MBSヤングタウン

MBSヤングタウン(エムビーエスヤングタウン)は、MBSラジオ毎日放送)が深夜に放送しているラジオ番組

1967年10月2日に『歌え!MBSヤングタウン』として放送開始。通称"ヤンタン"

概要

1960年代後半から深夜番組の黄金期を築いてきた番組。一時は、毎日22時から放送していた。

当番組へのレギュラー出演で人気を博したことを機に、活躍の場を全国にまで広げた著名人は、桂三枝(現・六代 桂文枝)、笑福亭鶴光谷村新司笑福亭鶴瓶明石家さんま嘉門達夫ダウンタウン渡辺美里つんくなど多数にのぼる。また、現在に至るまで、曜日ごとの放送を指す場合に『ヤン○』(○は放送曜日の頭文字、「月曜日」の場合には「ヤン月」)という略称を用いることが多い。

なお、MBS以外のラジオ局が制作・放送した『ヤングタウン』のうち、TBSラジオ1969年10月から1986年9月まで関東ローカルで毎週土曜日に放送していた『ヤングタウンTOKYO』シリーズは当番組の姉妹番組に当たる。NRNに加盟する地方局への裏送り番組として1975年4月から1986年3月まで文化放送が制作していた『ヤングタウンAM』については、「(『MBSヤングタウン』『ヤングタウンTOKYO』に次ぐ)第3の『ヤングタウン』」と呼ばれていたが、当番組とは直接の関係がない。

歴史

番組開始までの経緯

1960年代前半までのMBSラジオ(MBS)は、在阪ラジオ局の聴取率において、ラジオ大阪(OBC)ABCラジオ(ABC)の後塵を拝していた。特に深夜帯では、『アナウンサーコーナー』(OBCが開局直後から放送を開始)と『ABCヤングリクエスト』(ABCが1965年4月から『ヤンリク』の愛称で生放送)の前に、大きく水をあけられていた。

MBSでは1967年春に、当時ラジオ制作部のディレクターで一番若かった渡邊一雄が、ラジオ編成部からの指示で若者向け深夜番組の準備を開始。テンポの早いトークで進行しながら、フォークソングロックをふんだんに流す番組の計画を練り上げた。

ちなみにMBSでは、当番組の本放送を始めるまで、平日の深夜に15分間・半年限定のパイロット番組を放送。渡邊は、入社2年目ながら長髪などで「若者の兄貴分」という雰囲気を漂わせていたスポーツアナウンサー・斎藤努を、この番組のパーソナリティに抜擢した『ヤンタンの時代。』第一章「みんな名もない新人だった 斎藤努編」より。

1960年代

渡邊は本放送を前に、聴取対象を25歳以下の若者に限定しつつ「子供向きの内容」にしないことや、彼らに連帯感を持たせるべく毎日放送千里丘放送センター(当時)内で最も広い第1スタジオで放送日の夕方に公開収録を実施することを決定。『歌え!ヤングタウン』というタイトルで、1967年10月2日月曜日)から本放送を開始した。

開始当初は、24:10 - 26:00の時間帯で放送。斎藤が全曜日の公開収録で司会を務めるとともに、高橋キヨシ(ギタリスト)と十川尚子(ピアノエレクトーン奏者)をレギュラーに起用した。また、関西地方で活動するアマチュアのフォークグループ(アマチュアバンド)2組を日替わりで出演させるとともに、プロのバンドやフォーク歌手を随時ゲストに迎えていた『ヤンタンの時代。』第二章「『ヤンタン今月の歌』関西に新しいフォークが生まれた ザ・フォーク・クルセダーズ編」より。。ちなみに、第1回のゲストは、当時アマチュアで活動していたザ・フォーク・クルセダーズであった前出の「ザ・フォーク・クルセダーズ編」より。当番組への出演時点で解散を決めていたが、出演直後に『帰ってきたヨッパライ』(自主制作によるLPレコード『ハレンチ』の収録曲)が空前の大ヒットを記録した。。

本放送に際しては、MBSラジオ編成部の計らいで、自社制作番組では最も多額の予算を付けられていた。開始当初こそ公開収録への人出や局内の評価は芳しくなかったが、回を重ねるたびに収録への参加者が増加。ヴィレッジ・シンガーズをゲストに迎えた公開収録(1968年1月)に観覧希望者が殺到したことから、以降の放送では、往復ハガキでの応募を条件に観覧希望者へ参加整理券を配布するようになった『ヤンタンの時代』第一章「みんな名もない新人だった 斎藤努編」より。

1968年からは、当時MBSのテレビ部門(MBSテレビ)で毎週日曜日に放送していた『スミ子と歌おう』(自社制作・公開収録による坂本スミ子司会の音楽番組)をヒントに、オリジナルソングを毎月1曲ずつ放送する「ヤンタン今月の歌」(後述)を始めた『ヤンタンの時代。』第二章「『ヤンタン今月の歌』関西に新しいフォークが生まれた ロック・キャンディーズ編」より。『スミ子と歌おう』は当時、MBSテレビで毎週日曜日の午前9時台に放送。エンディングで坂本が「今月の歌」を披露していた。『戦争は知らない』(寺山修司作詞・加藤ヒロシ作曲)も、最初は「今月の歌」として発表されていた。しかし、斎藤は同年4月から、プロ野球中継の実況・リポーターも兼務。当番組への出演日が週の前半(月~水曜日)に限られるため、放送開始後のオーディションを経て月曜日の1コーナーにレギュラーで出演していた桂三枝を、週の後半(木~土曜日)の司会に抜擢した。同時に、収録中の演奏を希望するアマチュアバンドの応募件数が増加の一途をたどっていたことから、千里丘放送センター第一スタジオなどで定期的にオーディションを実施するようになった前出の「ロック・キャンディーズ編」より。後に当番組でディレクターを務める大谷・増谷も、学生時代にオーディションへ参加していた。。

これを機に、番組の聴取率は、当時の深夜番組平均の20倍に相当する4%にまで上昇『ヤンタンの時代。』第一章「みんな名もない新人だった 斎藤努編」より。当時駆け出しの落語家だった三枝を、一躍スターダムに押し上げた。また、MBSテレビでは、1969年7月から斎藤・三枝の出演で『ヤングおー!おー!』(毎日放送千里丘放送センター内のミリカホールを中心とした公開収録番組)を放送。同年10月からは、MBSラジオの系列局・TBSラジオでも、毎週土曜日に公開生放送形式で『ヤングタウンTOKYO』を開始した。

ちなみに三枝は、当番組と並行しながら、『ヤングタウンTOKYO』にも放送開始から1975年9月までパーソナリティとして出演。毎週土曜日に大阪で当番組の収録を済ませてから、飛行機による移動を経て、当日の夜に東京で『ヤングタウンTOKYO』の生放送に臨んでいた。

1970年代

1970年には、『ヤングおー!おー!』や大阪万博(千里丘放送センターの近隣で開催)の人気に押されるかのように、当番組への参加者が激減。『ヤングおー!おー!』が軌道に乗ったこともあって、当番組では同年9月に公開収録をいったん終了した『ヤンタンの時代。』第二章「『ヤンタン今月の歌』関西に新しいフォークが生まれた 北山修編」より。。

1970年10月からは、千里丘センター内ラジオスタジオからの生放送へ移行するとともに、番組タイトルを現在の『MBSヤングタウン』に改称。当番組を放送する前の「初心」に還ることを目的に、斎藤を含むMBSの男性アナウンサーと女性タレントのコンビ(後述)が、週2日ずつパーソナリティを務めるようになった『ヤンタンの時代。』第一章「みんな名もない新人だった 笑福亭鶴光・角淳一編」より。しかし、半年後にタレントのレギュラー出演を復活させるとともに、お笑い主体の路線へ回帰。また、土曜日のみ公開収録を再開させたうえで、人気のアーティストやバンドを週替わりでゲストに迎えるようになった。

大阪府住宅供給公社泉北ニュータウン内の堺市三原台に完成させた若年勤労単身者向け居住街区を「ヤングタウン」と命名した1972年ただし、大阪府は2000年代の前半に、「ヤングタウン」関連の事業を廃止。同事業向けに建てられた集合住宅も2012年2月までに解体されたため、「ヤングタウン」は南海バスの停留所に名を残すだけになった。には、4月に「今月の歌」を終了させる一方で、10月からは、放送時間を3時間に延長。1973年4月には、24:00からだった放送開始時間を22:00にまで繰り上げた。

1976年1977年の在阪ラジオ局聴取率調査では、当番組の平均聴取率が10%台にまで到達。在阪全局・全番組では、谷村・ばんばひろふみ・佐藤良子(当時MBSの契約アナウンサー)が出演する「ヤン水」が1位、鶴光の相手を角淳一佐々木美絵(いずれも当時は同局アナウンサー)が務める「ヤン木」が2位を記録している。なお、この時期を境に、MBS全体の聴取率もOBC・ABCを上回るようになった『ヤンタンの時代。』第一章「みんな名もない新人だった 笑福亭鶴光・角淳一編」より。この影響で、ABCは『ヤンリク』のリニューアル、OBCは1970年から裏番組として放送してきた『バチョンといこう!』シリーズの終了を余儀なくされたという。。

1980年代

歌え!ヤングタウン』時代から当番組への出演を続けてきた三枝は、1979年12月1日土曜日)の放送を最後に勇退。同年4月からレギュラーで共演していたさんまが、後任のパーソナリティに起用された。この時期から、鶴光・谷村・ばんばに加えて、さんま・紳助・原田伸郎やしきたかじん嘉門達夫西川のりおチャゲ&飛鳥など多彩なパーソナリティが台頭。ある曜日のパーソナリティが別の曜日の放送にもゲストで登場するなど、曜日の枠を越えながら番組を盛り上げるようになった。

また、土曜日の公開収録を1985年3月で終了させる一方で、リスナーも参加・鑑賞できるイベントを積極的に実施。「ヤンタンオールスターズ」(出演者・スタッフで結成した草野球チーム)が松山千春とんねるずなどの芸能人チームと対戦した「ヤンタン野球大会」(後述)や、1981年SABホールで開かれた角・鶴光による「ど角・ど鶴のええか、ええかコンサート」などはとりわけ人気を博した。その一方で、長年のライバルであった『ヤンリク』は、1986年10月3日で20年半もの歴史に終止符を打っている。

なお、1980年代の後半には、金曜日のみ『MBSヤングタウン』と『ヤンタンキンド館』の2本立て体制で放送。月~木曜日にも一時、『MBSヤングタウン』の後に、姉妹番組として25時台に『ヤンタンミュージックゾーン ザ・リクエスト』を放送していた。さらに、1987年度のナイターオフ期間には、平松邦夫(当時MBSアナウンサー、後の大阪市長)の出演で金曜日の19・20時台に『平松邦夫のミセスヤングタウン』を放送していた。

1990年代

MBSは1990年に、千里丘放送センター内の本社機能を現在の社屋(大阪市北区茶屋町)へ移転。当番組も、8月31日まで同センターから放送した後に、9月1日から現在に至るまで主に茶屋町本社内のラジオスタジオを使っている。

しかし当番組では、在阪FM局(FM大阪FM802など)の台頭やコーナースポンサーの撤退などによって、1990年代初頭から人気に翳りが出始めた。また、1980年代の人気を担った前述のパーソナリティが続々と卒業。一時は、東京を中心に活動するタレント(主に女性アイドル)や若手ミュージシャンを前面に押し出す路線に転換した。

1991年10月から1993年3月までは、日曜日のみ『ヤンタンスペシャルサンデー』とのタイトルで放送。1994年1月からは、『MBSヤングタウン』月~木曜日の放送枠を24:00 - 26:00に繰り下げるとともに、同番組を放送していた22:00 - 24:00で音楽リクエスト番組『ヤンタンあそびのWA!』を開始した。また金曜日には、22:00 - 25:00に『ヤンタン はなまるフライデースペシャル』を放送したうえで、25:00からの1時間を『MBSヤングタウン』に充てていた。

さらに、『歌え!ヤングタウン』の放送開始から30周年に当たる1997年10月には、『ヤンタンあそびのWA!』『ヤンタン はなまるフライデースペシャル』を終了。『ヤンタンあそびのWA!』の後継番組として『MBSヤングタウンMUSIC MAX』を始めたため、『MBSヤングタウン』の放送日を金~日曜日の3日間にまで減らした。もっとも、このように放送内容や放送枠の変更を重ねても、かつての人気を取り戻すまでには至らなかった。

2000年代以降

MBSでは1997年10月から、月~木曜日の『MBSヤングタウン』を22:00 - 24:00で再開するとともに、『MBSヤングタウンMUSIC MAX』を月~水曜日24:00 - 26:00へ移行。『MBSヤングタウンMUSIC MAX』では、火曜パーソナリティのシンガーソングライターaikoが、出演期間中の1998年7月にメジャーデビューを果たした。

しかしMBSは、1999年10月の改編で『MBSヤングタウンMUSIC MAX』を終了。同時に、『MBSヤングタウン』を平日の放送枠から撤退させた。当初は『MBSヤングタウン』の土・日曜日も一斉に終了させる予定であったが、当時「ヤン土」へ出演していたさんまや、「ヤン日」のパーソナリティとして同年4月に復帰したばかりの鶴瓶などが番組の続行を懇願。そこでMBSでは、土・日曜日の放送体制を維持するとともに、さんまを「ヤン土」・鶴瓶を「ヤン日」でそれぞれ続投させた。

現在は、「ヤン土」「ヤン日」とも22:00 - 23:30の時間帯で放送している。「ヤン土」については、原則として前日(金曜日)にMBS東京支社内のラジオスタジオで収録した内容を放送。ハロー!プロジェクトの新旧メンバー(放送上の通称は「ヤン娘。」)をはじめ、アップフロントグループ内の芸能事務所に所属する女性タレントが、代々さんまのパートナーを務めている。「ヤン日」では一時、「鶴瓶のすわるラジオ」というタイトルで、出演者の座りトークによる街頭収録を実施していた。現在は、MBS本社内のスタジオで収録した内容を中心に放送している。

なお2010年には、8月30日から同年9月3日まで、(平日を含む)1週間にわたって「MBS開局60周年記念番組 MBSヤングタウンスペシャル」を22:00(JST。ナイター中継で開始時間変更あり)から放送。三枝が六代 桂文枝を襲名する直前の2012年7月14日土曜日)の16:00 - 17:38には、六代桂文枝襲名企画の第1部として、『復活!桂三枝の歌え!MBSヤングタウン』を公開収録形式で放送した。

現在の出演者

詳しい情報は各ページを確認。

ヤングタウン土曜日
※中澤・保田・吉澤・藤本・高橋の中から1名が出演(週により2、3名が出演する場合あり。その他のハロー!プロジェクトメンバーも出演する場合あり)
ヤングタウン日曜日

歴代パーソナリティ

  • 1967/10-1968/3 斎藤努(当時・MBSアナウンサー)
開始当初は、深夜0時10分(24:10) - 2時(26:00)に放送される公開収録番組だった。
  • 1968/03-1970/09 斎藤努(月 - 水曜日)、桂三枝(木 - 土曜日)
  • 1970/10-1971/03 緒方憲吾・前田佳英子(月・火曜日)、池口和雄・壇上英子(水・木曜日)、斎藤努・横井久仁江(金・土曜日)
前述の事情で公開収録への参加者が減っていたことに加えて、学生運動の影響で公開収録をいったん終了。全ての曜日で当時のMBSアナウンサー(緒方・池口・斎藤)がパーソナリティを務めるとともに、スタジオからの生放送へ移行した。
  • 1971/04- 以降のパーソナリティは、曜日別に記載。
元の番組内容に戻すとともに、土曜日のみ公開収録を復活( - 1985年3月)。
月 - 木曜日は『ヤンタンあそびのWA!』、金曜日は「ヤンタン はなまるフライデースペシャル」と題し、2部構成に。1部は、大角が音楽中心のコーナーを担当。金曜日は従来平日にやっていた「はなまるリクエスト」を拡大したうえで、大角と上泉雄一(MBSアナウンサー)と共に放送していた。
番組開始30周年を迎え、月曜 - 木曜は音楽リクエスト番組『MBSヤングタウンMUSIC MAX』となり、ヤンタンは金曜 - 日曜に縮小。
  • 1997/10-1999/09
再び、月曜 - 日曜の放送に戻る。『MBSヤングタウンMUSIC MAX』は放送枠を平日深夜に移すとともに、aiko林あさ美などがパーソナリティを務める。
月 - 金曜日の平日枠を全て終了。土・日曜日のみの編成で現在に至る。

月曜日

火曜日

  • 1984/07-1989/02 河合奈保子・嘉門達夫時代
    • 1984/10-1986/03 河合奈保子嘉門達夫、長井展光(毎日放送アナウンサー・当時)
    • 1986/04-1987/09 河合奈保子、嘉門達夫、寺崎要
    • 1987/10-1989/02 河合奈保子、嘉門達夫、寺崎要、伊藤秀志

水曜日

  • 1978/04-1987/12 原田伸郎時代
    • 1978/04-1980/09 原田伸郎、大津びわ子、笑福亭笑光(嘉門達夫)、伊東正治(毎日放送アナウンサー・当時)
    • 1980/10-1981/03 原田伸郎、ザ・ぼんち松原みき、桂雀々、伊東正治
    • 1981/04-1981/09 原田伸郎、松原みき、桂雀々、伊東正治
    • 1981/10-1982/09 原田伸郎、イリア、桂雀々、伊東正治
    • 1982/10-1983/03 原田伸郎、イリア、嘉門達夫、伊東正治
    • 1983/04-1984/09 原田伸郎、イリア、嘉門達夫、金指誠(毎日放送アナウンサー・当時)
    • 1984/10-1985/03 原田伸郎、水島依子、MAKOTO、金指誠
    • 1985/04-1987/03 原田伸郎、渡辺美里、MAKOTO、金指誠
    • 1987/04-1987/12 原田伸郎、西岡芽生、笑福亭笑瓶、金指誠

木曜日

  • 1971/04-1971/09 桂三枝、市丸
  • 1971/10-1972/09 レツゴー三匹、高野久仁子
  • 1972/10-1973/03 谷村新司
  • 1973/04-1974/03 林家小染末広真樹子
  • 1974/04-1975/03 林家小染、桂きん枝、麻田ルミ
  • 1975/04-1975/09 近藤光史(毎日放送アナウンサー・当時)、月亭八方、佐藤良子
  • 1975/10-1976/03 近藤光史、桂きん枝、紀平まり子
  • 1976/04-1984/03 笑福亭鶴光・角淳一時代(第3次・金曜日から異動)
    • 1976/04-1977/09 笑福亭鶴光角淳一(毎日放送アナウンサー・当時)、佐々木美絵(毎日放送アナウンサー・当時)
    • 1977/10-1978/03 笑福亭鶴光、角淳一、原田伸郎、佐々木美絵
    • 1978/04-1979/09 笑福亭鶴光、角淳一、佐々木美絵
    • 1979/10-1982/03 笑福亭鶴光、角淳一、石川優子
    • 1982/04-1983/03 笑福亭鶴光、角淳一、石毛礼子
    • 1983/04-1984/03 笑福亭鶴光、角淳一、西端弥生


  • 1984/04-1987/07 島田紳助時代

金曜日

  • 1971/04-1971/09 北山修、松尾千里
  • 1971/10-1972/03 杉田二郎、横井くにえ
  • 1972/04-1972/09 杉田二郎、田中恵子
  • 1972/10-1973/09 キャッシー、山本雄二
  • 1976/04-1977/03 ピーター、キャッシー
  • 1977/04-1978/03 ピーター、鈴木美智子伊東正治(毎日放送アナウンサー・当時)
  • 1978/04-1986/12 谷村新司・ばんばひろふみ(チンペイ・ばんばん)時代
    • 1978/04-1983/03 谷村新司ばんばひろふみ、佐藤良子(毎日放送アナウンサー・当時)
      • 1981/04-1981/09(第2部) 矢沢透
      • 1981/10-1982/09(第2部) 矢沢透、ジーン長尾
      • 1982/10-1983/03(第2部) 矢沢透、牧田朋子
    • 1983/04-1984/03 谷村新司、ばんばひろふみ、岩崎良美
      • 1983/04-1983/09(第2部) 根本要、牧田朋子
      • 1983/10-1984/03(第2部) 根本要、白井貴子
    • 1984/04-1985/03 谷村新司、ばんばひろふみ、三田寛子
    • 1985/04-1986/03 谷村新司、ばんばひろふみ、松本明子
    • 1986/04-1986/12 谷村新司、ばんばひろふみ、佐藤良子
この「キンド館」は元々の番組企画段階では存在しなかったが、以前からヤンタンの大ファンだった兵藤ゆきの懇願により出来た番組である。ちなみに「キンド館」の名前の由来は、「金曜日と土曜日の間にやっている番組」という所から。
この時期は女性アイドルを番組のメインに据え、今田・東野はサブに回っていた。

土曜日

MBS千里丘放送センター・第一スタジオ(のちにミリカホールに変更)で公開録音( - 1985年3月)。その後はスタジオ収録となり、2011年現在は東京都港区赤坂Bizタワー28階にある毎日放送東京支社スタジオで毎週金曜日に収録されている。

  • 1979/12-1982/03 明石家さんま時代(第1次)
    • 1979/12-1980/03 明石家さんま、月亭八方、中村京子、桂三と九、紳助・竜介
    • 1980/04-1980/09 明石家さんま、オール阪神・巨人、松田晃、桂三と九、鈴江真理
    • 1980/10-1981/09 明石家さんま、オール阪神・巨人、松田晃、長江健次桂小つぶ、榊原久美子
    • 1981/10-1982/03 明石家さんま、オール阪神・巨人、松田晃、安藤久美子
  • 1982/04-1988/12 笑福亭鶴瓶時代(第2次・月曜日から異動)
    • 1982/04-1983/03 笑福亭鶴瓶、松田晃、安藤久美子
    • 1983/04-1983/09 笑福亭鶴瓶、笑福亭笑瓶、松田晃、黒田伊佐子、安藤久美子
    • 1983/10-1984/09 笑福亭鶴瓶、笑福亭笑瓶、松田晃、黒田伊佐子、牧田朋子
    • 1984/10-1985/03 笑福亭鶴瓶、笑福亭笑瓶、牧田朋子、ザ・バッテリー
  • 1989/01-1989/09 北野誠関口誠人福井希容
  • 1989/10-1990/09 北野誠、関口誠人、羽野晶紀
  • 1990/10-1991/03 北野誠、古田新太、羽野晶紀、きんた・ミーノおかげ様ブラザーズ
  • 1991/04-1991/10 北野誠、シンデレラエキスプレス、久松史奈
  • 1991/10-1992/09 兵藤ゆき、たまごどんぶり(公募で選ばれた現役中高生)
  • 1992/10-現在 明石家さんま時代(第4次・日曜日「スペシャルサンデー」より異動)
    • 1992/10-1997/02 明石家さんま玉井健二加藤紀子村上ショージ(ゲストとして頻繁に出演、のち1995年頃から正式レギュラー)
    • 1997/03-1999/03 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、吉村麻希マキ凛子
    • 1999/04-2000/09 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、太陽とシスコムーン(のちに「T&Cボンバー」に改名、信田美帆稲葉貴子RuRu小湊美和
    • 2000/10-2002/03 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、安倍なつみ保田圭りんね
    • 2002/04-2003/03 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、中澤裕子松浦亜弥カントリー娘。(準レギュラー、りんね・あさみ里田まい、りんねは途中降板)
    • 2003/04-2004/04 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、中澤裕子、あさみ、里田まい、月1レギュラー(後藤真希石川梨華加護亜依高橋愛の中から1人)
    • 2004/04-2004/06 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、準レギュラー(藤本美貴、高橋愛、後藤真希、柴田あゆみ、稲葉貴子の中から2人)
    • 2004/07-2004/11 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、安倍なつみ、準レギュラー(藤本美貴、高橋愛、後藤真希、柴田あゆみの中から1、2人)
    • 2004/12-2006/03 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、準レギュラー(藤本美貴、高橋愛、後藤真希、柴田あゆみの中から2人、後期は藤本、高橋が実質レギュラー)
    • 2006/04-2007/03 明石家さんま、玉井健二、村上ショージ、藤本美貴、高橋愛
    • 2007/04-2007/06/02 明石家さんま、村上ショージ、藤本美貴、高橋愛
    • 2007/06/09-2009/10/03 明石家さんま、村上ショージ、高橋愛、道重さゆみ
    • 2009/10/10-2011/09/24 明石家さんま、村上ショージ、高橋愛、道重さゆみ、週替わりレギュラー(藤本美貴、保田圭、吉澤ひとみ、中澤裕子の中から1人)
    • 2011/10/01-2012/03/31 明石家さんま、村上ショージ、道重さゆみ、週替わりレギュラー(藤本美貴、保田圭、吉澤ひとみ、中澤裕子、高橋愛の中から1 、2人)
    • 2012/04/07- 明石家さんま、村上ショージ、道重さゆみ、光井愛佳、週替わりレギュラー(藤本美貴、保田圭、吉澤ひとみ、中澤裕子、高橋愛の中から1人)

日曜日

1982年4月から放送開始。

  • 1991/10-1992/09 「ヤンタンスペシャルサンデー」時代
    • 明石家さんま石田敦子(毎日放送アナウンサー・当時)(「ヤンタンスペシャルサンデー 明石家さんまのなんでもこい!」22:00-23:00)
    • 浜村淳関岡香(毎日放送アナウンサー)(「ヤンタンスペシャルサンデー 浜村淳の茶屋町クスクス」23:00-23:45;1993年3月まで)
1993年3月までは公開録音放送で23:00まで放送。それ以降は従来の放送スタイルに変更される。
  • 1999/04-現在 笑福亭鶴瓶時代(第3次)
    • 1999/04-2000/09 笑福亭鶴瓶西靖(毎日放送アナウンサー)、堀ちえみ
    • 2000/09-2004/03 笑福亭鶴瓶、西靖、松嶋尚美オセロ
    • 2004/04-2006/04 笑福亭鶴瓶、西靖、井上智栄子
    • 2006/04-2007/03 笑福亭鶴瓶、西靖、オラリー(素人)、田口万莉松竹芸能)、國丸純(松竹芸能)
    • 2007/04-2009/04 笑福亭鶴瓶、西靖、オラリー、田口万莉、笑福亭瓶成
    • 2009/05-2009/07 笑福亭鶴瓶、西靖、オラリー、田口万莉
    • 2009/08-2010/02 笑福亭鶴瓶、西靖、負け越し(素人)、林実里(素人)、田口万莉
    • 2010/03-2010/09 笑福亭鶴瓶、西靖、負け越し、田口万莉
    • 2010/09- 笑福亭鶴瓶、吉竹史(毎日放送アナウンサー)、負け越し、田口万莉

MBS開局60周年記念番組 MBSヤングタウンスペシャル

2010年8月30日から9月3日まで放送された。

  • 8月30日「さんまのヤンタンスペシャル」
  • 8月31日「伸郎のヤンタンスペシャル ねたナイト」
  • 9月1日「ヤンタンスペシャル なつかしSONGリクエスト!」
  • 9月2日「ヤンタンスペシャル なつかしSONGリクエスト!」
  • 9月3日「鶴瓶のヤンタンスペシャル」

復活!桂三枝の歌え!MBSヤングタウン

当番組で三枝と長らく共演した後に、羽衣国際大学名誉教授になった斎藤努が久々にラジオ番組へ登場。三枝のパートナーとして、公開収録の進行役を務めた。また、月亭八方桂きん枝杉田二郎などがゲストで出演。かつて当番組で使われたジングルや音源を挿入したり、『歌え!MBSヤングタウン』時代の企画を復活させたり、杉田などが歌と演奏を披露したりしていた。なお、三枝は当番組の放送の翌々日(2012年7月16日)に「六代 桂文枝」を襲名するため、毎日放送では当番組が「桂三枝」名義で出演する最後の番組になった。また、放送のオープニングでは、西靖が口上代わりのナレーションを担当した。

主なスタッフ

「ヤンタン」の生みの親(創始者)。1967年10月に『歌え!ヤングタウン』の放送を開始してから、1987年にテレビ制作部の部長職へ異動するまで、20年間にわたってプロデューサーを務めた。出演した多くのタレントアナウンサーの育ての親もあり、後述する渡辺姓のスタッフと区別する意味で、オオナベさんとも呼ばれていた。
テレビ制作部への異動後は、一時次長職でラジオ局に復帰したが、1997年6月に定年でMBSを退職。その後は音楽プロデューサーとして活動するかたわら、2005年7月に『ヤンタンの時代。』という著書を刊行した(発行:キッズネット・発売:角川書店。2005年7月発行。書籍コード:ISBN 4048943405)。2010年10月11日に75歳で逝去。
1979年から1983年までディレクターを担当。コナベさんという通称でも知られた。

この他にも、大谷武文田中文夫、宇野幹雄、増谷勝己、三村景一新堂裕彦などが、ディレクターやプロデューサーを歴任。1970年代から1980年代までは、『ヤングおー!おー!』のスタッフから放送作家に転じた寺崎要が、番組全体を統括するチーフ構成の任に当たっていた。

エピソード

  • 1968年1月から始まった「ヤンタン 今月の歌」では、通算で52曲ものオリジナルソングを発表した『ヤンタンの時代。』に所収の「ヤンタン今月の歌リスト」より。放送を終了した1982年4月には、「今月の歌」の歌詞などをまとめた『ヤンタン・ソング集』がミリカ音楽出版から発売。1993年8月には、『歌え!MBSヤングタウン』の放送開始から25周年を記念した企画の一環として、「今月の歌」から19曲を収録したCDアルバム『MBSヤングタウン 今月のうた 復刻版』がポリスターから出されている。
    • 「今月の歌」からは、『戦争を知らない子供たち』(ジローズ、1970年8月放送分)などのヒット曲を輩出。『今はもうだれも』(ウッディ・ウー、1969年5月放送分)は、後にアリスのシングル曲として広く知られるようになった『今はもうだれも』は、1969年7月にウッディ・ウーがシングル曲としてリリース。1975年9月にアリスが再びシングル曲として発表したところ、アリス初のヒット曲になった。また、谷村(ロック・キャンディーズ→アリス)・ばんば(ジャッケルズ→バンバン)・杉田二郎(ジローズ)・北山修(ザ・フォーク・クルセダーズ)・はしだのりひこ(ザ・フォーク・クルセダーズ→はしだのりひことシューベルツ)・桑名正博(ファニー・カンパニー)・西岡たかし五つの赤い風船)・瀬尾一三などの人材を世に送り出した。
    • 当時公開収録の司会やパーソナリティを務めた三枝も、1969年8月放送分の「今月の歌」において、「桂三枝とダボーズ」という名義で『夕陽のアンジェロ』を発表。後にレコードとして発売された。ちなみに三枝は、発表当時大学生のバンドだったダボーズと、前述の『復活!桂三枝の歌え!MBSヤングタウン』で約40年振りの共演を果たしている。
    • 「今月の歌」には含まれないが、『嘆きのボイン』(月亭可朝)『恋人もいないのに』(シモンズ)『坊や大きくならないで』(マイケルズ)『僕にさわらせておくれ』(ピンク・ピクルス)も、当番組から生まれたヒット曲である前出の「『ヤンタン今月の歌』」より。ベトナムのヒット曲であった『坊や大きくならないで』については、当時ベトナム戦争の取材で現地に赴いていたMBS報道部の浅井記者による紹介を機に、瀬尾の編曲・浅川しげるの日本語詞によるバージョンをマイケルズが歌っていた。。また、バンバンでの活動を経てソロ歌手に転じた高山厳は、学生時代に宇野と組んで本名で公開収録のバンドオーディションに参加していた前出の「ロック・キャンディーズ編」より。
  • 公開収録を実施していた1968年・1970年・1971年には、当番組と縁の深い歌手やバンドの出演による「ヤンタンフェスティバル」を、年に1~2回開催。1970年1月7日にフェスティバルホールで開かれた第2回については、開催後に実況録音盤のレコードを発売した。
  • 1981年5月28日には「ど角・ど鶴のええか、ええかコンサート」(前述)、1985年と1987年の8月には「明石家さんまコンサート」、1988年6月にはダウンタウンによる「もくもくコンサート」をそれぞれ開催。1988年には、「ヤン金」レギュラーだった根本・野沢などが「フライデー・モンスターズ」というバンドを結成した。1989には、当時の「ヤン土」レギュラー(北野・関口など)で結成したバンドが、12月24日の「クリスマス御陽気にコンサート」でライブデビューを果たしている『ヤンタンの時代。』に所収の「<ヤングタウン出演者年表1967 - 90>」より。
  • 1983年と1986年~1988年の5月には、「ヤンタンオールスターズ」と芸能人チーム(1983年:松山千春チーム「スーパースターズ」、1986年:チェッカーズチーム、1987年:とんねるずチーム、1988年:仲村トオルチーム「デンジャーズ」)による「ヤンタン野球大会」を、西宮球場(1983年)・甲子園球場(1986年)・大阪球場(1987年、1988年)で実施。当時の「ヤン月」レギュラーで、スポーツアナウンサーでもあった伊東が、場内で実況を担当した。また、開催日の深夜には、MBSテレビで特別番組の生放送を実施した。
    • 当番組でレギュラーを務めたMBSアナウンサー(出演時点)のうち、現在に至るまで、出演期間が最も長いのは角と伊東である(いずれも12年間)。
  • 紳助が「ヤン木」のパーソナリティを務めていた1985年8月には、放送中に紳助が「モトクロスやろうや」と発言したことをきっかけに、生駒山上で「ヤン木モトクロスフェスティバル」を開催。当時共演していた白井も、自身のバンドと共に参加した前出の「<ヤングタウン出演者年表1967 - 90>」および『ヤンタンの時代。』第一章「みんな名もない新人だった 島田紳助・白井貴子編」より。
  • 1989年8月6日に千里丘放送センターで開催の「ヤンタンTeen's 学園祭」では、長らく「ヤン日」のアシスタントを務めた小林千絵の後任を決める目的で、「ヤン日オーディション」を実施。オーディションで優勝した現役高校生の澤が、同月から1990年9月まで「ヤン日」のアシスタントを務めた(前述)前出の「<ヤングタウン出演者年表1967 - 90>」より。
  • 2010年12月6日にシアターBRAVA!で開かれた渡邊の「偲ぶ会」には、歴代パーソナリティの三枝・谷村などに加えて、活動休止中のCHAGE and ASKAが久々に顔を揃えた渡邊一雄さん:ヤンタンの名プロデューサーを「偲ぶ会」チャゲアスも久々ツーショット - 毎日新聞デジタル、2010年12月7日。

脚注

関連項目

毎日放送千里丘放送センターの解体を前に、「MBS千里丘フェスティバル」の一環で放送された公開収録番組。齋藤努・桂三枝らが出演。

外部リンク

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最終更新:2013年01月14日 10:05
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