“ちゅっ…”


「…!?」


一瞬、何が起きたか解らなかった。


俺の唇の触れていたのは、椛の唇。
何故こうなっている?

何より、間近で俺を見つめるその目の色は、とてもいつもの妹分とは思えなくて…

「…は!

…藍!!」

そうだ、藍を追わなきゃならない。

あの声は間違いようがねえ。
行かなきゃ。
今すぐ行かなきゃ。

とにかく、その場にいてはいけない気がした。
だから走り出した。


それは藍の声を聴いたからなのか。

…それとも。
椛の目がとても暗く、そして飢えた獣と同じそれで。

そこに俺の本能が、「逃げろ」と告げたからなのか。


その時は、解らなかった。




…あーあ、先輩、行っちゃいましたね。


でも今日は、ここまでで充分です。
あれだけ見せ付けてあげたんだから、あの九尾には効いたでしょう。

あいつを傷付けるのは、目的の上位でも、一番じゃないですから。
一番は、先輩の心を手に入れる事。


例え先輩が九尾を捕まえても、あれを見られたら、さすがに拒絶されるでしょう。
妖怪は精神に左右されやすいですから、彼は相当弱るはず。

そうして弱った彼に優しく声を掛けて、そっと抱き締めて…
…ああ、甘えてくれたらたまらないですね。
普段あまり弱さを見せない彼の、かわいい所が見れそうで。

きっと彼の髪は、触り心地がいいんだろうな。
そうだ、子守唄も唄ってあげましょう。
尻尾は足りないし、九尾みたいに立派でもないけど。
彼の腰にでも絡めて…そう、ほどけないぐらい絡めましょう。


そうして、上書きしていくんです。
彼の中の金色を、私と同じ白に染めて。
私と彼の、おそろいの白に染め変えて。

今までずっと気付いてくれなかったんだから。
少しくらい、いじわるしても良いですよね?


…ねぇ、 せ ん ぱ い ?





…気付けば、随分遠くまで逃げていた。
ここは何処だろう。

さっき見た光景が、頭に浮かぶ。

そうだ。
そうだよな。

あれだけの月日が経った。
ましてや、あんな終わり方だった。

彼には彼の、今の幸せがあってもおかしくないのだ。
それを壊してはいけない。
そうだ、それがせめてもの罪滅ぼしじゃないのか?


「あれ…?」


ああ、随分走ったからな。
水滴がいっぱいこぼれてくる。

最近運動不足だったろうか、なんでこんな苦しいんだろう。

ああ、ほら、こんなになみだがいっぱい、いっぱいこぼれて。


「ぐすっ…うっ、ぐっ…」



「藍…」

「ゆかり…さま…」

「お待たせ、終わったわ。

お腹も空いたし、そろそろ帰りましょう?
今日は私が作ってあげるから。

…そんな顔じゃ、せっかくの美人が台無しよ?」





「…クソッタレ」


あれから数日が経った。


あの後藍を追ったが、結局見付からなかった。
ただ、振り向いた直後、逃げるあいつの姿は目に入った。

幻聴じゃない。
あれは間違いなく藍だった。
もしかしたらと考えると、思考が止まらなくなる。


…何より解らないのは、椛だ。

あれからあの日の話をすると…

「楽しかったですねー。
でも先輩、あの時急に走ってってどうしたんです?
お腹でも痛めたんですか?」

…あんな調子だ。
まるで“あの瞬間”だけ、無かった事みたいにぬかしやがる。

一見いつも通りの表情に戻ってたが…
その話の時だけは、あの“有無を言わせねえ暗い目”になってた。

あいつの真意はなんだ?
あのキスの意味は?

…ダメだ、わかんねえ。


「埒が明かねえな…寝るか。」


気が付けば、明日は非番だ。
まさか5日程度をこんなに長く、そして短くも感じるとはな。


「こんだけ憂鬱な休日前なんざ、せいぜいあの夢を見た時ぐらいだったんだがな…」


明日は暇な分、尚更憂鬱の輪の中か。


「藍…」

射命丸に貰った写真を手に取る。

「俺の心は、今何処にあるんだろうな?」

現実から逃げるように、俺は部屋の明かりを落とした。




同じ頃、藍は自らの寝床にいた。

「何があったかは、話したくなったらでいいから。
まずは落ち着いて、元気を出しなさい。

妖怪は精神に依るのだから、ずっと泣いてたらダメよ?」

そう紫に諭され、藍は、日中はなるべく平静を装う事に勤めた。


“だけどダメだな。
私もまだまだ未熟か。”


しかし、いざ寝床で真っ暗な天井を眺めれば。
また思考の闇に沈むのだった。


“彼の幸せを願うなら、乗り越えなければ”


“…本当に、そう思う?”

頭の中で、もう一人の自分の声がした。

“だってそうじゃないか。
私が彼にした事は、とても重いのだから”

“違うだろ。

あの時は、心の底から憎んでいたじゃないか。
彼を傷付けた人間たちを。
彼を奪おうとした全てを。

今も彼を奪う存在は敵だろう?
今も彼を、取り返したいだろう?
だから紫様の式にまでなったんじゃないのか?

お前は九尾じゃないか。

ましてや、あの賢者に教えを乞うたのだ。
あの痩せ狼を殺して彼を奪い返すぐらい、造作も無いだろう?

本当は、彼の全てを独占したいのだろう?”

“違う。”

“違わないさ。

お前も所詮はメスなんだよ。
ほら、本性を思い出しなよ?
ちょっと心を解放するだけでいいんだ。

彼を取リ返シたイだろウ?
彼ガ欲しイダろう?

…サア殺セ!!
アノ発情シタイヤラシイオオカミヲ、殺スンダ!!”



「違う!!!!!!!!!!!」



自分の叫び声と共に、目を覚ました。
いつの間にか眠っていたらしい。


先程の夢を思い出して、藍は震えた。
自らの浅ましい本性に。
自分の中の、醜い獣に。

また涙が出てきた。
怖い。
悲しい。
寂しい。
痛い。
彼の名を心の中で呼ぶ。
何度も、何度も、何度も、何度も。


そうして激情に飲み込まれかけた時。

___後ろから、藍を抱き締める腕があった。


「藍…話してごらんなさい。
大丈夫よ、怯えなくていいから。」



藍は全てを紫に打ち明けた。

あの日の事。
自分の中の葛藤の事。
醜い本性の事。

その全てを、紫は黙って聞いていた。
藍をその胸に、抱き抱えたまま。



「…そう。
随分、追い込まれていたのね。

でもね、藍。
それは、自然な事なの。
心のある生き物であれば、誰もがいつかは抱える葛藤なのよ。

妖怪も人間も関係無く、皆その葛藤を抱えて、それと闘って生きてるの。

…たまに、それに負けてしまう者もいるけどね。」

「誰もが?」

「ええ、誰もが。

貴女だけじゃ無いわ。
皆そうして自分と闘って、現実を見極めようとして。
時には間違えて。

そうやって、それぞれの答えを見付けていくの。

藍、貴女、彼とは話はしたの?」

「いえ、そのまま逃げてしまって…」

「じゃあ、まだ解らないじゃない?

一度彼と、話をしてごらんなさいな。
真実は大抵は残酷だけど、時には優しい事もあるのよ?

ちゃんと自分の耳で聞いて、考えて。
あなたの想いの全てを伝えて。
本当にダメだった時にこそ、現実を受け入れる。

諦めるのは、それからで良いんじゃないかしら?」

「紫様…」

「あの時天狗の長に会ったのはね。

もしかしたら、って思って、“天狗内でも珍しい種族はいないか”って訊いてみたからなの。
異変の原因になる危険が無いか調べたいって名目でね。

そしたら灯台もと暗しね、白狼天狗を名乗っている白狐が一人いたわ。
元の名前もそう。

藍。
スキマを開けてあげるから、彼に会いに行きなさい。

結論は、それからで良いはずよ。」


「…はい!!」


そうして藍は、スキマに入って行った。

“何が起きても、全てを受け入れる。”

そう決意して。



藍を見送った後。
紫は一人自室へ行き、久しく吸っていなかった煙管に火を点けた。

“まさか私が、あんな年長者じみたお説教をするなんてね。
見た目こそ変わらないけど、中身はそれなりにオバサンになっちゃったのかしら?

…あの人が死んでから、もうどれぐらいになるかしらね。
人の事は言えないわね、私も。”





“寝れねえな。

…当たり前か。”


呆然と窓を見上げる。

今夜は満月。
その色が、より彼の思考を掻き乱す。

“幾ら考えても解らねえんだ、どうしようもねえ。
ま、朝になれば、寝落ちするだろ。”

そう思い、窓とは反対側に向き直った時。


「○○…」


そこには、確かにここにはいないはずの、藍がいた。




「…藍。」


これは夢か?

目の前には藍がいる。
そしてその声が呼ぶのは、かつて捨てた、俺の本当の名前。

手を伸ばしてみる。
その金色の髪に、白い頬に触れる。

ああ、夢じゃない。
確かにここにいるのは、藍そのものだ。

何も言わず、ただ抱き合った。
互いの鼓動と、香りと、感蝕と。


再会の瞬間は、それだけで良いと思った。


「…久しぶりだな。」

「ああ…一体何年振りか、忘れちまったよ。」


藍は自らの服に手を掛ける。
それを見て、俺も寝巻の帯をほどく。


九つの尾が、優しく俺の身体を包む。

それは子供の頃と同じ、懐かしい記憶だが。
あの頃と違うのは、互いにそれなりには大人であり、そして一糸纏わぬ姿であるという事か。


俺は全てを受け入れると決め。
ただ彼女を抱き寄せ、唇を重ねた。

それがかつて、彼女を傷付けた事への後悔からなのか。
それとも純粋な感情からなのかは。

今は、どうでも良かった。


例えそれが。
今宵だけの、一抹の夢だったとしても。






スキマを抜けた先。
その明かりの消えた部屋に、人影が一つ。

窓からの月明かりに照らされるのは、その白い髪。

「藍…。」

そして、忘れるはずもない、その声。


彼の手が、優しく私の髪を、頬をなぞる。
そうだ、私は確かにここにいる。
そして、彼も。

彼の手が、私の身体を包む。
私も彼の背に手を回し、それに応えた。


「…久しぶりだな。」


着ていた服を脱ぎ、彼も寝巻の帯をほどいた。
その傷跡だらけの身体を、私の尾で包む。

彼は私を抱き寄せ、そして唇を重ねた。
言葉はいらないと思った。


抱き合う様に身体を重ねる。
空白を埋める様に、互いの存在を、強く確かめるように。

あまりにも、離れていた時間が長すぎた。
それぞれの今がある事も、充分解っていた。

きっと今宵だけの、うたかたの夢になってしまうから。
それはお互いに、解っているはずだから。


だから、せめて___。


彼の背中に、強く爪を立てる。
肌が裂け、血の流れる感触と温度が、指を伝う。

その痛みにも微動だにしない姿が、彼の歩んできた時間を感じさせて。
少し、せつないけれど。


この夜を、忘れないで。

その痛みと、消えない爪痕と共に。
覚えていて。


わがままでもいい。

わたしをわすれないで。

わすれないでいて。

ずっと、ずっと____。





月明かりの下、ふたりは眠りに落ちようとしていた。

情事の後、色々な事を話した。
しかしそれも、疲労もあってか途切れていた。


白い狐は、彼女を守る様に抱き締め。
九尾の狐は、その尾で彼を包み、子守唄を唄う。


辺りには静寂と、澄んだ声だけが漂う。

それはあの頃と同じ。
とても優しい夜で。

そしてふたりは、夢の中へと落ちて行った。








この木の上からだと、先輩のおうちがよぉく見えます。
私の能力を使えば、窓から家の中だって見えるんです。

悪い虫ほど神出鬼没ですからね。
監視して、彼を守らないと。


おや、藍さんの写真ですか?

でも、今は“あの顔”はしないんですね。
随分悩んでいる様子です。

…そう。
もっと、もっと悩んで下さい。
そうやって、私でいっぱいになって下さい。

風邪は治り始めが一番つらいですよね?
あの九尾を、少しずつ追い出せている証拠です。

大丈夫です。
本当につらくなったら、すぐに駆けつけてあげますから。
優しく抱き締めて、身も心も、私で満たしてあげますから。


そうですね…
全部終わったら、今までの先輩じゃなく、ちゃんと××って呼ばせて貰いましょう。

互いをちゃんと名前で呼ぶ。
良いじゃないですか、恋人同士って感じで。


…でもあの時の逃げてく九尾の顔、傑作だったなぁ。

死角に入るまで、私の能力でずっと追ってたんですけどね。
本当情けない顔で、無様で。
やっぱり、彼には不釣り合いですよ。


最近は仕事が終わった後、ここから彼を視か…
…じゃなかった、警備するのが日課です。


…ああ、でもヤっぱり、隣で彼を見ていたイなぁ。
彼の腕ニ抱かレて。
彼ヲ抱き締メて。
彼に犯さレテ、身体中で彼ヲ感ジて。

でも、それももうすぐです。
上手く行くに違いありません。


ん?
もう寝ちゃったかな。

もう少し中まで目を…



…あれ?

なんで、あの九尾がいるの?

ねえ先輩、なんでそんな顔するんですか?
なんでそんな愛おしそうに、その汚い害獣に触れるんですか。

ナンデ、抱キ合ッテルンデスカ?

…あ、脱いだ。

見れば見るほど、いやらしい胸ですね。
それでどれだけの男をたぶらかして来たんでしょう?
襲う気でしょうか?
助けなきゃ。

あれ?

なんで先輩も脱いでるんだろ?

やめろ。その尻尾で彼を包むな。

触れるな。

離れろ。

あ…

ねえ、先輩。

ナ ン デ キ ス ナ ン カ シ テ ル ン デ ス カ ?


やめて。
そこはわたしの場所なのに。
そうやって触れてもらうのは、わたしのはずなのに。


なんで動けないんだろ。
なんで目を逸らせないんだろ。
あれ?涙が出てきた。


そうやってふたりのからだがかさなって。
ああ、なんて汚い。
キタナイ。


あ。
爪を立てた。
彼の背中に。あの女狐が。
あの深さじゃ、痕になっちゃう。
一生先輩に、あの女の跡が、残っちゃう。


…ああ、わかりました。
そうやって、呪いを掛けて。

カ レ ヲ タ ブ ラ カ ス ン ダ ロ ウ ?


先輩も、少し抜けてますもんね。
狐が狐にたぶらかされちゃうなんて、おまぬけさんです。
そこもかわいいけど。

そうですね。
こういう時は、ショック療法なんかがいいでしょう。

今は何故か動けないけど。
あと少しだけ、待ってて下さいね。


“少し、痛くしちゃう”かもしれないけど。



必ず治してあげますから、ね?



ふふ…

ふひゅっ、はははははっはははっははははっはひゃははやあああはひゅひゃ
ははははっはははやひいいひゃははあひゅひゃひゃははひゃはひゃひゃひゃ
ひゃひゃひゃひゃははははははははっはあひゃひゃはははははははははは。



ひゃ。





木の上に少女がひとり。

少女は、笑いながら涙を流し。
その目からは、光の全ては消えていた。

間近でないと聞き取れない程静かな。

___そして、確かな狂気を孕んだ笑い声だけが。
暗い森に響いた。



_______________________




つづく。



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最終更新:2011年11月17日 12:11