○○は悲鳴と共に飛び起きた。
その悲鳴はあの日の朝、薄暗い蔵の中で帳面を生めて隠す事を夢に見たあの時の叫び声などとは比べようも無い大きさだった。
何に似ているかと問われれば・・・答えは明白だった。あの時の蔵の中での悲鳴と同じ色をしているのだから。
○○が目を覚ました場所は、ついたての中ではなく自室だった。
どこまでが回想で、どこからが過去の事見ていた夢だったのか。その境界線は非常に曖昧な物だったが。
明るい日差しが差し込み、鳥のさえずる音も聞こえる。気持ちの良い朝だった。
直前までに見ていた映像との間には雲泥の差があるが。
夢?と一瞬だけ思ったがすぐに「違う!!」と自分自身に分からせる為に大きな声を出し頭を横に振る。
確かに○○はあのついたての中へと入った。
○○は常にあの空き地に違和感を覚えていた。その違和感は、何かをそこに置いて来てしまった事を心の奥底で覚えていたからだ。
そして○○は一冊の帳面を土の中から見つけた。それこそが、○○が忘れかけていた何かだった。
時折、○○の脳裏に強烈な勢いで走るあの映像。ノイズが混じり中々その前後はおろか、映像自体も鮮明には見えなかったが。
それはあの帳面のお陰で詳細に思い出すことが出来た。
執念で残したあの帳面のお陰で、○○は命蓮寺によって植え付けられた楔を断ち切ることが出来た。
その楔を断ち切り、○○は全てを思い出すことが、そして知る事が出来た。
自身の本当の記憶は、聖白蓮によって封印されていた事実。昨日までの記憶は、命蓮寺にとって都合のいいものに改変されていた事実を。
そしてその事実を教えてくれたのは、紛れも無くあの帳面のお陰だと言う事。
帳面の事を思い出した○○は急いで辺りを見回した。
あのついたての中に入った事は夢ではない。しかし、気づいた時にはここに運ばれていた。
○○がいないことに気づいた聖白蓮以外の誰かが、○○を見つけ更に手に持っている帳面を回収・・・下手をすれば廃棄されたのではないかと思い。
幸いな事に帳面は木箱と共に○○の枕元に置かれていた。
明るい日差しの差し込む室内で見る帳面は、ひどく古ぼけていた。
合ったはずの蔵がなくなっていたということは。記憶を取り戻させたくないから撤去してしまったのだろう。
そしてあの敷地の下で帳面を入れて眠っていたあの木箱は。土の下で直に野ざらしになっていないとは言え、雨がしみこむ事は避けれなかったはずだ。
一体どれほどの時間、自分は記憶を操作されていたのだろう。何が起こったか、何をされたかは思い出したが。
○○はその後の時間の感覚がまだ取り戻せていなかった。その手がかりが何か隠されていないか、そう思い帳面のページを持ち上げると。
帳面は自重に耐え切れずバラバラと崩壊してしまった。
もしかしたら木箱と言うのが不味かったのかもしれない。土の上に降った雨がしみ込み、それが更に木箱にもしみ込み、その中にある帳面を弱くしてしまったのだろう。
バラバラになった帳面を、苦虫を噛み潰すような表情で見つめていた。
偽りの記憶に縛り付けられていたのは一ヶ月や二ヶ月ではない。それを直感で分かってしまったから。
いくら何でも、それくらいでここまでもろくなるとも思えなかったから。
○○はまた恐ろしくなった。一体自分は何年もの間この命蓮寺で、あの悪魔どもの慰み者にされていたのか。
特に、聖白蓮。何故こんな暴挙を起こしたのだろうか?自分を独占したいからなのか?
しかし、そうだとしたら。あの悲痛な覚悟をしているかのように見えたあの告白は何だったのか。
少なくとも、あの時握られた手から感じた震えは、そして声色からは。とても他人の意思を踏みにじるような極悪人のそれには見えなかった。
いや、もしかしたら。
きっとあの女は自分が極悪人である自覚も無いのかもしれない。
そう考えると、何となく腑に落ちる。狂人ほど自分が狂っている事に気づかないと言うのは世の常なのかもしれない。
そしてその狂人を慕い、付き従い、手足のように動く命蓮寺の連中も。例外ではないだろう。
あいつ等は何を考えて、自分の記憶を封印して改竄したのだろうか。
あいつ等は何を思って、記憶を取り戻す手がかりである蔵を撤去し。そしてそのきっかけを潰そうとしたのだろうか。
みっともなく、無様に、醜く泣き喚いていた記憶から先の記憶はまだ思い出せていなかった。
ただもう一つ、分かった事がある。
○○には記憶が無かった、自分が命蓮寺にどのような経緯で修行者として世話になったかの詳細な記憶が。
きっと、法力の力でその事に関心が行かないように思考すら縛っていたのだろう。
空白の記憶を思い出そうと努力すると、徐々に○○の顔が歪んでいく。
そして大きな舌打ちが漏れ、奥歯もギリギリとなる。
命蓮寺での生活を思い出すと、どうしてもそこを通らなければならないから。
全ての元凶であろう、聖白蓮と繰り広げた情事を。
考えれば、自分が何か違和感を感じている時、あの映像が見えた時など。
思い出すきっかけとなりえそうな事態の後は、聖白蓮はとても優しかった。優しすぎるくらいだった。
奴に手を引かれ、抱きしめられ、口付けを交わし、そして―
そこまで考えて○○は強烈な悪寒と吐き気を催した。
奴は自身を肉欲に落としこみ、満足な思考を封じていたのだった。
奴が自分を誘惑する事は何度もあった、だからその全てがきっかけ潰しではなかったとは思う。
しかし、えも言われぬ違和感を覚えた時、あの映像が脳裏をかすめたとき。
その後に奴は必ず自分を誘惑してきた。
それなのに、あの時はその事に気づかずに欲情し、あろうことか安らぎを感じてしたのだ。
人の感情とはなんともろい物なのだろうか。なんと操作のしやすい物なのだろうか。
結局自分が行ってきた“修行”と言うのはただ見た目だけを取り繕った張りぼてだったのだ。
修行者と言う体の良い身分を取り繕い、命蓮寺へと縛り付ける道具の一つとしていたのだ。
己が心一つ満足に動かす事はおろか、満足に動かされっぱなしで何が修行か。
反吐の出そうな思いだった。その張りぼてを張りぼてだと見抜けなかった自分自身がいるから、自己嫌悪とあいまり余計に。
○○は自分の弱さに、悔しさが込みあがるのを感じる。
「だがもう違う・・・全部思い出せたんだ」
しかめ面のままだったが、○○呟きと共に立ち上がった。
坊主憎ければ袈裟までと言うべきか。寝ていた布団も着ていた寝巻きもかなり乱暴に叩きつけるように扱っていた。
特にこの布団には聖白蓮との思い出が蓄積されているからなお更なのか。わざわざ蹴り上げていた。
寝巻きからいつも着用する普段着に着替えたが、本心では記憶を失う直前まで着ていた服の方がよかった。
そのまま荒々しい音を響かせながら障子を開け、閉めもせず歩を進めた。ばらけてしまった帳面もしっかりと持って。
そして、ふつふつと蔵に隠れていた時の事を思い出す。
聖白蓮と彼。この二人に一発見舞いたいと思うあの気持ちも。
あの時は心身ともに衰弱しきっていたからその考えは仕方なく脇に寄せていたが。今は違う。
自分がかつて蔵のあったあの場所で倒れていた事は。自室で寝かされていた事からもう周知の事実であろう。
命蓮寺はもとより、もしかしたら今は里にいるはずの聖白蓮にも、そこから里の連中にも伝わっているかもしれない。
間違いなく連中はまた博麗神社への道を封鎖するだろう。○○としては望む所だった。
勝機が少なくても構わない。それでも、立ちはだかる者は1人でも多く叩き伏せてやる腹積もりであった。
ただし、あの二人だけは例外だった。見つけ次第向っていくと心に決めていた。
そうなれば、○○が今向うべき場所は博麗神社ではなかった。
「里に行こう、一度暴れなければ気が収まらん」
最終更新:2011年11月26日 10:55