店内の無数の目が一斉にこちらを見つめた。そんなことはどうでもよくて、私は己の愚かさを全力で呪った。純のこと言えたものではない。私も相当の馬鹿だ。
そうだ、そうだった。
今日は純が注文した例の憂(?)が届く事になっていたのだ。だからこそ私は気を張り詰めていたし、帰り道のシミュレーションまで行なった。
だというのに、こうも呆気なく忘れてしまったとは。バカだ。
「ご、ごめんなさい先輩! 私、これで失礼します!」
「ええっ!? どうしたの、あずにゃん!」
「とにかく、ごめんなさーい! うわあああぁぁ!」
自動ドアに激突し、道行く人の肩に激突し、信号待ちしていた小学生の列に激突し、兎にも角にも他の物には目もくれずひたすらに家を目指す。
どうかお願いします、宅配業者様、何卒、何卒、まだ荷物を届けていませんように。
火事場の馬鹿力ってやつなのか、周りの光景が私の速さに追いつかず、やがて線になった。
いや、さすがにそれは比喩だけど、心情的にはそのくらい本気に駆けた。
どれくらい走っただろうか、見覚えのある住宅街に出た頃にはすっかり辺りは宵闇に包まれていた。
まだ、夕方の域を出ていない。これならひょっとすると間に合うかもしれない。
「ハァ……はぁ……はぁ……」
胸に手をあて徐々に呼吸を整える。鼻から血が吹き出そうなほど、顔が熱い。体も熱い。
家に着いた。見慣れた扉の前、そこには、
「ハァ……ハァ……よ、良かったぁ……」
何もなかった。
どうやら間に合ったみたいだ。心の底から安心した。
扉を開け、普段より小さい声でただいまを告げる。奥から母の声。ホッとする。
安堵と共に、全力疾走のツケが一気に回ってきたようで、全身が悲鳴を上げ早急な休息を求めてきた。お望みどおり、私はベッドを目指す。
背後から何やら母の声が追いかけてくるも、無視。お菓子か、夕飯か、いずれにしてもまずベッドにダイブしたい。
自室のドアを開けた。
「……ハァ……ハァ……ア、あはは」
ダンボールが置いてあった。乾いた笑いが喉の奥から零れた。おおよそ、CDや本の類のものではない大きさのダンボール。
うずくまったら、人一人余裕で入りそうなくらい大きなダンボール。
母が、何か大きな荷物が梓宛に届いたわよ、と。私は震える声で未開封の確認を取った。
母は、開けてはいないが中身が気になるから早く開けて見せてと私にせがんだ。
意外に冷静な自分に驚いた。
「私、こんなの頼んだ覚えないよ。ひょっとしたら業者の人が間違って送ってきたのかも」
そうなの? と母。無論、そんなわけあるはずも無いのだが、
「こういう場合は開けないで置いたほうがいいんだ。私、業者に問い合わせてみる」
そうなの? と母。無論、そんなわけあるはずも無いのだが、
「私に任せて。すぐに引き取りに来てもらうから。多分、今電話すれば今日の夜には引き取りに来てくれると思うから」
そうなの? と母。無論、そんなわけあるはずも無いのだが、
「うん。だから、私に全部任せてお母さんは夕飯の支度でもしてて。あ、今日のご飯、なに?」
あ、そう言えばまだ考えてなかったわ、と母。そういう抜けてて物事に執着しない性格で本当に良かった。やはりAB型の片割れはそうでなくてはならない。
お母さんはそれっきり巨大な荷物の存在感を忘れたかのように、私の部屋を後にした。
ネットに疎い所も今回は本当に御の字だ。手違いでこんな馬鹿でかい荷物が何の連絡もなしに来るはずも無いのだから。
さて。待ちわびた私の脳味噌は、いよいよテンパったのだった。
えっ、嘘。信じられないのだけれど、ブツはちゃっかりというかしっかりベッドの上に鎮座している。
「……夢?」
小指を噛んでみるが、普通に痛い。夢じゃないね。
恐る恐るベッドに近づきダンボールを観察した。よく見れば、amazomのニヤリと人を小馬鹿にしたようなロゴが見当たらない。
それどころか、配達を示す詳細な宛名シールも無い。
かろうじて、箱に直に殴り書きされた住所と私の名前があるだけ。明らかに不審物だ。
正直、気味が悪かった。なぜか急に怖くなってきたのだ。もしこの中身が本当に憂だったとして、じゃあその正体は何になるのか。純の言葉が頭に蘇る。
ゴソ。
思わず悲鳴を上げそうになって慌てて口を手で押さえた。
箱から何かが動く音、それがはっきりと聞こえた。いよいよ私の心臓が早鐘を打つように、焦燥を駆り立てる。
どうしよう、どうしよう。なんか怖いし、でも中身が気になる。
どうする、梓? どうすんの!
「……う、憂……?」
ゴソゴソ。
また箱から音。
「ね、ねえ……憂なの?」
覚悟を決めた。私はえいやっ、とベッドに駆け寄り謎のダンボールの荷を解く。
たったガムテープ一枚で封されていたそれは、あっけなく開いた。梱包材も何も無い。ただ、そこに中身があるだけだった。
憂。
憂だ。
憂が寝ていた。憂が箱の中身だった。
「えええぇぇぇっ!!! ちょ、ええっ!?」
平沢憂。私の同級生にして私の想い人。姉想いで料理が得意の理想的女子、憂。
その憂が制服を着てうずくまっていたのだ、これはもう驚くとかひっくり返るとかそういうレベルのリアクションではまかないきれないインパクト!
私の中で何かが弾け、
「にゃー! ふかーっ! にゃああぁぁあ!!!」
一人あずにゃん大狂喜! やった、本当に憂が届いた! やったね、あずにゃん!
飛び跳ねた。高校2年生が傍目も気にせずピョンピョンなんてオノマトペを出しながら、全身で喜びを表現しています。
思わず、涙が出た。
……落ち着け、私。
「……憂? 本当に憂なの?」
そっと制服越しに腕を触ってみた。布越しとは言え温かかった。一瞬本当に人形か何かと勘違いしたのだけれど、どうやらそうではないらしい。
なぜ? どうして? 意味が分からないのに、私は、そんなのどうでもいいじゃん、と目を輝かせてしまう。
憂だ。目の前に憂いがいる。今、心拍数を計測したら普段の倍はありそうな気がするけど、私は人間です。
今度は、突っついてみる。
「んぅ……ふあぁぁぁ……あ……梓ちゃん……? おはよう……?」
「お、おはよう……!」
「……あれ……梓ちゃん……?」
起きた。憂が起きた!
私のことを名前で呼んだこの目の前の少女は、やっぱり憂で間違いなさそうだ。様々な疑問が湯水の如く湧き出るも、私は一旦それに栓をする。
もともとテンパるとは、嬉しい時の戸惑いを表現する言葉。なら、今、私は余りの嬉しさで気が触れているのかもしれない。
御託はいいや。
まずはこの素晴らしい贈り物を享受しよう。
「あ、えっと……あ、あなたの名前は?」
「へっ? えっと……どうしたの、梓ちゃん?」
「あなたの名前を教えて」
「ええっ? ……平沢、憂だけど。どうしたのいきなり?」
「だよねー! うわっ、本物だよ、憂だよ、どうしよう、どうしよー!」
憂はキョトンとして、釈然としない顔で私を見つめていた。
私一人が舞い上がり、わけのわからないハイテンションで矢継ぎ早に憂情報を尋ねていく。
身長、体重、生年月日、スリーサイズ、云々。見事全問正解。やっぱり憂だ。
試しにもう一つ、初潮を迎えた日を訊いてみた。
「い、言えるわけないよっ、そんなこと……!」
「どうして?」
「どうしてって……は、恥ずかしいよ」
なるほど、これは間違いなく憂だ。この照れた表情、高潮した頬のプリプリ感、スカートの裾をギュッと掴む力の加減。
私は胸を撫で下ろす。一応、○年○月○日でしょ? と事実確認だけすませた。
「なんで知ってるの……!?」
まあ、憂のことですから。
「……ねえ、さっきからどうしたの? っていうか、どうして私、梓ちゃんの家にいるの?」
「どうしてって、それはもちろん憂が! ……憂が……あっ」
「え?」
「……し、商品だから?」
目の前がチカチカと明滅するほどの興奮からようやく醒め、事の重大さをようやく認識した私。
本当に憂が私の所にやってきてしまった。しかも、商品という名目で。
憂の不思議そうに私を見つめる視線で我に返り、そして当然の疑問が沸き起こる。
一体何なのだろうこれは。よくよく考えてみると、本当に人一人送られてくるなんて事ありえないじゃない。
じゃあ、なに。
つまり、この憂は本物の憂ってことか。本物、って言い方もおかしいけど。
「えっと……あのさ、どういうことなんだろう?」
「え?」
「だからさ、その……なんでこんなことしてるの?」
「こんなことって? ごめん梓ちゃん、私もなにが何だかさっぱりだよ」
それは嘘だろう。ようやく冷静さが戻ってきた。
考えてみれば、憂を注文するくだりからおかしな話で、純の強引なペースに乗せられてはしまったけれど、カムバック私をすると、これってつまり、
……はめられた? 私が? あのバカ純と、可愛らしくて虫の一匹も殺さないような憂に?
「……い、悪戯にしては手が込んでるよね」
「え?」
嫌な汗が背中を伝う。
これがもし本当に悪戯なのだとすれば、私はちょっと取り返しのつかないことをしちゃったかもしれない。
いや、嘘……信じられない。けれど、そうとしか考えられず、A型の血が合理性を求めて頭をフル稼働させ始めた。
「いや、だからさ、これ……何かのドッキリなんでしょ? 純の奴が考えた」
「ドッキリって?」
「……う、憂、それは演技なの? だとしたらもうあんまり意味無いと思うけど……」
私が考えた真実はこうだ。
純が憂と協力して私を驚かせる悪戯を考え、実行した。当然、こんな大掛かりな仕掛け、2人だけで行なうのは不可能。
それで、もう一人協力者を探すための口実として、純が私の家にやってきた。
その協力者っていうのが、私の母。宅配業者がやってきた、という口裏あわせに母に協力してもらった。
茶目っ気のある母のことだ、きっと二つ返事でOKしたのだろう。
しかし……理由がわからない。なぜこんなことをしたんだろ。もしかして、また私を気遣って、とかじゃないだろうな。
だとしたら余計なお世話もいいところだ。一体、私をどこの臆病者と勘違いしているのやら。
私はそこまで心が弱くないし、第一こんなことして人を慰めさめようだなんて、頭がおかしいじゃない。
私の中で友人に対する幻滅の念が増して、それが頂点に達しそうになっていた時だった。
電話が鳴った。
「ごめん、ちょっと電話」
「うん」
憂を残し、廊下に出る。
純からだった。
「もしもし」
『ねえ、聞いてよ梓! ヤバいよ、マジでヤバいことになった!』
電話越しに興奮冷めやらぬ、といった感じの純の荒い息が聞こえる。まあ、どうでもいっか。それより、ちょうどいいタイミングだ。一発ガツンと釘を刺してやろう。
「あのさ、ちょっといい加減にし――」
『ホントに憂が来ちゃったよ!』
「……はぁ? 何言ってるの?」
『だから、憂だってば、憂! ほら、頼んだじゃん、それが本当に来ちゃったんだって!』
白々しい。憎まれ口の一つでも叩きたい。ていうか、叩く。
ところが、そう結論に至った瞬間、止まった。私の心臓が止まった。
まあ、心臓が止まったっていうのは流石に比喩だけど、インパクトとしてはそれくらい大きかった。
「……ちょ、今……えっ」
耳元から聞こえるギャーギャーうるさい純の声に混じり、憂の声が聞こえたのだ。
何かの聞き間違いか、それともテレビの声がそう聞こえてしまったのか。
「ちょっと純、黙れ!」
『なっ!?』
私の怒声に純が言葉をなくす。そして、今度は何を言ってるのか聞き取れるほどはっきりと憂の声がした。
純ちゃん、どうしたの? 電話の向こうから確かに憂の声でそう聞こえた。
『ちょっと梓、いきなり黙れって何? わけわかんないんだけど』
「ごめん、でも……うそ、信じられない」
『うん? ああ、憂のことね。私だって信じられないよ、でも、現にこうして』
梓だよ、と純の声の後に雑音が混じり、
『もしもし、梓ちゃん?』
通話の相手が憂に変わった。
視界が明滅する。慌てて、電話の通話口を手で押さえ、自室に戻り憂の姿を確認する。
「梓ちゃん? 何か顔色悪いよ」
「あ、あはは……大丈夫」
いる。こっちにも憂がいる。でも、電話の先にも憂がいる。はっ、意味がわからない。
電話を持ち直し、耳を当てる。
「えっ、あの……う、憂、なの?」
『そうだよ。梓ちゃんも変な事聞くんだね。純ちゃんもさっきから、私に変な質問ばっかりするんだよ?』
「へ、へぇ、そうなんだ。おかしいね」
『でしょ? ……梓ちゃん? どうしたの、声が震えてるみたいだよ』
「そ、そんなことないよ、全然……その、一つ聞いてもいい?」
『なあに?』
「憂は今、どこにいるの?」
『純ちゃんの家だよ』
「ど、どうして?」
『……それが、私にもよくわからないんだ。なんか気がついたら目の前が真っ暗で、ダンボールの中で寝てたみたい。しかも、純ちゃんの家で』
混乱した。どういうことなの。なにが、どうなった。
私は通話先の相手と、自室でこちらを見ている憂の姿にひたすら困惑した。
純の悪戯じゃなかった? まさか本当に憂が商品になっていた? あり得ない。けど、起こってる。
『梓ちゃん? やっぱり声が震えてるよ、どうしたの?』
「……なんでもないよ。なんでも……あっ、そろそろ切るね」
『えっ? うん。純ちゃんに代わろっか?』
「ううん、いい。それじゃ、またね憂」
『うん。バイバイ』
携帯の画面を閉じ、目を瞑る。ちょっと考える時間が欲しい、小一時間ほど。
あまりの事に本当に頭痛がしてきた。気分も悪い。横になって休みたい。
「梓ちゃん、大丈夫? なんか顔色悪いよ」
憂が私の様子を心配してくれた。まさしく憂の甲斐甲斐しさに溢れている。どう見ても憂。憂憂とさっきから何言ってるんだか、私は。
今も耳に残る憂の声と、この憂の姿を、私の脳は情報のズレと認識したみたいで、船酔いに近い気持ち悪さが襲ってきた。
決して憂が気持ち悪いわけではない。ただ、理解できない現状に私自身がついていけないのだ。
「ちょっと、ね。ごめん、少し休みたい」
「うん。そうしなよ」
憂の隣に腰を下ろしそのまま横になった。いっそ寝てしまいたいのだが、憂の事を考えるとそうもいかない。
というか、この後どうしたらよいのだろう。
憂を家に帰す? いや……これが純の悪戯でないとすると、その前にまだもう一つ確認しなくちゃならないことがある。
……私の家に憂がいる。純の家にも。じゃあ、唯先輩の家には?
「ちょっと、電話するね」
「あ、じゃあ私、外に出てよっか?」
「……うーん、そうしてもらえると助かるかな」
「わかった」
最終更新:2011年11月21日 02:44