関係あるとみられるもの

河城にとり(東方風神録ほか)
純狐(東方紺珠伝)

住所

佐賀県伊万里市山代町楠久312 松浦鉄道「楠久駅」より徒歩5分

松浦一酒造(まつうらいちしゅぞう)

※レトロスペクティブ伊万里

 伊万里焼(いまりやき)で有名な、佐賀県伊万里市に本拠を構える酒蔵メーカー。正徳6年(西暦1716年)の創業と伝えられている。はるか昔から交易で栄えた伊万里湾のほど近く海辺の町なみにたたずみ、外観を構成する白壁の塀、土蔵造りの建物、赤レンガの大きな煙突などが、降りつもった時間を今に伝えている。そのまま幻想郷にあってもおかしくないような雰囲気である。

 松浦一酒造では、年間300石(1石は180リットル。一升瓶100本分。)ほどのお酒が生産されるという。九州随一の名水ともうたわれる「有田泉山白磁泉」と磨き抜かれた酒米を原料に用い、経験豊かな杜氏のもと「搾り」以外の工程をほぼすべて手作業で醸造する。丁寧に造り上げられたお酒は、フルーツのような香りと深い甘みのある味わいを兼ね備える(青ラベル)。一方お値段は良心的で、コストパフォーマンスに優れた良酒と言える。ただし、醸造されるお酒の9割は地元で消費されているため、全国的に名前の売れたブランドというわけではない。松浦一酒造の名には「松浦地方で一番になりたい」という創業者の願いが込められているため、全国に販路を拡大することよりも地元でしたたかに愛されることの方が、松浦一酒造の矜持に近いのかもしれない。ちなみに松浦地方とは江戸時代「肥前国」と呼ばれていた国の北西部を言い、東は現在の佐賀県伊万里市、唐津市から西は長崎県の佐世保市、平戸市さらには離島の五島市などにまたがる地域をいう。地元と言ってもかなり広い。

 松浦一酒造の酒蔵(さかぐら)は観光用に開放されており、営業時間内であれば酒屋のような感覚で出入りできるようになっている。社屋からやや離れた所には広い駐車場も用意されており、観光バスで集団客がやってくることもあるらしい。酒蔵の内部では同社で醸造されたお酒がずらりと販売されているほか、有料で試飲を行うことが出来る。また、物販スペースを取り囲むようにして壁際に、昭和30年代まで使用されていた酒つくりの道具や昔の農機具などが200点余り並べられているほか、かっぱのミイラも展示されており、自由に見学することができる。

もう一度言うが、かっぱのミイラなどが展示されており、自由に見学することができる。



【注意!】この先かっぱのミイラの写真があります。極度に心臓の弱い方はご注意ください























※かわいいかもー(霊マリ並感)

 失礼を重ね重ね承知で言えば、松浦一酒造はこの「かっぱのミイラ」によって、日本酒クラスターの間でよりもオカルトクラスターの間で広く名が知られている(お酒も本当においしいですけど)。世に「かっぱのミイラ」とされるものは、松浦一酒造にあるもの一つに限らず全国に点在し、骨格の標本とされるものや体の一部だけのミイラ(福岡県久留米市北野天満宮にある「河童の片腕」など)まで含めれば、その数は相当なものになると考えられる。その中でも松浦一酒造の「かっぱのミイラ」は自由に見学可能というオープンさもあいまって、世間で最もよく知られた「かっぱのミイラ」だと言っても過言ではない。「松浦一酒造のかっぱのミイラだけはガチ」と主張される方も(本当に)いらっしゃる。その根拠はよくわからんけど。

 ちなみにこれら「かっぱのミイラ」とされるものの多くは、残念ながら江戸時代に人間の手によって造られた人工物である。江戸時代ー様々な病巣を抱えつつも、なんやかんやで250年以上も続いたパックス・トクガワーナ(太平)の時代は、人々に生産力の改善と社会の安定をもたらした。結果各社会階層で生活が向上し、「余暇」が産まれた。余暇の時間は、現代でもそうであるように、生産性を追求しない活動=娯楽へと費やされた。何を娯楽とするのかは勿論人によっても時代によっても変わったが、時々、大衆の興味が幽霊や妖怪へと一斉に偏重した。つまり、「オカルトブーム」が起こった。オカルトブームの時期には、特別なニーズとして「妖怪の姿を見てみたい!会ってみたい!」という人々の欲求が高まった。このニーズに応えるべく、各時代の造形師や人形師らは、動物の死骸や骨、皮あるいは植物などをつなぎ合わせ、しばしば「かっぱのミイラ」などの妖怪を"作った"。こうして作られた「かっぱのミイラ」などは、見世物や信仰対象などの商売道具として活用されることもあったし、特に生活に余裕のある層の間で「模型」や「フィギュア」のように、自宅に置いて客人を喜ばせたり、家族で見て楽しむための具にされることもあった。「かっぱのミイラ」の創作には、くちばしのついた生き物(例えばフクロウ)や水かきのついた生き物(例えばニホンカワウソ)などが素材として特に使用された。「するどいくちばし」「水かき」「甲羅」「頭の皿」「落ち武者のような髪」など、幻獣「河童」の想像イメージは、江戸時代にはほぼ固まりつつあったから、それに迎合することが求められたのである。

 そこで改めて松浦一酒造の「かっぱのミイラ」を見てみると、頭上に皿は無く、また髪も生えていない。しかし一方で水かきを持つ、甲羅のように16個の背骨が突出しているなど良く知られた河童の要素を具備している所もある。この「期待に応え過ぎず、しかし裏切らず」のにくいほどに微妙な距離感は、松浦一酒造のかっぱがまだ幻獣「河童」のイメージが固まる前に作られたことを暗示しているのか、想像上の「かっぱ像」をつきはなすことにより逆にリアリティをもたせるという高度な演出なのか、造形師が勉強不足だったのか、松浦地方ではこれが一般的なかっぱイメージだったのか、あるいは本当にホンモノなのか、本当にホンモノを模して作られたものなのか、憶測は無限にふくらむところである。果たして、松浦一酒造の「かっぱのミイラ」がホンモノかどうかはさておいても、古今人々の好奇と精神活動を湧き立たせるものとして文化的な価値があることは疑いないように思われる。なお、持ち主の方々も先祖から受け継がれたものだから大事にしようと考えており、「ホンモノかどうか」にはほとんどこだわっていないようである。素敵な姿勢だと思う。


※我らに馴染み深いかっぱ、河城にとりさんが(リュックごと)干物になってしまった姿。


※なんら接点が無いはずの両者が、なぜか非常によく似ている。かっぱが実在していることを裏付けているのではないだろうか。


松浦一酒造の河伯伝説

 いつの頃からかはわからないが、松浦一酒造の蔵元(オーナー)である田尻家には、当主から当主へと語り継がれる奇妙な伝説があった。それは、「我が家には何か珍しいものがある」という、ただそれだけのものだった。一体何が、どういう謂(いわ)れで蔵元の家にあるのかはとうに消え失せ、ただ「何かがある」という極めて茫漠(ぼうばく)とした話だけが、長い年月をかけて脈々と継承されていた。

 創業より250年余りの歳月が流れ、17代目の当主が就任して、まだ若かりし昭和28年のこと。当主一家とともにあまたの星霜を重ねて来た母屋(おもや)の屋根の傷みがついに激しくなったため、大工を呼んで屋根がえを行うことになった。屋根がえの最中、工事を請け負った大工の棟梁が埃(ほこり)にまみれた黒い箱をもって降りて来た。棟梁は当主に箱を見せると、「梁(はり)の上にこんなものがくくりつけてありました。」と言った。差し出された箱は、随分と年季が入ってボロボロになっていたが、とても丁寧に紐でくくられていた。怪訝に思った当主が紐を解き、箱の蓋を開けてみると、中に入っていたのはなんと、生き物のミイラだった。体長は70センチにも満たないほど小柄で、手足も細かったが、胴体や間接から見て、二足歩行をする何かのように見えた。ただしそれは、当主の知るいかな地上の生物とも似ても似つかないものだった。頭がくぼみ、5本指の前足(手)と3本指の後ろ足をもち、指と指の間には水かきがついた姿は、「異形」と呼ぶべきものだった。

 当然ながら当主らはびっくり仰天した。このミイラが一体何もんなのか、手がかりを求めて箱のほこりを払ってみた。すると箱に、“河伯”という文字が書かれていることがわかった。この「河伯」という文字が“カッパ” を意味するということはすぐにわかったが、それ以上の手がかりは何も見つからず、ついに詳細を得ることはできなかった。そこで当主は田尻家の歴史を振り返ってみることにした。田尻家はもともと、筑後国(現在の福岡県南部)の田尻村に勢力を置く豪族で、「筑後のオオカミ」というちょっと恥ずかしめの二つ名で呼ばれるほど武勇に優れた一族だったらしい。戦国の世になると肥前の竜造寺氏や豊後の大友氏と争い、最終的には竜造寺氏の配下から力をつけた鍋島氏に従った。その後は鍋島氏より肥前国下松浦郡山代村(現在の伊万里市山代町。松浦一酒造が現在建っている場所一帯。)に所領1650町歩を与えられ、定住したという(wiki様見たけどたぶん田尻鑑種らを輩出した大蔵氏系田尻氏を祖としているんだと思われる)。田尻一族が松浦に移住する前に勢力を張っていたとされる「筑後の田尻村」は、飯江川(はえがわ)の流域にあったとされ、この飯江川は筑後川と並んで河童にまつわる多くの伝説を残す川である。よって、母屋の梁にあったこのかっぱのミイラは、元々田尻村で採取されたものを松浦に移住する時に持参したのではないかと考えるようになった。そして「このかっぱのミイラこそが祖先から言い伝えられていたものに違いない。」「長きにわたって松浦一酒造が栄え、子孫が続いたのは、かっぱが家と蔵を守ってくださっていたからだったのだ」と思い至った。そこで当主は神棚をこしらえ、「かっぱは水辺に棲む」という一般的な伝説にちなんで水神様としてお祭りすることにした。この時よりかっぱのミイラは酒蔵の一角に鎮座し、日本酒の命とも言える水を清めるご利益と、なぜか子だくさんのご利益をもたらすご神体として大いに畏敬を集め続けている。

※わちゃわちゃしている。


河伯と河童

 以上のような経緯で松浦一酒造の酒蔵にお祀りされることとなったかっぱであるが、話の信憑性よりも先に気になるのは箱に書かれていた「河伯」という字である。当主はこの「河伯」を妖怪の河童(かっぱ)のことだとただちに読み解いている。確かに「河伯」はかっぱの当て字として通用しており、箱書きがなされた時代が不明のままでも、「かっぱ」を現す意味で書かれたことは想像に難くない。しかし、歴史を起源にまで遡ってみると、「河伯」という語には一義的でない難しさがある。

 そもそも、本来「河伯」は「かはく」と読み、道教や中国神話上で「黄河に棲んでいる」と考えられている神さまである。「川を司る程度の能力」を持つとされ、河川の氾濫や豪雨によって人々に豊作と飢饉をもたらす。ポロロッカもお手の物だろう(多分だけどな)。河伯信仰の歴史はとてつもなく古く、今から3000年以上も前の殷王朝の時代には、河伯を崇める祭祀が行われていたことがわかっている。祭祀にあたっては主に牛がいけにえささげられたが、その後時代によっては人間の生きた巫女を花嫁として飾り立て、ベッドに寝かせた状態で川に沈めていたこともあるというからむごい。中国神話上では、「河伯」は元々冰夷(ひょうい)という名の人間の男だったが、黄河を渡る途中で溺死したところを天帝から啓示がくだり、川を治める神になったと伝えられる。一方道教では、冰夷(ひょうい)が河のほとりで仙薬を飲み、神仙「河伯」となったのだという。河伯は主に普通の人間と変わらない姿をしているとされるが、頭が人間で体は魚という姿だと言われることもある。明の時代以降は龍の一種と考えられることもある。黄河の支流である洛水を擬人化した女神の「洛嬪(らくひん)」を妻とするが、「洛嬪」に横恋慕した「后羿(こうげい)」によって左目を射抜かれた。なお「后羿(こうげい)」は東方紺珠伝6ボス「純狐」の夫とされる神である。まあドロドロしている。色々と。

 この「河伯」は、6~7世紀頃に道教が伝わった当初から日本でも存在を知られるようになった。それだけ神格が高かったということだろう。雨に関する重要な恩恵と災害をもたらす神として崇められ、日本古来の川神信仰と道教とが結びついた祭礼がとりもたれていた。その際にはやはり、牛がいけにえとして捧げられていたらしい。すなわち「河伯」は、わりと早期に、正しく日本に輸入された神でもあった。

 ところがその後「河伯」は、次第にあの赤かったり青かったりする、相撲と尻児玉とイタズラが大好きな妖怪「河童」へと変貌、同一化していく。どうしてこうなったのかはもう諸説がありすぎて、詳しく知りたいなら自分でググレカスとしか言いようがないってレベルである。ただいずれの説においても多いのは、妖怪「河童」のイメージは「河伯」単体がモデルとなったわけではなく、「他の何か(神、民俗、妖怪、幽霊、実在する動物、想像上の動物など)」がエッセンスとして吸収されたことによって誕生したのではないかと考えるパターンである。中でも妖怪「河童」の性格と姿に多大な影響を及ぼしたものとして、「河伯」と同様に中国大陸からやってきて、川辺に住み、製鉄業などの高度な専門職に従事していた渡来人の存在を挙げる説は幅広く、そして根強い。

 東方projectにおいて、妖怪「かっぱ」は、先端技術を好み、独立心が強く、臆病で、やや卑屈で、協調性に欠け、どこか人間を見下し、「関わるな」と言い、そのくせ何かとちょっかいを出してきて、一方的に人間を盟友とも呼ぶ妖怪集団として登場する。『東方茨歌仙』や『東方鈴奈庵』などの複数話でメインテーマにからんで、ちょくちょく登場してはあまり悪気のないトラブルを巻き起こす。原作者的にもお気に入りのキャラクターなのかもしれない。こうした幻想郷のかっぱ達の特性や性格、あるいはそれを見つめる里の人間や妖怪たちのまなざしは、今から約1,500年前に「渡来人」たちを見つめていた当時の日本人のまなざしをなぞるものとして設計されているのかもしれない。
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最終更新:2015年11月03日 19:15