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Template:Portal クラシック音楽
細川 俊夫(ほそかわ としお、1955年10月23日 - )は、日本の現代音楽の作曲家、指揮者。
広島市安芸区出身。東京藝術大学と国立音楽大学作曲科を受けるが前者に失敗し後者に入学するも、教育法に疑問を抱き一年余りで中退。しかし入野義朗の勧めで渡欧し、1976年から10年間のドイツ留学。ベルリン芸術大学で尹伊桑に師事する。その間、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団100周年記念作曲コンクールとヴァレンティーノ・ブッキ国際作曲コンクールで第1位を獲得している。ベルリンで学位取得後、フライブルク音楽大学でまずはブライアン・ファーニホウに師事し、その後クラウス・フーバーに師事した。「今日の音楽国際作曲賞」で第3位、以後武満徹との親交が生まれた。
ダルムシュタット夏季現代音楽祭の夏期講習会(ダルムシュタット国際現代音楽夏期講習会、1980年に初めて参加)などに講師として招かれ、世界の若手作曲家たち後進の指導にも当たっている。尾高賞、中島健蔵音楽賞、ラインガウ音楽賞、デュイスブルク音楽賞、ARD-BMWムジカ・ヴィヴァ賞を授与されるなど、国際的に高い評価を得ている。以後ドイツと日本を拠点に、ヨーロッパの各地で活動を続けている。
河添達也とともに1989年から1998年まで秋吉台国際20世紀音楽セミナー&フェスティバルを開催し、いわゆるエクスペリメンタリズムの音楽と呼ばれるヨーロッパの最も前衛的な現代音楽の動向を日本に紹介した。武生国際作曲ワークショップにその役割が引き継がれている。1994年より武生国際音楽祭に参加、2001年から同音楽監督。2006年よりベルリン・ドイツ交響楽団のコンポーザー・イン・レジデンス。現在は東京音楽大学客員教授、エリザベト音楽大学客員教授。
作品は日本ショット社から出版されている。ドイツのレーベル「コル・レーニョ」、「ネオス」とオーストリアのレーベル「カイロス」、イタリアのレーベル「ストラディヴァリウス」からソロアルバムを定期にリリースする唯一の日本人であるなど、現代音楽の国際的な舞台で最も注目されている一人である。2008年に第39回サントリー音楽賞、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞、2012年に紫綬褒章を受章した。
CD化されたソロアルバムは2013年3月現在で、24枚を数える(数え方にも寄るが、他のレーベルからの同一音源の再販による重複分をカットした計算)。
アントン・ウェーベルン、ヘルムート・ラッヘンマン、尹伊桑の影響が見られ、音の激しい断絶による激しさと静けさを併せ持つ作風である。ダルムシュタット夏期講習会でヴォルフガング・リームほかの作曲家が新ロマン主義になびいて支持を受ける中、細川ただ一人がこの傾向に背き独自の路線を追求していく。この時期の作品は、「弦楽四重奏曲第一番」、「二台ピアノのための『夜の歌』」などが依然として未出版のままである「フルート、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための『序破急』」はイタリアのZanibon社から出版されたが、50歳記念の日本ショット社刊作品リストには掲載がない。その他の未出版作品についても掲載はない。。「ヒロシマレクイエム」の第一稿がこの時期に初演されたが、この作品は二度にわたって納得のいく作風に書き換えられ、題名も「ヒロシマ・声なき声」と改められている。
また最初期に書かれた「ピアノのための三つの小品」は長らく楽譜の行方がわからなくなっていたが、2005年に発見され大阪で自身によって初演する形となった。この作品のできばえを見てユンは「このような曲を17歳で書いたとは、驚くべき才能だ!」と激賞し弟子に取ることを決断したが、レッスンは極めて厳しく12音技法を繰り返し教わった。細川自身「基本作風は、この曲を書いたときから変わっていない」と述べている。初期作品の出版には前述のように厳しかったが、若干数は日本ショットから公刊された。後に、夏期講習会の講師職を依頼したのはフリードリヒ・ホンメルであった。その後、ゾルフ・シェーファー時代にも彼への信頼は揺るがず、結果的に26年もダルムシュタットと関わりを持つことになった。
国際的な名声が確立したのは、「ヴァーティカル・タイム・スタディ」の連作、「ランドスケープ」の連作の頃となり、CDリリースが国内外のレーベルから集中した。この時期に、細川作品中最も演奏至難な弦楽四重奏のための「ランドスケープI」が書かれる裏で、「夜明け」では三和音が用いられるなど、個人語法の追求が特に多岐にわたっていた。「遠景III」ではPPのみのオーケストラ作品、「歌う木」では半音で上下する三和音など、この時期に特に意欲的に素材の拡張を図った。秋吉台セミナーで後進作曲家の歩みを眺め、自らも作風を進化させていた。「ヴァーティカル・タイム・スタディI」は世界的な大ヒットとなり、ヨーロッパのみならず、アメリカとカナダ、日本ほかでも再演数が多い。
細川は、自作を「音で聴くカリグラフィー」と形容する。ソロ曲の「ゲジーネ」や「雲景」、ピアノ独奏のための「俳句」やヴァイオリンとピアノのための「古代の舞い」でも、たった一本の線に全て異なった装飾を時系列に沿ってクライマックス化する技法が採用されている。極度に西洋音楽から離脱した増4度を堆積させた音響を細川は「梵鐘形式」と形容し、「ここで鳴る梵鐘は現実の鐘のメタファーではない」と説明する。その音高集合に絡みつく形でソロ楽器が拮抗することも「沈黙の海」などの協奏曲において頻発している。大編成の委嘱が定期的に入る中で、オーケストラ作品や規模の大きな作品では、何かしらの独奏とその背景といった設定を多用することが増えている。2010年代に入った今も、100人を越えるモダンオーケストラから10人程度の古楽アンサンブルにまで、極限の静けさを要求し続けている。
初期作品は短い曲(<河のほとりで>)が多く、断絶音(<線I>)が鋭く刺さるが、2000年代以降は長い曲(<循環する海>)から良く伸びる和声(<ホルン協奏曲>)に思考をシフトさせている。