歩を進める○○はあることに気づいた。
○○の部屋はかなり奥に配置されていた。この位置からなら、窓からも縁側からもあの空き地を見る事はない。
そして、○○の部屋の近くに聖白蓮は道場を作っていた。あれも空き地への執着をできるだけ減らす為の措置なのだろう。
しかし、最早この程度では驚かない。
里の者共をあれだけ動員できるのだ。どちらを例にとっても、造作無いはずだ。
昔の事、映像の事、蔵の事。そして失われた時間の感覚。
自分の過去に関する事を考えていても、もう○○の頭に例の鈍痛が走る事はなかった。
あの鈍痛も・・・そうなのだろう。楔の一つでない方が驚く。
「だけどもう違う」呟きと言うよりは独り言、そして独り言の割りには随分大きな声だった。
誰かが聞いていても不思議ではないくらいの大きさ。しかし、誰に聞かれようが構わなかった。
曲がり角を進むと、雲居一輪と村紗水蜜の二人の姿が目に入った。
村紗水蜜は雲居一輪に体を支えられている。随分と狼狽している様子だった、その狼狽に罪悪感があるとは思わない。
きっと、先ほどの大きな呟きも聞かれていただろう。
「お前達の植えた楔は断ち切った!もう鈍痛も無い、全部思い出せたんだ!!」
そちらの方が○○にとっては却って都合がよかった、あまり会話をしたくないから。
一輪は大層な渋面を見せて、村紗は声を押し殺して泣いていた。そして村紗は○○が声を張り上げると、一輪の胸にうずくまった。
「どれくらい思い出せたの?」
「追い掛け回されて、あったはずの蔵に隠れて・・・そこから気を失うまで全部だ」
「・・・そう。失った直後の事はまだなのね」
「ああそうだ、だけどもう鈍痛も無い。全て思い出すのは時間の問題だ」
「そう・・・鈍痛も無いの。やっぱり姐さんに言わずにかけ直せば良かったわ」
予想していたとは言え、一輪の言葉に○○はイラつきが大きくなるのを堪え切れなかった。
更に、一輪の言葉には罪悪感と言うのがかけらも感じられなかった。
一輪の声色からは、さも当然と言ったような。○○の記憶を、思考をいじり倒す事に微塵の迷いも感じられなかった。
それが○○のフラストレーションを加速させる。
「何故そんな事ができた?」
会話を続ければ続けるほど、○○の腹の虫は暴れていたが。彼女達の良心と道徳観は気になっていた。
実際、時折一輪の胸から顔を離しこちらを見る村紗は。罪悪感が感じられたから余計に。
「最善だったからよそれが。○○と姐さんの二人にとって」
「馬鹿を言うな!」
一輪の答えに○○の感情が爆発した。
「良い様におもちゃにされた俺の感情はどうなる!俺の意思は無視か!」
「記憶を取り上げられ、ごっこ遊びを強要されていたんだぞ!!」
ごっこ遊び。この表現に一輪は奥歯がギチリと鳴るのが分かった。
「ごっこ遊び何かじゃないわ。少なくとも、姐さんの貴方への愛は本物よ」
「ふざけるな!自分の思い通りに動かないなら記憶すらいじってそう動くように仕向けていたじゃないか!!」
「お前達は俺というおもちゃで、ごっこ遊びをしていただけだろうが!!」
「違う!」
それまで声も無く泣くだけだった村紗が始めて口を開いた。もちろん、その内容は○○の指摘を真っ向から否定するものだった。
「何が違うんだ!!」
「一輪の言うとおり、聖の愛は本物だよ!」
「それに・・・○○が私たちの仲間だと思ってる!もちろん今でも!それも本物なんだよ!!」
「信じられるか!!」
○○の形相に浮かび上がる青筋はどんどん太く、そして数も増えていった。
「情に訴えかけるつもりか!?それが無理ならまた肉欲で落とし込むつもりか!?」
村紗の訴えは必死そのものだった。心のそこからそう思っているようだった。
今も仲間だと思っている。この一言も普通ならば感動的で人によっては涙腺が大きく刺激されるであろう。
しかしそうなる為の方法が、常軌を逸していた。
追い掛け回し、山狩りの如く探し回り、見つけたら集団で組み伏せる。
およそ普通の方法ではなかった。健全な精神状態の者が考える、仲間の増やし方であって良いはずが無い。
真相を知らない○○にとっては・・・その考えを否定できる訳が無かった。
「・・・・・・話にならん!」
お互いの主張は平行線を辿るだけだった。
話す価値が無いと結論付けた○○は。それ以上の会話を早々に切り上げ、足早に歩を進めた。
村紗と一輪の横を通り過ぎる際、村紗が「・・・○○」とか細い声で追いすがってきたが。
その手を、○○は問答無用で払いのけた。払いのける際、○○の肘が村紗に勢いよくぶつけられる事となった。
肘をぶつけられた村紗はそのまま倒れこみ。しくしくとすすり泣いていた。
村紗がすすり泣く頃には、○○の姿は曲がり角の向こう側に行ってしまっていた。
一輪はすすり泣く村紗の背を哀しい表情でなでていた。そして―
もう片方の手で、雲山を使役するのに必要な輪を掲げようとした。
「駄目!!」
しかし、それは村紗に追いすがられてしまい。雲山を使役する事は叶わなかった。
「村紗・・・分かってるでしょう。○○が意識を失った後、落ち着かせるのにどれだけ苦労したか」
「分かってるよ・・・それで○○が壊れかけたってのも」
「だったら―」
「でも・・・もう嫌なんだよ、あんな荒っぽい真似。何で私達まで○○を傷つけなくちゃいけないの?」
かといって、このまま○○を劇場のままに行動させれば。後々により大きな傷が○○を襲う事も村紗は分かっていた。
一輪としても。今すぐに動く事が、○○の体に多少の生傷はできるが。
それでも、○○が負うであろう心の傷を一番浅く出来ると確信していた。
一輪と村紗。互いに相手の考えは分かりきっていた。
もうこれ以上○○に手を上げたくない村紗。体の傷を増やしてでも、○○が負う心の傷を少しでも減らしたい一輪。
「村紗・・・あれは貴女のせいなんかじゃないわ」
お互い心の内が痛いほどに分かるからこそ。強引に事を進めるのがためらわれた。
そのためらいこそが、あの時自分達の首を絞めた原因であるのに。それをちゃんと分かっているのに。
「貴女が・・・蔵を潰してくれたからこそ。ギリギリで上手くいったのよ」
意識を失った○○は、あの後聖と命蓮寺の皆によって丁重に看病される事となった。
しかし、聖も命蓮寺の皆も。○○の目を覚まさせるのを少しの間躊躇していた。
○○の心の中に芽生え、大木となってしまったであろう命蓮寺への不信感を超えた憎しみ。
もう、修復不可能な段階にまで、○○の心には根が張り巡らされてしまったはずだ。
「姐さん、作りましょう。○○さんの記憶を」
背中を押したのは一輪だった。
聖もその考えにはとうの昔にたどり着いていた。それがこの事態を見かけ上だけでも円満に収めるほぼ唯一の手段だとも。
でも、最後の踏ん切りがつかなかった。
思い出帳の中身を真実だと言い張ってはいるが、それでも○○の体を、特に自己に関わる記憶を弄るのに大きな罪悪感が合ったから。
「姐さん。姐さんの中に罪悪感があるなら、記憶の植え付けは私がやる。私が半ば強引にやったと解釈しても構わないわ」
ここに来て一輪の献身っぷりが目立つようになってきた。
そして、聖の中にある罪悪感を考慮し。自分に責任転換しても良いと。そこまでの事を聖に伝えたのだった。
そんな仲間の悲壮な決意に、
ナズーリンも傾いた。
「・・・・・聖。覚悟を決めよう」
そして、星も一輪と同じような決意をした。
「星・・・何処に行くの?」
一輪からの有無を言わさぬ提案、その肩を持つナズーリン。聖の視線は、自身が頼りにする片腕の星に向いた。
その星は、聖の目と一輪の目をしばらく見比べたかと思うと。立ち上がり、部屋から出て行こうとした。
それに対し、聖は震える声で星を呼び止めるしかなかった。
「思い出帳を取ってきます・・・・・・すいません聖」
それが星の出した答えだった。星は一輪の肩を持つ所か、後を押す決断を下した。
ただ、星は最後に。これが最善の選択の筈なのに、その選択を進めようとする事に対し。
どうしても、一言でいいから聖に謝らなければならないような。そんな感情だけは消えなかった。
「・・・・・・・これ以外に無いの?」
顔を伏せたままで疑問を口にする村紗には。
「無いでしょうね」
強い口調で否定した。
「すいません・・・村紗」そしてまた星は謝った。今度は村紗に。
「そう・・・よね」
村紗以外の全員に決断を迫られ、そしてなし崩しに事が進んでいく様子に。聖は力なく笑っていた。
○○の記憶は思い出帳を基に作られる事となった。
○○の寝かされている部屋には。壁、床、天井。ありとあらゆる場所にお札が、経文が。
そして縄や宝具やろうそくと言った物が所狭しと配置されていた。
眠り続ける○○の体にも、聖の手によって様々な文字が書かれていた。
聖にとっては自発的にではなく、なし崩し的に行われる事となった嘘の記憶の作成。
それを○○に植え付けていく際、躊躇する様子が度々見られた。
それに対し星は「聖」と、短く名前を呼んで促し続けていた。しかし「ごめんなさい・・・聖。ごめんなさい・・・・・・○○」
聖に行動を促した後。星は小さな声で、何度も何度も聖と○○に謝り続けていた。
始めの方では、星は“すいません“という言葉を使っていた。
だが、作業が進むにつれ、何度目かの躊躇を見せた聖への促しの後に、“ごめんなさい“へと変化した。
最早星の精神状態もボロボロだった。
その謝る姿は。まるで親に怒られて、許しを請いながら泣く子供の姿にそっくりだった。
星の方も、この自分の姿が聖だけでなく皆の心に深い傷を作る事は。聡明な彼女は自覚していた。
しかし、いつ頃からか小さく泣いてしまう自分を止めなければと思う事すら出来なくなってしまった。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・」
座り込み、涙声を混じらせた小さな声で。聖と○○への謝罪を口にするばかりだった。
寅丸星。聖の次に頼れる存在であった彼女の崩壊は大きなダメージを与えた。
ナズーリンは星を連れて部屋を出て行こうとした。手を掴もうとする際、最後に残った責任感か。何度かナズーリンの手を払いのけた。
しかしこれ以上主に無理をさせたくなかった。かと言って強引に連れ出そうとして癇の虫を爆発させたくなかったし、そんな主の姿見たくなかった。
実際、ナズーリンの手を払いのける度に星の泣き声は徐々に大きくなっていた。
癇の虫が騒いでいる証拠だった。だから余計に、強引な手を使えなかった。
「ご主人・・・少し休もう」
ナズーリンは星の横に座り、ただ優しく声をかけることしか出来なかった。
しかし、そんなナズーリンの問いかけに星は首をぶるぶると横に振るのみであった。
「こっちにはまだ一輪と村紗もいる」
その首の振り方は。怒られ、泣きつかれて、イヤイヤと駄々をこねる子供の姿にそっくりだった。
村紗と一輪は意図的に、そんな星の姿を視界から外していた。
そうしなければ・・・自分達も堪え切れなかったから。
だが、徐々に涙声の混じるナズーリンの声だけは。嫌でも耳に入った。
壊れていく仲間達の姿を目に、そして耳にして。聖は決意をする他無かった。
○○と命蓮寺の皆、どちらか一方を選ぶ。そんな事は聖には出来なかった。
両方を守る為には。やり切るしかなかった、○○の記憶を書き換える作業を。
涙声とすすり泣きの混じる部屋で。聖は誠心誠意、作業をこなしていった。
例え偽りの記憶であろうと。せめて偽りの記憶の中では、○○には穏やかな生活を。
穏やかに生きていると言う記憶を持っていて欲しかった。
そう、○○はこの命蓮寺にとって大切な仲間の一人なのだ。
星、村紗、一輪、ナズーリンと同じく。
今も昔も、大切な仲間の一人として。昔から共に行動していたのだ。
「皆・・・もう大丈夫よ。大丈夫・・・・・・一人で出来るから」
「・・・・・・有難う」
そう言って、聖は自分と○○を残して部屋から出した。
「ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・ごめんなさい・・・・・・」
「ご主人、聖は気にしていない。○○も聖に任せれば大丈夫だから」
ナズーリンはぐずる星を抱え、奥の方に戻っていった。
「これが正解なんだよね?」
「そうよ・・・・・・そうじゃなきゃ救われないわ」
障子の閉められた部屋を前にして、そう一言だけ言葉を交わした。
それ以上は村紗も一輪も喋る事は無かった。二人はしばらく障子越しにろうそくの明かりで揺れる室内の影を見ていた。
そして、部屋を後にすると。障子越しにかすかに聞こえていた聖の経文を読む声はすぐに聞こえなくなった。
そうなると、辺りは静かだった。
その静かな空間に、星の“ごめんなさい”と言う声だけが。やたらとはっきり聞こえていると、村紗と一輪は感じていた。
最終更新:2011年11月26日 10:55