関係あるとみられるもの
二ツ岩マミゾウ(東方神霊廟)
アリス・マーガトロイド(東方妖々夢)
森近霖之助(東方香霖堂)
住所
両津港 新潟県佐渡市両津湊353 新潟市新潟港よりフェリーで約2時間半。ジェットフォイルで約1時間
小木港 新潟県佐渡市小木町1950 上越市直江津港よりフェリーで約2時間半
赤泊港 新潟県佐渡市赤泊2208 長岡市寺泊港より高速船で約1時間
トキ保護センター 新潟県佐渡市新穂長畝383-2 両津港から新潟交通佐渡バス南線「行谷バス停」下車、徒歩約25分
佐渡金山 新潟県佐渡市下相川1305 両津港よりシャトルバス、路線バスあり。詳しくは
こちら
人形遣いの碑 新潟県佐渡市羽茂大崎1578-1 小木港より車で20分。小木港からの路線バスは平日1往復のみ。
二ツ岩大明神 新潟県佐渡市相川下戸村 両津港より新潟交通佐渡バス本線「相川バス停」下車、徒歩40分
佐渡島(さどがしま)
新潟市よりおよそ30キロの沖合に浮かぶ離島。かつては島内に複数の市町村が分立していたが、現在は全島域をもって「新潟県佐渡市」を形成している。
島の総面積は855.3km²で、
東京都23区のおよそ1.5倍にもなる。北方領土を除くと、日本の「島」としては沖縄本島の次に大きく「離島」としては最大である。島内には5万人以上の住民が生活し、東大通(旧佐和田町)や千種(旧金井町)の国道沿いには本土とそん色ない市街地が形成されている。家電量販店やホームセンター、24時間営業のコンビニなどが立ち並ぶ光景は、来訪者が離島にいることを忘れてしまうほどである。一方沿岸部や内陸深部では、離島らしい雄大な自然の造形を感じられるスポットが数多く存在している。
本州から佐渡島へのアクセスは容易である。佐渡市内の両津港、小木港、赤泊港の3港と本州とをつなぐ定期船が運航している。「両津港―新潟港」及び「小木港―直江津港」間の航路上は、道路が無いにも関わらず国道に指定されている「海上国道」としても有名である。佐渡島内には空港も存在し、これまで新潟―佐渡間を結ぶ航路が開設されたりされなかったりしてきた。平成26年より無期限の運休に入っているようである。
「離島と言えば観光が主力産業」という先入観を与えられやすいが、佐渡の産業は土木業や第一次産業(農業・漁業・林業)が主力である。観光業の生産高は全体の1割にも及ばない。佐渡金山や佐渡トキ保護センター(後述)、温泉、天然林等々観光資源に恵まれている一方で観光に頼りきらない地力も持ち合わせており、非常に潜在能力の高い地域であると言うことができよう。今後、地場産業と観光との相乗効果によってより高い付加価値が生み出される可能性がある。
佐渡の歴史は非常に古い。千種遺跡(旧金井町内)からは弥生時代後期の生活用具が発掘されており、1万年以上も前から人類が棲みついていたと推測されている。西暦743年には越後国に合同(753年に再分離)され同時期に国分寺が建立されているので、この頃までに文化的な集落が形成され、本州との交流も盛んになっていたことは確実である。また、西暦712年に編纂された古事記の「国産み」の段にも佐渡島の名が記されている。佐渡島は、伊邪那岐(イザナギ)らが生み出した八つの島(大八島)のうち7番目(最後から2番目。本州の直前)に生み出された島とされる。
また、西暦701年に制定された大宝律令によって「流刑」が罪刑化した後は佐渡島がその機能の一つを担った。原初の流刑地としては隠岐の島(
島根県)や伊豆(
静岡県)、常盤(茨城)があるが、離島である隠岐の島と佐渡島はより罪の重い罪人が流される「遠流の地」とされた。鎌倉時代には順徳上皇や日蓮聖人、室町時代には観世流謡曲の世阿弥等、日本史上のビッグネームがこの地に流されている。鎌倉から室町時代にかけては本間(惣領)家が佐渡の統治を行っていたが、戦国時代末期には本間家分家にとってかわられ、さらに直江兼続らの侵略(討伐)を受け上杉家の領土となる。西暦1603年に佐渡金山(後述)が発見されると、以後は江戸幕府の直轄地となる。金の一大産出地として幕府の財政を潤し、2世紀半にも及ぶ太平の世を経済面から支えていくこととなった。
以上、「なんで社会科の教科書みたいなことを長々と書くねん」と思われた東方クラスターの諸兄もいらっしゃるかもしれないが、これすべて、二ツ岩マミゾウがその目で見てきた風景や歴史かもしれないからである。二次創作の翼を羽ばたかせて、どうぞ。
佐渡金山
佐渡島の西部、相川集落にある史跡(鉱山)。西暦1603年から1989年3月31日まで、約388年の長きにわたり金・銀等の貴金属が採掘されており、その歴代総産出量は、金78トン、銀2300トンにも及ぶという。ちなみに佐渡金山の付近には「鶴子銀山」という鉱山もあり、この二つを合わせて「佐渡金銀山」と呼ぶことがある。世界史上からでも極めて意義深い「石見銀山」には先を越されてしまったものの、世界遺産登録を目指して奮闘しているようである。
佐渡金山の最盛期は慶長から寛永にかけての時期(西暦1600年代~1640年代頃)と考えられている。この時期、佐渡金山には一攫千金を夢見るドリーマーや捕獲された無宿人らが全国から集まり、巨大な都市を形成していた。そこでは鉱石の採掘を行うばかりではなく、金銀の製錬から小判の鋳造まで、要は鉱石を製品に仕立てあげるまでの技術工程及びそれに従事する人々が集約されていた。加えて景気のいい鉱夫らの落とす金を目当てに商店街や飲み屋街、花町や湯屋(風俗街)までもが形成されたため、最盛期の人口は5万人を超えていたという。日本の総人口が現代の10分の1程度だった時代に、今の佐渡島全域の人口と変わらないほど多くの人々が鉱山に密集していたのだから大都会である。マミゾウさんは都会派の化け狸だったのである。
しかし、採掘がすすみ金を掘るための坑道が長く地中深くなるつれて鉱山の生産性は次第に減退していった。坑道が水脈にあたってしまった場合には、地中で溺死するという悲惨な事故も生まれるようになった。地下水の排出は鉱山を掘るよりも更に重労働であり、鉱山夫らの精神と肉体を苦しめた。華やかな繁栄を見せる一方で過酷を極めたであろう鉱山の労働風景は現在、史跡『佐渡金山』内において再現されている。かつての坑道をそのまま利用した回廊には機械仕掛けの人形が設置され、あたかも採掘作業をしているかのように動く。ほの暗い闇の中で、無表情の人形がモーター音を響かせながらぎこちない動きをする様子は不気味の一言に尽きる。深夜の工事現場とかでガッコンガッコンとライトセイバー振ってる不気味な人形を見かけるが、アレが大量にあると思ってもらえればいい。不気味な人形たちが、「つれえなあ・・・」とか「酒も飲みてぇし、なじみの女にも会いてえなあ・・・」みたいな悲惨なことをつぶやく様子は、一生思い出に残ると言っても過言ではない。
参考:工事現場とかにいるアレ
余談だが、「佐渡金銀山」で採掘が開始されるより遥か以前から、佐渡島は「金の島」として有名だった・・・と
佐渡市役所のHPには書いてある。本当かどうかは知らんが、それを裏づけるかのように平安時代末期に編纂された『今昔物語』にも「佐渡に行って金を掘る話」の一説がある。この頃に佐渡で坑道が掘り進められたような痕跡や記録は存在しないため、地表近くの砂金を集めることがされていたのではないか思われる。「砂金山」という名の山もある。
佐渡トキ保護センター
トキの保護と繁殖、野生復帰を目的とした国有施設。佐渡中央部に広がる広大な国中平野の一角にあり、両津港から車で20分、レンタルサイクルで40分程度で行ける。センター内部は一般公開されていないが、併設されているトキの森公園(トキふれあいプラザ・資料展示館)で飼育中のトキを見ることができ、土日祝祭日は地元トキガイドによる解説も聞けるらしい。
トキはペリカン目の鳥である。かつては
北海道・沖縄含む日本全土はもとより東アジアの広範囲にわたって生息していたが、20世紀中にいずれの国々においても生息数が急激に減少した。日本のトキは2003年10月に「キン」が死亡したことによって(野生)絶滅しており、現在佐渡をはじめ日本国内のいくつかの施設で飼育・繁殖の研究が行われているトキは中国から譲りうけたトキの子孫である。中国産トキと日本産トキの違いは個体差程度しかないと言われる。なおトキの野生復帰(再導入)計画は、現在人工繁殖したトキが野に放鳥される段階にまで進んでいるため、運が良ければ佐渡島内で"野生"のトキを目撃できる機会もあるだろう。
東方projectにおいては、『東方香霖堂』の中で幻想郷にトキが生息していることが明らかにされている(第3話「幻想の鳥」)。幻想郷のトキは近年になってその数を増やしているとされ、霧雨魔理沙らに捕食されているようである。幻想郷でトキが増えた理由として森近霖之助は「外界でトキが幻想の存在となったのだろうか」と推測していることから、外界で絶滅あるいはそれに近いような状態になった動物は、幻想郷に姿を現すようになることがあるものと思われる。今後外界でトキの野生復帰がすすめば、逆に幻想郷ではトキの個体数が減ると言うこともありうるだろう。なお、外界でトキが減少したことについて森近霖之助は「僕が知っていた頃の外の世界では考えられない」と述懐していることから、西暦1885年頃に博麗大結界が完成し外界と隔絶する前には生まれており、現在少なくとも130歳以上であるということも(ついでに)推測できる。
人形遣いの碑
明治3年ごろに「文弥(ぶんや)人形」を創始した人形遣い、大崎屋松之助の功績を記した追善碑。佐渡には「説経(せっきょう)人形」「のろま人形」「文弥人形」の三タイプの人形芝居が現代まで伝えられており、そのいずれも国の重要無形文化財に指定されている。「文弥人形」はこの3タイプの中で最も後発で、それまで座語り(物語を語って聞かせる娯楽)として伝えられてた「文弥節」を人形芝居にしたものである。加えて、従来の「説経人形」をベースにしながらより細やかに動かせるよう人形を改良したり、迅速な場面転換が可能なよう舞台装置を設置したりといった工夫が凝らされたが、これらを考案したのが大崎屋松之助だった。
金山で栄えた佐渡の人々にとって人形芝居は手軽に楽しめる、身近な娯楽だった。普段は農業等に従事していた人々が副業(ないし趣味)で「座」を結成し、祭りや祝い事の日などに神社や集会所に即席の舞台を設けて芸を披露した。観衆は食べものを手にこぞって参集し、「説経人形」の激しいチャンバラや「のろま人形」の漫才のようなかけあい、「文弥人形」の哀愁を楽しんだ。テレビや映画が台頭して以後は急速に廃れたが、昭和30年代頃までは第1線の娯楽として人々を楽しませていた。現在は伝統芸能として大切に保存されている。
東方projectにおいては、「七色の人形遣い」の異名を持つアリス・マーガトロイドが登場し、幻想郷のお祭りなどで人形芝居を披露しているとされる(『東方求聞史紀』ほか)。テレビやラジオ等の存在しない幻想郷では人形芝居が一線級の娯楽として今でも親しまれているのだろう。演目自体は違ったとしても、観衆らが「文弥人形」の一挙手一投足に親しむ姿は幻想郷の風景に重なり合う所があるに違いない。あと「文弥人形」って「あやや人形」とも読める。読もうと思えば読める。伝統の幻想文弥。
二ツ岩神社
佐渡市相川地区から青野峠方面に向かう途中にある神社。県道31号「中山トンネル」の相川方面出口を出て最初の信号を右折し、しばらく直進すると高架橋が現れる。その手前に「二ツ岩神社」へ続く山道の看板案内がある。山道はせまく対向車とのすれ違いも困難なほどであるが、10分ほど進んだ先にある神社入口には何台分かの駐車スペースが確保されている。なお、相川地区の町中(相川小学校付近)等にも二ツ岩神社が存在するが、山の上の二ツ岩神社の方が有名である。
二ツ岩神社は二ツ岩大明神とも呼ばれ、佐渡狸の大ボス「
団三郎狸(だんざぶろうだぬき)」を神格化して祀っている。佐渡では狸(たぬき)のことを貉(むじな)とも呼ぶので、団十郎貉(だんざぶろうむじな)と呼ばれることもある。どんな病気も治すご利益があると言われる一方で、祟りをもたらす心霊スポットとしても一部では有名である。鳥居をくぐっている間、絶対に振り返ってはいけないらしい(眉唾)。
伏見稲荷のように、多くの鳥居が奉納されているタイプの神社だが草木の深く生い茂る山中にあって若干朽ちかけているため、「何か出そう」的な雰囲気がものすごくある。
「団三郎狸」は、淡路島の芝右衛門狸、香川県の屋島の禿狸と並び日本三名狸に数えられている。滝沢馬琴の『燕石雑志』をはじめ多くの記述・記録・伝承が残されており、「何もない空間に壁を作る」「木の葉をお金に変える」「幻覚を見せる」「人間に化ける」「100以上の神霊を従える」といった様々な怪異を見せる、非常に強力で多芸多才な妖怪である。一方で貧しい者にお金を貸す(借りパクする人間が続出したので後にやめたらしい(『燕石雑志』))といった善行を働くこともあったため、次第に人々の信仰を集めるようにもなった。また、「狐を騙して草履(ぞうり)に化けさせ、海に投げ捨てた」「狐を騙して大名行列に無礼を働かせ、斬首に追い込んだ」などといった頭脳プレイによって佐渡から狐を追い出し、狸の覇権を確保したとも言われる。また民俗学的にルーツを見た場合、「団三郎」は実在した人間が神格化されたものであるという説もある。団三郎は狸の養殖と皮の加工販売で財をなした人物で、その人柄が敬われ、商売道具の狸と習合されて祀られるようになったという。
東方projectにおいては「佐渡の二ツ岩」のテーマ曲を持つ二ツ岩マミゾウが登場する。『東方神霊廟』おまけテキスト中に「人を騙した」「貧しい人にお金を貸した」「幻想郷に入ってきた際に狐と一悶着起こした」とあることから、上述の団三郎狸にほぼ比定できる存在として描写されていると言えよう。また『東方鈴奈庵』において「木の葉をお金に変える」「人間に化ける」といった怪異を見せ、『東方鈴奈庵』『東方心綺楼』中では同じイヌ科の幽谷響子に頼られたり化狸を傘下に収めたり付喪神を増やして使役していることなどから、非常に強力で懐の深い妖怪として描写されていることもわかる。また、平安末期に妖異を轟かせ、その後退治されて地底に幽閉されたはず(東方星蓮船会話より)の封獣ぬえと親交を持っていることから、その年齢は少なくとも950歳以上ではないかと推測される。団三郎狸に関する文書や記載は古いものでも江戸時代までしか遡ることができないため、「これ以前に何をしていたのか」というのは色々と想像して楽しいところだろう。あるいは、実際の団三郎狸に比定した場合マミゾウはまだ400歳程度(永遠に幼い紅い月の人とその妹さんより若い)で、なんらかの方法で地底にいるぬえと親交をもっていたと考えることもできるだろう。
最終更新:2015年05月09日 06:59