旧約聖書とは、土着信仰を含む各地の様々な神話を総合して作られた神話体系である。
よって、同じ旧約聖書の中にある話でもよく読むと互いに矛盾していたりすることは珍しくない。
たとえば、創世記の天地創造の章の前半と後半とで、神が動物と植物と人間を創る順番が違っているのは有名な話だ。
ノアの箱舟伝説においても同じで、聖書のノアの箱舟に関する記述には随所で矛盾が見られ、
おそらく元々はまったく別の二つの洪水伝説だったものを無理やり一つに纏めた結果だろうとされている。
これは見方を変えれば、聖書の洪水伝説のモデルになった洪水は二つあり、モデルになった箱舟は二つあったということもできる。
そして当然、「ノア」という名前の男も、二人いたということになる。
(さて、これからどうしたものですかね)
箱舟をひとまず安全そうな場所に上陸させたノアが始めたことは、少しでも箱舟を補修しておくことだった。
何しろいつまた次の災害が襲ってくるかもわからないのだ。
しかし幸いその作業は、箱舟に載せていた動物たちが手伝ってくれたので難なく終わりそうだった。
(しかし、この箱舟に乗せられる人数など限りがある。やはり、こんな災いを引きおこした元凶をどうにかしなければなりませんね)
今回の災害は、人間の堕落に怒った神の御心によって引き起こされたわけではない。
詳しくはわからないが、恐るべき悪意を持った者によって人為的に引き起こされたらしいというのが、
船に乗せた避難民から得た情報によってわかったことだった。
急がなければ、もしこの惑星が太陽に衝突したら今度は箱舟など何の意味もなさない。
何億という罪も無い人が命を落とすことになる。
その時、ノアの耳元に一羽の鳩が飛んできた。
この鳩は聖書の箱舟伝説の章に登場する、洪水が収まった後に最初に箱舟から出て行って、ノアたちにすでに水が引いたことを教えたあの鳩である。
しかし、この時鳩が伝えたのはよい知らせでは無かった。
「なんと……高潮、いや津波が発生し、こちらに向かっていると!!」
予想できたことではあった。
新惑星が太陽に接近を続ける以上、一旦は収まっていた激変も、再び始まるのは必然。
太陽の重力の影響による地震や高潮に加えて、太陽の熱で極地の氷が溶け始め、海水面が急激な上昇を始めたのだ。
おそらく太陽に衝突するまでに、海辺の町や小さな島などはすべて水没してしまうだろう。
しかしそれよりも今問題なのはついさっき発生したという津波だ。
異常潮汐の影響まで受けた津波は、前回を越える高さを保ちながら、内陸にあるここまで今にも到達しようとしているらしい。
「とにかくみんな箱舟に乗り込んで!!」
動物たちに指示を飛ばしつつ、ノアはどうすれば短時間でできるだけ多くの人を救助できるかを考え始めた。
工夫すれば、今からでも人々を救えるはず。しかし、一体どうしたら……
「お困りのようだねえ」
男に声をかけられたのはその時だった。
振り向いたノアは驚愕した。そこにいたのは、背格好、顔立ち、服装、声、いずれを取っても、まぎれなく自分と同じ姿をした男だった。
「な……馬鹿な……」
「そう驚くなよ、俺。俺はもう一人のお前だ、ノア」
「ど、どういうことなんでしょうか?」
「ふん、世界各地で語り継がれた大洪水の伝説が一つでは無かったのと同じように、
伝説として語られたノアという男も二人いた。それだけの話だ」
聖書の箱舟伝説は、少なくとも二つの土着の洪水伝説を組み合わせて執筆されたもの。
すなわち、キリスト教が世界宗教になり、聖書が世界中で読まれるようになるずっと前の時代に
とある国のとある民族の素朴な神話として語られていたノアという男は二人いたのだ。
二人のノアはどちらが正典というわけでもどちらが史実というわけでもなく、聖書編纂者の手によって無理矢理、
神話時代に存在した一人の人間として『捏造』されたのである。
「ま、そんなこった。お、それがあんたの箱舟かい? なかなか良い出来じゃねえか」
突如現れたもう一人のノアは、そう言って口笛を吹く。
一人目のノアのほうは驚きを隠せないながらも、このもう一人の自分を神が遣わした奇蹟だとみなした。
「頼みます、二人で手分けして人々を救助しましょう!! さすれば、一人で行うよりもより多くの人を助けることが出来る。
あなたも私であるのなら、私と考えは同じでしょう?」
「ああ、確かにそりゃあやぶさかじゃねえ。ただし、だ」
もう一人のノアはそう言って―――突然取り出したナイフで、もう一人の自分の腹を刺した。
「ぐ……な……なぜ、です……!?」
出血する腹を押さえてうずくまるノアに、もう一人のノアは事も無げに言った。
「この世界に『ノア』という名前の男など二人はいらない、そうだろう?
安心しろ、避難民どもはみんな俺が救助してやるよ。お前の出番なんざもう無いのさ。
くっくっく……ああそうさ、俺は一人でも大勢の人を助けて、本物の『ノア』になるのさ!!」
ノアは高笑いを残して、自分が刺したもう一人のノアの支給品袋を奪うと足早に立ち去っていった。
もう一人の自分が去ったあと、ノアは朦朧とする意識の中で、自分たちを囲む動物たちの気配を感じた。
「どうした、お前たち……はやく、逃げなさい。もうすぐここには津波が来る。すぐ、逃げるんだ……」
だが、動物たちは一向に動こうとしなかった。彼らは誰よりも自分たちを愛してくれたノアとの殉死を望んだのである。
その事に気づいたノアは、そんな動物たちの中の一羽だけに向かって言った。
「お前は、生きなさい。逃げて、他の人たちに、このことを……」
最後まで言い終えることなく、ノアは息を引き取った。
ノアから言葉を授けられた鳩は、しばし戸惑っていたが、仲間たちの声に推されるようにして空に向かって飛び立っていった。
自分はあくまでも幸福を知らせる使。ノアの遺志を無駄にはしないという決意を込めて。
その少し後、沖合で発生した津波はトルコの山々を洗い、ノアの亡骸と動物たちを水の底へと引きずり込んでいった。
【ノア(一人目)@旧約聖書 死亡確認】
【箱舟に乗った動物たち@旧約聖書 死亡確認】
【
三日目・午後九時/トルコ】
【ノア(二人目)@旧約聖書】
【状態】健康
【装備】アーミーナイフ
【道具】支給品一式×2 不明支給品1
【思考】
基本:なるべく多くの人を災害から救い、自分が唯一の『ノア』になる
【鳩@旧約聖書】
【状態】健康
【装備】なし
【道具】なし
【思考】
基本:ノア(一人目)の遺志を受け継ぐ
最終更新:2010年04月04日 00:24