第4話「魔槍Ⅰ」
――三日目 AM4:00――
ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。
手足に力が入らない。
ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。
視界が霞む。
ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。
耳鳴りは止むことがなく。
ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。
頭が今にも割れそうだった。
もう数年は人が通っていないであろう裏路地。
男はここで、一人死に掛けている。
頭から被ったローブは薄汚れ、その下の衣服は傷だらけ。
まるで何日も絶え間なく這いずり回ったかのよう。
そんな見てくれなど気にする余裕もないのか、男は空を仰ぎ、無心に呼吸を繰り返している。
東の空が不気味に明らみ始める。
廃墟の街を焼き尽くさんばかりに、白い光が染み込んでくる。
男はビルの上に立つ影を、呆と見ていた。
何と形容すれば良いのだろうか。
ヒトの形をした、それ以外の何か。
狂気と殺意を泥人形のように固めれば、或いはあんなものが生まれるかもしれない。
それほどまでに禍々しい影。
髪が逆巻き、眼球は焦点を結んでいない。
口を動かせば、聞こえるのは意味の無い唸り。
――狂っている。
男はずっと前から直感していた。
いずれ自分はこの狂人に殺される。
傷ついた身体を動かす。
壁伝いに、歩行と表現するのもおこがましいたどたどしさで、少しずつ動いていく。
このままでは生命を吸い尽くされてしまう。
干からびて朽ち果てるまで、解放されることはないだろう。
唯一の救いは、ヤツが自分を直接手に掛けることがないということだけだ。
『俺を殺すな』と告げた命令は、確かにヤツを縛っている。
しかしそれも一時の延命に過ぎない。
武器はとっくに奪われた。
抵抗する術など持ちえていない。
だからもっと――が必要だ。
もっと――があれば、ヤツも多少は満足するだろう。
ずり、ずり、と壁を擦りながら、進む。
――を与えろ。
――を探せ。
――を食わせろ。
――を
――を
――を
――ニンゲン――を。
男の爪が建造物の壁を削る。
右腕に刻まれた二画の刻印が、赤黒く瞬いていた。
――三日目 AM8:55――
『皆さん、配置に着きましたかー』
小さな軍曹の呼びかけがモニタ越しに響き渡る。
昨日の打ち合わせ通りに、新人達は廃棄都市区画の各所に待機していた。
班構成はツーマンセル。
スターズのスバルとティアナが第一班、ライトニングのエリオとキャロが第二班。
実戦におけるコンビネーションを想定した組み合わせだ。
「第一班、ティアナ=ランスター、準備できました」
ティアナは手にしていたクロスミラージュを収め、モニタに向き直った。
モニタの中のリインフォースは軽く頷いて、ティアナの後ろへ視線を向ける。
『スバルは準備いいですか?』
「はいっ、オーケーです!」
足回りの柔軟を繰り返しながら返答するスバル。
いつも準備運動を欠かさないが、今日はいつになく入念だ。
それだけ普段より気合が入っているということだろうか。
ティアナは青く澄んだ空を見上げた。
雲一つない背景に、無機質な廃ビルが建ち並んでいる。
しばらくそうしていると、騙し絵を見せられているような感覚に陥ってしまう。
青空とビルがあまりにも不釣合いで、ビルの輪郭が浮いて見えるのだ。
広大な空に崩れかけの建造物。
まるで不出来な合成写真のようだ。
あるいは青いパネルの前に置かれたミニチュアセット。
いや、それとも――
『演習開始は五分後、きっかり九時からです。ルールは昨日説明した通りですよ』
リインが訓練の説明を開始する。
ティアナは思考を切り替えて、昨日受けていた事前説明の内容を反芻した。
前もって与えられた情報は演習エリアの地形データと、自分の班のスタート座標だけだ。
エリオとキャロの配置は、スバルとティアナには伝えられていない。
演習エリアはこの廃棄都市区画内の8km四方。
敵役を務める副隊長達の追撃から逃れ、エリアから脱出することが目的となる。
つまりは撤退演習だ。
戦場において最大の被害を出すのは、戦局が決して撤退するとき。
背を向けたところへ容赦のない攻撃が飛んでくるタイミングだ。
防御や味方への援護すら難しく、応戦すれば足を止めざるを得ない。
即ち全てが不利に働く戦況。
第二班の位置を教えられていないのも、部隊が分断された状況を想定しているからだ。
ティアナも知識としては理解しているが、幸か不幸かそんな窮地を体験したことはなかった。
だからこそ、この演習に手を抜くことはできないと考えていた。
練習は本番のように、本番は練習のように。
今日の経験はいつか必ず役に立つ筈だ。
しかし実戦ではなく演習であるため、幾つかの制限が設けられている。
一番大きな制限はタイムリミットの存在だろう。
開始からきっかり一時間。それが与えられた時間的猶予。
その間に脱出できなかった場合は問答無用で演習失敗となる。
敵役との交戦は自由だが、なるべく避けるべきだとティアナは考えていた。
そもそも副隊長二人と正面から戦って勝てるとは思えないのだが。
『そろそろ開始時間ですね……みんな、頑張って下さいね』
「はいっ!」
昨日、演習の概要を通達されてすぐに、ティアナはすぐに作戦を考え始めていた。
自分達の開始位置は、ビルの合間を縫うハイウェイ跡。
南北どちら向きに辿ってもエリア外まで一直線だ。
しかし余りにも見晴らしが良過ぎ、隠れる場所が殆どない。
こんなあからさまなルートなど、確実にマークされているに決まっている。
追っ手を戦って退けようなんてしたら、十中八九返り討ちにされて捕まってしまう。
ならば自ずと選択肢は決まってくる。
遮蔽物がそれなりに多く、尚且つ距離の短いルートを全力で駆け抜ける。
シンプルだが、下手に複雑な作戦を立てて失敗するよりはずっといい。
ティアナは横目で、ぐっと伸びをしている相方を見た。
「スバル。上手くやれるかはあんた次第なんだから、失敗しないでよ」
「大丈夫だって。今日はかなり調子良いから」
今回の演習とスバルのウィングロードは相性抜群だ。
なにせスバルの思うままに逃走経路を創り出せるのだから。
ティアナは大きく息を吸い込んで、ゆっくり吐き出した。
大丈夫、作戦通りにやればクリアできる。
シミュレーションも重ねたんだから。
何度もそう自分に言い聞かせる。
……唯一未知数なのは、衛宮士郎の存在だった。
まだ出会ってから一日か二日。
どんなスキルを持っていて、どんな魔法を使えるのかすら、まだ知らない。
あの黒い剣を出現させたのは転送系の魔法だろうか。
剣そのものはデバイスではないとヴィータ副隊長も言っていた。
昨日のうちに暇を見つけて訊ねておけば良かったと、今更ながらに後悔する。
どんな魔法を使うんですか? その一言で充分だったのに。
一応仲間なのだから、渋って教えてくれない、なんてことはないだろう。
――ああ、また思考が脇道に。
気持ちを切り替えないと。
ティアナはパンと両頬を叩いた。
「……よし、行くよ、スバル!」
「うん!」
カウントダウンがゼロを刻む。
二人は朽ちた道路を蹴って駆け出した。
――三日目 AM9:00――
撤退演習が始まった。
舞台は廃棄都市区画の一画を区切った急ごしらえの演習場。
ルールは単純。逃げるか、捕まえるか。
要は派手な鬼ごっこだ。
ヴィータは相変わらずのむすっとした表情で、刻々と移り変わるタイム表示を睨んでいる。
最初の3分間、追っ手役は初期位置から動くことができない決まりになっている。
この演習を企画した側である以上、新人達の開始地点を完全に把握しているからだ。
移動する猶予がなければ演習にならず終わってしまう。
「やっと1分……長いな」
ヴィータは小さな声で呟いた。
ヴィータ達の待機場所は大きなビルのエントランス前だった。
他のビルに遮られて数十メートル向こうも視認できない。
とんとん、と靴底でコンクリートの道を叩く。
赤いバリアジャケットに身を包み、グラーフアイゼンを担いだ姿はまさに臨戦態勢。
3分が経てば即座に飛び出していきそうな雰囲気だ。
だが、出動が待ち遠しいというのとは、少しばかり様子が違うようだった。
ヴィータはエントランス前で待機するもう一人の人間に向き直った。
「おいエミヤシロウ。お前も新入りなんだからな。ヘマしたらあいつ等と同じように怒るぞ」
「ああ、分かってる」
脅すようなヴィータの言葉に、衛宮士郎は至って真面目に返答した。
その格好は、ヴィータのそれとは見事に正反対だ。
着衣は明らかに普段着で、簡単な武装の一つも手にしていない。
待機モードのデバイスを携行している様子すら無かった。
まるで、うっかり危ないところへ迷い込んだ一般市民のようだった。
つまみ出したほうが良いかもしれない、なんてことまで思えてしまう。
ヴィータは周囲に聞こえるような溜息を吐いた。
心底、不可解だ。
どうしてこんな男が機動六課に加わっているのだろうか。
「なのは……何隠し事してんだよ」
ミッドチルダで何かが起ころうとしている気配がする。
先日の任務も、エミヤシロウの存在もそうだ。
自分が知らないところで、刻一刻と事態は動いているのではないか。
そんな気さえしてくる。
ふとタイム表示に視線を移す。
残り十秒ほどで追っ手側もスタートだ。
出発を促そうと、ヴィータは衛宮士郎に向き直った。
次の瞬間、けたたましい警報が鳴り響いた。
「なっ!?」
咄嗟に視線を巡らせる衛宮士郎。
ヴィータは反射的にリインフォースⅡとの通信を開いていた。
『大変ですっ! 演習場外部から侵入者が!』
「何だって……人数は! 目的は!?」
勢いに任せて問いかける。
警報は依然として鳴り止む気配がない。
耳障りな機械音に鼓膜がどうにかなってしまいそうだ。
『演習場周辺のセンサが、外側から内側へ侵入する反応2つを確認しました!
両方とも陸上を移動していて、片方は時速数百キロなんてスピードだったみたいです!』
「ヴィークルか何かに乗ってるのか……? こんなときにっ!」
小さく毒づいて、ヴィータは歯噛みした。
ここにいるのは新人達4人と追っ手約3人だけだ。
隊長達は別件でおらず、ロングアーチは演習場の外からモニタリングしている。
もし悪意ある侵入者だとしたら、現状は決して望ましいものではない。
バラバラに逃げ出した新人達を早くどうにかしなければ。
ヴィータは今後の対応を一気に組み上げる。
緊急通信で演習の中断を通告。
現在位置を教えさせ、副隊長が合流までその場で待機。
一秒の遅れが命取りだ。
視線だけ動かして、衛宮士郎を見る。
慌てたりパニックを起こしたりしている様子は無い。
状況が分かればすぐにでも対応できる面構えだ。
「リイン、新人達に通達頼む! 演習はすぐに中……」
ザ、とノイズが走る。
音声と映像が急激に乱れ、リインの顔が判別できなくなる。
よりにもよってこんなときにトラブルが発生してしまうとは――
「――いや……通信妨害……?」
把握していた現状を、より悪いものへ書き換える。
報告された速度から考えて、速い方の侵入者は最悪1分程度で新人達と遭遇しかねない。
通信の復旧を待っている猶予はないだろう。
「あたしは空から探す! 陸は頼んだ!」
「分かった!」
衛宮士郎に振り返ることもせず、ヴィータは地を蹴った。
赤いドレスの騎士は、一陣の風となり空へ駆け登っていった。
――三日目 AM9:10――
不意に地面が揺れた。
「――え?」
最初に気が付いたのはティアナだった。
走るのを止めて、辺りを見渡す。
地震とは違う奇妙な振動。
風に混ざって、ゴゴゴ、という不気味な音が聞こえてくる。
「ティアナ、どうしたの?」
「シッ! 静かにして」
相方が立ち止まったことに気が付いたのか、スバルもブレーキを掛けた。
デバイスを使って移動していたために振動には気が付かなかったのだろう。
そもそも揺れ自体はそう大きくなかったのだ。
ティアナが感じたのは、鳴り響く音の奇妙さだった。
最初に大きな音が聞こえ、暫くそれが継続したかと思えば、あっさりと聞こえなくなっていた。
ここからでは、建ち並ぶビルに阻まれて視界は良くない。
二人は開始地点のハイウェイ跡を降りて、通常の道路を走っていた。
追っ手側に見つかりにくいようにとの判断だったが、こういう場合はマイナスだ。
しかも上空から隠れることを考えて、あえて高架下を選んでいる。
周囲の様子を把握するという点においては失敗だったかもしれない。
「ひょっとして、キャロとエリオ、見つかっちゃったのかな……」
心配そうにスバルが呟く。
もしそうだったとしても助けに行く余裕はない。
わざわざ発見されに向かうようなものだ。
「……行こう」
相方に促すティアナ。
急がないと追いつかれてしまう。
スバルもそれを理解しているようで、こくりと頷いて同意する。
前に向き直り、再び走り出そうとしたその矢先。
「待てっ!」
背後から男の声が飛んでくる。
思考は一瞬。
二人はすぐに現状を理解した。
「ティア、背中乗って!」
「うん!」
振り向くこともせず、ティアナはスバルの背中に飛び乗った。
ヴィータより先にエミヤシロウに見つかったことは予想外だった。
けれど予定通りに動くだけ。
今回は二人一緒に逃げ切ることが先決だ。
ティアナがしっかりと掴まったことを確認して、マッハキャリバーを駆動させる。
加速にそう時間は掛からない。
わずかな間に、二人乗りで可能な速度にまでたどり着く。
ティアナは後ろ向きに引っ張られる感覚に抵抗するように、スバルの身体をぎゅっと掴んだ。
砂煙を上げ、所々にある瓦礫を避けながら、無人の道路を疾走する。
流れる空気が髪を巻き上げ、肌に風圧を感じさせる。
速度は既に時速50kmに近付こうとしていた。
何かしらの乗り物に乗れば容易く出せる速度だが、生身に近い状態で体験すると凄まじい高速に感じる。
ティアナは息を呑んだ。
スバルはいつもこんな風に走っているのかという気持ちと、これなら上手くいくという手ごたえを同時に覚えていた。
振り落とされないように気をつけながら、後方に視線を送る。
遥か向こうにエミヤシロウの姿がある。
ティアナはそう信じて疑わなかった。
だからこそ、言葉を失った。
「え、嘘っ」
距離が開いていない。
エミヤシロウの姿は依然として十数メートル後方にあった。
生身の疾走で、デバイスを用いた移動に追いすがっているのだ。
いや、それどころか、徐々に間を詰めつつあった。
前傾姿勢で腕を振り抜き、幅広のストライドで道路を蹴って、風のように走っている。
「スバル! 追いつかれそう!」
「えええぇぇぇ!?」
驚くのも無理はない。
マッハキャリバーが出しているこの速度は、人間が生身で実現できるレベルではないのだ。
四脚走行の獣であれば或いは叩き出せるであろうスピード。
その領域を、あの男は二本の脚で駆け抜けていた。
「待てっ、止まれ!」
エミヤシロウが声を張り上げる。
だが、その言葉が聞き入れられる状況ではない。
ティアナはクロスミラージュを右手に取り、左手でスバルの肩を強く掴んだ。
「止まれって……」
素早く上体を捻る。
「……言われてもっ!」
大まかな狙いだけ付けて魔力弾を三連射する。
殺傷力は持たせてはいないが、当たれば充分な足止めになるはずだ。
魔力弾が凄まじい相対速度でエミヤシロウに迫る。
着弾に要する時は僅か一瞬。
その僅かの間に、エミヤシロウは短い言葉を紡ぎ上げていた。
右手の指が何かを握るような形に曲げられる。
ティアナは思わず目を見開いた。
光を放つ魔力が格子状に編み上げられ、瞬時に黒い片刃の剣を具現する。
それは紛れもなく、つい先日目の当たりにしたエミヤシロウの武装であった。
エミヤシロウが軽く身を屈める。
先頭を飛ぶ魔力弾がこめかみを掠めた。
残るは二発。
具現した剣を握る手に力が篭る。
直後、黒剣は初めから手中に収まっていたかのような自然さで、二つの魔力弾を切り捨てた。
まさか、とティアナは言葉を呑む。
あの剣がデバイスでないのなら、転送魔法で取り寄せているのだと思っていた。
しかし予想は大ハズレ。
この男はデバイスの補助すら受けず、ただ魔力のみで武装を物質化させていたのだ。
「スバル!」
「オッケー!」
マッハキャリバーの車輪を唸らせ、急停止。
同時に身体を反転させ、脚を突っ張って速度を殺す。
削れた舗装材が砂埃のように舞い上がる。
ティアナはスバルの背から飛び降りて、その隣に並び立った。
各々のデバイスを構え、臨戦態勢で追っ手と対峙する。
ただ走っているだけでは逃げ切れないと判断し、作戦を切り替えた。
副隊長がいないのなら数の上では2対1だ。
個人では実力差があったとしても、数の有利があれば突破できるかもしれない。
ところが。
「――ストップ。演習は中止だ」
からん、と黒い剣が路上に投げられる。
戦うつもりはないという明らかな意思表示。
スバルとティアナは顔を見合わせた。
演習が中止? どうして?
二人の顔には同じ疑問が浮かんでいた。
「あ、あの」
スバルが一歩前に出る。
「演習が中止って、どうして――」
そのとき、何の前触れも無く、視界を赤く鋭い光が横切った――
最終更新:2009年11月30日 22:43