになり全力でそれを支援した。
生産者は中島が選定され、中島の工場にコンソリーテッド社がラインを設置した。
1943年に三式重爆撃機として正式採用され、その年の秋には中島の工場から生産が開始された。
生産は1948年まで行われ1950年代まで日本軍の主力重爆として運用されることになる。
ちなみにこの時のB-32製造ノウハウは日本で大型与圧装置搭載大型機の製造経験を得ることになり、当時の日本機で最も高い高高度性能などは高高度実験などに多用された。
この後中島は計画だけに終わるも6発重爆撃機富嶽を計画している。
富嶽計画は初歩的なスケッチと新工場の建設などが実施されたが、それ以上に進む前に終戦している。
しかしこの大型新工場は後に五〇式重爆撃機の製造工場として使用された。
ちなみにペットネームは正式にはなかったが大多数の機体がベアメタルで送られその見た目からB-29と共に銀龍という名前で呼ばれることが多かった。
738:新人艦長:2025/10/25(土) 22:21:13 HOST:KD106133109153.au-net.ne.jp
(運用)
米製の三式重爆撃機は1943年初頭には配備が開始、カリフォルニアなどで訓練を受けた部隊が1943年半ばには欧州に到着、ドイツ本土への爆撃に参加した。
性能面ではB-29に少し劣るが今までの機と比べるとずっと良い性能は乗員から評判がとても良かった。
初陣はドイツの飛行機工場のあるレーゲンスブルクへの爆撃、続けて戦車工場のあるカッセル、さらにはベルリンも爆撃した。
護衛のP-51なども増備されるようになり今までよりも少ない損失で数々の爆撃をこなすようになった。
最大の爆撃は1944年春に実施されたフランス上陸作戦の陽動として実施されたキール大空襲である。
キールへの大空襲で一晩で2万トンの爆弾を投下したと言われる。
この頃には日本製の機体も混ざるようになったがやはり技術の差があり、乗員たちからは日本製よりも米製の機体の方が性能や耐久性がよく、操作もしやすく扱いやすいと言われ好まれた。
またドイツ爆撃に参加する機体は米軍の影響から派手なマーキングを使うことが多かった。
以下に有名なマーキングを挙げる。
飛行115戦隊→口を開けた鮫
飛行208戦隊→火牛
飛行690戦隊→胴体全体に描かれた機関車と貨車に乗った骸骨
飛行700戦隊→カメラを抱えた出っ歯の亀(偵察部隊)出歯亀を意味するが、重要施設偵察に使われることも多く「覗き屋700」などと言われた。
飛行708戦隊→翼の生えた7(尾翼)、機首全体に描かれた雷光
飛行777戦隊→7の図案化
飛行781戦隊→王冠(ジョージ6世の表敬を受けた事に由来)
飛行853戦隊→尾翼に書かれた騎馬武者(垂直尾翼を崖に見立て、鵯越の逆落としを描いたもの)
飛行888戦隊→虎の顔
飛行899戦隊→逆さ福
飛行909戦隊→とぐろを巻いた蛇と下に描かれた「踏んでみたまへ」
飛行1000戦隊→漢字の千の図案化
飛行1027戦隊→侍姿のミッキーマウスと花魁姿のミニーマウス(ディズニー公式)
終戦までに各地の戦略爆撃だけでなく哨戒や輸送などにも活躍、1945年の終戦後も後継機の五〇式が形になった1948年まで製造された。
1950年から始まったベトナム戦争でも使用された後、1958年に全機が退役している。
変わった運用では1970年ごろまで中島、IHI、三菱、空技廠などでテスト用機材として長く使用された。
大型で高高度飛行が可能な機体はテスト用に適しており、対艦ミサイルの運用実験、高高度実験、エンジン試験、レーダーテストなど多くの実験に使用された。
空技廠の機体は1950年代に五〇式に代替されるがIHIの機材は1970年代にYS-11と五〇式になるまで使用された。
(派生型)
機体の拡張性の高さから日本軍では多くの派生型が存在した。
四六式早期警戒機:1946年に開発された日本初の早期警戒機。レーダーは米国製のものを国産化したものを搭載。
四六式電波偵察機:日本初の電子偵察機。後継の機が登場する1960年代まで長く使用された。
三式大型偵察機:同時に採用された長距離偵察機。一〇〇式では届かない遠距離目標を偵察できた。
甲型:重爆型
乙型:対艦ミサイル運用能力を有した型
丙型:アップデートされた対艦ミサイル運用能力を有した型
739:新人艦長:2025/10/25(土) 22:22:43 HOST:KD106133109153.au-net.ne.jp
以上です。
アメリカ夢幻会世界で日本で使われたB-32のお話。
最終更新:2025年10月27日 16:39