幻想卿から俺は日常に帰って来た。普通の生活に普通の人間との会話。
しかし何かが足りない。
俺の隣に彼女が居ないのだ。酷く儚げに笑う彼女が。
俺は稗田家に居候していた、妖怪が多く存在するその幻想の都で俺を守ってくれた小さくも頼れたその背中。最後に見た時は酷く衰弱していた。
幻想卿と言っても俺の行っていた幻想卿は過去の場所らしく、様々な小説スレッドに出て来るようなキャラクターは少なかった。俺はその当時の稗田にとても世話に成り、とてもかわいがってもらっていた。
彼女の死は、俺をその幻想卿から遠ざけるには十分すぎた。逃げ出したとも言えるであろう。俺は彼女の葬儀を良く覚えていない。最後の笑顔で俺に微笑む彼女は、まだ瞼の裏に生きていた。いや、既に染みついているとも言えるであろう。
「・・・」
数日前に俺は上司の娘さんとの結婚が決まった。俺の知らない間に話しが進んでいたようだ。俺の両親もこの子が幸せになれるならと承諾したようだ。
正直に言うと、俺はまだ彼女を愛している。残念だが、上司の娘さんは眼に入らなかった。
もう一度、彼女に会いたい。
止めさせられた筈の煙草に手が伸びる。彼女にも、この煙草は身体に悪いと止められたか。
くたびれた服と仕事にやつれた顔で俺は自分と娘さんが同居するボロアパートのドアのノブを捻った。ギィッと鈍い音がしてドアが開く。
――濃い、鉄の匂いがした――
生臭いとも言えるであろう。玄関を開くと家の中は赤一色であった。その血は引きずられた様に部屋の奥に続いている。電気も付いていない部屋に、傘を握りしめて上がって行くと、そこには一人の少女が座っていた。
紫色の髪に、紫色の瞳が闇の中で輝く。
「お帰りが遅かったですね、旦那様」
聞き覚えのある声であった。
「こんな雌猫に誑かされて、さぞ辛かったでしょう。もう良いのですよ?私と一緒に帰りましょう?」
「君・・・は・・・」
酷く、彼女に酷似している外見10歳程度の少女。
「私は、稗田阿求。遅くなりました。さぁ、幻想卿へ、私達の家へ帰りましょう?」
赤く濡れた彼女の手が、俺のワイシャツを濡らす。その液体がもう何でも良かった。今はただ、彼女に会えたことがうれしくて。彼女を抱きしめられる事が幸せで。
――スグニ、ナニモワカラナクナッタ――
「もう良いのかしら?阿求」
「えぇ、彼は私のモノです。私は彼が愛おしい、彼は私が居なければ生きて行けない。お互い求めあって生きていきます。転生を繰り返し、彼をお世話して、彼の子を孕んで、幸せな話だと思いませんか?」
「・・・そう、ソレが貴女の愛なのね」
「愛なんて小さな言葉では表せませんよ。私の世界は彼と私で構成されているのですから」
彼女が持つ血濡れた脇差、両足を無くした男が彼女を求める。
「(ハクタクに彼の幻想卿以外の記憶を喰わせたのね、可哀そうに。一時的な精神異常でしょう…これは正気に戻った時が恐ろしいわね)」
真実を知っている一人のスキマ妖怪が、人ではなくなったモノを見てその瞼を閉じさせた。彼女も彼を愛していただろう。可哀そうに。だが【今回】は彼女の方が彼を愛していたらしい。
「旦那様・・・ずっと一緒です。永遠に、何度転生を繰り返しても・・・アハ、アハハハハハハハハハ!!!」
後に残るのか、静寂か狂気か。それとも貫かれた愛か。後ろから響く艶めかしい水音を聞きながら、スキマ妖怪は一人狂気に染まった紅い月を見上げるだけであった。
最終更新:2012年02月17日 10:01