{{基礎情報 テレビ番組
|番組名=NHKニュースワイド
NHK NEWS WIDE
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|ジャンル=報道番組
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|制作局=日本放送協会(NHK)
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|出演者=歴代のキャスターを参照
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|番組名1=放送開始から1983年3月まで
|放送時間1=月曜 - 土曜 7:00 - 8:12
|放送分1=72
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|放送期間1=1980年4月7日 - 1983年3月
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|番組名2=1983年4月から1984年3月まで
|放送時間2=月曜 - 土曜 7:00 - 8:14
|放送分2=74
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|放送期間2=1983年4月 - 1984年3月
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|番組名3=1984年4月から放送終了まで
|放送時間3=月曜 - 土曜 6:45 - 8:13
|放送分3=88
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|放送期間3=1984年4月 - 1988年4月2日
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『NHKニュースワイド』(エヌエイチケイニュースワイド、英称:NHK NEWS WIDE)は、1980年4月7日から1988年4月2日までNHK総合テレビで放送された朝の報道番組。
それまで総合テレビは、7時台に全国ニュースを放送した後に情報番組『スタジオ102』を放送していたが、この番組はそれをひとまとめにして、NHK初の早朝ニュースショーを確立した。
72分間にわたって放送する総合編集による大型ニュース番組で、様々な情報や話題等を親しみやすくお茶の間に伝えるというのをコンセプトにしていた。
番組の構想としては、『スタジオ102』が持っていた柔軟なスタイルからニュース中心のスタイルへ大幅な刷新をすることだった。そのため、制作体制は記者とディレクターと一緒に創るという、言わば朝の『ニュースセンター9時』を目指すというもので、計画当時の仮のタイトルは『モーニングセブン』だった。
しかし、ニュースセンター9時の開始以降、記者出身のキャスターが登場してから、危機感が募らせていたアナウンサー陣にとってはこの朝のニュースの大幅刷新を知った時には頂点に達し、ついには緊急集会が行われることになった。集会の中で当時のチーフ・アナウンサーの鈴木健二は「“102”に代わる新番組のキャスターは、アナウンサーの既得権であり、これを取られたら、もはや全国にいる550人のアナウンサーの目標がなくなってしまうじゃないですか」と、アナウンス室長の杉沢陽太郎に詰め寄ったりもした。その上で、鈴木はキャスターニュースの意義や新しい時代の要請は認めながらも、「朝のニュースはやはり落ち着いた声で気分よく伝えるべき」と主張している。
一方でデスクの森本毅郎は「海外のニュースを見ているとテンポが速く、ニュースフロアから最新技術を使って、臨場感あふれるニュースを繰り出している」とし、その上で、「アナウンサーはしゃべる人、記者は取材する人という時代は、もう終わったんじゃないの?」とした。つまりはアナウンサーも現場に行って取材し、リポートで勝負し、「やるじゃないか」と言わせれば将来への道が開けるという意見だった。
そのため、キャスターの選考は難航していた。実は、平日の初代男性キャスターには山川静夫が予定されていたが、それを山川に打診したのが森本であった。しかし、山川は断固として拒否した。また、当時の報道局長の島桂次は、アナウンス室から持ってくるキャスター候補を次々と握りつぶしていた。
これを聞いた森本はアナウンス室長の杉沢に「どんな候補者だって、この世界で20年以上頑張り、立派な技能と自分の価値を高めてきた人たちでしょう。もうキャスターの座はいらないと突っ返しましょうよ」と主張。結局、「朝のニュースキャスターはアナウンサーでいく」と決断し、そのキャスターには森本が起用されることになった。
目標としては「ニュースセンター9時」に追いつくことであって、森本自身、NHKで定められていた読みの早さである、1分間で300字を460字にしたのである。しかし、視聴者からこれについての苦情が相次いだ。また、現場(外務省や大蔵省、官邸)にも出かけてその感覚を感じ取った。
スポーツコーナーは3 - 4分の枠があったが、「スポーツキャスターのトークショウ」というコンセプトの下、スポーツの興味深いところを視聴者に“聞いてもらう”という方針であった。
松平は「新しいスポーツコラムを目指しました」とした上で、「次に何が起きるかその先の展開を伝えてしまう。その後でなぜそうなったかを言う。できるだけ魅力的なフレーズで短く言い切る表現を心がけていました」と、伝え方の工夫について語っている。
また、当初は記者とディレクターの対立は激しかったが、報道班主管の鹿野菊次郎らの努力で、独自の取材やキャスター陣のテンポのいい活き活きとしたニュースの伝え方、さらに記者とディレクターの融和が進み、次第にチームワークが良くなったおかげで視聴率が30%を超す番組となった。
森本はこの番組について「原稿が命の原稿派・伝統派の記者は次第に淘汰され、できる限り、映像と生の音を活かした新しい番組を創ろうという流れができた」、つまりは「すみずみまで血の通っている“番組”だと感じましたね」と振り返っている。
なお、NHKニュースワイドが始まった1980年にはミニハンディカメラとその関連機器が各地の放送局に配備され、1985年内には東京の放送センターのフィルム現像の業務が終了している。
1983年にはヘリコプターによる中継リポートを週平均3回行うことになった。1974年にはすでにヘリコプターによる中継システムが開発されていて、渋谷の放送センターに周囲150kmをカバーできる自動追尾装置を設置していた。
初代のリポーターはアナウンサーの幸田儔朗(こうだ・ともお)が務めたが、ネタ探しから、取材、出演交渉、原稿作り、さらにはカメラマンに対して映像の撮り方の指示やパイロットに対してヘリコプターの動きの指示の一切を1人で行った。
初回は4月8日で、東京都桧原村にある分校に入学するたった1人の新入生に焦点を当ててリポートした。内容は、「山あいの道の先にあるかやぶき屋根の集落、そこに、晴れ着姿の母に手を引かれて、ランドセルを背負って帽子をかぶっている男児が、すでに家の前に出ている。そして、男児はヘリコプターに対して手を振っている。その先の、家の庭には鯉のぼりが泳いでいる」という、2分間少々のリポートであった。
それ以降、幸田はヘリコプターによる中継リポートを週3回行っていたが、あらかじめ予備の素材VTRをいくつか用意しておかなければならず、時には火事や事故の一報をヘリから伝えなければならなかった。幸田自身、「地上以上に不自由なんです。くどいように映像を中心に説明をしていた。VTRを使って何でも見せてしまうのではなく、もどかしさをバネにして、こちらも苦心する、受け手側の想像力もかきたてるという方法でもあったと思います」と当時の苦労を語っている。
なお、このヘリコプターによる中継リポートは、1984年からアナウンサーの樋口淳一が担当するようになった。
この番組の開始当初、気象情報コーナーは2人のアナウンサーが交互に伝えていたが、1982年からは、桜井洋子が気象情報コーナーのキャスターを務めるようになった。
桜井は当初、この気象情報のキャスターの依頼を受けて「明日は、晴れるでしょう」という、当時の天気予報のイメージが強かったため、拍子抜けというか憤りを感じた。しかし、桜井は当時の上司から「アナウンサーも、これからは専門性の時代だ。次の世代の先兵となれ」という言葉も耳に残っていて、「経済気象学ということが盛んに言われている時代だ。天気予報は、やはりただのお天気ではなく経済や毎日の暮らしに、密接に結びついているんではないだろうか」と思った。その為、桜井は「やるしか、ないのかしら」と切羽詰った気持ちで、「気象情報コーナー」を引き受けた。
それでも、桜井自身、天気のことは全く分からなかったため、当時ニュースワイドのスタッフで気象災害班の記者をしていた、藤吉洋一郎に相談した。藤吉は、「毎日担当するんだから、ひとつ、社会部の記者が誰ひとり実現しなかったことをやってほしい」「つまり、天気がどう変わっていくか、ずっとフォローしてほしいんだ」と進言した。具体的には「たとえば、昨日東シナ海に発生した低気圧が次第に発達しながら、日本の南岸に大雪を降らせ、北海道に向かってさらに大きく発達し、人が山で遭難し、海は時化て船の航行にも注意がいる。」「そういったことを、ずっと追って行ってほしい。昨日の天気予報が当たったかどうかもふくめて、ずっと天気のことを気にかけていてもらいたい」と、桜井に対し、アドバイスをした。
気象情報コーナーの担当になると、冒頭のあいさつを桜井自身で考えることになっていて、気象庁の情報を気象台などで配信する専用の通信回線・アデスを活用して、この日発生した気象に関するニュースを入れ特徴を持たせた。それだけでなく、全国の気象台に電話を入れ、取材をした。その取材は、午前6時前に行うため、泊まり明けの気象予報官はもちろん、一方で、桜井は予報官の自宅に電話して取材を行うこともあった。その為、「NHKの桜井洋子の『夜襲』ならぬ『朝襲』があるぞ」と、全国の気象台に噂が立つようになった。桜井は、現地の人に取材することで、より多くの情報を仕入れることになり、その情報が、その日の見出しになることも多かった。
1983年4月からはアメダスを映像化し、気象情報コーナーで活用することになり、実際このアメダスを使った気象情報コーナーが始まると、アメダスの意味を知らない視聴者から「正確に『雨です』と発音しなさい」「なぜ関西弁で『雨だす』というんですか」というように投書や電話が殺到し、桜井自身「アメダス姉さん」と呼ばれるようになった。
その1983年4月27日の昼過ぎに東北各地で発生した山火事、特に岩手県久慈市では山火事が長引いた。その原因であるフェーン現象について説明することになっていたが、前のコーナーが押し、気象情報コーナーが普段は2分のところが、20秒になってしまい、フェーン現象について「気温が上がる」としか説明できなかった。放送が終わった後、桜井は「気温が上がるということよりも南風が入って火事が起きやすいといえばよかった」と振り返る。
また、1983年-1984年からは連続テレビ小説・おしんが放送されていて、その前の天気コーナーは8時13分ごろからの2分間で、そのあとに、おしんが放送されることとなる。その為、投書の中には「番組の最後にアメダスに続いて『おしん』だす、といったらどうか」というのもあった。
また、1983年には気象庁記者クラブに入り、その翌年の1984年の冬に「気象庁が出していた三ヵ月予報では、暖冬となっていたが、実際には、寒冬と修正。」という事実をニュースにし、特ダネとなり、桜井は報道局次長賞をもらった。この背景には、当時、女性の記者が珍しく、気象庁の職員もずいぶん親切だったということがあった。
全てJST。
なお、土曜日は7:30以降ローカル放送であった。この形式は現在まで引き継がれている。また、1984年5月に試験放送を開始した衛星第1放送(1987年7月以後は衛星第2放送)でも同時放送されたが、ローカルニュース(7:30 - 7:50。土曜日は8:13まで)は当初は関東7都県向けのものをそのまま送り、その後は週替わりで各地域基幹局製作のローカルニュースを放送していた。
期間 | 平日 | 土曜日 | ||
---|---|---|---|---|
1980.4 | 1980.12 | 森本毅郎 | 頼近美津子 | 明石勇 山根基世 |
1981.1 | 1982.3 | 介川裕子 | ||
1982.4 | 1982.9 | 丸山朋子 | ||
1982.10 | 1983.3 | 池田裕子 | ||
1983.4 | 1984.3 | 草野仁 池田裕子 | ||
1984.4 | 1986.3 | 曾我健 | 小宮山洋子 | |
1986.4 | 1988.3 | 今井義典 | 桜井洋子 |
放送開始から1983年までは緑色の大陸が左右に揺れながら上に時空空間のような青い空間が現れる。日本列島が近づくと太陽らしき球体からタイトルがジャンプする。なお上半分の背景は青から緑に変化する。CG製作。 1986年から1987年のオープニングは、お天気カメラ映像をバックにアナログ時計の時報が流れ、ブルーバック(濃紺に近い)背景から「NHK NEWS WIDE」の文字が流れ込み、そのまま回転して地球を形成する。地球の回転と反対向きに、NHKニュースワイドの文字が登場する。そして、地球が開いてお天気カメラの映像に切り替わり、NHKニュースワイドの文字が右下に縮小されて移動。このオープニングは、当初は番組冒頭(6:45)に流れていたが、途中から7時の時報直後に移行した(6:45のオープニングは、それまで7時の時報後に使われていた簡易タイプのタイトル映像となった)。なお、土曜日は6:45・7:00ともに、フルオープニングだった。
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