うぃき洗い小町 |
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作者(年代) |
偽阿弥(室町時代) |
形式 |
複式夢幻能 |
能柄<上演時の分類> |
四番目物 |
現行上演流派 |
廃絶 |
異称 |
うぃき洗い |
シテ<主人公> |
小野小町 |
その他おもな登場人物 |
大伴黒主、紀貫之、子方 |
季節 |
不定 |
場所 |
宮中 |
本説<典拠となる作品> |
草子洗小町? |
能 |
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「うぃき洗い小町」は、能の演目の一つで、三番目物、現在鬘物。作者は(世阿弥の息子を自称する)偽阿弥。有名な能の演目「草子洗小町(草紙洗)」に話がよく似ている、というより明らかに剽窃なのだが、もちろんなんら関係はない、と作者は強調している。
かのジミー・ウェールズがこの曲を観て、「ウィキペディア」のアイディアを思いついたとする説がごく一部で存在する。
以前から、「草子洗小町」の古い写本の中に、典拠不明の異文があることが研究者の間では知られていた。しかし、これについては単なる書写の際の誤りとされることが一般的だった。
ところがぎなた研究の第一人者として孤塁を守る志賀津一が、ぎなた調査のため佐渡島へ渡った際、狂言鷽流宗家・手刀元彌の協力を得て、当地の万愚神社に奉納されていた古い謡本を発見した志賀津一「佐渡ぎなた紀行」(「義鉈研究」所収、2000年)。この謡本にはこれまで「草子洗小町」の異文だと思われていた詞が収められており、独立した別の演目であることが判明したのである。
なおこの曲の題は原文では「ゐきあらひこまち」とあるが、誤って「うぃき洗い小町」として発表されて以来(おそらく担当編集者のタイプミス)これが定着しているため、本文でもこれに倣うものとする。
参考のために、類曲(というよりオリジナル)である「草子洗小町」のあらすじを簡単に述べる。
宮中で歌合が行われることとなり、大伴黒主の相手は小野小町と決まる。しかし黒主には小町に勝つ自信がない。そこで前日、黒主は小町の邸に忍び込み、小町が明日詠む予定の歌を盗み聞きして、『万葉集』の草子にそれを書き込む。
歌合当日、著名な歌人たちが居並ぶ中、小町が自分の歌を詠む。その歌は帝からも絶賛を受けるが、すかさず黒主は、小町の歌は古歌であると訴える。黒主が取り出だしたる『万葉集』には確かに、先ほどの小町の歌が記されていた。もちろん、これは黒主が書き足したものなのだが、小町は窮地に立たされることとなる。
しかし小町は機転を利かせ、その草子を水で洗う。すると、元々の歌は残り、黒主が新しく書き込んだ部分はきれいに消えてしまったのである。悪事露見した黒主は自害を図るが、小町のとりなしで許され、丸く収まった祝いに小町は美しい舞を舞う。
生きた時代の違う小野小町と大伴黒主、紀貫之が同時に登場するなど、荒唐無稽の感が強い。しかしながら趣向の面白さや詞章・節の流麗さもあり、「王朝絵巻風の、しかもユーモラスな味わいをもった能」(羽田昶『能・狂言事典』(平凡社、1989年))と評される。また能の小野小町は老いさらばえた凄惨な姥として登場する曲が多いが(「卒塔婆小町」、「関寺小町」)、本曲では若き日の美しい才媛としての姿を描かれ、曲を華やかなものとしている。
「うぃき洗い小町」のストーリーは、「草子洗小町」とほとんど違わない。しかしながら、本曲では競うのが「歌」ではなく「うぃき」なるものであること、黒主が証拠として持ち出すのが『万葉集』ではなく自分の日記(詞章では『武呂具』という謎の名で呼ばれる、後述)であるという点に主な違いがある。
まずは冒頭。小野小町と大伴黒主が、「歌合」ならぬ「うぃき合」で対決することとなる。
いずれにせよ、「草子洗小町」同様、黒主は小町に勝てぬと悟って、こっそり小町の邸に忍び込み、小町の書いた「うぃき」の中身を盗み見た後、そこに「遣唐使・ヤリ○ン」と落書きして逃げる。
さて、自邸に戻った黒主は、自分の日記(『武呂具』と黒主はこれを呼ぶが、これは武人の末裔である大伴氏一族としての、軍事的備忘録の意があると考えられる月馬樫『古墳時代武人事典』(民明書房、1996年))に、3年前の日付で、同じ内容を書き込む。
そして翌日、「うぃき合」が始まる。居並ぶ優良執筆者たちの前で、小町が自作の「うぃき」を披露する。「草子洗小町」同様、帝はその出来を褒め称え、他の執筆者たちも「新着記事」として推薦するとともに、「月間新記事賞」「秀逸な記事」間違いなしだと絶賛する。
しかしそこに、黒主が待ったを掛ける。黒主は自分の日記(武呂具)を取り出し、「小町の記事は私の『武呂具』を盗んだものだ」と主張する。確かにその内容は一言一句同じで、しかも日付は『武呂具』の方が古い。執筆者たちからも、「爺出衛府得「うぃき」執筆のルールらしいが、不明。爺衛府出得が正しいという説もある。とりあえず、ややこしかったらしい。違反の虜」「固非変こひへ、とルビが振られている。内容を変えずに写す、の意か」「*(削除)--~~~~」この辺りは意味不明な言葉が多く、また誤字なども多いが、極力原文ママとするなどと、小町への批判の声が上がる。しかも例の落書きも見つかり、小町は窮地に立たされる。
そこで小町は潔白を示すため、図書寮に用意させた水で黒主の『武呂具』を洗うことの許しを願い出る。早速それを実行すると、他の文章は残ったのに、問題の記述はきれいさっぱり消えてしまう。さらに続いて小町が自分の「うぃき」も洗うと、例の落書きも新しく書き込まれたものなので、やはり消え失せる。これによって、この2箇所が、黒主によって新しく書き込まれたことが明るみに出る。
悪事の露呈した黒主は「草子洗」同様、自害を図るが、小町によって救われる。そしてやはり小町が可憐な舞を披露して、曲は終わる。
このように「うぃき洗い小町」の筋は「草子洗小町」とほとんど同じであり、新たに付け加えられた部分もごちゃごちゃとして煩雑である。特に黒主の自害を小町が止めた後に、ツレの紀貫之が、何も考えずに付和雷同して小町を批判した他の執筆者に対して説教をする台詞が何故か付け加えられているが、これはテンポを損なう上後味が悪いと批判が多いTemplate:要出典。使われている用語も「うぃき」「武呂具」を初め、意味不明なものが多く、曲としての完成度は極めて低いと評されているTemplate:要出典。一方で、その用語のユニークさなどを評価し、擁護する声もあるTemplate:要出典。しかし、剽窃は剽窃であるとする声が強いTemplate:要出典。
いずれにせよ関係者の間で一致しているのは、「こんな曲だが、偽阿弥の作品の中では一番見れる」という点である。
発見直後の2000年4月1日、能楽研究者の四古一類次の監修で、復曲上演が為された。しかし本職の能楽師が誰も関わりたがらなかったため、四古一が教授を務める中洲産業大学の学生によって演じられた。
素人同然の出演者(本当に素人なのだが)、お粗末な節付け、そして何より曲自体が致命的につまらなかったこともあり、この公演は研究者・愛好家双方から完璧に黙殺された。その後現在に至るまで、再演されていない。
本曲は、ジミー・ウェールズが「ウィキペディア」を思いついたきっかけとなったとする説がある古江異父「世界を支配する日本の能」(「ネット爆裏マガジン」vol.4-1所収、民明書房、2006年)。
この説によると、2000年、お忍びで日本を訪れていたウェールズは、偶然上記の復曲上演を観覧した。その際、「皆で作る百科事典」「荒らされても簡単に差し戻すことが出来るシステム」「コピペは削除する」などのアイディアを得て、これが翌年のウィキペディア創設のきっかけになったのだという。
これが本当だとすると、「うぃき洗い小町」はまさにウィキペディアの母ということになる。しかしながら、「ウィキ」のシステムを考えたのはそもそも彼ではなくウォード・カニンガムであるし、その他の共通点もこじつけに過ぎず、そもそもウェールズが日本をその時期訪れたという事実は確認されていない。
またこの説の支持者からも、「そもそも『うぃき洗い小町』は『草子洗小町』の著作権を侵害しているので、削除依頼にかけなければいけない」とする声が大多数であるTemplate:要出典。
志賀津一が発見した件の謡本には、末尾に作者・偽阿弥による識語が残されている。また当地の狂言鷽流宗家・手刀家からは、偽阿弥自筆と見られる『真・申楽談儀』などが発見された。
これらによると偽阿弥(にせあみ)は俗名を観世四一郎元元といい、かの世阿弥の庶子として応永4年4月1日に生を受けた。世阿弥の下で能役者として修行を積み、「天才と言われた兄・元雅、従兄・元重を遥かに上回る大天才」と言われたと自称するが、その評判が一切残っていないところ、また彼の人生から総合的に判断するに、「とても世阿弥の息子とは思われぬ大根役者」だったと考えられている。
世阿弥はこの出来の悪い息子をかなり心配していたらしく、多くの著作を残し世阿弥は、応永年間後半に多くの伝書を執筆している。『風姿花伝』を除いた世阿弥の著作は、ほとんどこの時期に記されている。この時期、世阿弥は養子の元重(後の音阿弥)を廃嫡して、強引に実子・元雅に自分の跡を継がせたと考えられており、これらの著書は自分の後継者(=秘伝の伝承者)としての元雅の権威を確立するために世阿弥が書いたのだ、とする説が提示されてきた(香西精「元雅生年考」)。また世阿弥が同時期に、「座の指導者が下手でも、所属する役者たちはそれに従わなければならない」という訓戒を残していることもあり、これまで「祖父・観阿弥以上の天才」と評されてきた元雅が、実は凡庸だったのではないか、という疑惑が浮上していた(表章『観世流史参究』)。しかし元雅の作になる能はいずれも非凡で、それには異論も多かった。世阿弥伝書の伝授者が偽阿弥であったことが分かったことで、下手だったのは偽阿弥の方であり、上述の訓戒も「万が一偽阿弥が後継者になったら……」という世阿弥の心配の表れであると判明した。、偽阿弥に芸の心得を教え込もうとした。またそれまでかなりバリエーションに富んだ作風だった能という芸術を、出来る限り洗練させて類型化、偽阿弥が困らないように工夫した。さらに醍醐寺清滝宮の楽頭などの利権を確保し、偽阿弥の生活の糧にしようとした。しかし当の偽阿弥には、世阿弥の著書は高度過ぎ、洗練され深みを増した能は難解で付いていけず、楽頭の職分はとても果たせそうにないので従兄の元重に取り上げられてしまったという。
偽阿弥成年のころ、観世家では世阿弥の後継者を巡り、養子・音阿弥と、実子・元雅とが争っていた。音阿弥を寵愛する足利義教の介入もあり、元雅の弟・元能は出家遁世、元雅もまた30代前半という若さで謎の客死を遂げ、世阿弥は佐渡へ流罪となった。しかし偽阿弥は、どちら側からも特に問題視されず、蚊帳の外だったらしい。
世阿弥流罪後は母とともに、義兄弟の金春禅竹に助けられて暮らした。世阿弥の死後は図々しくも「二世世阿弥」を自称したが、世阿弥崇拝者だった禅竹に激怒されて放り出され、地方のドサ回り芸人として生活した。最初は「あの世阿弥がやってきた」と喜んだ地方の観衆も、そのあまりの酷さに「二世世阿弥」ではなく「偽世阿弥」と呼ぶようになり、いつしか「偽阿弥」で定着してしまったのだという。
禅竹はその晩年の著書『明宿集』の中で、当時地方での祭礼に呼ばれた能楽師が、強欲にも褒美や村の財産を過分にせしめる風潮があると述べ、「こんなことではやがて猿楽の道そのものがいつか廃れてしまうだろう。こうした連中を猿楽の道における最大の邪魔者と言わずしてなんと言おうか!」金春禅竹『明宿集』「春日・翁一体のこと、翁の使者」と慨嘆しているが、偽阿弥のことが念頭にあったことはまず間違いない。
世阿弥、元雅、そして禅竹(一説には元能も)は多くの能を創作した。しかし偽阿弥は、彼らを上回るほどの能を創作したと考えられている。ただし、上回っているのは数だけで、過半数が剽窃どころか、他者の先行作品を自分のものだと主張して発表しただけである(その主な被害者は元雅、禅竹、元能であった)。しかもその多くを、「世阿弥」の署名付きで世に出したので、江戸時代ほとんどの能が世阿弥の作品として記録されることとなり、研究に大きな混乱をもたらすこととなった。またいくらかアレンジを加えたという場合も(「うぃき洗い小町」を見れば分かるとおり)例外なく元の作品より悪くなっている。
伝存する他の作品としては、「新隅田川」「にょろ法師」などがある。
偽阿弥の晩年については明らかになっていないが、やはり音阿弥や禅竹を頼ってその周辺で暮らしていたらしい。世阿弥、音阿弥、禅竹らは晩年一休宗純と交際し、死に際しては引導を授けられたという伝承があり、特に禅竹は死後、一休によって川に投げ込まれて水葬にされたというが伊藤正義『金春禅竹の研究』(赤尾照文堂、1970年)、偽阿弥についても、寝てる間に、一休に死んだ禅竹と間違われて川に投げ込まれ、文字通り引導を渡されたという伝承がある弥生三十二『強僧伝 一休最強伝説』(民明書房、1994年)。
本曲と偽阿弥について調査しようとしていたある学者が、酔った勢いで「うぃき洗い小町」の謡本と、手刀家から発見された文献を水で洗ってみると、きれいさっぱり消えてしまったというTemplate:要出典。
散花前線(さんかぜんせん、さんげぜんせん)とは、民間気象研究団体 花筏(はないかだ)花筏は、桜などの花びらが散って川面を流れていく様子を表す言葉です。これは本当。Googleでの画像検索結果民間気象研究団体 花筏 はないかだの公式サイトへようこそが発表する、花が散っていく様子を結んだ線のことである。この項では1979年から続いているソメイヨシノの散花前線について述べる。 thumb|300px|観測風景
桜の散花前線は、例年4月に宮崎県日南市のモアイ像前での散花観測セレモニー 2004年度のセレモニーの様子をもって調査が開始される。桜前線と同じように、全国各地に点在する調査ポイントの報告が中心になるため、セレモニー自体は大規模なものではない2007年度のセレモニーの様子。その後、山口県下関市、徳島県鳴門市、香川県の女木島、奈良県天理市、姫路市の「太陽公園」、宮城県南三陸町などの調査ポイントからの報告を、調査最北地である札幌市南区の滝野霊園に設営された特設テントにてまとめていく形式をとっている。
上野公園植物研究所の研究研究白書2005によると、調査ポイントに選定された土地の選択については、なぜかモアイ像がある土地が多く、これはオリジナルのモアイ像があるイースター島がチリ領であることから、「散り」と関連させているのではないかと推論付け「イースター島と私」より、料理研究家であるキャシィ塚本四万十川料理学園は、下関市と鳴門市はそれぞれ「ふぐちり」「たいちり」が名物であることから、こちらも「散り」に関連があるとしているが、主催である花筏はそのいずれをも公式に手旗信号により否定している。
調査ポイントのボランティアがゴールデンウィークごろまで随時報告するほか、花筏が独自に開発した散花観測気象衛星「チリダス」によるリアルタイムデータが集積される。宮崎:七分散り、香川:五分散りなど、花筏の公式サイトで随時発表されている(データを見るにはブラウザに指を押し当てる方式の指紋認証が必要)自宅ブラウザ上で動く指紋認証システムについて。
地球温暖化の影響があるかないかについては、分析されていないのが実情である。調査ポイントのボランティアは毎年「ああ、散っていくね」と淡々と報告をしているが、その実態は単なる花見なのではないかという指摘がある。 thumb|300px|調査ボランティアのみなさん
”木のもとに汁も鱠も桜かな 松尾芭蕉 ”
Template:uso 架空の傑作機(かくう-けっさくき)は、1998年から不定期に発行されるムック本形式のゲームやアニメに登場する航空(宙)機や機動兵器、魔法少女の資料集である。民明書房が名義を貸して、ゲームやアニメの版権元と文林堂が編集し、民明書房が販売/流通を行っている。文林堂が編集に関与している為、出版時点で民明書房名義の書籍として信じられない程信用性が高い書籍として有名で、この傾向は実在する航空機の航空機の解説を行う号で特に顕著となり、ググッタネタをコピペした様な何とかウイングや某島社の中二病全開なミリタリー本より実用性が高い、信頼性の割に値段が安いから洋書イラネ、足を棒にしてブック○フの105円棚巡りや確実に在庫のあるレオ○ルドからプレ値で航空専門誌の中古本を買う必要なしと言う評価が一般的である。書籍名が『架空の傑作機 No※※※(発行順)○○○(製造メーカーが設定されている場合)△△△(形式名が設定されている場合)□□□(愛称) となっている(一部例外有り)、 記事のレイアウトが世界の傑作機とほぼ同じであったり、表紙絵に必ず佐竹政夫のイラストを使用する、廃版理由が別冊や改訂版発刊等、文林堂が発行する世界の傑作機(新版)のセルフパロディ的なネタも仕込まれている。便宜上(めんどくさいから)架空の傑作機別冊、架空の傑作機スペシャルエディションもこの項目で扱う。
1980代末のバブル期に、アイレムやコナミ、タイトーが時代の波に乗って、イケイケドンドン的にグッズを製作していた際に、複数のゲームに強い出版社に自社のゲームに登場するメカの設定資料集の企画を持ち込んだが、バブル期の割りにジブイ契約条件だった為お蔵入りしていた企画を90年代半ばからの出版不況時に、民明書房の若手編集者が書類整理時に開封すらしていなかった企画書を発掘し、特に理由も無いのに会社の編集者会議に提出された。民明書房の経営陣やベテラン編集者は、自社の出版方針と大幅に方向性が異なる事から、企画書をヤギの餌か裁断してネコのトイレに突っ込むんだ上で件の若手編集者を王大人に死亡宣告してもらう事を考えたが、飯の種が増えるのならと言う現実的な理由で、渋々ながら出版にGOサインを出した。しかし自社の編集者が関与した場合、内容が市場の求める内容から斜め上方向にぶっ飛ぶ事が目に見えていた事から、幾つかの出版社や編集プロダクションに記事編集の依頼が行われた。民明書房と取引の有る事が他の取引に影響する事を恐れた多くの出版社や編集プロダクションに門前払いされたものの勇気ある幾つかの出版社と編集プロダクション、(アートボックス、新声社、スタジオベントスタッフ、 ホビージャパン、文林堂、メディアワークス)がこの企画に名乗りを上げた。しかしアートボックスとホビージャパンは、某ガン○ム専業玩具メーカーから圧力を受けた事により、スタジオベントスタッフはスクウェア関連の攻略本で手一杯になり(後にアインハンダーとPROJECT SYLPHEED関連の執筆を担当)、新声社は経営に余裕が無い事から、この企画から撤退した。 曙蓬莱新聞東京版1997年11月31日号 17頁 </br> きのこった会社は文林堂とメディアワークスで、業界内ではゲーム業界に明るいメディアワークスがこの企画を請け負うことが確実視されていたが、民明書房が水面下で角川書店の業務のかなりの部分を請け負っていた事が発覚したり、ヤスが悪戯で、アスキー本社近隣のコンビニから送信した角川書店が民明書房に委託して類似企画を企画していると言う怪文書により、吉野家に来た一家にぶち切れた玄人の如く怒り狂ったメディアワークスは、民明書房と一切取引しないと宣言し、結果として航空ファンや同別冊、世界の傑作機、MONOに続く有力な収益源を探し求めていた文林堂が主体となって、この企画を進める事になった。『中国三千年の歴史に学ぶ出版不況を乗り越える秘策』 ミュンヒハウゼン出版 2002年 158頁 当初からガンダムシリーズ関連の本が出版されておらず、マクロス関連も2008年のマクロスクロニクル発刊により廃版となった為、シリーズの目玉となる作品が無い事から、方向性が迷走状態となっており、市場ではシリーズが続くかどうかが危ぶまれている。 『雑誌の本』305号、英学館、2008年 320頁
簡単な内容の紹介と、廃版の場合は廃版理由を記載
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王様ゲーム(おうさまゲーム)は、原作高橋和希・作画ライ・レッドLie(嘘) Red(赤)つまり、「真っ赤な嘘」によるアメリカの漫画作品である。アメリカの雑誌「オー!ジャンプUS」並べ替えると「USO(オー)ジャンプ」に2008年から連載されている。
3たびエジプトを訪れた海馬瀬人は、神殿の廃墟で「リワツイの書」逆から読むと「偽り」を見つける。そこには、大神官への昇格を賭けて若き神官セトとファラオの間で行われた勝負が記されていた。
遊☆戯☆王の登場人物も参照。
作中では以下の勝負が行われている。
Template:ユーモア thumb|汁かぼけ 汁かぼけ(しるかぼけ)は、日本の郷土料理。主に関西から九州地方に掛けて広く親しまれている鍋料理である。汁は味噌仕立てで、かぼけと紫蘭ヶ菜でとった出汁が特徴となっている。具材は地域や家庭により異なるが、分けワカメ、ひき肉、たくあん、塩辛、ジャム、煮干、大福、セミの抜け殻などが一般的である。広く食されるようになったのは比較的最近であり、昭和後期から平成初期に掛けて一般に広まったとされている。