ナイフを右手に、ライターを左手に携えたまま○○の方へとにじり寄って来ている。
突然の事に、ナイフを見て驚いた彼は地面へと座り込んでしまっていたのだ。
夜の闇の中、目の前に近付こうとするソレを目の前に、今何も出来ない。
……右手に握り締めた、石を除けば。
男の口元が歪むと、ナイフを振り上げ――右手に力を込めて、それを投げようとした。
凝 視 されながら。
突如として、周りの空間が一転していた。
……目。
…………目。
………………目、目。
何処を見回してみても、そこには大量の目と、紫の空。いや、全てが。
夜の闇よりも深く暗いその色が、今彼の視覚する世界を侵食していた。
目の前の通り魔を除けば。
そんな世界に飲み込まれたせいか、意識が遠のいていきそうになる。
ぐっ、と手に力を込めるようにして耐えようとするが――
どすん、と冷たい感覚のする地面へと落ちる。
通り魔も、倒れる様にして一緒に。
「……?」
辺りを見回すと、見覚えの無い景色。
一面銀世界の、まるで違う場所に居た。
「あら」
女性の声が、隣からした。
其方を向くと、面妖な着物を着た金髪の女性が一人、瞼を閉じたまま此方に顔を向けている。
「眠いせいかしら。あなたは……招待をした覚えはなかったのですけれど」
通り魔が、その声に反応し目を覚ました。
しまった、と思い○○は握っていた石を投げようと右手に力を込める。
が、ない。
「ああ、お気遣い無く」
女性は、行動を見透かしたように言う。
「そんな必要もありませんので」
何時の間にか、通り魔は舌をぺろりと横に這わせながら、女性の方へと視線を向けていた。
何が起きたのかを驚くよりも、今目の前に居る女性に手を掛ける事へと、興味が移ってしまったのかもしれない。
正義感か、それともただの本能か――
彼女から遠ざけようと、思い切り通り魔へと体当たりをかます。
バンッ!!
が、通り魔はそれを避ける所か自分の襟元を掴み、そのまま地面へと投げ捨ててきた。
「たまんねぇ」
そう口にして、女性へと近付こうと。
「あら、その程度なのね」
身の危険を感じていないのか、○○を評価するかの様な素振りのまま。
ふっ、とその姿が瞬時に消え。
まるで蜃気楼の如く、遠くへと、彼女はその姿を移していた。
「待てよ!!」
通り魔がそれを追う様にして、早足で歩き出す。
彼女は気づいているのか居ないのか、合わせる様にして、ゆっくりと銀世界の闇へと消えていった。
「ごきげんよう」
と。
聞こえるはずのない距離の、声と一緒に。
○○の思考はゆっくりと、回らなくなっていた。
投げられた場所に石でもあったのだろうか、軽く流血してしまったらしい。
何処かもわからない、元居た場所よりもずっと寒い、そんな場所で。
今自分に何が出来るのだろうかと、考える事も一苦労になっていっている。
寒い。
一体此処は何処で、何で……こんな事になっているのか……
寒……い。
考え、ないと……
しかし回らない頭でも、視界に入ったものには気付けた。
先程の通り魔だ。
「何処だぁ~。へへっ」
未だに彼女を探していると言う事は、上手くこいつを撒けたのだろうかと考える。
が、そうならこれに近付くのはどう考えても得策ではない。
何処かに身を潜めようと体を縮めようとするが、その通り魔の後ろに、何か。
異 質 な何かが、其処には既に立ちはだかっていた。
背筋を、強烈な寒気が襲っている。
「見慣れない格好ね」
顔は見えなかったが、感情の篭っていないような口調で喋る。
「へ……へへへっ!なんだい……お嬢ちゃぁん」
通り魔は、何か冷や汗の様なものを掻きながら振り向くと、それを確認し、嬉しそうにしている。
……しかし何か、不自然だった。
「スペルカードルールは御存知?」
「しねぇぇ!!」
通り魔が包丁を振り上げと思った時には、もう遅かった。
今度は間に合わない。
思考が回らなかった事を後悔しながら、まだ間に合ってくれと、声を上げ飛び出そうとする。
が、目の前に居た ソ レ は、男がナイフを握っていた腕を
捻 り ベキ バキ ボキ と、いとも簡単に取れるものだったみたいに、それを、むしりとった。
「なん……こん……なん」
通り魔は、まだ笑っている。
しかし目の前で腕の取れたそれが見えている自分にとっては、
言葉に出来ないものがこみ上げているというのに。
「ないわよね、見慣れない服装だし」
ドンッ、と男をそのまま蹴り倒して。
「へ……へっ」
グ シ ャ ッ 。
イヤナオトを立てる様にして、その足で男のアタマヲツブシタ。
「……もっとも、知っていたとしても応じてくれた訳、ないだろうけど。男だし」
……一体目の前で何が起こっているというのか。
先程まで凶器を振りかざし、命を奪う脅威だったそれは
ブ ヂ リ と、また嫌な音を立てて首をもがれている。
通り魔は、通り魔に殺されたとか、そういう話じゃない。
どうすればいいのか――パ キ ッ。
足元で枝が折れる音。
自然に足が上がっていたのか、それを降ろす瞬間に、踏んでいた。
「……ん?」
やや返り血で血濡れになっていた女が、此方を振り返ると。
「そんな所でどうしたのかしら?」
優しい笑顔を向けて、笑いかけてきていた。
最悪な言葉を、付け合せて。
「ふふ、遠慮してるの?いいのに、そんな気を遣わなくても。
久々の獲物だけど、一緒に 食 べ た 方が美味しいわよ。
突っ立って見てないで、こっちにいらっしゃいな」
恐怖がする。怖気がする。寒気がする。
口も頭も回らなくて、今なんて答えたのか判らない。
「どうかした?……怪我してるし」
この女は、何を。
何を、近付いたら。
寒い、恐い、寒い。
「……って、あら」
――来る、な。
「…… …… …… …… …… ニンゲン」
「そんなに恐がらなくても大丈夫よ、今はおなか一杯だもの」
通り魔の持っていたナイフは何時の間にか彼女の手の内にあり、
そしてそれによってそがれた それ は、口へと運ばれている。
何か品の良さの様なものを感じながら、気が付けばこんな会話をしていて。
自分は狂っているのかも知れない。
「食べる?」
そう差し出す様にナイフの柄を向けるが、咄嗟に首を振る。
「くすくす。当たり前か、無理もないわよね」
一定の距離に近付かれる事でさえ、嫌だった。
それにナイフを受け取ろうとでもしたら、自分も同じ目に合うかも知れない。
「……何度も言ってるけど、私はあなたを食べないわよ。……から。
それに、さっきだって襲ってきたのはあの人間の方だし。
どうしても信用できないなら、私からお暇させて貰ってもいいかしら」
そんな考えを払拭させるかの様な事を喋るとは思いながらも。
「……ここから無事、一人で人里へ辿り着けると思うならね」
それすら、削り取られて居る様な気がしていた。
彼女は道を先導しながら、自分の方をチラチラと見てくる。
「そういえば、寒くない?」
ふとされた質問だったが、そう言えば何時の間にか寒さは無くなっていた事に気付く。
そういえば彼女と会って暫くしてから、体から苦しさが消えていた。
「自己紹介もまだだったよね。私は
レティ。
寒気を操る事が出来るのだけど、いわばそれのちょっとした応用かしら。
試しに貴方の寒さを何とかしてあげられるかなって、やってみたんだけど……」
そういって自分の頭をポン、ポンと撫ぜる。
「成功だったみたいね。良かったわ」
その手には、暖かさがあった様な気がした。
……人を軽々と殺した手とは、思えない。
結局、人里が見えるまで自分は話し続けた。
あの女――いや、彼女との雑談で分かったのは、ここがそういう世界だと言う事。
妖怪、人外が居て当たり前の世界。
死にたくないなら、人里の世話になり続けるか、ある神社へと辿り着き、外の世界へと戻るか。
まだ一度聞いただけなので、簡易的にしか覚えられなかったが、レティはとても親切に話してくれた。
お礼を言い、彼女と別れ人里へと向かおうとする。
――が、何か気配に気づき、後ろを振りかえると。
彼女は其処に立ち、自分をにこやかに見送っているようだった。
「私は、ここにいるわ」
……?
そんな風に、聞こえた気がしたが、良く意味が分からなかった。
また遊びにでも来いと、そういう意味だろうか。
が、幾ら少し仲良くなったとはいえ、彼女の言うその『妖怪』なら、とてもじゃないが無理だろう。
困ったようにして首を振って答えるが、彼女はただにこやかに笑っているだけだった。
……彼女が見えなくなるまで離れるが、特に寒くはならなかった。
彼女は、寒気を操れると言っていたが……
この辺りが暖かいだけなのか、それとも妖怪云々の話が嘘だったのかは、分からないが。
何時の間にか、流血を伴っていた筈の傷の痛みが無い事にも、何か違和感を感じ始めていた。
人里へと辿り着くと、直ぐに神社へと案内してくれるという話になった。
思ったよりも早く事が進んでいき、妙な感覚を覚える。
何か、何かが既に終わってしまっているような。
そんな、予感の様なものが。
案内してくれた人と別れ、神社へと辿り着くと。
そこには境内を箒で掃く、妙に腋を露出させた紅白な人が居た。
……話してみると、この人がこの神社の巫女らしい。
色があってればいいのか、と思いながらも。
聞いた話を元に、外の世界へと返りたい事を告げる。
そして。
それで、終わりのはずだった。
「は?」
彼女の素っ頓狂な返事さえ無ければ。
「……あんた、何言ってんのよ。妖怪の癖に」
「お帰りなさい。遅かったじゃない」
彼女――レティは、其処に居た。
いや、待っていたのだろう、ずっと。
自分が此処に来る事を、分かっていたのだろうから。
「食べる?」
……彼女は大木の切り株へと手招き、其処へ座り弁当箱を開いてみせた。
「暖かいものは用意出来なかったけど、これぐらいならなんとか、ね」
中身はサンドイッチだった。山菜やハム、それに果物なんかが挟まっている。
疲れきっていた自分にとって、差し出された食事はありがたいものだった。
今自分が置かれている現状の整理をしようと、それを口にしながら考える。
「……ごめんね。ずっと待っているつもりだったのだけど、本当はこれを作りに少しだけ此処を離れてたのよ」
態々作りに行ってくれていた事は、少しだけ嬉しく思えた。
が、ならば尚の事。
自分が此処に戻ってくる事をわかっていながら、何故教えてくれなかったのかと、同時に腹立たしさを覚える。
率直に、聞いた。
自分は妖怪になってしまったのかと。
「え?」
レティはそれを聞かれ、目を丸くする。
……まさか、知らなかった?
――いや。
「……ちゃんと成功してたんだね。良かった……」
柔らかな笑みで、自分が犯人だと……告げていた。
「貴方の驚く顔って、何度見ても飽きないわね」
飛びのくようにして、触れた弁当箱が雪へと沈む。
自分の感情も、何処かへ沈んでしまいそうになりながら。
レティはゆっくりと立ち上がりながらもまだ、笑っている。
優しい笑み。
それが逆に、恐ろしかった。
あの通り魔を殺した瞬間が、脳裏へと浮かんでくる様な気がしていた。
「そうね……貴方を妖怪にした黒幕は私だけど」
やっ……ぱり。
「妖怪だって人間だって、生きていられるのならその方が幸せでしょう?」
何を、馬鹿な。
人を人間から、妖怪にしておいて。
「貴方を死なせたくはなかったのよ。
助けようと声を上げて飛び出そうとした貴方は、素敵だったわ」
あの時……
枝を折る前から、気付いていたのなら。
自分は、遊ばれていたのか……?
「……そんな必要、まるでなかったのにね。
一瞬だったけど、その想いはこの雪の結晶の舞う中でも、負けない程に輝いて見えたわ。
白銀の王子様が助けに……なんてね。ウフフ」
……。
「でも輝きは一瞬。
貴方は私がアレを殺して近付いた後、そのショックで死んで……死に掛けてしまった。
だから言ったよね?
私は寒気を操る事が出来て、貴方の寒さを何とかしてあげようとしたって」
……そうか。彼女は、寒気を感じさせなくしたんじゃない……
「でも良かった……
王子様が死んでしまったら、御伽噺が台無しよね。
こういうのも、一目惚れっていうのか分からないけど」
与えてたんだ……ずっと。
だから、あの傷も……
「私の王子様になってくれるかしら……?○○」
彼女がゆっくりと近付き、自分を抱きしめると急激に吐き気が催してきた。
――さっき食べた、サンドイッチの味の中に、強烈な不快感があったように感じられてくる。
「あら。流石にまだ、完全にとはいかなかったみたいね」
……?
…… ……まさか!?
そんな考えも逆流する感覚に、打ち消されそうになる。
――が。
その口を、彼女が――レティが塞いでいた。
自らの唇を重ねながら。
「んんんっっ!!!」
目からは涙、鼻からは痛みが溢れ、口からは胃液が逆流してくるが、
それを気にした様子も無くレティはそのまま貪るようにキスをしてくる。
口の端からは塩辛いものが流れていたが、彼女は更にそれを絡め、キスを続けていた。
長い、長い、痛みと。
彼女の甘い香りが、鼻を突く。
自分の中からこみ上げるものがなくなっても、それは続き、押し倒されていた自分の中に、何かが入ってくる感覚があった。
――寒気。
冷たく、すっきりとした。
……何故だろう。
まるで全てが洗われるような、そんな気分になってゆく。
「食べるのは……
まだ貴方には無理みたいね。
だからこうやって、毎日口移ししてあげなきゃだめだね。
ふふふ……
こうやって毎日、食べさせて上げて、吐いて、キスして。
食べさせて、吐いて、キスして 食べさせて キスして
食べさせて キスして 食べさせて キスして
食べさせて キスして キスして キスして。
御腹一杯になるまで、私が面倒見てあげなきゃね」
レティに抱きしめられている。
……不思議と、恐怖は感じない。
(私は貴方を 食べたり しないわよ
好きになっちゃったから)
ただもう、何処にも逃げる場所が無い事が、何故か寂しく思えた。
「……あれから、十年だっけ?」
冬が始まって直ぐの山の中、レティの問いかけに頷く様にして答える。
「じゃあ、忘れられた頃かな……貴方が、外の世界の人達に」
遠くを見るように彼女は言うが、自分にはまだ最近の事に思えた。
「貴方は私だけのものになってくれた?」
今更聞かれる様な事なのだろうかと首を傾げると、彼女は笑う。
「……貴方がもし、あそこで死んで居なければ……
体も魂も氷らせて、傍に置いていたかも知れないから」
擦り寄るように腕を組んでくると、顔を伏せて。
「い、今ではこうやって居られる事が……嬉しかったりして」
……それに関しては同意だった。
確かに不本意だったにはせよ。
こうして、彼女とめぐり合えたのは、一つの幸せなのかもしれないと。
今では思えるようになっていた。
ただ、どうしても思ってしまう事がある。
もっと普通に出逢えて、人間のまま、彼女とこうやっていられたら――
それはどういう幸せだったのかと。
彼女も、そして自分も、もっと幸せだったのではないか?
そんな考えが。
「……そういえば、私達の出逢いって」
――でも。
「きっと人間から見たら、酷いものよね。
通り魔を返り討ちにした妖怪が、助けてくれようとした人間を死なせてしまって、妖怪にしてしまう」
そう。
「でも、私達からしてみれば。
私を襲おうとした人間から、救い出そうとしていた人間に。
恋をして、でも死なせてしまった。
死なせたくないと言う願いから、妖怪にしてしまったけれど、それはとても嬉しい事で」
だから、寂しかったのかもしれない。
”人間”でも”妖怪”でもない、違う者に、”二人一緒”に変われる可能性がなかった事が。
「……だからね、○○」
でも、そう。
だから口する必要も無かった。
「今度は二人で、幸せになろうね。
幻想郷なら、神様にだってなれるだろうから」
二人で一緒なれたなら。二人で一緒に変われるはずだから。
「あ…そういえばまだだったね。 ちゅっ。……一年ぶりのキス、我慢してたんだから」
唇を重ね、想いを重ねながら。”人間”でも”妖怪”でもない”愛する人”を抱きしめて。
最終更新:2015年05月06日 21:00