この日の事があって、私は唯先輩にあまり根を詰め過ぎないようにと提案した。
唯先輩は午前中だけスタジオに顔を出し、少し機材をいじって、午後には街を散歩したり、
ホテルで出来る作業をしたりと言う生活をする事になった。
出来るだけ付き添っていた方が良いのでは無いかと思ったが、
「これも、構想のためだからさ?ね、一人にさせて?」と言う、唯先輩の希望を優先させる事にした。
私の選択は正しかったのか間違っていたのか。
取り合えず、こう言う生活サイクルを作った結果、唯先輩は少しづつ作業を進めるようにはなった。
こうした努力で断片的な素材は幾つか出来たが、曲を構成する状況までは程遠かった。
律先輩から言われた予算はもはや底を突きかけていた。
その事も問題だった。
だが、もっと大きな問題はその断片的な素材を頭から搾り出すために唯先輩が払った代償だ。
財布の中身。
これは良い。
まだ小さい問題だと思う。
だが…。
私の誤算の二つ目は、良いルートが無ければボッタくられると言う事だ。
受容と供給。
当たり前の事だった。
唯先輩はドラッグ(より性質の悪い事にそれはクラックだった)を手に入れるために自分の財布を空にした。
それでも足りなかった。
どうしたか。
どうしたと思う?
スタジオの警備員が深夜の見回りをしている時、それを明らかにした。
唯先輩がスタジオの機材を抱えて、私達が生まれる前から走り回っていたような、オンボロのプリマスワゴンに積もうとしているのを。
クラックを買うお金を手に入れるために、スタジオの機材を盗んで売り捌こうとしているのを。
唯「あずにゃん…」
梓「どうしてですか!」
唯「どうして?」
梓「そんなに辛いなら、そんなもの使ってまで、搾り出さなきゃいけないなら、止めてくださいよ…」
唯「あずにゃん、泣かないで?」
梓「だって…、こんなの…」
唯「りっちゃんだって頑張ってる。あずにゃんだって一緒に来てくれてる。私だって何かしなきゃね?」
梓「でも…」
唯「苦労かけて…、ごめんね?」
律先輩は唯先輩をメタドン治療施設に入れる事に決めた。
私は何の手も打てなかった。
律先輩に泣きついただけだった。
私は自分の思い上がりのツケを払わされた。
唯先輩と言う一番大事なもので。
唯先輩は優良な患者だった。
社会に復帰しようと言う強い意思があったからだ。
実際、メタドンの使用量も他の患者に比べれば遥かに少量で済ませていた。
医者もカウンセラーも薬を服用しながら、と言うエクスキューズ付きでは有ったが、社会復帰の許可を出したのは自然な事だった。
私は不認可薬(…)であるラームやブプレノルフィンを日本に持ち替える危険性を認識していたが、
「早く戻りたい」と言う唯先輩の熱意に負け帰国を決めた。
飛行機の中、唯先輩はずっと私の手を握って、穏やかな寝顔を見せていた。
何が唯先輩をここまで駆り立てていたんだろうか。
まだ、私は答えを見つけ出せないでいた。
唯「おー、りっちゃ~ん!綺麗な身体になって帰ってきたよー!!」
唯先輩は律先輩を見つけると、手を振って駆けだす。
律先輩は私の方を見ると、少し苦笑して手を振る。
私はどんな顔をしたら良いか分からず、でも取り合えず苦笑で返す。
唯「いぇーい、カムバックトゥジャパーン!」
唯先輩は片手に大きなショッパー、もう片方の手でトランクを押していて、肩にはギー太と言う感じだった。
ショッパーの中身は唯先輩の命綱だ。
律先輩が二歩三歩と踏み出す。
律「二人ともお疲れ…」
唯先輩は勢い良く飛び跳ねて、そして…。
唯先輩が躓く。
ショッパーから零れ落ちる壜。
律先輩は顔を背ける。
全てがスローモーションに感じられた。
ショッパーの中に入っていた壜が砕け散る音がして、その瞬間、時間の流れは元に戻った。
そこには床に這って、割れた壜の中に入っていたであろう粘性の液体を一滴だろうと無駄にしたくないと言う様子で、床に口を近づけて吸おうとする唯先輩の姿があった。
唯「あ、あぁメタドンが、私のメタドンがぁ…、うわぁ!!」
私は唯先輩に駆け寄った。
梓「唯先輩、大丈夫ですから、まだたくさんありますから」
唯「あずにゃーん!!だってだってぇ!!」
空港職員が多数駆け寄って来た。
来るな!
来るなぁ!
梓「処方箋貰ってますから!処方箋はありますから!」
空港職員「ちょっと、良いですか?」
梓「近寄るな!私達に近寄るなぁ!!」
様々な治療薬はまだ良かった。
海外のものとは言え、正式な処方箋があったから。
医者からアドバイスがあり、併用に医学的効果が認められていたとは言え、ヘロインはまずかった。
それでも、執行猶予に持っていく事が出来た。
私はこの裁判を通して初めて会社の財務状況に直面した。
私は全てが終わりに近づいている事を理解する。
私達は三人乗りのボブスレーとかそう言う感じのものだった。
多人数で乗車するものの方が、一度動き出してしまうとスピードアップするのは早い。
そう、乗算的に。
そして、行き先が分かっていても止められない程の速度になる。
その行き先は?
ねえ、分かるよね?
だから、そう言う事なんだ。
きっと、気の触れた老人が部屋に急に入って来てこう告げるのだ。
私達の世界はもうすぐ終わりです。
洪水が来て私達の世界を飲み込むのです。
律「アルバムを出すために資金調達する必要があるんだ」
律先輩の言葉は私の耳をすり抜けていた。
律「どうすれば良い、どうすれば…」
律先輩は憔悴した様子でブツブツと呟いている。
私は、ボンヤリとそれを見ていた。
律先輩は何か呟いていたが、俯いたまま動かなくなった。
私は律先輩の旋毛をしばらく見ていたが、あまりに動きが無いことに気付いて、また自分もずっとそれを見ている間かなかった事に気付いて、声を掛ける。
梓「律先輩…?」
律先輩は顔を上げる。
何かを決心したような表情。
律「もう、終わりなんだな…」
私も理解した。
終わりの時がやって来たのだと言う事を。
律「スタジオに色々機材あるじゃん?」
梓「ええ。あれも全部競売に掛けられちゃうんですか?」
律「ああ。まあ、唯が買い集めた機材も結構あるんだけど、会社の換価財と見なされちまうだろうな」
梓「そうですか…」
律「で、だ」
梓「はい?」
私は純に電話をする。
梓「あ、純?人手集めて。え?いや、今すぐ。重いもの運びたいんだ。うん、すぐすぐ。あと、出来るだけ大きいトラックもあると良い。
あ、そうだ!楽器を扱った事がある人が良いな。うんうん、出来るだけ早くね」
機材は窃盗団に盗まれる。
最近は日本も物騒だ。
闇夜に紛れて私達は去る。
トラックの窓を街の灯りが流れていく。
梓「ねえ、純?」
純「んー?」
梓「私達って、結局唯先輩の力になれなかったのかなあ…」
純「そんな事無いと思うけど…」
梓「けど…?」
純「そうだなー、私の友達もHTTから結構出させて貰ったよね?」
別に改めて教えて貰う必要は無い。
私も音作りから手伝ったんだから、純と同じぐらい分かってる。
梓「うん」
純「でもさ、唯先輩は常に一人だったじゃん。一人で全てだったじゃん?」
ああ、そうか…。
ジャンルレスである事
ジャンルを横断する事。
そのミュージックジャーニーがスリリングなのは、その瞬間にある種の摩擦、緊張関係を各ジャンルとの間に引き起こすからだ。
結果、孤独になる。
シーンとの共犯関係は無く、そこにムーブメントの勃興は無い。
そんな状況の中、アーティストはひたすら自分の中だけで、楽曲を完成させる事を試みる。
目の前の観客に期待しない内省的な音楽。
それ故に、そこから何かを感じ取る孤独な人々を勇気付ける。
だから、あの頃の私に届いた。
そして多くの人々に、周囲の世界に痛めつけられている人々に、コミュニティを持たない人々に届いたんだ。
その響きの力強さは即ち、作り手の孤独さの度合いに比例している。
純「梓、そんなに落ち込まないで」
梓「だ、大丈夫、大丈夫だから…」
私より、純の方が…。
純「わ、私だって、だ、大丈夫だよ…?」
私達はトラックを路肩に止め、抱き合って泣いた。
全ては運び出せなかったので、スタジオにはまだ幾つかの機材が残されていた。
その中途半端な残り方が、ホント、栄光の残滓みたいで、私は悲しくなる。
梓「何か全てが夢だったのかな…」
律「あーずさっ、何黄昏てんだ?」
梓「黄昏たくもなるでしょう?」
律「大丈夫だって、駄目になんのは私だけなんだからさ」
梓「でも…」
律先輩は私の頭をポンポンと叩く。
この人は強い人だと改めて感じる。
律「あ、そうだ!」
梓「何です?」
律「なあ、久々にジャムろうぜ!まだ、明日まで時間はあるし。そうだ、そうしよう、唯にも電話して呼び出してさ!」
私と唯先輩、律先輩のジャムセッションなんて、本当に久し振りだ。
律先輩の久し振りのドラムはそれほど悪く無かった。
私が良く知っている高校時代のそれと比べても悪く無かった。
私は律先輩のように久し振りと言う訳では無かったけど、合わせるなんて事はさっぱり無かったので、上手く合わせられるか不安だった。
結果はそれなりに出来たのだけど。
何故だか分からないけれど、唯先輩はベースを弾いた。
一人だけ超絶テクなのが恨めしい。
うふふ。
最終更新:2011年04月24日 19:43