その老人は見るからに弱っていた。
腕も頬も足も、体の至る所がやせこけていた。この老人の死期はそう遠くない。
見たものの全てがそう判断するに足る特徴が体中にちりばめられていた。
なのに、眼光の鋭さだけは例外だった。
その老人の眼光だけは、未だ鋭利な刃物のような輝きを持ち。彼と思っていた男の胸倉を掴む○○を見据えていた。
○○はその眼光に見覚えが合った。既視感などと言う曖昧なものではない、確かに見た事がある。そう断言できた
その老人から罵声を浴びせられた○○は、全身に広がった悪寒が大きくなるのを感じていた。
○○はこの老人を見るのは初めて・・・のはずだった。
その老人の眼を見続けていると。何故だか○○は、かつて自分が追い立てられた時の事を、まざまざと思い出すことが出来ていた。
○○は今自分が胸倉を掴んでいる若い男と、老人の目を交互に見返していた。
「まだ気づかんのかこの化け物が」
二人の目をキョロキョロと見返していると、またその老人から口汚く罵られた。
罵られた瞬間。○○はまたゾワっとした何かを背筋に感じた。
口汚く罵られた怒りよりも。何故だか恐怖のほうを色濃く感じていた。
「おじい様・・・・・・」
「お前は黙っていろ。このケリはワシが付ける」
殴られ、締め上げられている彼から、悲痛で悲壮な呟きを老人は一蹴し○○の元へフラフラと近づく。
気力が現れているのは眼力だけで、そのほかの部分は体が全く気力に追いつけていなかった。
杖が気休め程度にしかならないくらいのフラフラとした挙動で、老人は○○に近づいてくる。
まだ歩く事もままならない幼子でも、もう少しまともに歩けるだろう。それほどまでに頼りの無い歩みであった。
結局、その老人は○○の元にたどり着く前に、前のめりになって倒れこんでしまった。
それでもなお、老人は這いずりながら○○の元へと近づいてくる。
その老人が近づくにつれ、○○の感じる悪寒は大きくなっていく。ゾワゾワと沢山の虫が這い上がるような感覚が○○の全身を覆っていく。
「そんな筈があるか!!」
地べたを這いつくばる老人に向って。○○は自分の中に降って沸いた、ある疑惑に対して声を張り上げて否定する。
その老人はとてもではないが、殴り合いなど出来る体力は持っていない。肉体的な差ならば、論ずるまでも無いのに。
○○は今この地べたをズリズリと芋虫のように這う老人を恐れていた。
「少しは察してきたようだな・・・化け物が」
格好だけを見れば、○○の方に圧倒的な、覆しようの無い分があった。
しかし、精神的な部分では。老人の方が圧倒しっぱなしであった。
「今でも昨日の事のように思い出すぞ・・・・・・よりにもよって蔵の中に隠れているとは」
「お陰で、後ろの化物尼にぶち折られた腕は。アレからずっと・・・今でもまともに動かん」
○○の脳裏にまた当時の事が鮮明に思い出される。
あの薄暗い蔵の中で見聞きした。命蓮寺の連中に自分をはめた彼が筆舌に尽くしがたい暴行を受けていた事を。
確かに、その老人の片腕は。妙な方向に折れ曲がっている。
あれだけの悲鳴を上げてしまうほどの暴行を受けたのだ。後遺症や傷が無いと考える方がおかしい。
「ほれ、もっとよく見てみろ」
老人は、何かを証明するように。ごろんと仰向けに転がり服を捲り上げた。
その体には、至る所に傷の痕が見えた。
「そんな事・・・ありえて、ありえてたまるか・・・・・・」
対する、○○の目の前にいる若い男は。綺麗な体だった。腕も真っ直ぐに伸び、傷の痕など、何処にも見受けられない。
「そんな筈があるか・・・そんな事ありえるか!浦島太郎じゃあるまいし!お前達はまた俺を謀るつもりなんだろう!!」
「それをやって何の得がある!そんなまどろっこしい真似をする意味があるか!!」
○○は老人の反論に、全く言い返すことが出来なかった。
それでも○○は必死に否定できる材料を探していた。
その為に当時の事を必死で思い出していると。ふっと○○の脳裏に、浮かんだ映像が、あることに気づかせた。
今、自分を見つめる老人の敵意に満ちた眼と。
相談に乗るふりをしながらその実自分を謀り続けた彼が、自身を追い立てる時にしていた眼。
その二つが。はっきりと重り合ったのだ。
「あ・・・あ・・・・・・うあああああ!!!」
その重なり方は、その二つの眼つきの持ち主が、他人ならば。気持ちが悪いまでにピッタリだった。
例え、血縁関係にあっても。ここまで重なり合う物ではないはずだ。
それが分かったから。○○はとても大きな声で泣き叫んだ。あの時、あの蔵の中で泣き叫んだように。
○○は掴んでいた若い男を突き飛ばし、鏡を探した。そして、大広間の端に布をかぶせられた大きな姿見を見つける。
突き飛ばされた男の呻き声や、這いつくばる老人には歯牙もかけず、シクシクと泣いている聖にも気づかず。
まともに歩く事もできず、たった半歩の距離を進んだだけで足が絡まり、無様にこけるほどの狼狽にも気づかず。
鏡までの道のりを這いずり寄った。
鏡にかけられていた布は乱暴に取り払った為、一部が千切れた。そして額を鏡にこすり付けんばかりの近さで、○○は鏡に映る自分の顔を必死で見つめる。
「有り得ない!有りえてたまるか!!そんな筈が有るか!!」
「・・・・・・有りえるんだよ」
後ろにいる老人は、そう冷たく言い放つ。老人を抱える孫の目には敵意と怯えの色がはっきりと確認できた。
○○は・・・その孫とされる男の目より。老人の眼の方が怖かった。
その眼を見ていると、○○は嫌が応にも。あの時の事が脳裏にとめどなく映し出されるから。
鏡に映る○○の顔は、かつてのままだった。自分の記憶の中にある、あの頃の姿形と何も変わっていない。
見た目だけならば。騙され、謀れた頃と変わっていない。それを判断基準に○○は数十年単位で記憶を封じ込められてはいないと結論付けていた。
それに対して老人は、○○にとっては老人の存在そのものが。導き出した結論に対する真っ向からの否定材料だった
そう、確かに感じたのだ。あの老人から、自分を謀った彼の面影を。
老人と彼は同一人物。もし、そうだとしたら。○○は1人だけ、自然の摂理と人が持つ老いると言う業に反している事となる。
そのような離れ技。人の知識しか持たぬ者には、到底不可能な所業である。
そう、ただの人の力では。
○○の後ろに誰かが立った。それは気配以前に○○が凝視する鏡の端が揺らめいた事で○○も察知した。
端にほんの一瞬映った姿でその主はすぐに分かった。
「○○・・・・・・」
むしろ、この場で○○の後ろを取れる胆力のある者が。聖白蓮以外に、誰がいようか。
「いた・・・・・・」
○○は不気味なほどにゆっくりと振り向き、聖の顔を見ながら呟く。
○○は殆ど忘れかけていたが。聖白蓮はおよそ普通の人間ではないのだ。
そう、彼女ならば出来る。
○○を、この六道の輪から逸脱させる事など。
聖の顔を見つめる○○は酷い顔をしていた。
生気というものをまるで感じさせない表情だった。
不老長寿の夢とは人が持つ業病のような物であろう。
しかし、いざその夢を手にすれば気づくはずだ。周りと共に歩めないことの地獄を。
自分以外の全ての人間が老いて、やがては荼毘に伏されるのに。
自分1人だけが若々しくあることの異様さを。
「そうだ・・・お前なら・・・・・・出来る」
そして、目の前の人物はその異様さに何ら気づくそぶりが無かった。
後悔の念が○○をただひたすらに襲う。
千年もの時間を過ごす事の意味を。千年もの時間を若々しくいることの異常さを。
そして何よりも、その状況で安定した精神状態であることの恐ろしさを。もっと早くに気づくべきだったと。
「○○・・・私はいつだって貴方の味方よ」
聖は○○をいたわるように。愛でる様に。艶かしさと穏やかさを秘めた表情で。その手で○○の頬に触ろうとする。
「よ、寄るな!触るなぁ!!」
甲高い悲鳴を上げながら○○が暴れだしても、○○の手や足が聖に力強くぶつかろうとも。
その艶かしさと穏やかさはしおれる事は無かった。
○○の蹴りが聖の腹に綺麗に吸い込まれ。さすがの聖も痛みと苦しみで尻餅を付いても。
「化け物が・・・この狂人が!!俺に何をしたぁ!!」
どれほどの罵声を浴びせられようとも。
聖の心に怒りや憎しみと言った黒々とよどんだものは生まれる気配が見えない。
「ごめんなさい・・・○○。私がもっと上手くやれていれば・・・・・・」
それ所か、聖は自分自身を責めだし、涙まで流すその姿に。○○の狂乱はより一層深まるばかりだった。
命蓮寺で罵倒と罵声をわめき散らしていた時の方が。余程健全な状態で合った。
「ああああああ!!!」
○○は後ろにあった大きな鏡台を掴んだ。
本来ならば。普通の人間の力ならば、全身を映す様な姿見を持つ鏡台。1人で動かす事などまず叶わない。
○○も、その鏡台を聖に向って押し倒すだけのつもりだった。
「おじい様!!危ない!!」
老人の孫とされる男がそう叫び。老人を抱えながら転げる。
二人が転げる前にいた場所には、鏡台が通過して行った。そしてそのまま地面に落ちることなく、壁にぶつかるまで飛んでいった。
壁にぶつかった鏡台と鏡は、鼓膜を引き裂くような音を上げて壊れてしまった。
最終更新:2012年02月16日 12:55