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 紬は走った。
本来なら、制限時間到来時にクリアのアナウンスを流し、
その後に救助する心算だった。
クリアと救助の間にタイムラグが生じてしまうが、然して気にしていなかった。
だが、律達を案じる気持ちが強い今となっては、
タイムラグゼロで救出する方向へと考えを変えている。

 紬は程なくして、二階のエレベーター前へと到着した。
少し開いたドアに幾つものホースが通り、下へと水を送り込む用途を為している。
律達が居るエレベーターの籠は丁度この真下にあった。
ドアを完全に開いてシャフトの下を覗き込めば、
交互に呼吸を繰り返す二人の姿を確認できるだろう。

 紬はその前に、時間を確かめた。
制限時間まで、残り3分を切っている。
救助の準備にかかる時間を考えれば、もうクリアしたと扱っていい頃合だった。
紬はそう判断して、床に据えつけられているポールに縄梯子の一方を結わえ始めた。
ここから縄梯子を垂らして、二人に登らせる心算でいる。
律達の居る一階の扉を徐々に開いて排水する方法もあったが、
こちらの方が安全かつ早いだろうと紬は考えていた。
そもそも、一階の扉は開けられないようにと、外側を錠で頑丈に固定している。
鍵を用いて開錠する必要があり、余計な時間を取られてしまう。

 救助の準備を整え終わると、いよいよ紬はエレベーターのドアに両手を掛けた。
ドアを開く事に、躊躇はあった。
ムギソウは自分であると、明かす事が怖かった。

 だが、ゲーム終了時間になっても進行サイドがアクションを起こさないのでは、
律達を無用の不安に陥れる事になる。
それに、身長よりも水位が高い以上、溺れてしまう危険性もあった。
体力が奪われていたり、出血をしていたりするなら尚更の事だ。
紬は勇を鼓してドアを開いた。

 下を覗き込むと、二人は無事だった。
水の上に頭を出している律も、水底に居る澪も、
驚愕に満ちた顔を紬に向けている。

「話は後。これで足の拘束解いて」

 紬は鍵を投げた。
それは水面に波紋を呼び起こして沈み、水底へと届く。
水中に居た澪が鍵を拾って、自身の足と律の足を拘束から解き放った。

「ム、ムギっ?お前……何で?」

 律がまず口を開き、水上へと顔を出した澪が続いた。

「ムギ?まさかお前……」

 紬は言葉を返しながら、縄梯子の結わえていない方を落とした。
水面を打つ音が響き、再び波紋が広がった。

「まずはゲームクリアおめでとう。
そしてごめんね。私がムギソウなの。
取り敢えず、上がって?」

 紬の差し出した縄梯子に、律も澪も警戒に満ちた視線を送っている。
その反応も当然だと紬とて思うが、あまり逡巡している時間は無かった。

「早く上がって?
もうゲームは終わったの。だから、これ以上危害は加えないわ」

 そう言った後で、紬は付け足した。

「少なくとも、私はね」

 律は眉根を寄せた後、怪訝に満ちた声音で返してきた。

「どういう意味だ?他に仲間が居るのか?
それとも、裏でムギを脅してるヤツでも居るのか?」

「それもすぐに説明するから。早く上がって」

 協力者が姿を見せる前に、二人を水から上がらせてしまいたかった。
勿論、姿を見せるとは限らない。
姿を見せても、危害を加えてくるとは限らない。
だが紬の危惧通りに襲撃してきた場合、二人を救出する事は困難になる。

 それでも動かない二人を見て、焦れた紬は敢えて強い語調で言う。

「何時までも其処でそうしている訳にもいかないでしょ?」

 尤もだと思ったのか、澪が腹を括ったように言う。

「確かに、他に選択肢は無いな」

 律も続いた。

「一理ある……な。ところで、コレ」

 律は縄梯子を引っ張りながら、問いかけてきた。

「大丈夫なんだろうな?途中で落ちたりしないよな?
二人の体重が掛かったとしても」

「それは安心していいわ。しっかりと端を結んであるから。
それに登る距離も短いから、
続け様に登っても二人分の体重が掛かる時間は少ないわ」

 紬が返すと、律は澪に向けて言う。

「澪、私が先に上る。すぐ後を付いてきてくれ。
何かあっても、澪は私が守るから」

「いや、駄目だ。律は怪我してるし……それも私のせいで。
だから」

「私のせいだよ。私は澪を裏切り続けた。何回も何回も。
せめて今度は、守らせてくれ」

「律……」

 澪の頬が赤く染まった。
その頬に一つ口付けしてから、律の手が縄梯子に掛かる。
そうして律が少しずつ、水から身体を引き上げている時だった。



紬の後方に、足音が聞こえた。



 紬は反射的に振り返る。
そこには長い黒髪を靡かせる小柄な女が居た。

「どうした?ムギ、何かあったのか?」

 不審に満ちた律の声が聞こえてくる。
それには返答せず、紬は足音の主の名を呼んだ。

「梓……ちゃん」

 梓が裏で絵を描いていた協力者の正体なのだろうか。
仮にそうだとして、危害を加えに来たのだろうか。
紬はすぐに判断を下した。
協力者の正体は梓であり危害を加えに来た、それを前提に動こうと。

 判断を下した理由は二つ。
梓の攻撃的な視線と、その手に握られた金槌の存在だった。

「ゲームはもう、終わりです」

 言うや否や、梓は呼気を荒げて突進してきた。
それは紬の判断を肯定する行動だった。
舌打ちを一つしてから、紬も突進した。
二人の距離が一瞬で縮まる。
梓が金槌を振り上げたが、紬は怯まず加速した。

 僅かな時間の後、二人の身体は衝突した。
振り下ろされた金槌が紬に当たったが、
衝突した際に梓の体勢が崩れたお陰で痛みは少なかった。

 反面、梓を見舞った衝撃は大きかったらしく、
突き飛ばされて地に臀部を付けている。
金槌を使う際に梓の速度は減殺されていた上、体格も紬の方が勝っていた。
その二つが二人の優劣となって、結果に表れたのだ。
紬の突進は、そこまで計算しての事だった。

 だが、安心するのはまだ早かった。
梓は素早く体勢を立て直し、金槌を振り回してきた。
紬は躱す事を諦め、頭部のみ守りながら接近戦に徹する。
体格の差は紬に有利であり、素手と鈍器という差は梓に有利だった。

「梓っ、ムギっ。何やってんだっ?」

 激しい殴打の応酬は、律の叫びによって止んだ。
紬が梓と格闘している内に、律は登りきっていたらしい。

「りっちゃん……」

「律先輩……って、その顔はっ?」

 梓は驚愕に満ちた眼差しで、律の顔を見やった。

「いや……ちょっと」

 律は言い難そうに言葉を濁した。

「許せない……きっとムギ先輩のせいだ。
でも安心して下さい、助けに来ましたから」

「何を言ってるのっ?」

 紬は慌てて割って入った。
そしてすぐに、梓の意図を察する。律を騙そうとしているのだ、と。

「騙されないでっ。梓ちゃんこそ黒幕よっ」

 紬は叫びながら動いた。梓の隙を衝き、渾身の力で腹部を殴る。
喋らせる暇を与えず、意識を落とす心算だった。

「ぐぇっ」

 腹部を抑えながら梓は苦しそうな声を発し、蹲るように身体を曲げた。
顎が浮くその姿勢を、紬は見逃さなかった。
すかさず顎を目掛けて、拳を見舞った。

 梓は足を躍らせながらも、金槌で反撃に転じてきた。
だが、意識が朦朧としているのか、その動きに精彩は無い。
紬は容易く金槌を奪うと、梓の頭部へと打ち下ろした。
今度こそ梓は意識を落とされて、身を崩して床へと倒れ込んだ。

「ムギ……お前……」

 律は呆然とした顔を浮かべて呟いた。

「何なんだよ、一体……」

 何時の間にか上がってきた澪も、声に戸惑いを滲ませている。

「こうするしか無かった。こうしないと、りっちゃん達が危険だった。
……その辺の事情、全て話すわ」

 律と澪は黙って紬を見詰めている。
二人が大人しい様子を見せている事に紬は安堵した。
自由を取り戻した律と澪から攻撃される危険もあったのだ。

「私はね、りっちゃんの事が好きだった。それは捨てられてからも、ずっと。
そして澪ちゃんの事が羨ましく……いえ、妬ましく……いや、恨めしかった。
そんな時にね、私の元にメールが届いたの。
二人に復讐するプランが書かれたメールが」

 それこそが、協力者からのメールだった。

「それが、今回のゲームか?」

 律からの問いに、紬は頷く。

「ええ。私がその案に乗ることを告げると、
場所の指示や計画の詳細が、メールによって届いた。
必要な道具の提供もしてくれたわ。勿論、私が自前で揃えた道具もあるけれど。
提供された道具の中には、ゲーム中に散々流した例のビデオもあった。
私を含めた女と、りっちゃんが交わる映像の事よ」

 ゲームの前に紬はその映像を、既に観ていた。
その時に、律と交わった彼女達に対する嫉妬心は湧かなかった。
嫉妬心は澪にだけ向けられ、彼女達には寧ろ連帯感や同情心を抱いた程だ。

「あー、あれはムギが撮ったんじゃ無かったのか。
ムギって女同士の恋愛好きだから、お前が撮ったのかと思ったよ。
ああいや、そう思ったのは勿論、ムギがムギソウだと正体明かした後だけどさ」

 律の口調は穏やかだった。
顔に傷を負ったにも関わらず、その事に付いて紬を責める心算は無いらしい。

「私が好きなのは……いえ、好きだったのは、りっちゃんだけ。
確かに百合好きっぽいところは見せてきたけど、それはカモフラージュだった。
って、ごめんなさい、話が逸れたわね。
それで、私は計画を実行に移す事にした。それが今回の、別荘への招待よ」

「うん、それで私達はやって来た訳だ。
別荘に泊まりに来た事は憶えてる。でも、その後の記憶が曖昧なんだ。
攫われた記憶が無いって言うか、
クロロホルム嗅がされた記憶が抜けてんだよね。
そんな乱暴な事されたら、憶えてそうなもんだけど」

 律が疑問を抱くのも無理は無い。
あの時、紬は本当の事を言っていなかったのだから。

「実はね、クロロホルムなんて使ってないの。
使ったのは経口摂取の睡眠薬よ。
市販薬に含まれる抗ヒスタミンと、処方の睡眠薬のカクテル。
両方とも、私に計画を指示した人から提供された物だった。
それを食事に混ぜておいたの。夕飯のお皿を配ったの、私だったでしょう?」

 律は得心いったように頷いた。

「あー、道理で攫われた記憶が無いワケだよ。
しっかし、眠っている私達を、どうやってこんな所まで運んだんだ?
別荘から近かったとしても、数人掛かりじゃないとキツくないか?
その、お前に計画を送ったヤツが協力してくれたのか?」

 紬は首を左右に振った。

「んーん、一人で運んだ。私に計画を指図した人、
私は協力者と呼んでいるけれど、その人はゲームの間は動かなかったわ。
その正体さえも知らなかった。
でも、一人でも問題無かったわ。此処、見覚え無い?」

「んー?」

 律は唸りながら周囲を見渡す。

「そういえば、どっかで見た事ある風景だな。
かなり前に……」

 記憶の惹起に苦戦している律を助けるように、紬は口を挟む。

「ここ、りっちゃん達が泊まった別荘よ。
客室ルームじゃなくて、配膳やら倉庫やらの実務スペースだけれども。
此処ってね、厳密には琴吹家私有の別荘じゃなくて、グループの福利厚生施設なの。
利用申請者なんてほとんど居ないから、社内イベント時に使ったり、
倉庫として使ったり、或いは琴吹家の別荘として使ったり、がメインだけど。
この実務スペースにも、りっちゃんや澪ちゃんは以前に何回か訪れたはずよ。
勿論、唯ちゃんや梓ちゃんも」

 律は思い出したようだった。

「ああっ、そうだ。そういえば、唯が迷い込んだ事もあったっけ。
あまり来た事無かったから、思い出せなかったよ」

「無理も無いわ。此処はあまり用がある場所じゃないものね」

 紬がそう言った直後に、それまで黙っていた澪が口を挟んできた。

「確かに来た事のある場所だな。
それで、梓は?どうしてムギと梓は、戦ってたんだ?
梓は一体何なんだ?このゲームと、何か関係があるのか?」

 律もその事が気になっているらしく、真剣な眼差しを紬に注いできた。

「さっきから私の話に出てきてる、協力者。
その協力者の正体が、多分梓ちゃん。
じゃなきゃ、招待していないこの別荘に姿を現す訳が無い。
何が行われているか、知りようも無いのだから」

 紬が答えると、今度は律が問いを放ってきた。

「協力者というか、黒幕の正体が梓だったとして、
どうしてムギを襲ったんだ?
梓が協力者なら、お前達は仲間のはずだろ?」

「私も仲間だと、初めのうちは親近感すら抱いていた。
けれど、りっちゃんと澪ちゃんの勝利を見て、考えは揺らいだ。
もしかしたら、ゲームクリアの成否に関わらず、
協力者は二人に危害を加える心算じゃないのかと。
これだけ怨念に滾る計画を練った人間が、平和な結末を望むのかと。
そして事実、協力者……梓ちゃんは、危害を加えに来たわ」

「でも……梓は、助けに来ました、とか言ってたけど」

 澪の顔には、不審が表れている。

「りっちゃんと澪ちゃんを騙す為の方便、じゃないかしら。
邪魔な私を排斥する助力を期待できる上に、二人の油断を誘う事もできる」

「本当に梓が、その協力者なのか?」

 澪は未だ半信半疑のように問うてきた。

「その可能性はかなり高いわ。そもそもこのゲームの黒幕は、
りっちゃんの浮気相手の誰かのはずだから。
それは撮られた映像や、ゲームの内容から推量できる。
その条件を満たし、この場に現れた。殆ど梓ちゃんで確定じゃないかしら。
大体、このゲームを知っている人間じゃない限り、
助けるなんて言葉は出てこない」

 今度は律が応じて、顎に手を当てながら言葉を返してきた。

「まー、確かに。それは勿論、ムギが嘘を吐いていないなら、の話だけど。
いや、疑うワケじゃ無いんだけどさ、ムギだけから事情を聞くのも不公へ……」


 律の言葉はそこで止まり、顔には緊張が漲った。
澪の顔も強張っている。
紬とて二人同様、表情にありありと警戒を浮かばせた。


 それは徐々にこの場に近づいて来る、足音に対する反応だった。
紬の口から、思わず独り言が漏れ出る。



「もう誰も、居ないはずなのに」



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最終更新:2011年10月23日 00:41