庭師、走る!
始まりは妖怪アパートの廊下での、この一言だったね。
「蒼星石、たまには何か食べにでも行くってのはどーです?」
「え……」
ああ、翠星石。僕は固まってしまったよ。なぜかって?君が誰かを外食に誘える程、生活に余裕が無い事を僕は知っていたからさ。
そんな訳で僕は君に尋ねたんだ。
「翠星石、今月の家賃も払えないのに外食だなんて、どういうつもりなんだい?」
思わず強い口調になってしまったよ。家賃の徴収がすっかり板についてしまったらしい。
語気を強めた事を悔いた僕をよそに、君は動じない。何がそうさせたのか、この時の僕には知る由もなかった。
「まあ、翠星石の気が乗らないのなら、無理にとは言わないですが」
君は軽く流すと君のマスターである、子泣きのお爺さんの部屋の方に行こうとした。けど何歩か歩くと君は立ち止まった。そして僕の方に振り返って、こう言ったんだ。
「あ そうです、溜まってるおじじの家賃の事ですが、近い内にまとめて返してやると、おばばに伝えておいて欲しいのです」
君の言葉に僕は自分の耳を疑った。だって数百年分だよ?そんな急に返す当てが出来るとは思えないもの。
「そういう事ですから、よろしく頼むですよ蒼星石」
あっけにとられる僕にそう言うと、君は部屋に戻っていったっけ。今にして思えば、君は上機嫌で足取りも軽やかだったよね…。
きっとあの時、もっと君を追及していれば、あんな事にはならなかったのかも知れない。
あんな事には…
「はい、翠星石がそう言ってましたよ」
「あの酔っ払いが家賃を払うだって? はん! 全く持ってあり得んわな」
蒼星石のありのままの報告に対して、砂掛け婆は至極当然な反応を示す。
当然だ。数百年の滞納である。誰が信じられようか。報告している本人でさえ言っていて空々しいのだから。
「それで?その返す当てってのは一体何なんだい?」
一応程度に蒼星石に尋ねる砂掛け婆。その語調からは一分の期待も感じられない。
「それが分からないんです。僕が特に尋ねた訳じゃないという事もあるんですけど」
「ふん。どうせ返す当てなんか無いんだよ」
砂掛け婆は特に呆れたりがっかりした様子も見せなかった。期待していないのだから当然だ。
「ただ…」蒼星石が続ける。
「翠星石が上機嫌だったのがちょっと気になりましたけど…」
蒼星石の追加報告が多少意外だったのか、砂掛け婆は一瞬表情を変えるものの、すぐにいつもの厳しい表情に戻る。
「どうせ道端で金でも拾ったのさ。期待するだけ無駄に決まっておるわ。いつもの事じゃよ」
蒼星石も苦笑いを浮かべて頷く。確かに過大な期待を抱かない方が、精神安定上宜しいに違いない。マスターの数百年の経験に基づいての結論である事は明らかだ。
もっとも、蒼星石は期待値こそ砂掛け婆と大差ないものの、不安に関しては大きく上回っていた。
その日の夕方。
蒼星石は砂掛け婆家の夕飯の支度を手伝っていた。砂掛け婆家の食卓はかなり質素である。
蒼星石も特に不満がある訳でもないし、そういった事に理解があるので別に問題無いが、これが雛苺あたりだとどうなっていた事だろう。
もっとも、妖怪横丁に来てからのドール達の食に関する困窮振りを考えれば、却って羨ましがれるかも知れない。
蒼星石がちゃぶ台に食器を並べ終わり、ふと、外を見ると、どこかに出かける翠星石と子泣き爺が目に入った。
どこかに出かけるのかな。…そう言えば、最近割と夜に外出する事が多い気がするけど…。
…“朝帰り”…という一言が頭をよぎる。
「…な、何を考えてるんだ、僕は…」
あらぬ想像に悶絶する蒼星石。はたから見るとなかなかに不審者だ。
「何しとるんじゃ…蒼星石…」
砂掛け婆はやや呆れた表情である。
「え、あ…あははは。何でも無いですマスター。さあ、食べましょうか」
子泣き爺と翠星石がどこへ行くのか、気にはなったものの、これと言って何か確信がある訳でもない。
漠然とした不安は拭えないが、蒼星石はこれ以上深入りしない事にした。
…断じて深入りするのが怖い訳ではない。…多分。
それから数日後、鬼太郎ハウスにて。
その日は翠星石と蒼星石が遊びに来ていた。翠星石は真紅や雛苺とだべり、蒼星石は目玉親父と将棋を指す。
以前は目玉親父の将棋の主な相手といえば子泣き爺だったが、最近では蒼星石が相手をする事が増えた。
「最近、子泣き爺の奴は付き合いが悪いのう。奴と最後に将棋を指したのはいつじゃったか…」
目玉親父が愚痴を漏らす。どうやら戦局は目玉親父に不利なようだ。蒼星石が相手をするようになってからというもの、目玉親父の戦績は連戦連敗である。
酒の勢いに任せた将棋を指す子泣きに比べて
蒼星石は理詰めで指してくる為に手強い。余りに勝てない勝負は面白くないものだ。
「こら、目玉のおじじ!翠星石のマスターをあんまり悪く言うなですぅ」
真紅達と話していた翠星石が目玉親父の愚痴に釘を刺す。その行動に一同は少々驚いた。
何故なら今まで翠星石の口からは、マスターに対する愚痴こそ数あれど、擁護する発言など皆無に等しかったからだ。
「貴女がマスターを庇うなんて珍しい事もあるものなのだわ」
真紅が皆の驚きを代表した形で言葉にする。
「べ、別にぃ。あんな酔っ払いの甲斐性無しでも、一応この翠星石のマスターですからね」
指摘されての照れ隠しの毒舌は、さすが翠星石となぜか安心してしまう一同。知ってか知らずか翠星石は続ける。
「あ、そろそろ翠星石は帰るです。ご馳走様ですぅ」
「帰るって、さっき来たばっかりじゃないか」
鬼太郎が驚く。
「今日はいつもより始まるのが…あ、いや、何でもないです」
翠星石は何か途中まで言いかけると慌てて訂正した。
「とにかく!これから用事があるですよ。おじじと出かけますです。さらば、ですぅ」
そう言い残して翠星石は早々に鬼太郎ハウスを後にした。あっけに取られる残された面々であった。
「…変だ」今日の翠星石に対する満場一致の印象を最初に口に出したのは鬼太郎であった。と同時に堰を切ったように騒がしくなる。
「翠星石の奴、どういう風の吹き回しじゃ?」
「雨…いえ、雪でも降るかも知れないのだわ」
「翠星石がお爺さんと仲良しになるなんて、ヒナ、びっくりしたのよね」
それはもう、好き勝手に喋る。一通り喋り終わると今度は蒼星石に視線が集まりだした。
「あの…僕にも何が何やら…」蒼星石は生真面目にうつむく。
「ふむ、そうか。…まぁ翠星石も成長したということじゃろう」
と、目玉親父がまとめかけたが、「はあ…だといいんですけど…」蒼星石は納得出来ない。
「何か気掛かりでもあるの?蒼星石」
その様子を見て真紅が言う。蒼星石は少々考え込んでから口を開いた。
「うん…関係あるかどうかは分からないけど、最近翠星石と子泣きのお爺さんが夜、二人で出掛けるんだ」
「何と、夜に二人っきりとな…」
「それは確かに怪しいのだわ」
蒼星石の話に、普段は余りやじ馬的な事を好まない真紅と目玉親父も多少の好奇心を刺激されたようだ。蒼星石はそれを制するように続けた。
「あ、いや、別に何かあると決まった訳じゃないから…」
(ふぅ…なんだか居心地が悪くなってしまったなぁ…)蒼星石は姉を少々恨めしく思った。
それから間もなく翠星石の小さな謎を振りまいた、その日の庭師姉妹の鬼太郎家訪問劇は幕を閉じたのだった。
妖怪アパートへの帰り道。道といっても鞄に乗り、空中を飛んでいるのだが。蒼星石は鞄をある程度開け、眼下に流れる風景を眺めつつ、姉の変わり振りについて考えていた。
何かにつけてマスターの愚痴をこぼしていた翠星石である。今の態度に違和感を持つなという方が無理というものだ。それは鬼太郎ハウスの面々も同様に。
では、翠星石と子泣き爺の間に何があったのか? ここで蒼星石の頭の中に様々な想像が溢れだす。
朝帰り…は置いておくとして、さて…
二人で協力して強敵を退け友情が芽生えた…?
…一番ありそうな線ではあるが、そういった話は風の噂にも聞かない。
子泣き爺の浪費癖が治ったのだろうか?
…いやいや、酒屋の酒は今でも子泣き爺に買い占められているとか… …本当だろうか?
単純に翠星石が成長し、人間(?)が出来て角が取れたのかも知れない。
…双子の妹が思うのも何だが、そんな翠星石は想像もつかない。と言うか気持ち悪いので却下。
…まさか、子泣き爺に何か弱みでも握られて、逆らえないのでは…
…何を考えているのだろうと、自分で呆れる。気が付けば腕を組み、しかめっ面でブツブツ呟いていた。
「コホン!」別に誰かに見られていた訳でもないのに、反射的に咳払いをして腕組みを解く蒼星石。
はあ…下らない事考えてないで早く帰ろう。夕飯の支度を手伝わないといけないし。
蒼星石は飛行速度を上げ、帰路を急いだ。
「ただいま、マスター」帰宅した蒼星石を出迎えたのは、目に涙を浮かべた砂掛け婆だった。
「えっ!…マスター!?」
「…ああ…蒼星石か……お帰り…」
砂掛け婆は返事をするのもやっと、といった様子である。慌てて蒼星石は砂掛け婆の元へ駆け寄った。
「どうしたんですか、マスター!?」
「う…蒼星石…、……子泣きが…子泣きの奴が……」
蒼星石の胸の鼓動が一気に加速する。蒼星石はその嫌な感覚を必死に抑えつつ、何とか真相を聞き出そうとする。
「子泣きの…お爺さんがどうしたんですか…? 何かあったんですか!? …まさか…」
「…その…まさかじゃよ…」
「…え……そん…な…」蒼星石は絶句する。
砂掛け婆は両手を蒼星石の肩に掛け、がっくりうなだれた。
「わしは…わしはどうすればいいんじゃ…!」
「落ち着いてください、マスター!」
蒼星石の動揺も激しいが、それでも彼女は健気にマスターを優先して慰めようとする。
「マスター…しっかりして。そりゃ悲しいのは分かります…。ぼ、僕だって悲しいですよ…!」
蒼星石は精一杯の力を振り絞って砂掛け婆に語りかけた。砂掛け婆が応える。
「…何で悲しいんじゃ?」
突然、砂掛け婆が素っ頓狂な事を言いだす。
「何でって…悲しいに決まってるじゃないですか…! だって子泣きのお爺さんが…。翠星石だって悲しんでるに決まってますよ!」
「わしゃ嬉しくて嬉しくてたまらんのじゃが」
「はあ?」蒼星石はマスターが突然何を言い出すのかと思った。「いくらマスターでも、言って良い事と悪い事がありますよ!」
「じゃが…あやつが家賃を払ってくれるなんて初めての事で、どうしたらよいやら…。…いかん…また涙が…」
…ようやく事態が飲み込めた蒼星石であった…。
「あの…嬉し泣きだったんですか…」
呆れ果てた顔で蒼星石が言う。呆れたと言っても、ホッとしたような拍子抜けしたような、変な気分だ。
「…う…うむ…。嬉し泣きかと言われれば、まあ、嬉し泣きなんじゃろうなぁ…。何せ初めての事でな…。期待もしとらんかったし…」
砂掛け婆が余りに嬉しそうに話すのを見て、蒼星石は自分の早とちりの事はどうでもよくなった。入れ替わりに子泣き爺が家賃を払ったという事実が驚きに変わってゆく。
蒼星石が砂掛け婆の家に厄介になる遥か以前から滞納されて来た家賃。人間とは違う時間を生きて来た薔薇乙女さえも及ばない程の歴史が、そこにはあるのだ。
その悠久の時を越えて来た家賃の未払いが、遂に終止符を打ったと言うのである。その歴史的瞬間に立ち会えたのだ。これが驚かずに居られようか。
「良かったですね、マスター。僕も嬉しいです」
と、そこまで言った所で蒼星石は考えた。冷静になってみれば薔薇乙女がやって来てから数ヶ月、その時期に重なるとは単なる偶然にしては出来過ぎてる。
「マスター、子泣きのお爺さんはどうして家賃を払う事が出来たんでしょうか」
「ふぅむ…、翠星石が上手くやってくれたんじゃろうか…?」
蒼星石としても翠星石が好影響をもたらしたというのであれば、それは望外の喜びなのだが、果たして…。どうにも悪い予感がする。それは砂掛け婆も同様だった。
「最近、お爺さんと翠星石とで、どこかに出掛けて行くのが気になるけど…」
「蒼星石も気付いておったか。そうじゃ、やはりあの子泣きが家賃を払うなんておかしいわい。どうかしとったわい」
喜びから冷めた砂掛け婆の口調が段々と愚痴っぽくなる。そして蒼星石に思いがけない提案が出される。
「のう、蒼星石よ。二人がどこへ行くのか、後をつけて確かめてはくれんか」
「僕が二人を尾行するんですか…?」
砂掛け婆の提案に蒼星石は少々戸惑う。
「そうじゃ。あの二人がどこで何をしているのか、突き止めて欲しい」
「尾行か………どうしても、ですか?」
「何じゃ、嫌なのか?」
難色を示す蒼星石に砂掛け婆は意外そうにする。
「嫌というか…余り詮索するのは良くないんじゃないかと思って…」
実に蒼星石らしい答えが返って来る。しかし砂掛け婆も引き下がらない。
「お前さんの気持ちも分からんではないがな…、わしは心配なんじゃ…。まさかとは思うがこの金、何か悪い事をして稼いだものだったら…」
「何を言い出すんですかマスター。そんな事ある訳ないじゃないですか…」
話が飛躍し過ぎだと思いつつ、頭の中には子泣き爺と翠星石が肩を組んでの悪企みの図が浮かぶ。
(いーっひっひっひ。おじじもワルよのう、ですぅ!)
(うひょひょひょ! 翠星石程ではないぞい)
実に似合う光景だ。怖いくらいにしっくり来る。
「そんなベタな…」
「何ブツブツ言っとるんじゃ?」
「あ…コホン。な、何でもないです…」
蒼星石は少々畏まってから続ける。
「ま…まあ、気になると言えば気になりますけど…」
「じゃろ?」待ってましたとばかりに砂掛け婆が言う。「今日はもう出掛けちまったから、決行は明日じゃな」
「あの…まだやるとは言っ…」
「ん? 何か言ったかい?」不気味な笑顔で優しく語り掛ける砂掛け婆。悲しいかな、そのプレッシャーに蒼星石は逆らえる訳も無く…。
「はい…。やります…」トホホ…、どうして僕はこうもお年寄りに弱いんだろ…。
砂掛け婆の言う通り、件の二人は今日はもう外出中なので、決行は明日以降に持ち越される事になった。
果たして蒼星石が見る事になるものとは? 大いなる謎と不安を感じつつ、夕飯の支度に入る蒼星石と砂掛け婆であった。
翌日。
件の二人は明け方になって帰って来たようで、蒼星石も砂掛け婆も気が付く事は無かった。気付いたのは目覚めてから彼等の在宅の気配を察知したからだ。
「マスター、どうやら二人共もう部屋の中に居るみたいですよ」
「いつの間に帰って来たんじゃ。今夜も出掛けるのかのう?」
何故かひそひそ話になる二人。気分はすっかりスパイである。実際、普通に会話した所で彼等に聞こえる訳など無いのだが。
もっとも、このアパートの壁が特に防音性に優れているという訳でも無いのも確かではある。住人達からの建て付けに関する苦情も後を絶たず、不払いの一因はそこに有るようだ。
さて、その家賃不払い同盟の実質的な筆頭である子泣き爺と翠星石は眠りについたようで、彼等の部屋は沈黙につつまれた。程無くして「ぐお~~」とイビキが響いて来る。
ああ…いくら鞄の中とは言え、翠星石も大変だなぁ…。
蒼星石がそう思ったのも束の間、翠星石の可愛いと言えば可愛い、強烈と言えば強烈なイビキも轟いて来た。
翠星石…。ドールってミーディアムに似るものなのかな…。そこは余り似て欲しくないんだけど…。
溜め息まじりに蒼星石が呆れていると、砂掛け婆が何やら風呂敷包みを持って来た。両腕で抱えたそれは一歩進む度にカチャカチャと音を立てている。
「マスター、それは何ですか?」
蒼星石が尋ねると砂掛け婆はニヤリ、と笑みを浮かべて質問に答える。
「何って決まっとるじゃろ、尾行に必要不可欠な物じゃよ。まさかそのカッコで尾行する訳にもいかんしな」
「…それってもしかして…」
蒼星石は不安を口にするが、それをよそに砂掛け婆は風呂敷の結びを解く。果たして包みから現れたのはサングラスだとかコートだとか、所謂変装道具と呼ばれる品々であった。
「あぁ…やっぱり…。これ、僕が身に付けるんですよね…。はぁ…」
「当たり前じゃろが、これさえあれば、お前さんの正体がバレる事など絶対に無いぞ」
蒼星石のささやかな抵抗も、ノリノリの砂掛け婆に儚くも一蹴されてしまった。
「あ、いや、この服装で大丈夫……ひえええ~~~………」蒼星石の泣きべそ混じりの悲鳴が響く…。
同日、夕方。
子泣き爺と翠星石の部屋が俄かに騒がしくなる。どうやら起床して出掛ける支度を始めたようだ。
並行してスパイ達の準備も仕上げに入る。と 言っても砂掛け婆が一方的に弄り回し、蒼星石はただ目を回すのみ、という構図なのは言うまでもない。
あーでもないこーでもないと、朝から休まず試行錯誤を続ける砂掛け婆の姿が眩しい。
「う~む、お前さんにはこのコートは大き過ぎるかのう? それならこっちはどうじゃ?」
「はわわわわ~~………」
次第に蒼星石強行偵察形の全体像が明らかになってゆく…。
………
「よーし、完璧じゃ!」砂掛け婆が叫ぶ。彼女がそう言うのだから完成したのだろう。少なくとも彼女としては。
続いて彼女は蒼星石の全体像を視界に収めるべく数歩下がる。蒼星石は見るも無残…もとい尾行に最適な身だしなみに変身を遂げていた。
では現時点の、換装を完了した彼女のスペックを順に紹介しよう。
まずは横丁という地理での尾行に適した和装という事で、身長の近い砂掛け婆の着物のお下がりがセレクトされた。使い古された生活感滲ませる風合いが自慢の逸品である。
その魅力の前には横幅の違いなどは余りに些細な問題であり、指摘するのは余りに野暮と言うもの。
脚部には着物との相性も良く、かつ足音の静かな足袋を装備。普段から滅多に靴を脱がない薔薇乙女とは言え、足袋の高機動性を考えれば何ら問題にならないだろう。
頭部にはボーイッシュな蒼星石をより女の子らしく、より可愛らしく演出する為のリボンがコーディネートされた。着物の帯を転用するというアイディアも素晴らしい。
敢えて欠点を上げなければならないとすると、少々大柄な事と、厚い生地の為に自立が難しく、くたっとしてしまう事くらいだ。
更に首には目標の捕捉、監視、追跡用に双眼鏡を下げた。砂掛け婆愛用の品であり、彼女の両目の間隔に合わせて作られた特注品で、顔の小さな蒼星石には片目での使用が前提となる。
最後に砂掛け婆がスパイの必須アイテムだと言うサングラスを掛けさせる。幸いと言うべきか、これは両目の間隔が蒼星石にも問題無い汎用品のようである。
特記事項を上げるとすれば、小さくて丸いレンズのタイプである事か。よく漫画やアニメで胡散臭い人物が掛けている奴だ。それが前述の装備とも相まって独特のセンスを醸し出す事に成功している。
追記。愛用の帽子の着用は、彼女の外見を蒼星石たらしめる大きな要素である為、当然見送られた。
「どうじゃ蒼星石、完璧じゃろ!?」
「すごく…いいです…」
「ほれ、鏡でしっかり見てみい!」
急かされ恐る恐る鏡に目をやる蒼星石。ようやく掴めた自身の全体像に絶句する。
…何て恰好をしているんだ僕は…。こんな姿を見たらお父様はどう思うだろう…!? お、お父様~~……!!
蒼星石は心の中で泣いた…。
と、その時、廊下から扉を開く音がした。会話も聞こえて来る。
「ほれ、おじじ、さっさとするですよ!」
「わかっとるよ。そんなに急ぐと転ぶぞ」
ドテッ…。
いよいよ外出するようだ。動向を監視する二人の緊張も高まる。と言っても砂掛け婆がワクワクしているのに対して、蒼星石は半ば死に体に等しい。
目標二人が部屋を出た事をドアの隙間から確認した砂掛け婆は、蒼星石を背にして小声で叫ぶ。
「よーし、蒼星石、出撃じゃーー!!」
こうなったらヤケだ。蒼星石は腹を括った。大きく深呼吸をすると顔を上げる。
「蒼星石、行きま~~っす!!」
掛け声も高らかに、そろりそろりとドアを開け部屋を出て行くのだった。
翠星石達がアパートの玄関を出るのを、廊下の曲がり角から見て、蒼星石も見つからないように注意しながら後を追う。
しかし玄関を出た所で蒼星石は立ち止まり、動けなくなる。途轍も無く恥ずかしいのだ。
「こんな姿、誰かに見られたらお嫁に行けない…じゃなくてアリスになれないよぅ!」
…とか何とか言っているうちに翠星石達の姿はどんどん遠のいてゆく。考えている暇は無さそうだ。勿論、この服装を脱ぎ捨てる余裕も着替えも無い。
蒼星石の頭の中に一つの結論が弾き出された。簡単な事だ。誰にも見つからなければ良い。と言うか、それしかない! 蒼星石は不退転の覚悟で任務に臨む決心をした。
一方、自分の着付けが蒼星石をそこまでの覚悟に追い込んでいるとは知る由も無い砂掛け婆は、呑気にお茶を啜っていた。
最終更新:2009年02月25日 12:17