幻想郷は、否、それさえも内包した日本と言う国は夜に抱かれていた。
月、ぷっくりと膨れた十三夜の月が堂々と天にある。
端っこの方だけがまるで幼児に齧られたかの如く欠けた月は満遍なく地上を照らす巨大な夜の“太陽”となって大地を見下ろしていた。
昼間は無遠慮に下界を焼き尽くす太陽の元では見れなかったモノも、この静寂なる月の光の下ならば見えることもある。
夜。仄かな月より反射する太陽の光が闇に対して遠慮がちに光を送る時間の奥深く。
草木も眠り、遠くからは獣の遠吠えさえもする原初の闇の時間帯、昼間に照りつけた熱がじっくりと冷やされ、肌寒いとさえ感じる時刻。
しかし、紅魔の館には幾重もの光が灯され、その周辺だけは煌々と輝き、その光は遠く離れた妖怪の山からでさえも見えた。
紅魔館のすぐ隣に存在する霧の湖には大きく月の影が映し出されている。
そして、その近く、ちょうど紅魔館との間に湖を挟んだ場所にある森、そこに二つの人影が動いていた。
深夜の時間帯の森というのは語るまでもない事ではあるが、不気味だ。
煌々と天に君臨する星から放たれる光は鬱蒼と茂り何十にも重なった草木のカーテンで遮られ
この森は昼でも薄暗く、それが夜となってしまえば周囲は完全な闇が支配する世界となり、人間を拒絶する世界を創造する。
人間を、だ。
本当の暗闇というものを知っている存在というのはかなり少ない。そしてソレを恐れている者も。
だが、それは外の世界の人間ならばの話である。
この幻想郷に住まう人間はただの例外も無く、全員が闇の、そしてそこを住処にする存在の恐ろしさを知っていた。
少しでも闇を嘲り、自分は大丈夫だと考えたモノの末路は死しかない。
獣や妖怪に肉体や魂を食われるか、道に迷い餓死するか、もしくは余りの恐怖に発狂し自ら命を絶つかのどれかになる。
だが、彼は違った。本当に僅かな例外に含まれる闇を恐れないでもよい人間がいる。
彼は闇を恐れるのではなく、愛したのだ。闇の女王を、全ての夜を支配し、三全世界の怪物の中でも間違いなく最強の地位にある吸血鬼の心を、彼は魅力した。
それは麻薬にも等しい、愛とは依存性の強い薬物のようなもの、一度味わえば二度と手放せない魔性の酒でもある、彼は
レミリアに惜し気もなくそれを捧げ、レミリアもソレを受け取ったのだ。
それは二つで一つの存在であった。レミリア・スカーレットとその夫の○○。
夜という支配時間を思う存分に堪能し、二人だけの密の様に甘い時間を楽しむために両者は自らの紅き城を離れ、この森にまで足を伸ばしていた。
一歩一歩踏みしめる旅に泥などが飛ぶが、レミリアの魔力を存分に使って加護を受けた彼と彼の衣服には汚れ一つ付かない。
当初は殺意、好奇、舌なめずりなどの無数の感情が入り混じった視線がこの森に住まう妖怪や、妖怪もどきなどにより○○に注がれたが
レミリアの本気の殺意と、私の男にその汚い手を、視線を向けるなと言う無言の悪魔の圧力により追い払われていた。
下等な雑種共が、身の程を弁えなさい。
レミリアは小さく鼻を鳴らし、次いで殺意によって縦に蛇の如く裂けた真紅の瞳孔をもって闇を見据え、
その絶対的なまでの存在の格から発せられる威圧感により一瞬で闇の奥底に潜む全ての者らを失せさせる。
私の声も、笑顔も、身体も、そして心も、全て彼の物。他の者には絶対に見せない。見せたくなどない。
もしもこれをただの野次馬根性などで侵したのならば、あのスキマ妖怪であろうと彼女はズタズタに出来るだろう。
「確か、レミリアに始めて会ったのもこんな月夜だったね」
その声によりレミリアは一瞬で現実に引き戻された。劣等共を支配する魔王の顔が、一瞬にして○○の妻のソレに変貌を遂げた。
黒いスーツの様な衣服に身を包んだ○○が砂利を踏みしめ、片手に持った蒼い魔力の炎が灯ったランタンを揺らし、闇を引き裂きながらレミリアに声をかけている。
レミリア・スカーレットという悪魔の全存在を魅力し、地獄の罪人や魔物を繋ぎとめる鎖でさえも遥か及ばない強度の鎖でもって繋ぎとめる男は自らの業を自覚した上でこの時間を大切にしていた。
吸血鬼は小さく上品に笑うと、眼を細め、彼女にとってはつい最近とも言えるほどに近い過去に心を飛ばす。
紅い眼に喜びの光が宿り、レミリアは見かけ相応の童女の様に無邪気な仕草で○○の腕に抱きつき、夫の顔を見上げ、満面の笑顔を浮かべていった。
「そうね、私は全て覚えているわ。一言一句、残さず、確実に、今でも暗唱して言えるぐらいよ」
巨大な漆黒の翼がレミリアの背後から広がり、それは優しく○○の身体を包み込む。まるで親鳥が雛を外敵から守るように。
レミリアが発動させた魔法により○○の手にあったランタンが一人でに浮き、それは少しばかり高い位置に滞空し、周囲を照らす。
両腕の自由を得た○○は既に妻が何を望んでいるかを知っていた。故に彼は行動に移す。
「ん……」
女のよく手入れのされた群青の髪と肌を、男の手が撫でた。片方は頭を、もう片方の手は彼女の顔を。
吸血鬼の口から漏れたのは安堵の息。それでいて愛しい者に触れてもらえる喜びに満ちた幸せを噛み締める声。
その紅い眼が熱に浮かされたように蕩け、無意識に放出される魔力が紅いオーラとなって○○に蛇の如く絡みついた。
目尻をなぞり、頬を優しく撫で、最後に彼女の顎に男の指が添えられ、彼女の頭を少しだけ持ち上げる。
その間、レミリアは一切の抵抗をしなかった、否、そもそも抵抗するなどという選択肢そのものが彼女にはなかった。
絶対にありえないが、例えば○○が今ここで、彼女の心臓を銀のナイフで突き刺し殺害しようともレミリアは満面の笑みで受け入れるだろう。
だが、レミリアは○○の死だけは受け入れることが出来ない。どんな事があっても、それだけは。
小さく○○は、妻に口付けを落とした。
レミリアの全てが、ほんの一瞬だけ、完全になる。始めて夫婦の夜を過ごしたあの日の様に、始めて彼への恋心を自覚したあの時のように。
この瞬間だけは、幼い悪魔は全ての不安を忘れ去ることが出来るのだ。○○に迫る死神の鎌も、○○の運命の事も。
時間にしてほんの数分後。○○とレミリアの夫婦は小高い丘の上に来ていた。崖を一つ二つ昇り、そのまま少しだけ進んだ場所に二人は居る。
そこから見渡せる景色は正に絶景と言えるだろう。巨大な月を投影する霧の湖に、幾つもの灯りを灯す紅魔館と時計台。
同じように多数の妖怪の気を放ち、無数の小さな哨戒天狗がかがり火を持って飛び交う妖怪の山に夜でも光を決して失わない人里、その全てが同時に見える。
それだけではない。吸血鬼の魔力を帯びた魔眼は異相次元に存在する冥界を確かに見据え、鋭く睨みつけた。
小さくレミリアが溜め息を吐いた。冥界、魂の集まる場所、外の世界から来た○○も、死ねばそこに連れて行かれるのだろうか。
そして○○は恐らく、確実に、閻魔によって地獄に落とされるだろう。この人外のレミリアを愛した業によって。
再度吸血鬼は溜め息を吐き、首を振った。今考えても仕方がないことだ。せめてこの時間だけは、彼の事だけを考え、彼の事だけを見ていたい。
巨大な漆黒の翼を広げレミリアは小さく指を鳴らす。関節の弾ける音と共に真紅の魔法陣が展開。
途端に魔力によって召喚の魔法が発動させ、小さな木製の上質な玉座が1つ○○の前に現れる。
○○がそれに腰掛け、そして○○の膝の上にレミリアが乗っかる。細く、しなやかな腕が○○の首に回された。
先ほどと同じように翼が○○とレミリアを包み、外界を拒絶する。この人との時間を何者にも見せたくないといわんばかりに。
吸血鬼の冷たい腕が、○○の体温によって温もっていき。思わずレミリアは微笑んだ。
男が一度心臓の鼓動を刻み、生きているんだという事をレミリアに証明するたびに彼女の心は満たされていく。
そんな至福の時間を堪能しつつ女は愛しい男に以前から疑問に思っていた事を問うべくして動く。
真っ赤な極上の宝石を想起させる双眸が○○の黒い眼を真正面から見据え、視線が静かに交差する。
○○はこの世で最も強いであろう吸血鬼の顔を正面から堂々と見つめ返し、小さく顔を傾げた。
それを受け、レミリアの身体が小さく跳ね、怯えたようにギュッと○○の服の襟を掴む。
何度も唇を震わせ、彼女はあえて○○と自分との間にある小さな小さな溝に足を踏み出した。
「○○……貴方は何故、私と同じ吸血鬼になってはくれないの? もしも貴女が私と同じ存在になれば……そうすれば、ずっと一緒に居られるよ?」
彼女は、ありとあらゆる労力を用いて自分の声が無様に震えるのを押さえ込んだ。
一切の笑いも、常日頃から彼女が纏っている超越者然として余裕も一切ない、真面目な声音。
それはもはや質問と言うよりは嘆願に近かった。幼い少女の声は微細に震え、今にも泣き出しそうなほど。
○○から視線を離さないキラキラと輝く真紅の瞳は濡れそぼり、今にも涙を流しそうだ。
それほど、それほどレミリアにとってこの言葉を発するのは勇気の必要な事であった。
○○が、人間として生きて、人間として死ぬという信念を持っていることなどレミリアは百も承知だ。
そしてその決意がただの遊び半分ではなく、本当に真実強い意思によって齎されているということも。
そんな彼女は一つだけ理解出来ない。どうして、どうして咲夜も、○○も吸血鬼になってくれないのだ。
人間は脆いのに。下級妖怪の一撃で死に、ふとした事故で死に、病気一つで死ぬというのに。
何で自分が大切だ、永遠を共に行きたいと思った者は揃って永遠を拒絶するのだろうか。
──私は最後まで死ぬ人間ですよ。その代わり、最後まで貴女の傍に居ます。
一瞬、レミリアの脳内には確かに咲夜の声が反芻していた。
「僕は一生死ぬ人間としてレミリアの傍に居るよ」
○○の返答の言葉はあの時と同じだった。そこに込められた確固たる、きっとあの
フランドールでさえも壊せない決意も。
優しく、レミリアが好きでたまらない笑顔を浮かべ、いつもの様に、レミリアが愛しくて狂いそうな声で彼は言葉を紡ぐ。
紛れもない、拒絶だった。全てを捧げた夫の拒絶。全てを捧げてくれる夫が、唯一譲らない場所。
鈍い音が、鳴った。○○袖を握り締めた指に力が入り、吸血鬼の爪牙は安々と彼の服の一部を引き裂いた。
音速さえも超えた速度でレミリアの二本の腕と、五指が○○の首を掴み、その爪が肌に食い込む。
○○は一瞬だけ痛みを感じたように顔を顰めたが、直ぐにレミリアの眼を見返した。
紅い、血と涙が入り混じった液を眼からを流し、世にも恐ろしい形相と化した悪魔としての顔の妻を、彼は逃げることなく見返したのだ。
「どうして! どうしてなの!! 何で貴方も咲夜も、私と一緒に生きてくれないの!? 私は貴方と紅魔館の皆さえ居ればいいのに!!!」
それは駄々を捏ねる子供のようだった。悪魔の王たる尊厳も、紅魔の館の主として超越者然とした姿も、そして吸血鬼としての誇り高き姿も
何もかも全てを投げ捨て、理不尽に嘆く一人の少女が居るだけだ。
慟哭の声は大きくなる。時間が経つにつれ、レミリアの指に込められる力は大きくなり、○○の身体が過負荷な力によって軋む。
既に隠すことなど出来なかった。レミリアは泣いていた。いずれ来る○○との死を思い、そしてそれから逃げようとしない○○に対する遣る瀬無さに。
しかし、○○の顔には恐怖一つない。彼の黒い平凡な人間の眼は強い決意と意思があるだけだ。
壊れ物でも扱うかのように、子供を宥めるかの如く、○○は包み込むようにレミリアを抱擁し、その小さな背を優しく叩いたり摩ってやる。
何度も何度も、父親の様に、夫は妻に対し愛情を込めて、行動で慰めることしか出来ない。
徐々に、○○の首を締め付ける力が弱まり、同時に○○とレミリアをスッポリと覆っていた漆黒の翼が縮むように小さくなり、やがてはレミリアの背に飲み込まれるように消えた。
残るのは愛しい女性を抱きしめ、優しく宥める男と、その男の胸に顔を埋め、涙を流し続ける小さな吸血鬼だけ。
弱弱しく、親からはぐれてしまった子供の様に泣きじゃくるレミリアに○○はそっと語りかける。
「こう考えてみたらどうかな?」
「…………?」
緩慢な動作で顔を上げたレミリアの顔は酷い有様であった。涙や鼻水でぐちゃぐちゃに顔は汚れ、まだ何度もしゃっくりあげている。
真っ赤な瞳からは止めどなく涙が零れ、それは○○の心さえも痛めつける。
そんな顔は見たくない。○○は思った。愛しい女の泣き顔など、見たくない。笑っていて欲しい。
「いつか来る別れよりも、そこに至るまでに僕とレミリアが何をどれだけ残せるか……僕と言う存在をレミリアの中にどれほど刻めるか、それを考えようよ。
大丈夫、僕は絶対にまだまだ死なない……後80年はね」
○○が笑いかける。太陽の様に綺麗な笑顔で。月の支配者であるレミリアの心を照らすように。
レミリアの顔が凍った。次いで、その氷は氷解し、彼女は貪るように○○と口付けを交わした。
そんな彼女の頬を涙が一つ、伝い、堕ちた。
違う、違うのよ。確かにそれは正解だ。正しい。貴方の言っていることは私も賛成だ。だけど、○○は知らない。
自分に残された時間がどれほど少ないか。もう、そんな思い出を作る時間さえもないことを。
彼女の口内で鋭利な牙が魔力を帯びて輝く。ここで、○○を吸血すれば……○○は恐らく生きれる。
だが、同時にレミリアは判ってしまった……違う、今まで気が付かないふりをしていた事実を直視してしまった。
それは運命を操る程度の力を用いなくても、見えてしまう単純な未来の予想図。
○○は吸血鬼化させてしまったら、彼は彼でなくなってしまう、と。
彼の自分は人間であるという信念は彼と言う存在を形成する重要なアイデンティティとなっている。
もしもこれを力ずくで奪ってしまったらどうする? それは例えるならば、七曜の魔女
パチュリーから本と知識を吸収する機会を取り上げるのに等しい。
そうなったら、彼のレミリアに対する想いが揺らぐとは言わないが、それでも今の彼とは決定的に何処かが変わってしまうだろう。
彼の信念を折ることは不可能である。結局の所、吸血鬼はいつものこの答えにたどり着く。
だが、今日に出された答えは、その“重さ”が違った。
悪魔としての優れた能力により、この幻想郷の全ての力を感じることが出来るレミリアだが、今は○○しか見えない。
何処を見ても、何を感じても、○○しか感じれず、見えない。彼女が自分の身体と能力を通してこれまで存在した愛のありったけを捧げている彼しか。
彼が何を考えている?
○○は私を愛している。
大事なのはこれだけ。他は全てどうでもよい。
そしてレミリアは○○の愛を感じながら、改めて確認をした。○○は私の全て、私の想いの全てだと。
そんな彼が死ぬのを何もせず、手をこまねいて見ているなどという事が許されるわけがない。
○○の無垢。○○の情熱。○○の愛情の全てがキスを通してレミリアに流れ込み……彼女の魂が叫んだ。○○を死なせることなど出来るのか?
運命は答えなかった。魔力も、今まで彼女が築いてきた悪魔としての権力も答えを用意することなど出来なかった。
だが“恐怖”という感情は答えを持っていた。それは万物を腐らせる、下卑た猛毒と共に言霊を放ち、容赦なくレミリアの心をかきむしる。
──“死ぬさ。○○は死ぬ。判っているんだろう? どんなにお前が足掻こうが、いずれ○○は死ぬ”
たとえここで運命をひっくり返そうが、人間である限りは、○○も、咲夜も、死ぬのだ。そして二人は地獄に落とされるだろう。
どんなに黙らせようとしてもその声は消えない。まるで傷口が化膿し、膿が湧くように延々と彼女の心に根を張って腐らせていくのだ。
キスが終わり、○○との物理的な繋がりが消えうせても、レミリアの中には確かに○○から託されたモノは残っていた。
彼女たち夜の眷属にとっては破滅の象徴でしかない太陽の如き輝きと熱さを持ったソレは、轟々とレミリアの中で渦を巻いている。
小さく彼女は微笑み、○○に言葉を投げかけた。
「愛してるわ○○、たとえ、世界の全てが敵になったとしても、私は貴方を守る。貴方の為なら、私は世界さえも壊して見せるわ」
ふと、ほんの僅かな違和感を○○は覚えた。何だろう、これは?
言葉にして表すことは出来ない、ほんの小さな違和感。何処が、どうとは言えないのが何ともむず痒い。
何というか“余りにも言葉の内容が冗談に感じなかった”
○○が思考に時間を費やす一瞬の間、レミリアは彼の頬にキスをすると、ぴょっんと椅子から飛び降り、その見事な翼を大きく広げる。
闇を塗りつぶす黒い翼。放出される真紅の魔力は絶対者の証にして、スカーレット・デビルの象徴だ。
「じゃ、紅魔館に戻りましょ」
「……うん」
泣きはらした眼で笑顔を浮かべる妻の言葉に、○○は応じるしかなかった。
結局、疑問の答えは出なかった。
紅魔の廊下をレミリア・スカーレットは一人晴れ晴れとした表情で突き進んでいた。
ふと足を止め、窓から見える月を彼女は仰ぎ見、その向こうに存在する運命を睨みつけた。
何も難しくない。答えなど、運命を見た時に判っていたはず。
もう、昨日運命を読んだ時点でこうなるのは大体判っていた。今日のアレは……最後の一歩を踏み出すための儀式と確認の様なものだ。
以前は守りたいモノを守り、欲しい物を手に入れ、そのためには手段を選ばなかったではないか。
この幻想郷でさえ、最初は力づくで手に入れようと考えたのだ。その頃に戻ったと思えばいい。
かつてと違うのは、その核にあるのがそこいらに転がっているような単純な野心や欲望ではなく、愛であるということだけだ。
今の自分ならば、何でも出来る。全身を駆け巡る圧倒的な魔力に気力は500年以上生きてきた中で、最高のモノであると断言できる。
「お姉さま」
ふと、レミリアは聞きなれた声が耳朶を打つのを感じて振り返る。既に、気配は感じていたので、特に驚きなどはない。
そこに居るのは金糸の髪を持つ、紅を基調としたフリルがふんだんにあしらわれた服を纏った少女。
レミリアと外見年齢そのものは変わらない少女だ。10代にも及ぶかどうかという姿。
よく見れば顔のつくりなども似通っているが、細部までをよく注視すれば、目や鼻の作りが違うことが判るだろう。
しかし、翼だけは決定的に違う。彼女の背にあるのは、翼とさえ言えるのだろうか。
ソレは猛禽類の翼の骨格、そういう表現が正しい。
枯れ枝にも見えるそれには、色とりどりに輝く宝石が実っており、その光の彩りは暗闇の中で鮮やかな虹を作り出す。
一種の幻想的とさえ言える翼は、吸血鬼というよりは死神のソレに見えなくもない。
「どうしたのフラン? 私は今忙しいの。要件は手短に頼むわ」
彼女の名前はフランドール・スカーレット。レミリアの妹であり、この屋敷の地下に他ならないレミリアの命令によって軟禁されていた者。
悪魔の妹と呼ばれる彼女が持つ力は『全てを壊す能力』であり、その力の制御方法さえも知らなかった彼女は封印されていたのだ。
そんな彼女が、レミリアを探るように睨み付け、まるで危険な爆弾に対する警戒心を隠そうともせずにレミリアを、姉を見据えていた。
まるで敵でも見るかの様な目だ。気に入らない。レミリアは素直に、そういう感想を抱きつつ、フランを観察する。
「何を始めるつもりなの? お姉さま」
理屈ではない。フランドールは、廊下で見かけた姉を見て、何やら妙な胸騒ぎを感じ、声を掛けたのだ。
○○と夜の散歩に行くと言っていた時と今ではまるで別人の様な変貌を遂げた姉を見て、危機感を感じたといってもいい。
今の姉は……恐ろしい。ただの子供染みた野心や欲望を滾らせていた過去と違い、もっと、根源的で、圧倒的な何かを放出している。
クッと、レミリアは思わず噴出していた。よりにもよって、そんな陳腐な言葉を吐き出すとは、わが妹ながら、何とも……。
嘲りを隠そうともせずにレミリアは低く、冷たく、笑う。絶対に○○の前ではしないような、凍りついた地獄の底の様な表情と共に。
煌々とレミリアの真紅の瞳が輝き、それは残忍な炎と共に燃え上がり始める。さながら、全てを焼き尽くしても平然と揺らぎもしない、黒い太陽の如く。
熱い吐息を吐き出し、艶やかな声で吸血鬼の姉は嗤いながら妹の質問に答えた。何でもないかの様に。
「それを知ってどうするの? フラン」
口元が裂けた禍々しい笑顔と共に運命に反旗を翻す吸血鬼は嗤い、首をゴキリと鳴らす。
“運命”は既に見えていた。何故○○が死ぬか、その内容を朧気ながらも理解し、それを阻止するべく彼女は動こうとしている。
レミリアが見た“運命”は単純にして明快。
○○の死の要因は辿れば、レミリアのすぐ身近にあった。この幻想郷こそが、○○の死の原因なのだ、と。
何度運命を見ようが、幾度能力を発動させようが、この世界そのものが、○○を殺そうとしているという結果以外、見えない。
ならば、ならば、その要因と思われるモノは徹底的に排除するしかないだろう。
邪魔をするならば、八雲だろうが、博麗だろうが、たとえ龍神であろうと叩き潰すのみ。
冷静に、無機的に、レミリアは思考を巡らせる。決して失敗は許されない。
故に彼女は自らがまだ目的を完全に果たせるほどの力を持っていないと判断し、眼の前に居る妹にその視線を向けた。
足元から頭の先まで真紅の瞳が、値踏みする様に見やり、そうしてレミリアの笑みは更に深く、冷たくなる。
低い声。既に、肉親に向けているとは思えない程に冷たい、凍えた黒曜石の崖の様な冷えた声。
「あぁ、いい事を思いついたわ……フラン、貴女、私に協力しなさい」
「──え」
それは500年近く生きてきて、初めての言葉。レミリアが、フランドールを必要だと言った。
今まではお前の存在など知らないと言外に態度で示し、決してフランの力など必要としなかったレミリアが、だ。
本当ならば嬉しがるべきなのだろう。今までは自分に興味なかった姉が必要としているのに……。
だけど。
レミリアの眼は、フランドールを見ていなかった。物理的な意味ではフランを捉えているが、その奥は全くフランを見ていない。
彼女が映すのは、たった一人の男。愛しい男しか見えていない。
フランは姉が○○という男と愛しあっている事までは知っていたが、それがどれほどのものかは知らない。
「嫌……お姉さま、どうしちゃったの? 何か……おかしいよ」
「何を言っているの? 私は何もおかしくなんてなってない。私はただ、大切なモノの為にやるべき事をやるだけよ」
レミリアは全く躊躇わずに足音を高く鳴らし、フランに向けて歩き、怯えが多分に含まれた妹の顔を覗きこむように見やる。
2対の真紅の双眸が交わり、フランドールは思わず目を逸らしてしまった。
「そんなに、○○のことが大事なの? お姉さまが、そこまでする程の価値がある男なの? あの人間が」
フランドールの姉と全く同じ朱色の瞳に浮かぶのは疑問と、人間と言う、自分たちの“餌”に対する軽蔑の色。
彼女にとって人間などというのは玩具に過ぎない。定期的に玩具として与えられる人間を何人も解体している彼女にとって、人間などただの道具なのだ。
「黙りなさい。決まってるでしょう? 彼の為なら私は何でもする」
ギリっという骨の軋む音と共に、鋭利な刃と化したレミリアの指が、フランドールの顔と頬を撫で、そして胸に押し付けられた。
五指が服を貫通し、フランの柔肌を切り、ほんの小さな傷がフランに生まれ、血が少量滴る。
もう少しレミリアが力を込めれば、彼女の手刀は、フランの心臓を抉ることさえ可能だろう。
フランの端整な顔が痛みと恐怖によって、小さく歪む。
それほどレミリアは、本気だった。放たれる敵意が、殺意が、そして確固たる意思が、妥協や冗談など欠片も混じらせる事を許さない。
「……彼が呼んでいるわ」
一瞬の後に、レミリアの顔が変わる。恐ろしい悪魔から、恋する少女のそれへと。眼を蕩けさせ、顔はにやついている。
既に彼女はフランを物理的にさえ見ていない。これから彼と過ごすだろう時間に想いを馳せ、身体を火照らせている艶かしい女がそこにはいた。
優雅な動作でクルリと踵を返し、逸る気持ちを抑えきれず彼女は魔法を発動させ、転移を行う。
鮮血のような魔力が胎動し、空間を捻じ曲げ、彼女は転移を完了させる。
「決めておきなさい。私に協力するか、邪魔をするのか」
消える瞬間、地獄の底から響き渡る、深く、凍える声でレミリアは妹に告げた。
そして、彼女の姿は無数の蝙蝠に変わり、霞の様に消えていく。
残されたフランは、一人、月を見上げる。
十三夜の月の月は、変わらず白く、美しく輝いていた。
しかし、今の彼女にはそんな光景さえ碌に目に入らない。
余りにも多くの情報を頭に叩き込まれ、何を想い、何を信じればいいのかさえ判らない。
全身から力が抜け、まっすぐ立つことさえ叶わずにフランは地面にペタンと尻餅をつき、頭を抱えた。
今更ながらに全身がぶるぶると震え、言葉が上手に話せない。
だが、そんな彼女でも判ったことがある。
レミリアは、お姉さまは、何かとても危ないことをしようとしていると。
そして、その全ての中心には○○が居るのだということも。
咲夜や、パチュリー、魔利沙と会話をしたい。呆然とフランはそう思った。
彼女達ならば、自分には持っていない、心を、強い自分の意思を有する彼女達ならば、この状況を何とか出来るのではないか? フランはそう考えたのだ。
全てを見下ろし、月は、輝いていた。
満月まで、後、二日。
最終更新:2017年04月08日 04:58