高町士郎は、自分の愛娘である高町なのはの将来について一つの危惧を抱いている。

 なのはの器量――容姿としての意味ではない。無論のこと、容姿としても美人になって引く手数多だろうという確信はあるが、そういう 意味ではない。
 人間としての器の大きさ、秘められた潜在的な力が並外れているのだ。
 小学生になったばかりの少女に対して何を大袈裟なと思うかも知れないが、世界を経巡った士郎には上手く言葉にはできないが解るのだ。
 なのはという娘はやがてとてつもなく力を持って――それを使ってものすごいことをなし得るのだと。
 それは例えば、歴史の中に偉人として名を残すことであるような、あるいは伝説に謳われる英雄のようになるのではないかと。
 親ばかでなしに、そう思う。
 高町なのはは、将来とんでもない何かになるのだと。
 だが、それを親として手放しに喜べたりも、士郎にはできなかった。

 御神の剣士として生まれた。
 息子も、そして娘も御神の剣士だった。

 並外れた剣士としての資質を備えて生まれ、御神の剣流を受け継いでくれている自分の子供たちは、――しかし、不憫だとも士郎は思っている。
 かつての士郎は御神の剣士として生まれ、生きて、死ぬのは当たり前のことだと思っていた。自分がその家に生まれ、その生き方を選んだのだから、嘆くことなどないのだと思っていた。
 その思い自体は今も変わらない。
 変わらないが、剣士としての一線を離れ、パティシエの桃子と共に平々凡々として暮らしていると思う。この二人にも、自分にも、もっと別の生き方はありえたのではないかと。
 勿論、今から剣を捨てろと恭也や美由希に言うようなことはない。二人のアイディンティティには御神の剣士であるということが重要な要素としてあるのは明白だし、積み重ねられた今までの修行の成果をなかったことにしろとは口が裂けてもいえない。
 それに二人は、自ら選択してここにいるのだ。
 親として師として、それらをなかったことになどできはしない。
 そんなだからこそ、末の娘であるなのはには、なのはだけには、せめて平凡で幸せな人生を送って欲しいと士郎は思うのだった。
 どれほどに人々から賛辞を浴びようとも、偉人や英雄になどにはなって欲しくはないのである。

 士郎はボディガードとして様々な人物に出会ってきた。その中には戦場で英雄と言われた者もいたし、高名な政治家もいた。彼らは確かに傍目には輝かしい日々に生きているように見えた。賞賛と尊敬の的になっているように思えた。
 だが、少し内側に入れば解る。
 彼にには常人より遥かに深刻な苦悩があり、賞賛と尊敬と同じかそれ以上の罵倒と畏怖の的でもあった。
 士郎には、なのはがそのように生きるなどとは想像もしたくなかった。したくないのに、そうなるのだということが明確に想像できた。

 それでも、まだ幼い。

 士郎は今のうちなら取り返しがつくと考えていた。
 なのははもしかしたら、将来に多くの人を救うかもしれない。もしかしたら世界の救世主になるかもしれない。
 ――だけど。
 ならなくていい。
 平凡に幸せになってくれるのが一番だと。彼は思う。
 だから、仮になのはの資質を奪うようなことになってもいいと、御神の剣も教えることもなく、本当に平凡な娘として育てた。

 そんな中で、この男が現れたのである。



 英雄王。
 ギルガメッシュ。


 見ただけで魂が震えるほどの存在。
 恐怖し、畏怖し、感服した。
 恐らくはこの世でもっとも強大なその人を最初に見た時、士郎は「この人がいれば大丈夫か」と思った。
 この人がいる世界でなら、他に英雄やら偉人などは必要ないと。
 なのはの器量とても、このギルガメッシュと比したのならば将来性を加味しても、それでも到底及ばないのだと士郎には思えた。それは願望であったか希望であったのか。
 だが。
 ある日、気づいた。
 たまに彼が訪れる日々の中で、士郎はなのはがこの人に懐き、そして感化されていくように思え出した。
 感化という言葉は適当ではなかったのかもしれない。
 強烈な魂に触れることによって、なのはの精神と魂が磨かれ、本来より早くなのはの資質が露わになっていっているだけなのかもしれない。
 士郎はギルガメッシュの素性を調べたが、それは彼を安心させるような成果に結びつかず、結果としてより彼の焦燥を煽った。
 そして、今日。

「お友達ができました」

 なのはが、ギルガメッシュに告げたのを見た時、思った。

(この人を殺そう)

 その魂の在り方、生き方がこの人に引きずられ、取り返しのつかないところに行ってしまう前に。
 高町士郎は、そう決めたのだった。




 ◆ ◆ ◆


「父さん……」
「……………」

 二人の御神の剣士は、士郎の独白を聞いて黙り込んだ。
 なのはのために――ということは聞いていた。
 そのために命をかけるというのは、あることだろう。
 それでも。

(そのために、人を始末しようと考えるだなんて……)

 美由希は倒れる父を見て、その傍らに立つギルガメッシュを見た。
 なのはの魂が、この人に引きずられていくことは――あり得ることだと、美由希は思った。それは、この戦いを経過したならば思えることではあったが。

「つくづく、愚かな」

 とギルガメッシュは言った。

「技倆は当世では並外れてはいるが、器量の程度は凡夫のそれだな」
「………………」

 そして、笑う。嘲笑に似ていたが、何処か賞賛が含まれていたように感じられるそれだった。 
 無論のこと、それは知ろうに向けられたものではなかった。


「あの娘は、なのはは飛ぶぞ」


「あれの魂は、そういう類のものだ。誰に会うとか学ぶなどということは関係ない」

「どのような形かまでは知らぬが、いずれ飛び立ち、我が侭に飛び続けるぞ」

「そのために世界を変えることすら厭わぬ魂だ」

「落ちるまで飛び続け、落ちてなお歩き続け、倒れてなお這いずって前へと進む魂なのだ」

 それ、は――

「そんな、ことは……」

 解っていた。
 士郎は目を閉じた。
 ギルガメッシュを排除しようとしまいと、関係ないのだと。
 心の奥底では、魂では解っていたはずのことだったのだ。

 それなのに。



(それなのに……俺は、馬鹿だ……)

 愚か過ぎて、涙も出ない。
 美由希は何かを言おうと口を開きかけたが、恭也が止めた。今ここで自分たちが何を言おうと意味はないのだと解っていた。

 しかし、なお残酷に言葉を重ねるのがギルガメッシュだった。
 英雄は空気を読まない。

「〝魔〟が差したな」

 笑っていたはずなのに、その時のギルガメッシュの声は、何処か重々しかった。

「…………?」

 訝る顔をした士郎に向けて、英雄王は静かに告げた。

「時に抑止の力は、道理に反したことに人を衝き動かす。神の去った時代での託宣などは大方がその類だ。直接は知らぬが、そんな抑止の導きのままに踊らされ、救国の乙女と謳われながらも魔女として処刑された娘もいた」

「父さんも、そうだというの?」

 思わず美由希が口を挟んだのは、その娘とやらに心当たりがあったからだった。
 ギルガメッシュは顔を動かして彼女を一瞥すると。

「そうだ」

 と言った。

「現在のこの世界において、この我に立ち向かうこと以上に道理に反したことなどあり得ぬ」

 あまりにも倣岸極まりない言葉であったが、こんな戦いを見せられては文句のつけようがない。
 もしも、仮に歴代の御神の剣士の全てがこの場にいたとして、この男ならばただの一振りでそれらを吹き飛ばせるのではないか――そう思わせるほどの絶対的な存在。
 この男を前にして御神の剣士であるということなど、大した意味などはない。
 美由希をしてそう思わせた。
 さらに続けて。


「哀れなオルレアンの乙女のように歴史を動かすほどのことでないにしても、その行動、行為がもたらすことが伏線となってその後の人類に影響を与えることもあろう。
 例えば通り魔の凶行で親を失った子が世の理不尽に怒り、正義の執行者となったのならば、その者の始まりは親を失ったことからであり、通り魔がいなければその者はただの一人の凡夫として人生を終えていた。
 あるいは通りがかりの盗人によって財産を失い、それによって生活の糧のため、必要にかられて世のためになる発明をした男がいれば、やはり男は財産を失うということが契機であった。
 そして往々にして、通り魔やら盗人はこういうのだ。
〝魔が差した〟――とな。
 そのほとんどは言い訳でしかないのだろうが、その中に抑止の干渉がなかったとは言い切れぬ」

 英雄王は改めて士郎を見下ろした。

「貴様は我を排除したいと願っていたこともあるが、抑止が後押しをしなければ直接に刃を向けることなどなかったろう。その程度には分別があるはずだ。自分で勝てぬと解っていながらも挑むなどということはしなかったはずだ」

「それ、は――」

 違う、という言葉を士郎は出さなかった。ただ、心の中でだけで思う。仮に抑止やら世界だかが自分に干渉した結果だとしても、それを選択したのは自分なのだ。自分の魂が彼に挑むということを決定したのだと。
 剣士として、男として、責任を別の何かのせいにすることなどは決してできない。

「しかし、解せぬ」

 ギルガメッシュは高町士郎の内心などには興味が無いように、そう言った。士郎の理由を聞いても、疑問が晴れぬようだった。

「貴様に世界が助力したということは、我を殺すことを世界が望んだということになるが……我がこの時代にいるということがすでに天意によるものだろうに。世界は何を望んでいる? 何を望んでこやつを唆した?」

 あるいは返り討ちさせて、父の死を糧にさせるつもりだったのか――とまで言ってから、「違うか」と呟き、その手に最初の剣を、天之叢雲剣を持つ。

「まあ、よい。
 大方のことは知れたのだ。あとはことの始末だ」

「………はい」

 士郎は目を閉じた。
 こうなることは、覚悟の上だった。
 殺そうとして、殺されることを考えぬ者は剣士ではない。
 恭也や美由希はどうなるだろうか、どうするのだろうかと思わなくはなかったが、ここまでの圧倒的な実力の差を見せられたのだ。いい加減に心も折れて逃げ出す算段をとるだろう。桃子となのはを連れて逃げてくれるかもしれない。

 ……心にもないことを考えるのは苦痛だった。


 この二人が父の勝てなかった相手だろうと、それで戦うことを諦めるはずもない。
 だから。

「一つだけ、願いが」
「ふむ。――いってみろ」
「罪と責任は、私が全て担うので、家族は貴方に挑まぬ限りは捨ておいてはいただけませんか?」

 それでこの英雄王が情けをかけるとも思えなかった。時代を超えて現れたこの王ならば、罪科の報いを一族全員にとらせようとするくらいは平然としそうだった。
 それでも。
 万が一の気まぐれでこの場だけでも見逃してくれたのならば。
 美由希と恭也は仇をとろうと付け狙うかも知れないが、まず生き延びるのが剣士だとは教えている。
 命を狙ってもギルガメッシュを倒す機会はないかもしれない。いや、きっとない。それならばそれは、二人の命が続くことにも繋がる。
 士郎は自分の希望が儚いものだということを自覚していた。
 だが、どうしても言わざるを得なかったのだ。

 ギルガメッシュはその言葉を聴いて、「ふん」と鼻で笑った。

「まあ、よかろう。
 貴様は一時でも我を愉しませた。その程度の褒美はくれてやってもよい」

 剣を振り上げる。
 美由希と恭也は動けなかった。
 二人は士郎が何を思ってそう言ったのかを察していた。ここでこの男に挑むということは士郎の意志を蔑ろにするということであり、自分の命を無駄にするということだった。
 御神の剣士ならば――命を無駄に捨てるのは許されない。
 命とは、目的を果たすための道具でしかないが。
 だからこそ。

 三人の御神の剣士がそれぞれに覚悟を決めていたが、英雄王は振り上げてからさらに言う。

「しかし、なのはについては、別だ」
「――――――――!?」

「仮初にも我のいる時代において、我をおいて英雄たるべき魂を持つというのは不快だ。
 世界が何ゆえにあの娘をこの時代に生み出したのかは知らぬがな、父である貴様をここまで後押しするほどに重要な存在であるというのならば、いずれ何かの役目を担っているのだろうが――所詮、この時代で英雄となったとしてもたかが知れているというもの」

 英雄の格は、乗り越えた試練の大きさに比する。

 人の祈りの結露ともいうべき勇者とも戦った。
 地の実りの守護ともいうべき怪物を打倒した。
 天の怒りの化身ともいうべき雄牛をも屠った。

 世界を経巡り全てを見た。

「その我に比する英雄などは決して現れぬ。それらに匹敵する試練などはありえぬからだ。
 そんな時代に生まれた魂こそは哀れであろう……どの程度のものになるかはまだ解らぬが、あと十年もすればその役割も知れるであろう。見定めた上で、どう処分するかはその時に考える。下らぬ使命ならば、その時は我が命を断ってやるのが慈悲だ」



 その言葉を、どう受け止めたらいいのか――。
 士郎の顔に苦悩が浮かんだ。
 覚悟を決めたのに。
 決めたはずなのに。

(せめて、一矢でも報いれれば……)

 神速をかけ――ようとして、全身に激痛が走った。
 筋肉という筋肉が悲鳴を上げた。
 脳に鑢をかけられたかのような痛みが頭蓋に響いた。

「この期に及んで、まだ諦めきれぬか。いっそ見事だ。
 しかし諦めよ。
 貴様の娘は、この腐れた世に何かの目的持って生まれたのだ。その宿命に抗えるか否かは、貴様が決められることではない。 
 なのは当人が――いや、世界の支配者たる我の決めることだ。
 そうだな、もしも――……」

 その時になって、ギルガメッシュは言葉を濁した。
 痛みも忘れて、士郎は英雄王を凝視する。
 恭也も美由希も、どう言っていいのか解らない顔をして父と同じく目を向けている。

 あらゆる存在の本質を見抜き、明確に答えを見出せるこの男が、言いよどむことなど――

「そうか」

 振り上げていた手をゆっくりと降ろし、ギルガメッシュは言った。


「こんな世界でも、間引きをすれば多少は見やすくなるな」


 三人の御神の剣士は、この男の言っている言葉の意味が解らなかった。いや、解っているはずだが、脳が理解を拒んだ。それは決して彼らにとって許容できないことであった。
 さらに英雄王は続けた。


「倒すべき悪はなく、超えるべき試練もなければ、どれほどに魂を磨こうともいけるところはたかが知れている。
 そうだな、なのはは我の臣下であったな。ならば王たる我が、あらかじめ臣下のために世界を浄化しておくというのも役目の一つか。 
 ふん。――その結論を我に抱かせるために用意した茶番か?
 まあ、よい」

 そして、剣を無造作に放り捨てた。
 天之叢雲剣は砂浜に落ちる前に消失した。

「気が変わった」

「……………?」

「喜べ。使い道のなかったモノの使い道を、今思いついた」

 それはどういう意味であるのか。
 士郎にも解らなかったし、美由希にも恭也にも当然解らない。 

 ただ、解る。

「それを使えば、この時代のこの世界も、幾分かはマシになるであろう。英雄も何も生まれる余地もなくなる。――貴様の娘も、望みどおりの平凡な人生を送れる」

 その顔に浮かぶ笑みの、なんたる美しく邪悪なことか。 

「褒美だ。その命、見逃してやろう」

 英雄王は何処からか取り出したものを美由希に放り投げた。狙い過たずその手に収まったそれは、コルクのようなもので栓がしてある小さな瓶だった。中身に入っているのは青色をした液体だ。

「治療の霊薬だ。それをこやつに飲ませよ。一晩もせず回復する」

 エリクサー……という言葉を美由希は飲み込んだ。

 ざくり、と足音をたててギルガメッシュは背中を向けた。
 月光の下で、静寂の中で、その姿はあまりにも無防備に見えたが、倒れたままの士郎はもとより、二人も立ち尽くしたままで見送るほかはなかった。

 やがて、その黄金の王の姿は夜の闇の向こう側に消えていった。

 三人の御神の剣士は、いつまでもその夜を見ていた。







 エピローグ




 あれから何年か過ぎた。

 あれというのは英雄王ギルガメッシュと高町家の御神の剣士が夜の浜辺で戦ったことであり、しかし霊薬を飲んだ士郎は一晩と立たないうちに完全回復していた。砂浜には戦いの痕跡は残っておらず、あれが本当にあったことのかとさえ思う時がある。
 夢のような出来事だった。
 それでも、神剣と打ち合わせられて刃こぼれした八景や魔弾の射出に切り裂かれた服は手元に残っていた。
 夢ではない――だが、やはり、現実離れしすぎていることには違いなく、士郎は美由希とも恭也ともあの夜の戦いのことにはずっと触れないままだった。
 だから、という訳でもないだろうが、あのギルガメッシュが最後にきてから少しの後で、なのはが魔法使いになった時もそれほど驚かずにすんだ。
 ギルさん――やはり、こう呼んだ方がしっくりくる――が「飛ぶぞ」と言っていたが、文字通りになったことを知って、笑いさえした。
 きっと、ギルさんにしてもこんな形でなのはの資質が開花していくだなどとは思っていなかったに違いあるまい。そう思うと妙におかしく感じる。
 なのはが時空管理局に入って武装局員になると決めた時は、さすがに反対しようと思ったが、その深く強い決意の篭った目を見ては何もいえなかった。
 きっと、なのはに課せられた役目というのはこのことなのだろうと思う。
 なのははそれから様々な事件を解決し、倒れ、立ち上がり、今もまた何処かの世界で飛んでいる。
 いつしか魔法も次元世界も、高町家にとって日常の一部分となっていった。
 そんな中では、家族もギルさんのことを思い出すこともなくなる日も多くなっていたが、少なくとも彼だけは八景を手に取るたび、稽古をするたびにあの夜のあの感覚を思い出し、同時にそれをして及ばなかったギルさんのことを脳裏に浮かべていた。
 あの世界と同一の存在となれていたという感覚には、あの夜から稽古と死線を幾つかくぐりぬけたが完全に至ることはもうない。一瞬だけ、数秒だけだがいける時があって、その時には敵の何処を打てば勝てるのかが容易に解る。
(これが『閃』だ)
 御神流の最終奥儀の領域に至れたということは誇らしいことではあったが、それでもなお勝てぬギルさんのことを考えると素直に喜べなかった。
(いつかまた、ギルさんと戦うことがあるのなら……)
 もう世界の後押しはない、と士郎は直観していた。
 あれは、あくまであの夜だけの一時の奇跡なのだろうと思う。
 一体、世界は何を望んで自分にあんな力を貸したのかと考えるが、未だに見当もつかない。あるいはギルさんの言っていたとおりに、彼にその結論に至らせるための茶番であったのだろうか。そのギルさんの至った結論がどのようなものかさえ、彼には解らないのだが。
(しかし、あれから十年か……)



 果たして、ギルさんはどうしているのだろうかと思う。
 使い道ができたものとは何だったのか、彼はそれで何をするつもりだったのか。考えても決して答えがでることはない。
 そして、もしもギルさんが今のなのはに出会ったらどう思うのだろうかと。
 管理局員の仕事をしていることを、くだらないと思うかもしれない。
 それともあるいは、立派だと褒めるだろうか――それは、ありえないとは思うのだが。
 ……そんなことを皿を磨きながら考えていた士郎であったが、カウンターの向こう側から彼の妻である高町桃子が話しかけてきた。
「ねえ、なのは達はまだかしら」
「ああ。多分、みんなで合流してからくるつもりなんだろう」
「そうなのかしらね。いつもなら、今頃帰ってきているのにね」
 連絡があったのは、昨日だった。
 最近は休暇でも実家に帰ることはめっきりと少なくなっていたが、なのはは帰る時はだいたい十時くらいには戻っていて、翠屋の手伝いをしているものだった。今は十一時。遅れるという連絡もないし、桃子は少し心配しているようだった。。
「あのなのはに、滅多なことはないだろう」
 士郎が心底から言うと、
「それはまあ、そうなんでしょうけどね」
 桃子は壁にかかった時計を見る。
「たまに帰ってくるんだから、もっと早く戻ってほしいのよ。あんまり久しぶりで、私昨日あまり寝られなかったんだから」
「それはまあ、解るが」
 士郎は自分の妻を眺めているが、きっとなのはのことよりも、ヴィヴィオを一刻でも早く可愛がりたいのだと悟っていた。なのはが最近とった養女であるヴィヴィオについては、親であるなのはよりも、桃子の方がずっと溺愛していた。
(まあ、血のつながりは無いが、孫だからな)
 最初の孫が一番可愛いというが。
 士郎もヴィヴィオは可愛いと思っているので、桃子に対してどうこういうつもりはない。ただ、あんまり甘やかすとなのはが怒るのでほどほどにしようと思っていた。
 一番結婚とは縁遠いと思っていた末の娘であったが、子供達の中で一番早く子供を持ってしまった。世の中、解らないなと士郎は思う。
(恭也も美由希も……がんばれ)
 さしあたっては、彼女のいる恭也よりも、今も特定の恋人のいない美由希の方が心配であるが――

 その時、翠屋の扉が開いた。

 珍しく客の入りがない日であった。
 だからという訳でもないのだが、士郎も桃子も、なのはが帰ってきたのだと思った。違うというのはすぐに解ったのだが。
「―――――――」
 桃子が、珍しく言葉を失っていたのは、彼女もまた、覚えていたからだろう。
 士郎と違い、彼女はきっと、懐かしい人がきたのだと驚いてるのだろうけど。
 士郎はあの夜のことを思い出し、脳裏に浮かぶ色あせぬその姿のままの彼へと、言葉を向けた。

「いらっしゃいませ」

「うむ」

 ギルさん――英雄王ギルガメッシュが、十年ぶりに訪れたのだった。




 ◆ ◆ ◆


「ふむ……これは、見事だ……」
 とかテーブルについてシュークリームを口にして唸り声をあげる白髪ガングロの男がいる。
 その相席で紅茶を口にして青いアロハシャツの男がいたが、「ふーん」と面白そうに自分と翠屋の店内を眺めている。
(何者なんだ)
 士郎は思うが、見当もつかない。
 解るのは、二人が並々ならぬ使い手であるということ。
 多分、単純な身体能力だけでいうのならば、カウンター席で目の前にいるギルさんよりも上だろうと思えた。それは直観だが、恐らく間違ってはない。
 ただ、その存在の格というべきか――
 魂の激しさ、勁さは、やはりギルさんが勝っているのは確かだった。
(やはり、ギルさんの部下か何かだろうか。叙事詩にはエルキドゥという朋友がいたというが……)
 二人はギルさんの部下というには、あまり敬意を払っているようには見えなかった。だからといって、かのエルキドゥであるとも思えない。だいたい二人というので違うと解る。しかし、ギルさんはそれを捨て置いてる。正直、どういう関係なのかまったく解らなかった。
 さすがの高町士郎にも、一人が抑止の守護者の顕現した姿であり、もう一人がアルスターの大英雄たるクーフーリンであるなどは解るはずも無い。
 ただ、自分では勝てない存在とだけ知覚している。
(この二人を連れて、この人は何をしに来たんだ……?)
 それが気になった。
 カウンター席で紅茶を口に含んでいたギルさんを見ると、十年前のようにジャンプを広げていた。時間が巻戻ったのではないかと、士郎は思った。恭也と美由希が高校生で、なのははまだ小学生で、魔法などは自分たちの身の周りにはなかったあの頃に戻った気がした。
 娘が何処かで戦って傷ついてないのかを心配することなどなかった、あの穏やかな日々に。
 士郎はしばらく目を閉じていたが。
「お久しぶりです」
「うむ」
 ギルさんは開いていたジャンプを閉じ、カップを置いた。
「あれから十年がたった」
「はい」
 と士郎は答えてから。
「貴方は、使い道が決まったものをどうなされました?」
 と聞いた。
 よもや雑種が自分に問うなどということを想定していなかったのか、ギルさんは不機嫌に顔をしかめたが、激怒するでもなくそのままに「あれは壊れた」と吐き捨てた。
「騎士王の一撃でな。次の顕現を持つのも面倒だ。我の定めたることを打ち曲げるとは、つくづくあの女は度し難い」
「……………」
 騎士王というのが誰なのかもやはり解らなかったが、その人が女性であるのだということは解った。そして、度し難いと言いながらもその口元の歪みは笑みのそれとなっていた。まるで、自分に逆らったということを愉快だと思っているかのような。
 士郎は詳細を聞こうともせず、ギルガさんもそれ以上のことを語るつもりはないようだった。
 やがて。


「貴様の娘は――なのはどうなった?」

 と聞いた。
 さして興味のあることではないが、ついでに聞いたという風であったが。
 士郎は顔を上げて。
 ずっと以前から、ギルさんに再会したのなら。
 なのはのことを聞かれたのなら。
 こう答えよう――そう思っていた言葉を口にしていた。

「飛んでいます」

「何処かの世界の空を」

「きっと飛び続け、いつまでも進み続けるでしょう」

 そうだ。
 あの頃と違っていることは。
 なのはが自分の元から飛び立ったということ。

 それはあるいは、魔法とか英雄の資質とか、そんなことは関係なくて。
 親ならば、当たり前に遭遇する出来事の一つであったのかもしれない。

 今は、そう思う。

 きっと、何処の親もそうなのだ。
 きっと、何処の子もそうなのだ。

 親の心配など気にせず、子は飛び続けるのだ。

 なのはもその一人にしか過ぎないのだと、士郎は思う。ただ、その飛べる高さが、ゆける距離が並外れているというだけで。
 誰もが望めば飛び続けていられるのだろう。
 魂の輝く限り。

「そうか」

 とギルさんは、言った。静かな声だった。
 それだけを聞いて用は無くなったとばかりに、彼は立ち上がって連れてきた二人に「出るぞ」と声をかけた。
 桃子が待ってくださいと慌てて厨房からケーキを詰め合わせた紙袋を持ってくる。
「久々のお越しなのですから」
「うむ」
 まったく遠慮することなく、鷹揚な態度でそれを受け取ったギルさんは、その紙袋を先に出ようとした白髪の男に押し付けた。少し迷惑そうな顔をしたが、その男は「よかろう」と言って受け取って出て行った。
 ギルさんも続いて進んだが、ふし足を止めて、振り向いた。



「それで、貴様は、なのはを、自分の娘をどう思っているのだ?」

 士郎は目を見開いた。
 今まで何度も、何十回もギルさんがどういうことを聞いてくるのかを考えていた。
 様々な問いかけを想定していた。
 その、どれにもこの問いはなかった。

 だから。

「自慢の娘です」

 と、素直に口にしていた。
 ギルさんは「そうか」とだけ言って、そのまま扉をくぐった。
 その姿がなくなり、恐らくは彼らがここまで乗ってきただろう車が走り去っているのを見た時、士郎は自分の妻が何かに驚いたような、何処か遠くを見ている眼をしているのに気づく。
「どうしたんだ?」
 心配して声をかけると、桃子は我に返ったように「なんでもないわ」と答える。
「そうか? なんだか真っ赤になってるが……その、奥で休んだ方が……」
「大丈夫よ」
 弾んだ声で答えられ、士郎は「そうなのか」とだけ言って黙り込んだ。


 桃子は、立ち尽くして自分が見たものを思い返していた。
 多分、自分しか見ていなかったのだろうと彼女は思う。
 あの時、ギルさんは、彼女の夫に聞いて、その答えを得た時。
 前へと向き直った時。
 確かにその顔に、見たこともないような笑みが浮かんでいたのだ。
 それはきっと、この笑みを見たいがために、遠く古代のウルクの人々はこの人のために尽くしたのだと思わせる、その笑みを浮かばせたことが生涯の誉れとなるような、そんな微笑みだった。
 桃子は思う。
 あんな微笑をこの時代、この場所で見れることは奇跡にも似たことなのだと。いや、奇跡そのものなのだと。
 そして、それを浮かばせたのは彼女の夫であり、彼女の娘であったのだと。
 それは何よりも誇らしいことなのだと。
 桃子は思う。
 奇跡を起こして笑顔を呼ぶ者を――人は英雄と呼ぶのだと。
 だから。
 桃子は歩き出した。
 向かう先には、彼女の夫がいる。

 彼女にとっての、英雄が。








「ただいま」


 そして、もう一人の英雄が扉を開けた。





 空は青く、雲ひとつ無い。
 今日の海鳴市は、いい天気だ。 






 なのぎる外伝 おしまい。 
最終更新:2010年05月18日 23:27