「……ねえ、貴方。人並みの幸福はつまらない?」
「――――――」

 それが楽しいか、と聞かれれば答えはイエスだ。
 自らの生きてきた道、見てきた物、今までそれの美しさが理解できなかった己がまるで無かったかのようだった。
 醜いと感じたものは美しく映え、美しいと感じたものは思い出すことすら拒みたくなる今まで感じたことの無い感情。まるで世界が一新したかのような感覚は男の精神を急き立て平常心を狂わせる。
 男はそんな動揺を、迷子になった子供の心境ようだ――と他人事のように思った。
 自らが人とは真逆の価値観を持ち合わせていたことは理解していた
 つまり真逆になった感性が再び逆転したと言うそれは――――己が今、人と同じ感性を持っていると言う結論だ。

「貴方は今苦しい? 自らが『違っている』ことに苦痛を感じる?
 ―――そうじゃない。貴方は今、幸せを幸せと感じているのよ」

 優しく愛おしく包み込むように頬を撫でる女はかつて、目の前で命を絶った妻だった。
 間違いが無い。今ならばはっきりと理解できる。この場ならば、もしここに留まり続ければこれからこの女を愛することが出来ると確信をもって言い切ることが出来る。

「ここにいれば貴方は『それ』を理解できる。だけど外に出れば全ては夢に消える。」

 思えば長かった感じる道のりだった。
 他人を理解できず。感情を整理できず。生に喜びを見出せず。そしてそのような己が受け入れられず。

「ねえ、貴方。人並みの幸福は、平穏な日常はつまらない?」

 その全てがここ場でならば清算できるという。ただ望むだけで手に入るその幸福。
 もはや悩む必要はない。拒む必要はない。苦しむ必要はない。
 ―――罪悪感を感じないことに罪悪感を感じる必要は無い。
 ただそれを受け入れればいい、そんな簡単な選択肢を前に男は、

「――――だがそれは、私が取るべき選択には無い」

 ただ嬉しかった。悲しみに歪んだ顔に悦びを感じる事がなかった己がただ嬉しかった。
 これが一時の夢でも、幻覚に惑わされた感情であってもかまわない。
 元々彼は快楽を拒まぬ人間だ。其処に意味があろうと価値が無かろうと構わない。
 ただ、これから味わうことは永遠に無いであろう感情の渦をそのまま受け入れた。

「お前は死んだ、私がお前を愛していたかどうかはわからない。
 だがお前は、私を愛していると言って死んだのだ」

 だが、この夢を受け入れればアレは何の意味をもたなかったことになる。
 現実など男にとってその殆どが意味のなくなりかけた残りカスでしかない。
 己は何の価値もない死にぞこないに過ぎない。
 故にここで夢に溺れようと欲に浸ろうと世は全て事は無し、ただ一人の人間が歩みを止めたという結末があるだけだ。

 だが男は、己に対してしか意味を持たぬ取るに足らない疑問の為だけに生きて、殺して、歩みを進めてきたのだ。
 それが無駄に終わろうと―――否、最初から無駄な足掻きであることは知っていた。
 だが、その歩みを止めることだけは決して行ってはならないことだ。
 間違いだらけの生ではあるが、その間違いを否定することだけはしてはならない。
 だからかつてのように、男は女にこの幸福の日常に終わりを告げた。

「……もう20年程になるのか。忘れていたな」

 くすんだ銀の髪。金の瞳。骨と皮だけの痩せた体。透き通ったソプラノの声。
 先ほどまで当然のように目の前に在った景色は色彩を失い音は瓦解し、記憶に留まる事の出来ない蜃気楼へと変わってゆく。
 視界は瞬く間に暗く無音の闇に覆われ、数秒後には元の現実に戻るだろう。
 だからその一時を名残惜しむように、女がそうした様に男も頬に手を添える。
 もはや顔も声も思い出すことの出来なくなった妻はいつかのように微笑み―――、

「やはり―――貴方は私を愛しています」

    綺礼
 私の愛する人、と。
 彼女はそう残し、世界は完全に闇に包まれた。

 ―――かつて自分を愛した女性がいた、かつて愛そうと努力した女性がいた。
 結末は当然のように無慈悲に終わり何の意味も残りはしなかった。
 だがその時間、その静粛な苦痛のような平穏の日々には何か意味があったのだ。
 そうでなければこんな夢は見ることはなかっただろう、と。
 ただその事実だけはこの夢が覚めても忘れまいと。

 言峰綺礼は意識が薄れる前にそんな不出来な答えを掴んだのだった。


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最終更新:2008年05月10日 12:45