連休が終わって、寝て起きれば学校だという午前一時。
紬は自室でティーカップを拭いていた。
この連休を利用してフィンランドの別荘に行った際、持ってきたものだ。
別荘の管理者によると、骨董品と言うには価値に欠けるが、
時代物と言えるくらいには古い物らしい。
北欧を思わせる模様や物珍しい形状も気に入ったが、
何より左利き専用という点が紬に持ち帰りを決意させた。
ティータイムで、澪に使ってもらおうと思ったのだ。
澪は左利きに配慮した商品が少ないと度々零していた。
もしかしたら、ティータイムで供しているティーカップも、
澪は内心使いづらいと思っていたのかもしれない。
「澪ちゃん、気に入ってくれるかな」
紬は独り言を呟くと、そろそろ寝ようかとティーカップを机に置いた。
どうせこのティーカップは、明日使う前に水洗いするのだ。
学校へと持って行く前に、埃だけでも落としておこうかと思い立ったに過ぎない。
鞄へとティーカップを仕舞う為、紬は机の脇に置いてある緩衝材に手を伸ばした。
自然、机上からもティーカップからも視線が外れる。
「こんばんは、紬ちゃん」
「えっ?」
か細い声が机から聞こえて、紬は慌てて机上へと視線を戻した。
そして目に映った光景に、紬は絶句した。
更に手に持ちかけた緩衝材を、驚いた拍子に床へと落としてしまった。
無理もない。
ティーカップの横に小人が居て、手を振っているのだから。
「驚かないで欲しいな」
小人は無理を言うと、優しげに微笑んだ。
「えっと……」
紬はそれ以上の言葉を続けられず、状況を把握しようと小人に見入った。
大きさはティーカップと同じくらいで、赤い帽子と灰色の服を身に着けている。
その顔立ちは怒っているようにも笑っているようにも見え、
男のようにも女のようにも見える。
「自己紹介がまだだったね。
僕は……日本語は不得手だから、ピッタリな言葉が見つからないけど。
まぁ、妖精とか精霊とかが近いんじゃないかな。英語ならエルフが近いのかな。
僕の国の言葉でいいのなら、フィンランド語でトントゥと呼ばれてる存在だよ」
「トントゥ……フィンランドの伝承で聞いた事があるわ。
物に宿る妖精で、持ち主にとっては座敷童のような存在よね」
紬はフィンランドに今までに何度も訪れている為、
フィンランドに伝わるトントゥの話を聞く機会は多々あった。
持ち主に幸福を授けて災厄から身を守る反面、
怒らせたりすれば物から出て行き災厄が訪れる。
それが日本の伝承にある座敷童を連想させた為、
紬の印象に深く残っている話だった。
ただ、本当に実在するとは思っていなかった。
否、今にしてなお、眼前の光景を信じかねている。
夢の中なのか幻覚なのか現実なのか、分からない。
「座敷童が何かは知らないけど、トントゥを知ってるなら話は早い。
僕はこのティーカップに宿ってるトントゥなんだ。
だから、綺麗に拭いてくれた紬ちゃんにお礼がしたい。
願い事、一つ叶えてあげるよ」
トントゥは得意気に、指を一本立てた。
「え?いいの?」
紬は戸惑いから一転、トントゥの申し出に飛び付いていた。
不意に転がり込んだ幸運を非現実的の一言で切って捨てられる程、紬は成熟していなかった。
「うん。持ち主に幸福を与えるのも、僕等の役割の一つだからね。
とは言っても、主な役割は災厄から守る事だし、
僕等は神様じゃなくて妖精に過ぎないから、何でも叶えられる訳じゃないけど。
可能な限り、叶えられるよう努めるよ」
「そうね……」
紬は指を顎に当てて考え込んだ。
紬とて、幾つも願いを抱え込んで生きている。
HTTで武道館ライブを実現させたいし、
皆に幸せになって欲しいとも思っている。
だが、それらの願いはすぐに切った。
自分の努力次第で可能なものを願う事は勿体なく思えたし、
自力で叶えるからこそ価値がある類のものなのだ。
叶えてもらうならば努力ではどうにもならないもの、
それも到底自分の力の及ばないものにすべきだと考えた。
紬はその基準に則って、予てから抱いていた願いを取捨選択していった。
そうして最終的に選んだ願いは、トントゥの言う可能な範囲を超えているように思われた。
それを自覚して言うせいか、紬の声は遠慮がちなものとなった。
「じゃあ、女性同士の生殖行為でも妊娠できる世界にして欲しいかな」
紬は女性同士の恋愛が好きだった。
それも自分自身の性癖ではなく、趣味として好きだった。
その為、愛し合う女性同士を応援してやりたかった。
同性愛に対する心理的な差別意識なら、まだ各人の意思で乗り越えられるかもしれない。
同性の結婚とて事実婚で対応可能であるし、それどころか法的に認めている国もある。
ただ、出産に関しては、もう本人達の努力や意思で解決する事ができない。
その問題を解決する事が、大きな一助になると紬は確信していた。
尤も、トントゥの様子を見るに、やはり期待はできそうもなかった。
トントゥは紬の願いを聞いてから、腕を組んで唸っている。
「うーん、難しいお願いを言ってきたね」
「やっぱり、無理?じゃあ、そうねぇ……」
やがて口を開いたトントゥの言葉に、紬は然して失望せずに返すと再考を始めた。
元々、叶える事が難しいだろうと分かっていたのだ。
「あっ、いやいや、できるよ」
だが、慌てたように手を振りながら言うトントゥによって、紬の思考はすぐに中断された。
「え?でも、さっき、難しいって……」
「ん?ああ、そうか。
日本語だと、難しいって、できないと同じ意味になる場合があるのか。
うん、難しいってのは、文字通りの意味でしかないよ。叶えるから安心して」
「ああ、そう言えば、フィンランドの妖精だったわね。
でも、困難な事に変わりはないんでしょ?
ティーカップを拭いただけなのに、そこまでして貰うのも悪いわ」
無償も同然で叶えてもらう手前、あまり負担を掛ける事は憚られた。
少なくとも、遠慮を前置する儀礼くらいは見せたかった。
「それは気にしなくていい。それが僕等の役割だから。
だから本来、お礼って言っちゃったのも、おかしな話だったんだけどね。
感謝の気持ちを込めてる、ってアピールかな。
それはさておき」
トントゥはここからが本題だと言わんばかりに、身を乗り出して続けた。
「紬ちゃんのお願い事は、女同士の生殖行為でも妊娠できる、でいいんだよね?
それとも、他のに変える?」
一旦遠慮するという儀礼は踏んだ。
それに、新たな願い事など思い付いてない。
紬は頷きながら言う。
「ええ、それでお願いして、いいかしら?」
トントゥも首肯とともに、言葉を返してきた。
「うん、了解したよ。
じゃあ、おやすみ、紬ちゃん」
トントゥはそれだけ言うと、ティーカップの裏に回り込んだ。
紬が慌てて覗きこむと、もうそこにトントゥの姿は無かった。
「今のは、何だったのかしら……」
紬は呟くと、ふと強烈な眠気を覚えた。
考えてみれば、時刻は既に一時を回っているのだ。
眠気に対して、無理に抗う時間では無いだろう。
紬は腕を枕に、机へとうつ伏した。
ベッドに向かう事さえ、億劫だった。
*
朝、目覚めた紬が大きく伸びをすると、何かが床へと落ちる音がした。
それと同時に、背中が軽くなった。
床を振り向いて見ると、カーディガンが転がっていた。
机で眠ってしまった紬に、誰かが掛けてくれたのだろうか。
ただ、親にせよ家政婦にせよ、深夜に紬の部屋に入るとは考え難かった。
と、すると、昨夜に会ったトントゥだろうか。
「あっ」
トントゥの存在に思い至った紬は、思わず声を上げていた。
未だに昨日の出来事が夢なのか現実だったのか、判断は付いていない。
だが、願い事を叶えると言ったトントゥに、
女性同士でも妊娠できるようにと頼んだはずだ。
その願い事が叶ったのか、紬は早急に確かめたくなった。
もし、叶っているのなら、昨夜の事は夢ではなく現実だったという証左になる。
いや、もう現実だったと確信していいのかもしれない。
紬は落ちたカーディガンをハンガーに掛け直しながら、そう思った。
.
妊娠という性的な事象を、親に訊く事は憚られた。
学校で友人相手に訊く事にした紬は、逸る気持ちに急かされるように学校へと急いだ。
ティーカップを緩衝材に包んで、鞄に入れる事も忘れなかった。
ただ、学校でもすぐに訊く機会が訪れた訳ではない。
ホームルーム前では中々気心の知れた友人が揃わず、
揃った時には既に時間も押していた。
また、授業間の休みも短く、訊く事は憚られた。
漸く紬に確かめる機会が訪れたのは、昼休みになってからだった。
昼食はいつも、律や澪、唯といった面々と机を寄せ合って食べている。
ライブ前では梓が混じる事もあるが、今日は姿を見せていない。
ライブが予定されていない事もあり、自分の教室で純や憂と昼食を共にしているのだろう。
昼食を食べ終わり、更にその後の話題にも切れ目が訪れた。
その頃合いを見計らって、紬は切り出した。
「ねぇ、女性同士の妊娠って、可能かしら?」
紬は婉曲に探るような事はせず、単刀直入に訊いた。
可能ならば奇異の目を向けられるかもしれないが、
喜ばしい事なのでその程度は受忍するつもりでいた。
また、不可能だとしても、逃げる言い訳の算段はあった。
「いや、ムギ、それは無理だろ……」
唯と律が唖然とした顔をして押し黙るなか、真っ先に反応したのは澪だった。
いきなり何を言い出したのか、と言わんばかりの呆れ顔が浮かんでいる。
「ムギちゃん、レベル上がり過ぎだよ」
唯も言葉を取り戻し、澪に続いてきた。
紬の女同士の恋愛、即ち百合に対する思い入れが強くなり過ぎだと言いたいのだろう。
「あ、違うの。そういう百合云々の話じゃなくって、科学的な話というか。
ほら、IPS細胞ってあるじゃない?
ああいうもので、可能になるかって話なの」
紬は内心に広がる落胆を押し隠して、用意していた言い訳で繕った。
「ああ、IPS細胞か。そういう話もあるよな。
でも、倫理的にどうなんだろ?
ああいう技術は医療倫理に留まらず、宗教的な問題や社会文化的な問題もあるし、
容易に出産できる事で種々の問題が出てくるかもしれないし。
その辺が難しくてよく分からないから、何とも言えないな」
澪の意見に、紬も同様の思いを抱いていた。
難しくてよく分からないからこそ、願い事に”生殖行為”という言葉を敢えて含めたのだ。
紬は幼い頃から、
「よく分かっていないモノには突っ込むな」と、父親に事ある毎に言い聞かされてきた。
実際には、トントゥに願いを委ねた事自体が、
既に父親の教えに沿っていない事なのかもしれない。
それでも事業家にして投資家の父から刷り込まれた哲学が、
願いの内容という土壇場では活きた形になっていた。
「私は澪ちゃんやムギちゃんみたいに頭が良い訳じゃないから、
難しい事は分からないんだけどね。
でも、まだ実用化には至っていないんでしょ?
だから、ムギちゃんの質問に答えるならこうなるよね。
今は無理だよ、って」
珍しく的確な答えを返す唯に続いて、澪も言い足してきた。
「そうだな。本来想定している用途の再生医療にさえ、
まだまだ使えるような技術水準じゃないみたいだしな」
澪の補足で話に区切りが付いたと、紬は判断した。
後は礼を言って、この話を終わらせようと思った。
元々、昨夜の願いが叶ったかどうか確かめる為の問いでしかない。
「でも……女同士でも妊娠できたら、素敵だよな。
好きな人の愛を授かって、赤ちゃん産みたいし」
紬が話題を切るよりも早く、それまで黙っていた律が言葉を挟んできた。
「……ごめんな、律」
神妙な口調で謝る澪に、律が慌てて手を振った。
「あ、いや。ただ、夢物語に憧れただけだよ。
ほら、好きな人と結ばれてるだけでもさ、幸運の賜物だし。
これ以上の幸せを求める程、私は欲深くないからさ」
「でも、本当は赤ちゃん、欲しいんだろ?
私が女じゃなかったのなら、律の幸せ、叶えてやれたのに」
澪は本当に申し訳なさそうだった。
自分の恋人の幸せを叶えてやれない、その歯痒さが声にも表情にも表れている。
紬も歯痒かった。
自分の願いが叶ってさえいれば、友人の幸せも叶っていたはずだった。
「みーおっ、そんな顔しないで。私は充分、幸せだからさ。
それに澪が女で、良かったと思うよ?
私、聡以外の男の人に耐性無いから、男の人と仲良くやれる自信ないし。
その大きな胸も、私の大好きな居場所だし」
「律……ありがとな。孕ませてあげられない分、愛して包んでやるよ」
大好きな居場所だと言われた胸に、澪が律の小さな体躯を引き寄せて抱いた。
律の顔に、安らかな笑顔が広がる。
「えへへ、やっぱり、大好き。
赤ちゃんの夢物語よりも、現実のこの感覚が大切だと思ってるよ、みぃおっ」
夢物語よりも現実を喜ぶ律とは対照的に、紬は内心沈んでいた。
願いが叶っていない事から推せば、やはり昨夜のトントゥは夢でしかなかったのだろうか。
あれが夢ではなく現実だったのなら、どんなに良かった事か。
紬は嘆息したくなった。
ただ、夢だったのなら、眠っている紬にカーディガンを掛けたのは誰なのか。
紬はふと、疑問に思った。
最終更新:2012年08月14日 12:10