瞬間、世界が震えた。

 そんなはずがないのに、美由希にはそんな気がした。
 思わず両手で自分自身を抱きしめた。無意識にそうしていた。
 両膝が笑っている。
 そのままコンクリートの道の上に崩れ落ち、首を差し出すべきだと思った。
 自分たちは地面に這い蹲り、死体となるべきだと思った。
 そうでもしないと。
 そうでもしないと。

 この人は、世界のすべてを怒りのままに打ち壊してしまうのではないか……?

 彼女がそのような感慨を抱いて震えていたのと同様に、いまだ闇の中にある恭也もまた歯を食いしばり、己の背中を駆け抜けた戦慄に耐ていた。
 今まで、恭也は多くの戦いを経験してきた。
 剣道界に名をはせる名選手、時代遅れのヤクザの人斬り、伝統の技を伝える古流の達人――
 修行の日々の中には当然ながら敗北もあり、命の危機もあった。
 剣気とも鬼気とも呼ぶべき敵意を当てられ、身を震わせたこともあった。
 だが、今のこの感覚を恭也は知らぬ。

 あまりにも――あまりにも、強大で強烈な激情。 

 聳え立つ巨峰が目の前で崩れ落ちていくのを見るかのような絶望感。
 生きていられるということが、それだけで奇跡になる時間。
 このまま全てを捨てて逃げ出すことが許されるのなら、迷わずそうしたかった。

 ……二人の御神の剣士が半ば精神を挫かれながらも、それでも崩れることも逃げ出すこともなかったのは、二人は父を見ているからである。
 十数メートルという距離を置いて、ギルガメッシュという男と対峙している彼らの父を。
 恭也にとっては実の父で。
 美由希にとっては伯父であり養父である人で。

 そして、かつて不破士郎と呼ばれた天才剣士の横顔を。

 二人は見ているのである。
 士郎は静かな表情のままであった。
 父であり師である人が折れもせず、まして逃げ出そうともしていないのに、息子として、娘として、御神の剣士としてここで折れる訳にも逃げるわけにもいかなかった。
 例え相手が世界を破壊しかねない魔人であろうとも。

 魔人――ギルガメッシュは、剣を持ったままに踏み込んだ。

「貴様」

 声だけで、美由希の全身に鳥肌が立った。地獄の底から響き渡る亡者たちの怨嗟の声を耳にしても、こんなことはないだろうと彼女は思った。
 恭也は無意識に神速を自分にかけていた。心は折れかけていたが肉体は挫けてなかった。戦闘状態になっていた。まだ恭也の身体は死ぬことを拒否していた。諦めてなぞいなかった。
 士郎は。
 表情を変えず、柄を握る手に力が入ったのを、恭也だけが見ていた。
(親父……父さん)
 耐えている――その事実を、恭也はしかしどう受け止めたのか、自分でもよく解らなかった。解らないままに父の言葉を、ギルガメッシュの言葉を待っている。

「我の名を知りながら、我に問うか!」

「はい」

 激烈な言葉に静かに答えられ、さしものギルガメッシュとても些か鼻白んだかのようだった。
 目を細めて目の前の男を凝視する。

「――愚劣にもほどがある! 不敬にも過ぎる! 無礼にも限度がある!」

 だが。
 と。
 ギルガメッシュは背中を向けた。
 歩き出し、堤防の切れ目、海岸への入り口へと向かう。
 士郎は静かに頷き、その後をついていった。
 美由希は困惑したように二人を見送っていたが、自分の横を通り過ぎていく義兄に気づき、彼女もまた追って行った。


 砂浜は静かだった。

 打ち寄せ返す波の音、黒い海に微かな凪を起こす夜風の囁き。天上から見守る月からの柔らかな光。
 そんな吸い込まれてきそうな静寂の中、美由希と恭也は海岸の砂上にて再び対峙する父とギルガメッシュを見ていた。

 やがて。
 永遠にも似た沈黙の後で。

「我が何者かと聞いたな」

 とギルガメッシュは言った。
 先ほどまでの激烈な怒気は影を潜めている――ように見えた。
 すでに自分が怒っていたことさえも忘れ去っているかのような表情ですらある。

「それを知って何とする?」

 むしろ揶揄するかのような声に、真面目くさった顔で士郎は答える。

「貴方のことは調べました」
「ほう」
「ツテを頼んで外務省、宮内庁、内閣調査室、――果てはイギリスの議員筋からSISにまで動いてもらい、救世軍の知り合いにも声をかけて
得られた答えが」

 正体不明。

 高町士郎という男は、社会の影を知ってる。世界の闇を覗き見たことがある。
 不破の家に生まれた御神の剣士であるということは、即ち武の道を歩んでいるということであり、武とは窮めるために死地を踏み抜くことが要求される――決闘、戦場、遍く闘争の場に士郎はいた。あらゆる戦闘の場を士郎は駆け抜けた。
 時に異能を打倒し。
 時に異形を駆逐し。
 今の場所に辿りついたのだ。
 高町家――翠屋。
 そこは魂を癒す安らかな楽園で、それが故に、同時にかつてない激しい地獄となった。
 彼は自らの踏んできたところにある影が、いつ彼のみならず家族を飲み込んでしまうのか、それを恐れたのである。
 皮肉な話だ。
 高町士郎は、全てを捨てて到った自分の安住の地と家族を護るために、捨ててきた過去に対峙し続けなくてはならぬ、永遠の修羅となる道を選ぶ他はないのだった。
 そんな日々の中で、ギルガメッシュは現れたのである。

 ひとめ見ただけで、魂が怯えた。

 圧倒的な格の差を感じた。
 どう戦おう、勝とうなどという気持ちさえ起きない。
 猫は虎に勝てまい。
 だが、猫は化けるといい、虎も尋常な生物ならいずれは老いるだろう。
 それならばあるいは――そんな空想すら入り込まぬ絶対的な存在。
 眼差しを直視しただけで、その姿を垣間見ただけで、生物としてその根幹から違うモノなのだと問答無用で理解させられた。
 自分の踏みつけてきた過去などではありえない。
 唐突に現れた運命が如き理不尽で不条理な何かだ。
 剣士としての直感というよりも、生物としての本能が「関わるな」と告げていた。
 息を潜めて通り過ぎるのを待つしかないのだと。
 あれはそういうものなのだと。
 そう思った。
 そして、そうしてきた。

 なのはが、彼の言葉を受けていたと知るまでは。

 学校に呼び出されてから帰宅えの帰り道、士郎はなのはにギルさんとの会話のことを聞いた。
 その晩の内に全ての頼りえるツテ、使いえるコネ、辿りえる人脈を駆使してギルガメッシュなる人物のことを調べた。
 通常ならばそれらを総動員したのなら、一週間としないうちに素性の全てを探りえるはずだった。
 だが――

「貴方を目撃したという証言は、去年の冬木市で始まり、それ以前はない」

 冬木市。
 その町のことを、日本人ならば誰もが知っている。
 去年の冬のある日、突如として猛火が巻き起こり、大量の家々を焼き、人々の命を奪ったという凄惨な事件があったことを。
 やがては時間の果てに連れて行かれるだろうが、しばらくは人々の記憶からあの町の名前は消えることはないはずだった。
 そして肝心なことは、その町での、その事件の直前での目撃が最初であったということを別の筋の人間に伝えると、そいつは顔をしかめた後に、首を振ったのだ。
「ならば、そのギルガメッシュという男は、ホンモノだ。ホンモノの、正真正銘のギルガメッシュだ」
 それにどういう意味があるのか――遂にそいつは士郎に言うことはなかった。
 言うべきことではなかったのか、言いたくなかったのか。あるいは両方だったのか。

 それともあるいは、意味を解くまでもなく、その言葉が全てを言い表わしていたのか。

「ギルガメッシュ――叙事詩に謳われた原初の英雄。
 生と死を巡る冒険の旅と物語は、人間そのものの魂の在り方に関わっているのか、以後あらゆる神話、伝説のモチーフとなって伝承されたと、知りました」

 士郎の言葉を聞いて、美由希はどうしてか息を呑んだ。
 そうだ。
 読書家である彼女は読んだことがある。
 最古の物語、最古の英雄、最古の王――
 その偉業を。
 そして。
 彼女は、どうしてなのか、目の前の男にその叙事詩の英雄王を結び付けてしまい、困惑というよりも混乱した。 

(ありえない)

 なのに。
 神話の住人が。
 伝説の覇王が。
 物語の英雄が。
 目の前にいるだなんて――

 いや。

(――だからこそ、ありえる!)

 それは直感だった。
 そして、何よりも正しいと確信できる回答だった。

 それくらいの異常でないと、この男の存在を説明しきれない――――

 思わず、彼女は隣りに立つ自分の義兄を見ていた。
 厳しい顔をして過去の英雄の名を持つ男と、父であり師である剣士へと鋭い視線を投げかけている。
 美由希のことに気づいてるのかどうかは解らないが。

「親父……父さん……無茶だ」
「恭ちゃん」

 彼女はこの時になって、ようやく気づいた。
 自分たちがしようとしていたことを。
 自分たちが何と対峙しているかということを。

 果たしてギルガメッシュは、さも面白い道化芝居を見たかのような哄笑を口元に浮かべた。

「それが正解だ」

「やはり――ならば、死んでいただく」

 高町士郎は、静かに二刀を抜いた。

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最終更新:2009年10月17日 13:52