{{基礎情報 アナウンサー
|名前=近藤 光史
|ふりがな=こんどう みつふみ
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|画像コメント=
|本名=
|愛称=コンちゃん、ジェノサイダス
|出身地=Template:JPN・兵庫県西宮市
|国籍=
|生年月日= Template:生年月日と年齢
|没年月日=
|血液型=B型
|最終学歴=早稲田大学社会科学部
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|所属事務所= 昭和プロダクション
|部署=
|職歴=元・毎日放送アナウンサー
元・海外挙式会社経営者
|活動期間=1971年 - 1992年
2000年 -
|ジャンル=
|公式サイト=
|現在の出演番組= こんちわコンちゃんお昼ですょ!
|過去の出演番組= ヤングおー!おー!
MBSヤングタウン
|備考=
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近藤 光史(こんどう みつふみ、1947年(昭和22年)7月12日 - )は、元・毎日放送アナウンサー。現在は、昭和プロダクション所属のフリーアナウンサーとして、大阪を中心に活動している。血液型B型、身長170cm。
愛称はコンちゃん。出演番組などでの自己紹介では、「コンちゃん、近藤光史です」と言うのが恒例となっている。岡山県岡山市の生まれで、2009年(平成21年)には、社団法人岡山県観光連盟から「おかやま観光特使」に任命されている。
岡山市生まれの大阪市阿倍野区・兵庫県西宮市育ち著書『夢が我が家にやってきた』より。生後2~3歳まで岡山市で過ごした後に、実父の仕事の都合で、5歳頃まで阿倍野区に住んでいた。。1963年(昭和38年)4月に西宮市立西宮東高等学校へ第1期生として入学した。
高校を卒業後に、いったん学習院大学の文学部へ進んだ。しかし、翌年に早稲田大学社会科学部(夜間学部、当時)へ入学している。早稲田大学への入学後は、放送研究会アナウンス部からの出向扱いで、「ナレオ・ハワイアンズ」(同大学の音楽クラブに所属するハワイアンバンド)のライブ司会者として活動していた『夢が我が家にやってきた』第4章「毎日放送、局付芸人は私です」より。近藤の在学当時は、東京を中心に、日本各地で学生バンドのライブが頻繁に開かれていた。そのため、近藤は大学生でありながら、司会者としてのギャラだけで当時の大企業の管理職に相当する収入を得ていたという。。
1971年(昭和46年)4月に、アナウンサーとして毎日放送へ入社した。同期のアナウンサーは、野村啓司(現在は同局専属パーソナリティ)と平松邦夫(前大阪市長)。アナウンサーではないが、同局社長の河内一友も同期生に当たる。
入社後は、『ヤングおー!おー!』『MBSヤングタウン』『スタジオ2時』などの公開番組や、MBSラジオの生放送番組『6時半です。おはようコンちゃん』『でんわ大好きKYU-KAN-CHO』などに出演。「胴間声(どうまごえ)」と自称するほどの大声と、局アナらしからぬ気さくなキャラクターで人気を博す。
また、小池清(故人)がアナウンサー室長を務めていた1983年には、小池の依頼で先輩アナウンサー(当時)の斎藤努とともに『あどりぶランド』(局アナが全員揃って出演する日本初のテレビ番組)の企画を立案。1984年1月から同番組の放送を開始してからは、数々のキャラクター("ハジソン博士"など)を演じたり、番組恒例の時代劇企画で歴史上の人物(『水戸黄門』の格さん)に扮したりすることが多かった。1984年度のアノンシスト賞で、毎日放送アナウンサー室がグランダ・プレミオ(大賞)を受賞した企画「旧札vs新札」では、伊藤博文役を演じている。
1989年の人事異動では、アナウンス室に籍を置いたまま、毎日放送千里丘放送センターなど数カ所に分散していた同局の本社・制作機能を現在の社屋(大阪市北区茶屋町)へ集約させるための社内プロジェクト(茶屋町再開発プロジェクト)チームにも配属。やがて、チームの活動に専念するため、アナウンス室を離れた『夢が我が家にやってきた』より。同書によれば、当時の社長・斎藤守慶が近藤や藤本永治(当時のアナウンサー室長)に相談することなく辞令を出したため、当初はアナウンサーとの兼務扱いでプロジェクトに携わっていたという。。しかし、1992年(平成4年)8月、当時の妻の健康上の事情(後述)などを理由に毎日放送を退職した。
退職後は、「(毎日放送への)入社直後に出張で訪れた際に見た綺麗な海を忘れられなかった」などの理由からタヒチへ移住。現地で日本人向けの海外挙式会社を設立すると、タヒチ観光局から正式に観光業者としての登録を受けた『夢が我が家にやってきた』第1章第2節「最後の楽園から」より。1997年3月にはニューカレドニアにも、同種の会社を立ち上げている。フランスがタヒチ近海で核実験を実施した1995年(平成7年)以降は、風評被害が観光に及ぼす影響を払拭すべく、NHKやタヒチのテレビ局のインタビューに登場。タヒチ観光局からの依頼で、日本のテレビ局に対して、観光立国タヒチの安全を訴えるPR活動を展開したこともある『夢が我が家にやってきた』第1章第1節「虫の湧いた日々」より。近藤がタヒチで経営した会社では、結婚式などの撮影用に、現地で唯一日本のテレビ放送規格に見合った機材を保有していた。そのため、(毎日放送・NHKを含む)日本の放送局が核実験関連の取材でタヒチを訪れるたびに、近藤が「元・放送人」のよしみで上記の機材を貸与したという。。
2000年(平成12年)9月に日本へ帰国(詳細はエピソードを参照)。翌月には、MBSラジオの新番組『こんちわコンちゃん2時ですょ!』(『こんちわコンちゃんお昼ですょ!』の前身)で、ラジオパーソナリティとして同局の番組に復帰した。以降は、同番組を中心に、フリーアナウンサーとして活動の幅を広げている。
2003年(平成15年)9月から半年間、『こんちわコンちゃん』と並行して、讀賣テレビ放送の『情報満載 ひるまで!すっぴん!』で司会を担当。毎日放送以外の放送局の番組へ、初めてレギュラーで出演した。2007年(平成19年)1月には、「ドラマ30」シリーズの『家族善哉』(MBS制作・TBS系列)に友情出演。2009年(平成21年)9月18日には、『こんちわコンちゃん』の放送2000回到達(同年9月25日)を前に、阪神甲子園球場でのプロ野球公式戦(阪神タイガース対広島東洋カープ)で人生初の始球式を経験した。
また、『こんちわコンちゃん』の企画で、自身の作詞・歌唱による楽曲「寿(ことぶき)」のCDを製作。2010年(平成22年)12月には、同番組月曜日で共演中の大平サブロー芸能生活36年記念舞台「あかんたれ芸人の詩」に、寄席の支配人役で出演した。2009年からは、同番組とローソンのコラボレーション企画で、地域・期間限定発売の食品をプロデュース。2012年(平成24年)9月1日には、自身の半生や『こんちわコンちゃん』の番組史などをまとめた初の著書『こんちわコンちゃんお昼ですょ! 夢が我が家にやってきた』(以下『夢が我が家にやってきた』と略記)を発売した。
自由民主党総裁選当日にあたる、2012年9月26日に大阪・MBSラジオで放送されたワイド番組「こんちわコンちゃんお昼ですょ」での以下の通りの発言をした。
「第2回の投票で、おそらく圧倒的な差で安倍さんが当選して、また、体の弱い総理大臣がひとり生まれるということですよ!」
「どこの国でもそうですが、先進国と言われる国のね、リーダーたる者が、大統領だったり首相だったりする人がね、『体弱いねんけど大丈夫』『お薬あるから大丈夫』みたいなね、そんなリーダーをいただく国は無いのだ!」
と事実と違う発言をした。この発言については出典記事<ref name="重病患者差別発言"/>において、「なお、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領(在任:1933年~1945年)は下半身がほとんど麻痺するという重度の身体障害を抱え、日常生活には車椅子を使用していたことが広く知られており、近藤氏の発言は事実と異なるという見方もできる」と、JCASTニュースが指摘している。
「『安倍はホンマに!』と言われている時に、『おなか痛いからやめ~』と言って辞めたんですよ! なんぼ新薬が出てきても、キャラクターまでは変わらんだろう!」
さらにこのように、仮に体調が回復しても成果はあがらないとの主張を展開し、潰瘍性大腸炎患者は一度罹患すると再度仕事を辞めてしまい社会復帰は不可能であるという患者に対する差別的な見解に立った発言をした。また同時に厚生労働省指定の10万人患者がいると言われる難病をただの腹痛扱いにしている。これらの発言については、「難病者に対する名誉毀損」、「大阪人として情けない」といった批判が出ている<ref name="重病患者差別発言">Template:cite web同記事内で近藤光史についても言及。。
毎日放送アナウンサー時代
フリーアナウンサー転向後
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