関係あるとみられるもの

本居小鈴(東方鈴奈庵)

住所

本居宣長ノ宮  (三重県松阪市殿町1533-3 JR紀勢本線・名松線、近鉄の山田線「松阪駅」 徒歩15分 )
本居宣長記念館 (三重県松阪市殿町1536-7 JR紀勢本線・名松線、近鉄の山田線「松阪駅」 徒歩15分 )
鈴屋(すずのや)(同上)

本居宣長ノ宮




古事記の判読に後半生を捧げ、日本の明治維新に多大な影響を与えた国学者「本居宣長」及び宣長を私淑した神学者「平田篤胤」を祀る神社。

本殿に祀られる本居宣長は、江戸時代中期に松坂(現松阪市の旧名)で診療所を営みながら和歌の創作や古典研究を行った人物、つまり本職は医者である。
賀茂真淵に触発され、30歳を過ぎた頃より古事記の研究を開始。以後35年の歳月を費やして『古事記伝』を世に送り出した。

宣長の功績を顕彰し、明治8年に本居宣長の奥墓そばに「山室山神社」が建てられた。これが本居宣長を祀る最古の神社である。
その後「山室山神社」は参道の拡大のために市街地へ移築され、さらに大正期には現在地の四五百の森へと遷座された。
また社号についても昭和6年に「山室山神社」から「本居神社」に改められ、平成7年には「本居宣長ノ宮」へと改められた。

本居宣長を神として祀ろうという動きは、宣長の死後直後から存在していた。
実際にそれが最初に実現したものこそ「山室山神社」であるが、その発起人となったのは川口常文という神職だった。宣長の血縁関係者ではない。
つまり本居宣長ノ宮は祖霊を祀る血縁団体によってでなく、宣長及び篤胤に対する人々の奉賛によって経営されている氏子のいないお宮である。
全国的に見ても非常に珍しいケースと言える。

なお、「本居宣長ノ宮」の隣には「松阪神社」という全く別の神社がある(松阪神社の方が古いので、正しくは松阪神社の隣に本居宣長ノ宮がある)。
松阪神社は延喜式神名帳(927年)に記された「伊勢国飯高郡意悲神社」の後裔社とされ、かつての国司である飯高氏からも産土神として崇敬されていた。
その後時代が下ると八幡神やお稲荷さん、小彦名(スクナビコナ)らも合祀されるようになり、現代ではご利益豊かな神さまが寿司づめ状態となっている。
なお、本居宣長ノ宮と松阪神社を連絡する参道上には大きな岩が3つ並べて置かれていることから、ひょっとしたらこれが結界を表しているのかもしれない。

本居宣長記念館

本居宣長ノ宮のほぼ正面、松坂城址内の一角に建てられた資料館。1970年11月開館。
本居宣長の幼少期からの著作、蔵書、遺品や門人の著書や書簡を中心に16,000点あまりが収蔵されており、
うち467種1,949点が国の重要文化財に指定されている。
年4回展示替えを行っているので、その全てを見たいと思うモトオリストは松阪市に移住しましょう。

なお、本居宣長の死後、宣長の家系は松坂の家を継いだ宣長の実子「春庭」の系譜と、
和歌山に移住した宣長の養子「太平」の系譜へと別れる(「新版 本居宣長の不思議」)。
春庭及び太平は宣長の研究を受け継いでいるため、前者を松坂学統、後者を和歌山学統と呼ぶこともある。
これら2系譜については代を変え連綿と続いており、その子孫が現在でも生きている。

現在収蔵されているものの多くは、松坂又は和歌山のいずれかから寄贈を受けた品々である。

鈴屋(すずのや)




本居宣長が12歳から72歳で没するまで住んでいた家。元々は三重県松阪市魚町にあったが、
明治時代、宣長から数えて5代目清造の時期に文化財として松阪城址に移築された。
本居宣長記念館より50メートルほど城址よりに移築されている別棟であり、記念館の入場券を購入すると、
鈴屋(すずのや)の内部を見学することができる。
間取りはごく一般的な商家の通りであり、店の間6畳、主人と客人の昇降口6畳、奥の間6畳、仏間4畳、奥座敷8畳、下男の部屋3畳、
4畳半の屋根裏部屋、奥に台所と五右衛門風呂、厠があつらえられ、10畳分程度の中庭もある。広くはない。
なお、宣長53歳の頃、それまで物置として使っていた4畳半の屋根裏部屋を改装し、あらたに書斎としてリフォームしている。
以後宣長はこの4畳半のスペースに12の本棚を置き、古事記の研究に没頭したと言う。
鈴屋のうち、自由に見学できるよう(有料)解放されているのは一階部分のみであり、屋根裏の書斎に登ることは禁止されている。
しかし、外から屋根裏の様子が覗き込めるよう高台が設置され、日中は解放されている。



東方projectにおいては、「東方鈴奈庵」の主人公として本居小鈴が登場するが、
小鈴一家が住居兼貸本屋として居住する建物、あるいは貸本屋の屋号が鈴奈庵と呼ばれている。
この「鈴奈庵」は、上述の「鈴屋(すずのや)」と語感が似ており、かつ居住者も本居姓であることから、
作品の創生にあたって着想のヒントを得た可能性が高いと考えられる。
仮にそうであった場合、「鈴奈庵」の「奈」がどこから来たのかは不明であるが、
「鈴が鳴る庵」→「鈴鳴庵」が転じたとかそんな感じかも知れない。「奈」自体があまり名詞・動詞的意味がある語ではないように思われる。
(もっとも八坂神奈子の一字にも「奈」の字は使用されているので、特別な意味が見出されているのかもしれないが。)
また「庵」については、記念館の付近に本居庵というとろろのおいしい自然食の店があるので、
そのあたりからインスピレーションを受けているのかもしれない。根拠など無い。

余談―本居小鈴は本居宣長の縁者なのか?―

東方projectに登場する「本居小鈴」と実在の「本居宣長」は、同一の姓であることからしても、
何かしらの縁者として設定されているのではないかと推測することができる。
以下、いくつかの類似点等について比較列記する。

①宣長は鈴の音色を非常に好んだ。「鈴屋(すずのや)」の屋号もそれにちなむ。一方、小鈴が鈴の音を好む描写は無いが、髪飾りに鈴を用いている。
②宣長は屋根裏の書斎で寝起きしていた。一方、小鈴も屋根裏部屋で寝起きしていることが判明している(「東方鈴奈庵第3巻第14話」)。
③宣長は30余年をかけて古事記を研究し、彼の解釈を注釈本にまとめあげた。一方、小鈴もあらゆる文字を判読する特殊能力を持っている。
 ただし、宣長は霊感によってではなく、異本との校合など地道な作業によって研究を進めており、冒頭700字の研究に3年半をも費やしている。
 研究にあたって宣長が秀でていたものは、異常なまでの几帳面さと、寺で聞いた講談を帰宅後にほぼ完璧に書き起こすほどの卓越した記憶力であり、
 その能力はむしろ稗田阿求に通ずるものである。
④宣長の興味は古典研究に留まらず、和歌や旅行にも及んだ。一方、小鈴はこれまでビブロフィリアと呼ばれるまでに本(特に妖魔本)へ愛着を示す一方、
 それ以外の趣味が示されたことは無い。強いて言うならば店頭に蓄音器が備えられていることから、音楽鑑賞を趣味としているのかもしれない。
⑤宣長の本職は医者であり、古典研究は終業後の夜間に行っていた。一方、小鈴は貸本業を生業とし就業中外を問わず読書に没頭しているようである。

以上のように宣長と小鈴は多くの共通項を持つ一方で、かえってかけ離れた側面も持ち合わせていることから、
豊聡耳神子稗田阿求聖白蓮のように、単純に実在人物に比定されるものでないことは明らかだろう。

では、本居宣長の子孫筋のいずれかにあたるのかと言えば、正直これも疑わしい所がある。
本居宣長記念館の項に著したとおり、本居宣長の系譜は現在まで受け継がれているが、
宣長の子らのうち男性は養子を含めて春庭(実子。鈴屋を継承)、春村(養子)、太平(養子)の3名がいたことが分かっている。
また、宣長の子のうち女性は飛騨、美濃、能登の3名がいたが、いずれも嫁いでいるので後に姓が「本居」ではなくなっている。
以上のうち春庭の家系は松坂学統、大平の家系は和歌山学統として現代まで継続していることから、小鈴を宣長の子孫と考えるとするならば、
幻想郷の成立した1880年代ごろまでにおいて該当する範囲では、宣長の男子のうち残る一人、春村(養子)の血筋と捉えるほかは無いように思われる。
春村の系譜については春村の子である春重(生没年例不詳)を最後に以後調べることができなかったため、真相は定かとはならなかった(なるわけがない)。

しかし、全く逆に小鈴と宣長が共通の祖先を持つという考え方もできなくはないかも知れない。
すなわち、宣長が現れる以前の本居一族の血脈をひいた存在が小鈴の一族であり、もののはずみで幻想郷に住むようになったという考え方である。
宣長と小鈴の系譜を遡上した先にいらっしゃる共通のご先祖様から「霊感」について小鈴が、「明晰な頭脳と情熱」について宣長が、
鈴への愛着と読書への渇望について二人ともが継承し発現したと考えることもできるのである。根拠は全くないけど。

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最終更新:2019年09月17日 01:42