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第6話「夕焼けの記憶」  ――三日目 AM9:25――  空を仰ぐ。  地下だというのに、澄み渡る青空がよく見える。  天井には幅数十メートルはあろうかという大穴が開いていた。  陽光は燦々と降り注ぎ、涼やかな風が吹き下りる。  ややもするとここが地下であることを忘れそうになってしまう。  そう、ここは廃棄都市区画を横切る、巨大な地下道の中だ。  見えるのは天井ではなく、地上の裏側。  遥か上方の地表から、道路の断面が垂直に切り立っている。  周囲を見渡せば、崩落した地上の構造物が瓦礫の平野を築いていた。  砕けたビルが丘を成し、横たわるハイウェイは大河のよう。  無機質な水面には亀裂の細波が広がっていた。 「ずいぶん派手にやってくれたな……」  自然に擬態した瓦礫の上で、ヴィータは憎々しげに呟いた。  バリアジャケットは砂埃に汚れてはいたが、損傷らしい損傷はない。  崩落の際に立っていた位置が良かったのだろう。  幸いにして巨大な瓦礫の下敷きになることはなかったようだ。  思い返せば、実にシンプルな一撃だった。  渾身の膂力と魔力を込め、槍を投ずる。  種も仕掛けもあったものではない。  それなのに――あるいはだからこそ、出鱈目だった。  誇張ではなく地形を変えた投擲。  地下道の老朽化が進んでいたというのも一因にあるだろう。  しかしそれを差し引いても、凄まじいと言わざるを得ない破壊力だ。  ヴィータは内心で舌打ちして、瓦礫の傾斜を滑り降りた。  盆地の底のように平らな場所に、二人の少女が並んで横たえられていた。  ヴィータは自分が駆けつける前のことをまだ把握していない。  あの槍使いが如何なる理由で新人達を襲い、如何なる戦闘が行われたのか。  可能なのは想像だけだ。  ヴィータは横たわる新人達の傍らに立った。  地面から突き出た、枯れ木のような鉄骨にもたれかかる。  二人ともまだ気を失っているらしく、四肢を力なく投げ出している。  かなりのダメージを受けていることが一目で分かった。  それでもティアナの方はまだ軽症といえるだろう。  背中に打撃を受けたような跡があるが肉体への被害は少ない。  バリアジャケットを初めとした幾重もの防御機構の恩恵だ。  衝撃で気を失ってはいるが、いずれ目を覚ますだろう。  ティアナの呼吸が安定しているのを確認して、ヴィータはスバルへ視線を移した。  スバルの身体には痛々しい打撃痕が何箇所も残されている。  バリアジャケットを纏っていながら、肉体へのダメージの浸透を許した証明だ。  それでもスバルはきっと運が良かった。  槍使い相手に打撃痕ということは、穂先による攻撃は直撃していないということ。  これで切っ先が直撃していたら、致命的な深さで肉が抉られていたはずだ。  はぁ、とヴィータは安堵の溜息をつく。  どちらも一歩間違えば確実に命はなかった。  犠牲者ゼロというのは奇跡以外の何物でもない。 「……くそっ」  ヴィータは苛立ちを押さえきれず、帽子をぎゅっと握り、深く被った。  心の中がぐちゃぐちゃだった。  一体誰を責めろというのか。  あの敵か。  無謀な戦いを挑んだ新人達か。  ギリギリまで駆けつけられなかった自分自身か。  そもそも奴は何者なのか。  アレもやはり"聖杯"と―― 「副隊長、上はどうだった?」  瓦礫の山の向こうから、赤毛の青年が姿を現した。  着衣は戦闘によって痛んでいるが、身体にはそこまで被害がなさそうだ。  崩落直後、ヴィータの次に意識を取り戻したのもあの青年だった。 「とりあえず、待ち伏せされてる様子はないな。そっちは?」 「奥はビルで塞がってた。歩いて脱出するのは難しいな」  ヴィータは腕を組み、即座に思考を切り替えた。  纏まらない考えは隅に押しやって、ここから脱する術だけを考える。  一番早いのは天井の大穴から飛んでいく方法だろう。  自分が三往復すれば全員外に連れ出せる。  問題は、奴に待ち伏せされていると一転窮地に追い込まれてしまうことだ。  人間を抱えたままでアレから逃れ切る自信はない。  撃墜されるパターンだけが何通りも思い浮かぶ。  上手くいくケースは一つも浮かんでこないというのに。  別の案として、地下道を歩いて脱出する方法もある。  しかしエミヤシロウの話を信じる限りでは、現実性の低い案と言わざるを得ない。  仮に抜け道があったとしても、そこから地上へ抜けられる保障はない。  下手をすれば死ぬまで彷徨う破目になりかねない。  最後に、最も消極的な案。  身を潜め、救助が来るのを待つ。  これも奴が下りてくれば完全に袋の鼠になってしまう。 「あー、全然駄目だ」  ネガティブに考えればきりがない。  そもそもアレが地上にいると決まったわけではないのだ。  もしかしたら既に撤退して、この近辺にはいないかもしれない。  しかしそれも所詮は希望的観測。  ヴィータは思考の袋小路に入り込んでいた。 「副隊長、何か脱出できそうな手段はあるのか?」 「それを今考えてるんだろっ!」  苛立ち紛れに、肘でエミヤシロウの鳩尾を小突く。 「――づっ!」  軽く押した程度のつもりだった。  なのに、返ってきたのは苦悶の声。  ヴィータは咄嗟にエミヤシロウの着衣を捲り上げた。 「おまえ……」  鍛えられた腹筋の少し上、左右の肋骨の間付近が、赤黒く陥没していた。  明らかに酷い傷だ。  皮膚が破れて血が噴き出す一歩手前まできてしまっている。  恐らくは、槍の石突。  ヴィータは言葉を失った。  鳩尾――つまり水月は一撃受けるだけでも昏倒しかねない急所だ。  意識を手放すまではいかずとも、呼吸困難に陥ることも充分ありうる。  バリアジャケットもなしに直撃を受けて、どうして平然としていられたのか。 「怪我してるならそう言え!」  知らず責めるような口調になる。  シャツが伸びそうになるまで握り締め、きつい眼差しでエミヤシロウを睨む。  当のエミヤシロウは、困った表情で頬を掻いていた。 「サーヴァントと戦ったのも初めてじゃないし、これくらいなら……」 「おまえが一番の重症だって言ってんだ! いいから大人しくしてやがれ!」  反論も待たず、ヴィータは瓦礫の山の頂上に飛び移った。  もう考えるのは止めにした。  上が安全かどうかはこの目で確認するのが一番確実だ。  空へと続く大穴を見上げ、飛翔するべく身を屈める。 「――あ」  急に、その動きを止めた。  そして眼下のエミヤシロウに向き直る。 「おまえ、サーヴァントって、さっきのアレのことか?」  しまった、と手で口を覆うエミヤシロウ。  その反応は肯定でしかなかった。 「アレが何なのか知ってるのか!?」 「……ああ」  ヴィータは何か大声で叫ぼうとして、口を噤んだ。  呼吸を整え、努めて冷静に問いかける。 「教えて、くれるよな。アイツのこと――"聖杯"のこと」  ――三日目 AM9:28――  薄暗い会議室の中、正面のスクリーンだけが煌々と照らし出されている。  楕円の卓を囲む男達は一様に言葉を失っていた。  瞬きも忘れ、スクリーンに映し出される"戦争"を見続ける。 「こんなことが……」  ようやく一人が声を漏らした。  高い地位を示す階級章と制服の、初老の男だ。  見渡せば彼以外にも各部署の高官が顔を並べている。  スクリーンで繰り広げられているのは、不可視の"戦争"。  あまりにも速く、あまりにも激しい剣戟。  彼らの目では残像を追うのがやっとだろう。  槍の穂先と双剣が衝突し、閃光と轟音が迸る。  これはたった2人の騎士が技を競い合う"戦争"だった。  青い騎士が、物理的な限界を超えた速度で後方へ飛び退く。  赤い騎士は一瞬の躊躇も無く剣を棄て、右腕を突き出した。  渾身の膂力を以って擲たれる魔槍。  立ちはだかる花弁の盾。  激突の瞬間、全てが砕けた。  目蓋を閉じたように映像が途切れる。  記録されている映像はここまでのようだ。 「これが、半年前に高町一等空尉が記録した映像の一部です」  暗闇の中、少女――八神はやては特徴的なイントネーションで切り出した。  高官達は目の当たりにした光景を信じきれていないのか、せわしなく目配せしあっていた。  互いに「お前が話せ」と言い合っているのが簡単に見て取れる。 「で、『それ』が何なのか、もっと詳細に説明して欲しいものだな」  不意に、恰幅の良い男の声が会議室に響いた。  地上本部防衛長官、レジアス・ゲイズ中将。  たじろぐ高官達の中で唯一、彼だけが平静を保っているようだった。  はやては他の高官を視界から外し、レジアス中将に向き直った。  今まともに話ができるのは彼だけだろう。 「詳細については私より高町空尉が詳しいと思います。なのは、後お願い」  最後だけ小声で、傍らの少女に立ち位置を譲る。  なのはは軽く呼吸を整えると、奥に立つフェイトに視線で合図を送った。  頷き、スクリーンの機器を操作するフェイト。  また新たな画面が眩い光と共に表示される。  シンプルな線だけで構成された地図だ。 「先ほどの映像は、第97管理外世界で秘密裏に行われていた魔術的儀式の一部です。  時期は今から約半年前。場所は冬木市という地方都市です」 「私の目には戦闘のように見えたが?」  レジアスが口を挟む。 「はい。あの戦闘も儀式の一環といえます」  なのははレジアスの指摘をあっさりと肯定した。  高官達がどよめく。  レジアスだけは動揺するそぶりも無く、続けるよう促した。 「儀式の目的は、すべての願いを叶える『聖杯』を手に入れることだとされています。  聖杯に選ばれた7人の魔導師が、それぞれ1人ずつの騎士を使い魔として従え、殺しあう。  それが――聖杯戦争です」  まるでコドクだな、と誰かが呟いた。 「……次の写真を」  スクリーンにミッドチルダの沿岸地域の俯瞰写真が映し出された。  会議室にどよめきが広がる。  かつては倉庫街であったであろうそこに、巨大な穴が穿たれている。  残された建造物と比較すると眩暈を起こしそうになるほどの大きさだ。  被害は穴だけではなく、周囲は無残になぎ払われているようだ。  空から強大な熱量を撃ち込まれたことによる破壊。  現場に居合わせていない者からはそう見えただろう。 「先の聖杯戦争――第5次聖杯戦争は、聖杯自体の破壊をもって終結しました。  しかしその残骸が時空犯罪者の手によって――」 「ミッドチルダに持ち込まれた、と?」  ざわつく高官達を制して、レジアスはなのはに視線を向けた。  けれど一度広がった波紋は簡単には収まらない。 「沿岸地域の地下に秘匿されていた聖杯の残骸は既に再破壊を完了しています」  なのはは声のトーンを上げた。  そうでもしなければ聞こえないほど、どよめきは大きくなりすぎていた。  動揺していた高官達が思い思いのことを口に始める。  もう終わっているなら何故我々を集めたのだ。  あの大穴は機動六課が原因なのか。  過剰な破壊は責任問題だ。  まるで、騒げば全てをなかったことにできるとでも思っているかのように。  このままでは収拾がつかなくなる。  なのはは右手を握って、すぅっと息を吸い込んだ。  突如、なのはから遠く離れた円卓の一角が弾ける。 「みなさん、ご静粛に」  暗闇の中から、よく通る女の声がした。  周囲の視線がその声の主に集まる。  赤いコートは暗い会議室の中でもはっきりと見えた。  ウェーブの掛かった長い髪に、意志の強さを表しているような瞳。  服装からして管理局の人間でないことは明らかだ。 「申し送れました。私、遠坂凛という者です」  慇懃な口調で言いながら、完璧な微笑を浮かべてみせる。  遠坂と名乗った女は、スクリーンを挟んでなのはの反対側に立った。 「トオサカ、と言ったな。君は関係者なのか?」  誰かがそう尋ねた。 「ええ。あなた方がいうところの、第97管理外世界の魔術師――  そして第5次聖杯戦争の最終的な勝者です」  どよめきすら起こらなかった。  赤いコートの女の発言は、高官達にとって衝撃的過ぎたようだ。  誰もが無言になり、次の言葉を待っている。  どうにか説明を聞かせる状況が整ってくれた。  なのはは安堵に小さく息を吐いた。 「高町さん、後は任せてもらえる?」 「うん、お願い」  なのはと入れ替わるように、遠坂凛は一歩前へ出る。  高官達を前に物怖じする様子もなく、その面々を見渡していく。 「――さて、何からお話しましょうか」  ――------ -- -:--――  夕焼けの光が眩しい。  逆光の向こうで、友達が小さな手を振っている。  ああ、もう帰らないといけない時間なんだ。  寂しいのを表に出さないように、笑顔で手を振り返す。  友達が走って帰ってしまうと、静けさが私にのし掛かってきた。  音が聞こえてこないわけじゃない。  車の音や人の会話、鳥の鳴き声はあちこちでしている。  そんな静けさではなくて。  ココロをぎゅっと鷲掴みにされるような、胸の痛くなる静けさ。  世界に音は満ちているけれど。  私に向けられている音は、一つもない。  振り返れば、私の小さな足元から、びっくりするくらいに長い影が伸びている。  さっき帰っていったトモダチは、きっとお母さんに「ただいま」と言っているんだろう。  そして「おかえりなさい」と言ってもらっているんだろう。  ナニかを堪えきれなくなって、私は走り出していた。  逃げ出したくなったのだ。  胸の奥を締め付ける、目に見えないものから。  けれど、走っても走っても、それは一向に離れてくれない。  きっと私は泣いていたんだと思う。  見れば分かるような、道路の段差にも気づかなかったから。  段差に躓いて、私は受身も取れずに転んでしまった。  顔を伏せたまま、立ち上がることもしなかった。  両方の膝がずきずき痛む。  両手の掌がじんじんする。  痛さと情けなさで、声を上げて泣きそうになる。  その時、大きな手が私の身体を持ち上げた。 『ティアナ、大丈夫か』  夕日が眩しくて、その人の顔はよく見えない。  だけど声だけで分かる。 『お兄ちゃん……』  兄さんは肩で息をしているようだった。  きっと私が転んだのを遠くで見て、大急ぎで駆けつけてくれたんだ。  私のために声をかけてくれたんだ。  泣いちゃ駄目だと頭で分かっていても、ぽろぽろ零れる滴は止められない。  兄さんは何も言わずに私を背負うと、家に向かって歩き始めた。  大きな背中は、私をしっかりと受け止めてくれる。  いつの間にかココロが楽になっていた。  あんなに強く締め付けられていた胸の奥が、嘘みたいに楽になっている。  大きくて、強くて、温かくて――  兄さんの記憶は、いつも優しい。 「……おにぃ……ちゃん」 42 :Lyricai night 第6話:2008/09/04(木) 00:48:12 ID:Ri9/2dcJ  ざくり、ざくり。  瓦礫を踏みしめる振動が、身体を伝わって鼓膜を震わせる。  どこかを歩いているんだろうか。  目蓋が重たい。  意識がぼうっとする。  ティアナは半覚醒の脳髄で、自分が眠りに落ちていたことを自覚した。  だけどそれ以上は考えられない。  ここがどこなのか、いつの間に眠ってしまっていたのか。  そんなことを気にする思考回路も働かない。  手足はまるで鉛のようで、力なく垂れ下げているのが精一杯だ。  背中が鈍く痛むのも不快だ。  こうなったら、辛いことを全部投げ出してしまおう。  意識を手放してもう一度眠ってしまえばいい。  そう思い、誰かの背中に体重を預ける。 「――え?」  誰かの、背中に。  ティアナの意識が一気に覚醒していく。  顔のすぐ横に、短い赤毛の頭がある。  両腕は肩越しに垂らしていて、両脚は何かによって支えられている。  要するに。  ティアナは誰かに背負われていた。 「ひゃあ!」  思わず、背中を押して後ろに避けようとする。  けれどそんなことができる体勢ではなく。  ティアナは脚を支えられたまま、奇妙な格好でしたたかに後頭部を打ち付けた。  衝撃が頭の中に響き渡って、意識が一瞬どこかへ飛んだ。  なんて、無様。  こんな意識の手放し方は望んでいなかったのに。 「お、起きたか」  少し先を歩いていたヴィータが足を止める。  ティアナは差し出された手を取って立ち上がった。  ヴィータの手だと思っていたそれは、やけに大きくて骨張っていた。 「えっと、大丈夫か?」  クリアになる思考回路。  目と鼻の先に衛宮士郎の顔があった。 「は、はいいっ!」  よく分からない言葉を口にしながら、思いっきり後ずさる。  不意打ちもいいとこだ。  さっきまで背負われていたんだ、とか。  変な寝言を言っていなかっただろうか、とか。  無様な格好を見せてしまった、とか。  色んなことがぐしゃぐしゃに絡み合って、ティアナの顔の体温を上げていった。 「え、えーっと」  どうにか誤魔化そうと、辺りをきょろきょろと見渡す。  どうやらここは廃棄都市区画のどこかのようだ。  眠ってしまったのは、確か……  いや、眠ったんじゃない。気絶していたんだ。  記憶がはっきりしていくにつれて、ティアナの顔から血の気が引いていく。 「そうだ! 敵は!」 「もういねーよ。赤くなったり青くなったり忙しいな」  少しばかり呆れた口調で、ヴィータがティアナの混乱を遮った。 「いな……い?」  ぽかんとするティアナ。  その背中に、柔らかくて温かいものが押し当てられた。  土埃に汚れた腕が、ティアナを包むように回される。 「スバル……?」 「ティア……よかったぁ……」  背中越しに聞こえたスバルの声は、少し潤んでいた。  ティアナは、デバイスに覆われたスバルの右手を撫でた。  リボルバーナックルの表面には亀裂が幾筋も走り、欠落した箇所もあった。  頑丈なはずのデバイスがここまで壊れるなんて。  ティアナの脳裏に狂戦士の貌が過ぎる。  ぞくり、と背筋が震えた。  人の形をした狂気。  アレと対峙していながら、こうして生きていること自体が不思議だ。 「あたし、生きてるんだよね」 「そうだよ。ティアも、エミヤさんも、ヴィータ副隊長もみんな」  スバルの腕に力が篭る。  少し痛いくらいだったけれど、今はそれが嬉しかった。 「二人とも大丈夫みてーだな」  一時はどうなることかと思っていたが、事態は良い方向へ向かっているようだ。  ヴィータは隣に立つ衛宮士郎を見上げた。  ――はずだった。 「あれ?」  そこに衛宮士郎の姿はなく、立ち並ぶビルと青空だけが広がっていた。  慌てて視線を巡らせる。  と、見覚えのある背中が、路地裏の入り口で屈みこんでいるのが見えた。  駆け寄り、背中の真ん中を軽く蹴りつける。 「コラ、何してんだ」 「ちょっとこれ見てくれ」  蹴られたことを全く気にせずに、衛宮士郎は目の前のボロ切れを指した。  どこからどう見てもうず高く盛られた布の塊だ。 「いや……これって!」  ヴィータは布を引き剥がした。  そして、息を呑む。  布の下には、人間が転がっていた。  生きているのか死んでいるのかも定かではない。  四肢はやつれ、目は窪み、口元には吐血の痕跡まである。  どうやら若い男であるようだ。  しかしこれはどうしたことなのか。  生きるための力を根こそぎ吸い取られでもしないと、こうはならないだろう。  衛宮士郎は男の首筋に手を当てた。 「一応、生きてはいるみたいだ……」  そう言ってヴィータに向き直る。  だがヴィータは、倒れた男に視線を向けたまま、身体を硬直させていた。 「こいつ……まさか……」  漏れた声は微かに震えていた。  ――三日目 AM9:40――  廃ビルの屋上に波紋が浮かぶ。  強固なはずのコンクリートから、まるで水の中から現れるように、少女の上体が浮かび上がった。  少女は額に貼り付いた空色の髪を整えながら、靴を鳴らして屋上に立った。 「チンク姉。予定通り、アイツを管理局に見つけさせたよ」 「ご苦労様」  給水タンクの日陰から、別の少女が姿を現した。  空色の髪の少女よりも一回り小柄で、銀色の頭髪が鮮やかな外見だ。  しかしそれよりも、右目の大きな眼帯が少女らしからぬ異彩を放っている。 「私はこれから、ルーお嬢様を連れて帰投する。セインはあの男の監視を頼む」  チンクと呼ばれたその少女は事務的にそう告げると、踵を返した。  一方、空色の少女は腕を組んで何事か考えているようだった。 「うーん、やっぱりアレをもう一度けしかけて四人とも倒しちゃったほうが……」  空色の少女――セインの独り言が耳に入ったのか、チンクが足を止める。  セインはしまったとばかりに口を噤んだ。  何も言っていないとアピールするように顔の前で両手を振る。 「バーサーカーは既にルーお嬢様と繋がっている。  つまり、暴走の負荷は全てお嬢様に跳ね返ってくることになる。  バーサーカーを使うタイミングは選ばないといけないんだ」 「分かってます、はい……」  落ち込みを露にしながら、セインは屋上に脚を沈めた。  比喩ではなく、セインの身体がコンクリートに潜っていく。  肩の辺りまで潜ったところで、チンクが「あ」と声を上げた。 「大切なことを忘れていた。今回の監視は二人で行ってもらう」 「二人? あと誰が……」  チンクの方を見ようと、セインが顔を上げる。  当然、視界に入るのはチンクの姿だけだ。  だがその光景は、言いようのない違和感を伴っていた。  逆光で、チンクとその後ろの給水タンクは暗い影に隠れている。  その影がどこかおかしい。  セインは目を細めて、違和感の正体を探った。 「――あ」  誰か、いる。  給水タンクの上に誰かが立っているのだ。  人がいる気配などしなかった。  意識して見つけようとしなければ、絶対に気が付かなかっただろう。  その人物は、まるで暗闇の塊のように、給水タンクの上に佇んでいる。  黒い布を頭から被ったその姿は、まるで死神のよう。  本来顔のあるべき場所は真っ白で、表情を窺うことはできない。 「髑髏……」  そう、白い顔は髑髏の仮面。  白昼の下でありながら、暗闇に紛れているのと等しく、その存在を認知させない。  黒衣の髑髏は、嗤うようにセインを見下ろしていた。
第6話「夕焼けの記憶」  ――三日目 AM9:25――  空を仰ぐ。  地下だというのに、澄み渡る青空がよく見える。  天井には幅数十メートルはあろうかという大穴が開いていた。  陽光は燦々と降り注ぎ、涼やかな風が吹き下りる。  ややもするとここが地下であることを忘れそうになってしまう。  そう、ここは廃棄都市区画を横切る、巨大な地下道の中だ。  見えるのは天井ではなく、地上の裏側。  遥か上方の地表から、道路の断面が垂直に切り立っている。  周囲を見渡せば、崩落した地上の構造物が瓦礫の平野を築いていた。  砕けたビルが丘を成し、横たわるハイウェイは大河のよう。  無機質な水面には亀裂の細波が広がっていた。 「ずいぶん派手にやってくれたな……」  自然に擬態した瓦礫の上で、ヴィータは憎々しげに呟いた。  バリアジャケットは砂埃に汚れてはいたが、損傷らしい損傷はない。  崩落の際に立っていた位置が良かったのだろう。  幸いにして巨大な瓦礫の下敷きになることはなかったようだ。  思い返せば、実にシンプルな一撃だった。  渾身の膂力と魔力を込め、槍を投ずる。  種も仕掛けもあったものではない。  それなのに――あるいはだからこそ、出鱈目だった。  誇張ではなく地形を変えた投擲。  地下道の老朽化が進んでいたというのも一因にあるだろう。  しかしそれを差し引いても、凄まじいと言わざるを得ない破壊力だ。  ヴィータは内心で舌打ちして、瓦礫の傾斜を滑り降りた。  盆地の底のように平らな場所に、二人の少女が並んで横たえられていた。  ヴィータは自分が駆けつける前のことをまだ把握していない。  あの槍使いが如何なる理由で新人達を襲い、如何なる戦闘が行われたのか。  可能なのは想像だけだ。  ヴィータは横たわる新人達の傍らに立った。  地面から突き出た、枯れ木のような鉄骨にもたれかかる。  二人ともまだ気を失っているらしく、四肢を力なく投げ出している。  かなりのダメージを受けていることが一目で分かった。  それでもティアナの方はまだ軽症といえるだろう。  背中に打撃を受けたような跡があるが肉体への被害は少ない。  バリアジャケットを初めとした幾重もの防御機構の恩恵だ。  衝撃で気を失ってはいるが、いずれ目を覚ますだろう。  ティアナの呼吸が安定しているのを確認して、ヴィータはスバルへ視線を移した。  スバルの身体には痛々しい打撃痕が何箇所も残されている。  バリアジャケットを纏っていながら、肉体へのダメージの浸透を許した証明だ。  それでもスバルはきっと運が良かった。  槍使い相手に打撃痕ということは、穂先による攻撃は直撃していないということ。  これで切っ先が直撃していたら、致命的な深さで肉が抉られていたはずだ。  はぁ、とヴィータは安堵の溜息をつく。  どちらも一歩間違えば確実に命はなかった。  犠牲者ゼロというのは奇跡以外の何物でもない。 「……くそっ」  ヴィータは苛立ちを押さえきれず、帽子をぎゅっと握り、深く被った。  心の中がぐちゃぐちゃだった。  一体誰を責めろというのか。  あの敵か。  無謀な戦いを挑んだ新人達か。  ギリギリまで駆けつけられなかった自分自身か。  そもそも奴は何者なのか。  アレもやはり"聖杯"と―― 「副隊長、上はどうだった?」  瓦礫の山の向こうから、赤毛の青年が姿を現した。  着衣は戦闘によって痛んでいるが、身体にはそこまで被害がなさそうだ。  崩落直後、ヴィータの次に意識を取り戻したのもあの青年だった。 「とりあえず、待ち伏せされてる様子はないな。そっちは?」 「奥はビルで塞がってた。歩いて脱出するのは難しいな」  ヴィータは腕を組み、即座に思考を切り替えた。  纏まらない考えは隅に押しやって、ここから脱する術だけを考える。  一番早いのは天井の大穴から飛んでいく方法だろう。  自分が三往復すれば全員外に連れ出せる。  問題は、奴に待ち伏せされていると一転窮地に追い込まれてしまうことだ。  人間を抱えたままでアレから逃れ切る自信はない。  撃墜されるパターンだけが何通りも思い浮かぶ。  上手くいくケースは一つも浮かんでこないというのに。  別の案として、地下道を歩いて脱出する方法もある。  しかしエミヤシロウの話を信じる限りでは、現実性の低い案と言わざるを得ない。  仮に抜け道があったとしても、そこから地上へ抜けられる保障はない。  下手をすれば死ぬまで彷徨う破目になりかねない。  最後に、最も消極的な案。  身を潜め、救助が来るのを待つ。  これも奴が下りてくれば完全に袋の鼠になってしまう。 「あー、全然駄目だ」  ネガティブに考えればきりがない。  そもそもアレが地上にいると決まったわけではないのだ。  もしかしたら既に撤退して、この近辺にはいないかもしれない。  しかしそれも所詮は希望的観測。  ヴィータは思考の袋小路に入り込んでいた。 「副隊長、何か脱出できそうな手段はあるのか?」 「それを今考えてるんだろっ!」  苛立ち紛れに、肘でエミヤシロウの鳩尾を小突く。 「――づっ!」  軽く押した程度のつもりだった。  なのに、返ってきたのは苦悶の声。  ヴィータは咄嗟にエミヤシロウの着衣を捲り上げた。 「おまえ……」  鍛えられた腹筋の少し上、左右の肋骨の間付近が、赤黒く陥没していた。  明らかに酷い傷だ。  皮膚が破れて血が噴き出す一歩手前まできてしまっている。  恐らくは、槍の石突。  ヴィータは言葉を失った。  鳩尾――つまり水月は一撃受けるだけでも昏倒しかねない急所だ。  意識を手放すまではいかずとも、呼吸困難に陥ることも充分ありうる。  バリアジャケットもなしに直撃を受けて、どうして平然としていられたのか。 「怪我してるならそう言え!」  知らず責めるような口調になる。  シャツが伸びそうになるまで握り締め、きつい眼差しでエミヤシロウを睨む。  当のエミヤシロウは、困った表情で頬を掻いていた。 「サーヴァントと戦ったのも初めてじゃないし、これくらいなら……」 「おまえが一番の重症だって言ってんだ! いいから大人しくしてやがれ!」  反論も待たず、ヴィータは瓦礫の山の頂上に飛び移った。  もう考えるのは止めにした。  上が安全かどうかはこの目で確認するのが一番確実だ。  空へと続く大穴を見上げ、飛翔するべく身を屈める。 「――あ」  急に、その動きを止めた。  そして眼下のエミヤシロウに向き直る。 「おまえ、サーヴァントって、さっきのアレのことか?」  しまった、と手で口を覆うエミヤシロウ。  その反応は肯定でしかなかった。 「アレが何なのか知ってるのか!?」 「……ああ」  ヴィータは何か大声で叫ぼうとして、口を噤んだ。  呼吸を整え、努めて冷静に問いかける。 「教えて、くれるよな。アイツのこと――"聖杯"のこと」  ――三日目 AM9:28――  薄暗い会議室の中、正面のスクリーンだけが煌々と照らし出されている。  楕円の卓を囲む男達は一様に言葉を失っていた。  瞬きも忘れ、スクリーンに映し出される"戦争"を見続ける。 「こんなことが……」  ようやく一人が声を漏らした。  高い地位を示す階級章と制服の、初老の男だ。  見渡せば彼以外にも各部署の高官が顔を並べている。  スクリーンで繰り広げられているのは、不可視の"戦争"。  あまりにも速く、あまりにも激しい剣戟。  彼らの目では残像を追うのがやっとだろう。  槍の穂先と双剣が衝突し、閃光と轟音が迸る。  これはたった2人の騎士が技を競い合う"戦争"だった。  青い騎士が、物理的な限界を超えた速度で後方へ飛び退く。  赤い騎士は一瞬の躊躇も無く剣を棄て、右腕を突き出した。  渾身の膂力を以って擲たれる魔槍。  立ちはだかる花弁の盾。  激突の瞬間、全てが砕けた。  目蓋を閉じたように映像が途切れる。  記録されている映像はここまでのようだ。 「これが、半年前に高町一等空尉が記録した映像の一部です」  暗闇の中、少女――八神はやては特徴的なイントネーションで切り出した。  高官達は目の当たりにした光景を信じきれていないのか、せわしなく目配せしあっていた。  互いに「お前が話せ」と言い合っているのが簡単に見て取れる。 「で、『それ』が何なのか、もっと詳細に説明して欲しいものだな」  不意に、恰幅の良い男の声が会議室に響いた。  地上本部防衛長官、レジアス・ゲイズ中将。  たじろぐ高官達の中で唯一、彼だけが平静を保っているようだった。  はやては他の高官を視界から外し、レジアス中将に向き直った。  今まともに話ができるのは彼だけだろう。 「詳細については私より高町空尉が詳しいと思います。なのは、後お願い」  最後だけ小声で、傍らの少女に立ち位置を譲る。  なのはは軽く呼吸を整えると、奥に立つフェイトに視線で合図を送った。  頷き、スクリーンの機器を操作するフェイト。  また新たな画面が眩い光と共に表示される。  シンプルな線だけで構成された地図だ。 「先ほどの映像は、第97管理外世界で秘密裏に行われていた魔術的儀式の一部です。  時期は今から約半年前。場所は冬木市という地方都市です」 「私の目には戦闘のように見えたが?」  レジアスが口を挟む。 「はい。あの戦闘も儀式の一環といえます」  なのははレジアスの指摘をあっさりと肯定した。  高官達がどよめく。  レジアスだけは動揺するそぶりも無く、続けるよう促した。 「儀式の目的は、すべての願いを叶える『聖杯』を手に入れることだとされています。  聖杯に選ばれた7人の魔導師が、それぞれ1人ずつの騎士を使い魔として従え、殺しあう。  それが――聖杯戦争です」  まるでコドクだな、と誰かが呟いた。 「……次の写真を」  スクリーンにミッドチルダの沿岸地域の俯瞰写真が映し出された。  会議室にどよめきが広がる。  かつては倉庫街であったであろうそこに、巨大な穴が穿たれている。  残された建造物と比較すると眩暈を起こしそうになるほどの大きさだ。  被害は穴だけではなく、周囲は無残になぎ払われているようだ。  空から強大な熱量を撃ち込まれたことによる破壊。  現場に居合わせていない者からはそう見えただろう。 「先の聖杯戦争――第5次聖杯戦争は、聖杯自体の破壊をもって終結しました。  しかしその残骸が時空犯罪者の手によって――」 「ミッドチルダに持ち込まれた、と?」  ざわつく高官達を制して、レジアスはなのはに視線を向けた。  けれど一度広がった波紋は簡単には収まらない。 「沿岸地域の地下に秘匿されていた聖杯の残骸は既に再破壊を完了しています」  なのはは声のトーンを上げた。  そうでもしなければ聞こえないほど、どよめきは大きくなりすぎていた。  動揺していた高官達が思い思いのことを口に始める。  もう終わっているなら何故我々を集めたのだ。  あの大穴は機動六課が原因なのか。  過剰な破壊は責任問題だ。  まるで、騒げば全てをなかったことにできるとでも思っているかのように。  このままでは収拾がつかなくなる。  なのはは右手を握って、すぅっと息を吸い込んだ。  突如、なのはから遠く離れた円卓の一角が弾ける。 「みなさん、ご静粛に」  暗闇の中から、よく通る女の声がした。  周囲の視線がその声の主に集まる。  赤いコートは暗い会議室の中でもはっきりと見えた。  ウェーブの掛かった長い髪に、意志の強さを表しているような瞳。  服装からして管理局の人間でないことは明らかだ。 「申し送れました。私、遠坂凛という者です」  慇懃な口調で言いながら、完璧な微笑を浮かべてみせる。  遠坂と名乗った女は、スクリーンを挟んでなのはの反対側に立った。 「トオサカ、と言ったな。君は関係者なのか?」  誰かがそう尋ねた。 「ええ。あなた方がいうところの、第97管理外世界の魔術師――  そして第5次聖杯戦争の最終的な勝者です」  どよめきすら起こらなかった。  赤いコートの女の発言は、高官達にとって衝撃的過ぎたようだ。  誰もが無言になり、次の言葉を待っている。  どうにか説明を聞かせる状況が整ってくれた。  なのはは安堵に小さく息を吐いた。 「高町さん、後は任せてもらえる?」 「うん、お願い」  なのはと入れ替わるように、遠坂凛は一歩前へ出る。  高官達を前に物怖じする様子もなく、その面々を見渡していく。 「――さて、何からお話しましょうか」  ――------ -- -:--――  夕焼けの光が眩しい。  逆光の向こうで、友達が小さな手を振っている。  ああ、もう帰らないといけない時間なんだ。  寂しいのを表に出さないように、笑顔で手を振り返す。  友達が走って帰ってしまうと、静けさが私にのし掛かってきた。  音が聞こえてこないわけじゃない。  車の音や人の会話、鳥の鳴き声はあちこちでしている。  そんな静けさではなくて。  ココロをぎゅっと鷲掴みにされるような、胸の痛くなる静けさ。  世界に音は満ちているけれど。  私に向けられている音は、一つもない。  振り返れば、私の小さな足元から、びっくりするくらいに長い影が伸びている。  さっき帰っていったトモダチは、きっとお母さんに「ただいま」と言っているんだろう。  そして「おかえりなさい」と言ってもらっているんだろう。  ナニかを堪えきれなくなって、私は走り出していた。  逃げ出したくなったのだ。  胸の奥を締め付ける、目に見えないものから。  けれど、走っても走っても、それは一向に離れてくれない。  きっと私は泣いていたんだと思う。  見れば分かるような、道路の段差にも気づかなかったから。  段差に躓いて、私は受身も取れずに転んでしまった。  顔を伏せたまま、立ち上がることもしなかった。  両方の膝がずきずき痛む。  両手の掌がじんじんする。  痛さと情けなさで、声を上げて泣きそうになる。  その時、大きな手が私の身体を持ち上げた。 『ティアナ、大丈夫か』  夕日が眩しくて、その人の顔はよく見えない。  だけど声だけで分かる。 『お兄ちゃん……』  兄さんは肩で息をしているようだった。  きっと私が転んだのを遠くで見て、大急ぎで駆けつけてくれたんだ。  私のために声をかけてくれたんだ。  泣いちゃ駄目だと頭で分かっていても、ぽろぽろ零れる滴は止められない。  兄さんは何も言わずに私を背負うと、家に向かって歩き始めた。  大きな背中は、私をしっかりと受け止めてくれる。  いつの間にかココロが楽になっていた。  あんなに強く締め付けられていた胸の奥が、嘘みたいに楽になっている。  大きくて、強くて、温かくて――  兄さんの記憶は、いつも優しい。 「……おにぃ……ちゃん」  ざくり、ざくり。  瓦礫を踏みしめる振動が、身体を伝わって鼓膜を震わせる。  どこかを歩いているんだろうか。  目蓋が重たい。  意識がぼうっとする。  ティアナは半覚醒の脳髄で、自分が眠りに落ちていたことを自覚した。  だけどそれ以上は考えられない。  ここがどこなのか、いつの間に眠ってしまっていたのか。  そんなことを気にする思考回路も働かない。  手足はまるで鉛のようで、力なく垂れ下げているのが精一杯だ。  背中が鈍く痛むのも不快だ。  こうなったら、辛いことを全部投げ出してしまおう。  意識を手放してもう一度眠ってしまえばいい。  そう思い、誰かの背中に体重を預ける。 「――え?」  誰かの、背中に。  ティアナの意識が一気に覚醒していく。  顔のすぐ横に、短い赤毛の頭がある。  両腕は肩越しに垂らしていて、両脚は何かによって支えられている。  要するに。  ティアナは誰かに背負われていた。 「ひゃあ!」  思わず、背中を押して後ろに避けようとする。  けれどそんなことができる体勢ではなく。  ティアナは脚を支えられたまま、奇妙な格好でしたたかに後頭部を打ち付けた。  衝撃が頭の中に響き渡って、意識が一瞬どこかへ飛んだ。  なんて、無様。  こんな意識の手放し方は望んでいなかったのに。 「お、起きたか」  少し先を歩いていたヴィータが足を止める。  ティアナは差し出された手を取って立ち上がった。  ヴィータの手だと思っていたそれは、やけに大きくて骨張っていた。 「えっと、大丈夫か?」  クリアになる思考回路。  目と鼻の先に衛宮士郎の顔があった。 「は、はいいっ!」  よく分からない言葉を口にしながら、思いっきり後ずさる。  不意打ちもいいとこだ。  さっきまで背負われていたんだ、とか。  変な寝言を言っていなかっただろうか、とか。  無様な格好を見せてしまった、とか。  色んなことがぐしゃぐしゃに絡み合って、ティアナの顔の体温を上げていった。 「え、えーっと」  どうにか誤魔化そうと、辺りをきょろきょろと見渡す。  どうやらここは廃棄都市区画のどこかのようだ。  眠ってしまったのは、確か……  いや、眠ったんじゃない。気絶していたんだ。  記憶がはっきりしていくにつれて、ティアナの顔から血の気が引いていく。 「そうだ! 敵は!」 「もういねーよ。赤くなったり青くなったり忙しいな」  少しばかり呆れた口調で、ヴィータがティアナの混乱を遮った。 「いな……い?」  ぽかんとするティアナ。  その背中に、柔らかくて温かいものが押し当てられた。  土埃に汚れた腕が、ティアナを包むように回される。 「スバル……?」 「ティア……よかったぁ……」  背中越しに聞こえたスバルの声は、少し潤んでいた。  ティアナは、デバイスに覆われたスバルの右手を撫でた。  リボルバーナックルの表面には亀裂が幾筋も走り、欠落した箇所もあった。  頑丈なはずのデバイスがここまで壊れるなんて。  ティアナの脳裏に狂戦士の貌が過ぎる。  ぞくり、と背筋が震えた。  人の形をした狂気。  アレと対峙していながら、こうして生きていること自体が不思議だ。 「あたし、生きてるんだよね」 「そうだよ。ティアも、エミヤさんも、ヴィータ副隊長もみんな」  スバルの腕に力が篭る。  少し痛いくらいだったけれど、今はそれが嬉しかった。 「二人とも大丈夫みてーだな」  一時はどうなることかと思っていたが、事態は良い方向へ向かっているようだ。  ヴィータは隣に立つ衛宮士郎を見上げた。  ――はずだった。 「あれ?」  そこに衛宮士郎の姿はなく、立ち並ぶビルと青空だけが広がっていた。  慌てて視線を巡らせる。  と、見覚えのある背中が、路地裏の入り口で屈みこんでいるのが見えた。  駆け寄り、背中の真ん中を軽く蹴りつける。 「コラ、何してんだ」 「ちょっとこれ見てくれ」  蹴られたことを全く気にせずに、衛宮士郎は目の前のボロ切れを指した。  どこからどう見てもうず高く盛られた布の塊だ。 「いや……これって!」  ヴィータは布を引き剥がした。  そして、息を呑む。  布の下には、人間が転がっていた。  生きているのか死んでいるのかも定かではない。  四肢はやつれ、目は窪み、口元には吐血の痕跡まである。  どうやら若い男であるようだ。  しかしこれはどうしたことなのか。  生きるための力を根こそぎ吸い取られでもしないと、こうはならないだろう。  衛宮士郎は男の首筋に手を当てた。 「一応、生きてはいるみたいだ……」  そう言ってヴィータに向き直る。  だがヴィータは、倒れた男に視線を向けたまま、身体を硬直させていた。 「こいつ……まさか……」  漏れた声は微かに震えていた。  ――三日目 AM9:40――  廃ビルの屋上に波紋が浮かぶ。  強固なはずのコンクリートから、まるで水の中から現れるように、少女の上体が浮かび上がった。  少女は額に貼り付いた空色の髪を整えながら、靴を鳴らして屋上に立った。 「チンク姉。予定通り、アイツを管理局に見つけさせたよ」 「ご苦労様」  給水タンクの日陰から、別の少女が姿を現した。  空色の髪の少女よりも一回り小柄で、銀色の頭髪が鮮やかな外見だ。  しかしそれよりも、右目の大きな眼帯が少女らしからぬ異彩を放っている。 「私はこれから、ルーお嬢様を連れて帰投する。セインはあの男の監視を頼む」  チンクと呼ばれたその少女は事務的にそう告げると、踵を返した。  一方、空色の少女は腕を組んで何事か考えているようだった。 「うーん、やっぱりアレをもう一度けしかけて四人とも倒しちゃったほうが……」  空色の少女――セインの独り言が耳に入ったのか、チンクが足を止める。  セインはしまったとばかりに口を噤んだ。  何も言っていないとアピールするように顔の前で両手を振る。 「バーサーカーは既にルーお嬢様と繋がっている。  つまり、暴走の負荷は全てお嬢様に跳ね返ってくることになる。  バーサーカーを使うタイミングは選ばないといけないんだ」 「分かってます、はい……」  落ち込みを露にしながら、セインは屋上に脚を沈めた。  比喩ではなく、セインの身体がコンクリートに潜っていく。  肩の辺りまで潜ったところで、チンクが「あ」と声を上げた。 「大切なことを忘れていた。今回の監視は二人で行ってもらう」 「二人? あと誰が……」  チンクの方を見ようと、セインが顔を上げる。  当然、視界に入るのはチンクの姿だけだ。  だがその光景は、言いようのない違和感を伴っていた。  逆光で、チンクとその後ろの給水タンクは暗い影に隠れている。  その影がどこかおかしい。  セインは目を細めて、違和感の正体を探った。 「――あ」  誰か、いる。  給水タンクの上に誰かが立っているのだ。  人がいる気配などしなかった。  意識して見つけようとしなければ、絶対に気が付かなかっただろう。  その人物は、まるで暗闇の塊のように、給水タンクの上に佇んでいる。  黒い布を頭から被ったその姿は、まるで死神のよう。  本来顔のあるべき場所は真っ白で、表情を窺うことはできない。 「髑髏……」  そう、白い顔は髑髏の仮面。  白昼の下でありながら、暗闇に紛れているのと等しく、その存在を認知させない。  黒衣の髑髏は、嗤うようにセインを見下ろしていた。

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