砂賀養蚕株式会社
砂賀養蚕株式会社は、江戸時代から続く
砂賀町での養蚕業の会社である。
目次
概要
砂賀養蚕は、
砂賀藩内の最も有名な産業の一つであり、藩財政の要となっていた養蚕業を、明治時代に株式会社化したものである。
もともとは、江戸時代初期ころから組合として行われていた養蚕業に、砂賀藩の役職の次男や三男が養蚕によって自立することを目的としていた。
これらの砂賀養蚕からとられた絹は砂賀絹と呼ばれ、藩から城下にいる3者と手野家に独占販売が許されていた。
この3者は蚕名主(さんなぬし)と呼ばれ、すべての養蚕業はこの蚕名主を通して行うこととなった。
また、京、大阪を結んでいる京街道より東側についてはすべて手野家が独占して行うこととなり、その手数料収入は、手野家の江戸時代を通して最大の収入となったとされる。
明治時代に入り、砂賀絹は手野財閥の販売ルートに乗り、さらに大規模販売、大規模製造に取り組むこととなる。
この販売益を含め手野財閥は飛躍的に世界進出を進めることができたとされる。
また、当時の手野町や砂賀町においては、砂賀絹をその職員や議員、あるいは町長などの徽章の一部として用いることにより、宣伝を行うこととなった。
なおこの宣伝は現在も行われているが、どこまで意味があったかの調査は行われていないため、不明となっている。
砂賀絹としては、現在は、衣服や小物類を中心に販売を行っている。
また、砂賀家や手野家、
春雷会会員らに贈られる刀剣や鉄小物(くろがねこもの)の装飾品の素材の一つにも選ばれている。
製造所等
砂賀絹は1つの製造所、4つの販売所、および支社で成り立っている。
製造所は砂賀町にある砂賀絹製造所であり、江戸時代中期の発足時点では砂賀絹座と呼ばれるものであった。
砂賀絹座は、前述のとおり蚕名主の3人を実質的な経営者として、名目上座長は手野家当主がなることとなった。
製造所では、座の従業員によって絹を蚕から作り出していた。
砂賀絹用の蚕であるため、現在では品種名を砂賀蚕と呼んでいる。
販売所は手野絹を販売している店であり、砂賀養蚕株式会社が直営しているのが4か所、委託しているのが1カ所である。
なお、委託しているところは手野市内にある道の駅「手野」である。
直営は製造所に付属している付属販売所、大阪、京都、東京にそれぞれ1カ所ずつとなっている。
また、絹を使ったキーホルダー、ブローチ、財布などの小物に限りインターネットでの通販を実施している。
このシステムは手野データが作った。
社史
最終更新:2019年07月16日 22:07