秋も過ぎ、季節は冬へと移り変わっていた。
その日は前日の雪で、一面の銀世界。
冬服を纏った
はたては、○○の家へ向け、その翼をはためかせていた。
「さすがに寒いわー、○○、いるー?」
いつも通りに戸を開けるも返事は無く、部屋はもぬけの殻。
“あれー、いないのかな…?”
部屋を見回すと、炬燵の上に置き手紙が一つ。
“はたてへ。
仕事の依頼により、本日不在。絶対に探すな、間違っても見に来るな。
今日は会えないから帰れ。
○○”
“ははーん、またルール違反の下級共が暴れてるって訳ね。これはあいつの秘密に近付くチャンスだわ。
…それに、うっかり死なれたらヤだし。”
新聞記者の、そして天狗としての本能か。
置き手紙の文面は、逆にはたての好奇心を刺激してしまったらしい。
心配の方が、実際は大きいのが本音ではあるが。
「そうと決まれば善は急げね!!早く行かなきゃ。」
“天狗の自分なら、もしもがあっても、きっと彼の助けにもなれる。”
そんな事を考えながら、はたては颯爽と冬空へと羽ばたいて行った。
雪の中を、○○は歩く。
“下級妖怪が近くに集まっているのを守衛が見た。恐らく人里を襲うつもりだ。”
その一報を受け、妖怪の集団を探す。
暫く探し回った後、彼はその姿を見付けた。
「おい、そこの。」
まずは、声を掛ける。
「何だぁ?わざわざ喰われに来たのか?
人里襲う前に、ちょっとした腹ごしらえだなぁ、オイ。」
「…はぁ、当たりかよ。スペカルールや不可侵協定も知らねえのか?お前ら。」
「腹が減ってんのにんなもんいちいち守れるかよ!
スキマ妖怪だか何だか知らねえが、上位の奴等のせいで腹一杯人間が喰えねえんだ!そんなもん知らねえ!!」
次に、ルール違反の意志の確認。
そして、退治の可否の決定。
「あっそ、じゃあ死ね。」
手始めに、二匹の上半身と下半身が分かれた。
継いで彼の刀はもう一匹の頭を飛ばし、最後の一匹を斜めに切り裂く。
不意討ちによる攻撃。
鈍重な下級妖怪相手にしか通じないが、ただ倒すだけなら、これで充分だった。
しかし。
まだ彼の刀は収まらず、そのまま縦に振り下ろされる。
「ぐぎゅあ!!」
刃先が、上半身だけで転がる妖怪の頭に突き刺さる。
ぐきり、ぐちゅりと、刀身が頭蓋骨と脳髄を捻切る嫌な音が響く。
「てめえらが何やっても良いってんなら、俺も何しても良いよなぁ…?
ああ、死ねっつったけど、お前らどうせ復活するもんな。だったらさぁ…二度と近付きたくなくしてやるよ。」
「へべ…ぎゅ…や、やめ…。」
「ああ、お前ら肉片にしたらやめてやる。」
彼の口元に、赤い三日月が広がる。
何度と無く振り下ろされる刀と、それに比例して上がる、妖怪達の悲鳴。
やがて妖怪達はバラバラの肉片になり、辺りの新雪は真っ赤に染まる。
返り血まみれの顔に浮かぶのは、狂笑。
そして彼の瞳からは涙が流れ、その対比が、より異様さを際立たせる。
“悪鬼羅刹は果たしてどちらか?”
そんな問いが浮かびそうな、地獄絵図。
「あー…また服捨てねえとダメか。かったりぃ。
くく…ふひっ…くっ…あはははははははははははははははは!!!!!!!!!!!」
真っ赤な新雪の中で、涙を流しながら、彼は笑う。
それを聞くものは誰もいない、たった独りの笑い声で。
その光景は、彼の元来生きていた心象風景を表しているかの様だった。
彼は気付かない。
たった一つ、愛する少女にすら隠してきた自身の闇が。
今、白日の下に晒された事を。
“嘘…。あれ、本当に○○なの…?”
上空で、はたてはただ、茫然とするしか出来なかった。
癒したいと願っていた筈の彼の闇を目の当たりにし。
最後まで、彼の元へとは、降り立つ事はなかった。
血まみれのまま、○○は帰路へと就く。
ぎしり、ぎしり、と雪を踏み締め、淡々と進む。
見えた先には、見知った自身の家。
「はたて…置き手紙は見なかったのか?」
戸の前には、今の自分を一番見せたくない少女が立っていた。
はたては何も言わない。
その瞳は感情が複雑に絡まり、何を思うのかは読み取れない。
「…入れよ。寒かったろ。」
それだけを口にし、彼は彼女を家へと招き入れた。
血まみれの衣服を脱ぎ、湯浴みをする。
流れていくのは赤色に染まった湯。
袖を通し、帯を結ぶ。
後は部屋へと戻る。
ただのいつも通りの動作。
しかし、○○の足取りは重い。
居間への戸を開ける。
あるのは囲炉裏と蝋燭の明かりと、座り込むはたての姿。
いつもなら彼の前で響く快活な声も、今は響かず。
パチリと炭が弾ける音だけが、この部屋に唯一響く。
「見たのか?」
静寂を破る問いかけ。
「…うん。」
肯定。
「…そうか。」
そしてまた、沈黙。
囲炉裏の火音が弱まり、静寂の色は濃さを増す。
対面にいたはずのはたては、一瞬で彼の前から消え。
そして肩に柔らかな腕の感触と、甘い香りが触れる。
「…○○。」
彼の耳元に掛かるのは、彼女らしくも無い、弱々しい声。
「やっぱり、妖怪が憎いの?あたしの事も、本当は…。」
彼にしがみ付く腕は力を増し、やがて、小さな嗚咽が響く。
彼はそっと手を伸ばし、一つ、はたての頬をなでる。
「…憎いのは、別のモノさ。
偉そうに退治屋なんて言っても、別になりたくてなった訳じゃ無い。
だけど汚れ役をやらなけりゃ、俺は里では生きられない身分でな。つくづく理不尽だと思うよ、人生の全部が。
あんな気の触れた殺り方も、ただの八つ当たりだ。結局はな。
あいつらを前にすると、どうしてもああなっちまう。
…だから知られたくなかったんだよ、お前にだけは。」
「ごめん…でも、話して?あたしにだけでも。」
「…ああ。」
少しずつ吐き出すのは、誰にも打ち明ける事の無かった心情と過去。
きっかけは何て事は無い、この世界ではよくある話。
彼が三つの時、親が妖怪に喰われた。
暫くは里の寺子屋で世話になっていたが、彼が四つになった時、今度は神隠しに遭った。
彼を拐ったスキマ妖怪に連れて行かれたのは、ある剣士の元。
それから八年、無理矢理に剣と退魔の修行をさせられた。
十三の誕生日の前日、彼はまた神隠しに遭った。
放り出されたのは、真夜中の森。
目の前には涎を垂らした野良妖怪がいて、すぐに襲い掛かって来た。
「坊や。生きたいのなら、その刀で彼らを斬りなさい。」
どこからか響くのは、あの忌々しいスキマ妖怪の声。
怖かった。
震えていた。
死にたくなかった。
そして、憎かった。
彼は何よりも、自身の運命の理不尽が。
何故、自分が。
何故、無理矢理に剣を取らされ。
何故、ここで殺されなければならないのか。
気付けば、辺りには血と肉片が散らばっていた。
「はは…は…ああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
その中で、彼は笑っていた。
震えて、涙を流しながら。
それからどうやって里に辿り着いたのかは、よく覚えていない。
ただ、数年振りに辿り着いた人里で、彼に与えられたのは。
簡素なアバラ家と、退治屋と言う仕事だった。
“汚れ役を育てるには、死んでも痛手の無い孤児を使うのが都合が良かった。”
つまりは、そういう事だったのだろう。
里の人間から向けられる奇異の目や、聞こえてくる下卑た陰口。
そして、何処からともなく飛んでくる石の礫で。
彼は充分に、それを理解出来た。
親の死自体は、物心が付く前の朧気な記憶であり、顔もよく覚えてはいない。
そこまではよくある事ではあった。
ただ、その後の自身の運命への憎しみと、他者への不信。
そして、初めて妖怪を斬った日の恐怖と狂気。
それらは強く彼に刻まれ、やり場の無い怒りの全てを、妖怪退治にぶつけた。
心を閉ざし、ただ切り刻み続け、気付けば齡二十一。
いつか感情を殺す事にも慣れ、無為に日々を生きていた。
彼がはたてと出会ったのは、そんな秋の始まりの頃だった。
「…こんな話さ。
解ったろ?単に俺は、八つ当たりで退治屋をやってるだけの下卑た野郎さ。」
煙管に火を点け、吐き捨てられた紫煙が部屋に舞う。
「……。」
彼にしがみついたまま、はたては何も言わない。
「お前に刀を向けた日も、あの頃の夢を見てた。
怖いんだよ…いつかお前も斬っちまう気がして。
お前ですら斬れって…ズタズタにしちまえって…ずっと、心の中の自分が叫んでる気がして!!!」
静寂を、怒声が斬り裂く。
彼は初めて、はたてに自らの弱さの全てを打ち明けた。
その頬を伝うのは、一滴の涙。
「○○…。」
はたては彼の背中から離れ、その手を彼の傍らへと伸ばす。
そこにあるのは、彼にとっては呪縛でしかない、無地の鞘に収められた刀。
「はたて…?」
薄闇に浮かぶのは、鈍く光る刀身。
片手に握られたその刀身は、もう片方の彼女の掌へと伸び。
その華奢な手で、彼女は刃を握り締めた。
「はたて!!」
ぽたり、ぽたりと。床に赤い滴が零れる。
「……。」
何も言わず、はたては柄を彼に向ける。
掌に走る激痛からか、息は荒く、その目には涙が浮かんでいる。
「斬ってみてよ…○○。
大丈夫。あたしはそれぐらいじゃ、すぐに治っちゃうから。」
「……!!」
はたては笑って、ゆっくりと彼に近付いて行く。
苦痛の中。
いつもと同じ、花の様な笑顔で。
その眼が、光を宿していない点を除いて。
その視線が○○の奥底に、恐怖として流れ込む。
「今まで解ってあげられなくてごめんね。
つらかったよね?
苦しかったよね?
だから…全部あたしにぶつけていいよ?悲しいのも、痛いのも、全部。」
「やめろ…。」
「好きな人の痛みは、半分だけでも代わってあげたいもの。
あたしは妖怪だから、○○の苦しみも全部受け止められる。あんたの痛みは、私の痛みだもの。
だから、斬って?
ほら…全部、受 ケ 止 メ テ ア ゲ ル カ ラ 。」
「やめろ…。
やめろおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!」
気付けば彼は、はたてを突き飛ばしていた。
衝撃で刀は彼女の手を離れ、床へと突き刺さる。
「はたて!!」
彼女の名を叫び、すぐに抱き上げる。
その掌の刀傷は深く、出血も相当なものだった。
「お前、何でこんな真似を…。」
「ふふ…。
あーあ、あそこまで綺麗に引っ掛かると、痛快通り越して可愛いわ。」
「は?」
先程までの陰鬱さが嘘の様に、はたては明るく笑い出す。
一方の○○は、何が起きたか解らないと言った面持ちで、ポカンとしてしまった。
「なーにその顔?
どれどれ、記念に一枚、っと。ぷっ、これ相当マヌケ面よ。」
何事も無かったかのように、カメラを取り出して撮影をするはたて。
ピロリと不釣り合いに能天気な音が鳴る。
「…てめえ、どういう事だオイ?」
わなわなと肩を震わせる○○。
あれだけ心配を掛けたのだ、その怒りは当然の物なのであろう。
「え?あたしなりのドッキリよ。」
「……はは。
こんの大馬鹿野郎があああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
「痛っ!!」
ごん、と本気のゲンコツが一撃。
相当良い所に入ったらしく、はたては声も出せずに悶絶している。
「いった~、か弱い女の子に何すんのよ。」
「てめえには蚊に喰われた程度だろうが。
ったく…人がどんな気持ちでいたと思ってんだよ。ちょっと手え見せろ。」
そして彼女の左手は包帯に包まれ、非常に痛々しい様相となる。
幾ら妖怪とは言え、数日は日常に不自由するであろう傷の深さ。
はたて自らの行動と言えど、彼にとっては、やはり罪悪感は深い。
「これで終わり、っと。とんだビビり損だったぜ、全く。悪戯にしちゃあ過激な事しやがってよ。
はたて、何でこんな真似をした?」
キッと睨みつける視線。
未だに彼の怒りは治まっていないのは、はっきりと表れている。
「何でって、心配性でビビりなあんたに、身を以て示してあげたんでしょうが。
ほら、それでもあんたはあたしを斬らなかったでしょ?
だから、きっと大丈夫。
そんなに自分を怖がらなくていいよ?あたしってば献身的よねー。」
「!!」
あの時、普段の彼であれば、どうしていただろうか。
仕事として対峙する妖怪と同じく、血の騒ぐままに斬ってしまうと彼は思っていた。
それは夢に見る程、彼が恐れていた事。
だが、彼は斬らなかった。
はたての異様な雰囲気に呑まれていたとは言え、それでも向けられた柄を握る事は、出来なかった。
「はあ…確かにビビりだったかもしれねえな。お前に怪我までさせる羽目になるとは、情けねえ。
いいか、二度とこんなバカな真似はするなよ?
だけど、その…あ、ありがと、な。」
感謝の言葉など、口にしたのはいつ以来だったのか。
未だに慣れない誰かを想うと言う感情に、更に様々な慣れない感情が重なっていく。
その変化を彼にもたらしたのは、はたての存在そのもので。
そんな戸惑いの中、ふわりと、何かに包まれた感触。
気付けば彼は、はたての胸に抱かれていた。
「…辛かったよね?ずっと独りぼっちで。
でも、今はあたしがいるでしょ?
だから怖がらないでいいの、あんたはもう、独りじゃないから。」
「はたて…。」
「これでもあんたの何倍も生きてるのよ?
だから今は思いっきり泣いて、甘えなさい。受け止めてあげるから。」
「う…あ…あああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!」
○○は、声を上げて泣いた。
それは、退治の最中の狂笑に隠した涙では無く。
12歳のあの夜以来、初めて感情のままに流した涙。
激情の波の中の彼は、気付かない。
今自分がすがり付いている少女の、本当の胸の内など。
“本当に…辛かったよね。
苦しかったよね。
許せない。
何でこの人ばかりが、こんなに苦しまなきゃなの。
退治屋でなくなっても、この人が人間たちに殺されない為には。
この人が、呪縛から逃れる為には。
…そうだ。そうだよ!
この人が妖怪を斬る必要が、無くなればいいんだ。
この人が、あたしとずっと生きていけるようにすればいいんだ…。
待っててね…○○。今度は、あたしが助けてあげる。
もう苦しまないでいいように。
…コッチニ、引 キ 込 ン デ ア ゲ ル カ ラ 。”
彼をその胸に抱きながら、はたては微笑む。
その花の様な微笑みの、瞳だけが。
また、先程と同じように淀んでいる事など、彼は気付く事も無く。
はたては彼の狂気と悲嘆を受け止め、種族の違い故に生まれた彼のジレンマすら、受け止めた。
確かに、それで彼は救われたのかもしれない。
しかし、狂気は伝染する。
“今度は自分が。”
そんな優しさも、行き過ぎてしまえば。それは。
「…はたて。」
身を離し、彼女に口づける。
「うん…。」
再び彼女を抱き寄せ、彼ははたての首筋に口づけをした。
やがて、二人の影が重なる。
互いに縋り合う様な、慈しみ合う様な、その情事は。
重なる想いと。
この夜に、ずれ始めた感情を表すかの様に。
どこか、儚げなものだった。
目が覚めた。
あの夢は見なかった。
隣には、まだ眠っているはたての姿。
彼女を胸に抱き寄せ、その香りを感じながら、俺はまた眠りに就いた。
“願わくば、いつかは二人で平和に生きて行きたい”と。
自分の心からの願いを、初めて受け入れられた。
例え俺の生きられる時間が、はたてより短く。
越えられない壁が、二人の前にあったとしても。
あの夜以来、二人の仲はより深まっていった。
はたてが彼の家に泊まる事も増え、彼女がカメラを回す場面も多くなっていた。
そして、彼がはたてのカメラを借り、彼女を撮る場面も。
現像された写真を渡される度、一つ一つ増えていく、二人の思い出。
彼はそれらをアルバムに綴じ、独りの時によく見返していた。
幼い頃は幸福な記憶に恵まれなかった彼にとって。
それは、今やっと手にした、幸せの記録。
大切なものが増えていく事に、また独りではない事を噛み締める。
山へ入る事も、退治以外で里から出る事も叶わない身分故、彼ははたての家を訪ねた事は無い。
故に、彼は知らなかった。
彼女もまた、『別の形』で写真を大切にしている事を。
「はあ、今日は絞られたなぁ。あのオッサン天狗め…。」
手を伸ばし、玄関の扉を開ける。
誰もいない家。
当然灯りもついていなければ、彼女に掛かる声も無い。
かつては、彼女の安息はここにだけあった。
いつからか他者と交わる事も潰え、ただ怠惰に念写を繰り返していただけの部屋。
彼女だけの、秘密の城。
しかし今は、どこか落ち着かない。
部屋の暗闇が、孤独を強めていく感覚をはたては覚える。
“ぼっちって、こんな時に使うのかな。
へこんだ時にこれはキツいわ…会いたいよ、○○。”
照明に火種を入れる。
灯りが暗闇を追いやり、照らし出されるのはシンプルな部屋。
「ただいま…○○。」
ここにはいないはずの彼に、声を掛ける。
彼女の視線の先、照らし出された壁の一角。
そこにあるのは、壁を埋め尽くす、膨大な写真。
それらは全て、一人の男を写している。
「○○…。」
慈しむ様に、その中心に貼られた写真を撫でる。
最初に彼女が収めた、彼の写真を。
“待っててね…○○。”
冬も終わり、春の色が幻想郷が彩る。
桜も舞い始めた頃、それは起きた。
「○○、いるか?」
戸を叩くのは、里の守護者である上白沢慧音。
彼へ依頼を伝達するのは、かつては親代わりでもあった彼女である。
がらりと戸が開き、相変わらず気だるげな表情の○○が姿を現す。
「仕事か?」
「ああ。」
「解った、すぐ準備する。」
慧音は彼の態度に違和感を覚えた。
いつもなら皮肉の一つでも出てくるのだが、今日はそれが無い。
何より、その目はいつもと眼光が違っていた。
「随分良い目をするようになったじゃないか、○○。
前はもっとこう、なりふり構わず殺気立った目をしていたのだが。何か守る物でも出来たのか?」
彼女が違和感を感じたのは、強い決意を宿した彼の瞳。
それは、怒りと絶望で自暴自棄だった頃の彼とは違う、生き残る遺志を宿した目で。
「詳細は省くが、そんな所だな。じゃ、さっさと片付けてくるぜ。」
「ああ、頼んだぞ。」
その言葉に背を向けたまま、愛刀を手に、彼は門をくぐった。
戦況は一方的だった。
巫女程の実力者では無くとも、彼もまた、10年近く生き延びてきた退治屋。
妖怪達の首を落とし、いつも通りに仕事は終わった。
土を掘り、妖怪達の死体を埋める。
復活を遅らせるのと、妖怪達にトラウマを植え付ける意味もある為、虐殺自体は止めてはいなかった。
が、そこに向かう感情だけは、今は違う。
“何とか生き残れたな…。
今までの事を承知で言うが、俺もまだ死ねねえんだ。許せとは言わねえ、恨むなら俺だけを恨め。”
妖怪達に手を合わせ、黙祷を捧げる。
集中し、目を閉じて。
それは、一瞬の油断とも取れる瞬間でもあり。
“ぞぶ…”
「がっ…!?」
その時、後ろから激痛が彼を襲った。
脇腹からは、明らかに人では無い者の爪が飛び出ている。
後ろを取られ、貫かれた事は明白だった。
「ひゃひゃひゃ、人間なんてやっぱり脆いよなあ…。
お前がここにいるって聞いて来た甲斐があったぜえ。」
「お前ら…。」
振り返れば、下級妖怪が3匹。
彼には見覚えがあった。
それらの者は、かつて自らが虐殺した者達なのだから。
「ぐ…今更お礼参りかよ…てめえら…」
「今なら殺れるって思ったからよぉ、遠慮無く襲わせてもらったぜ。
俺らがバラバラにされたみたいによ…生きたまま喰ってやるよおおおおおおおおお!!!!!」
そして、散らばっていた桜の花びらは血に染まった。
「はあ…はあ…」
血まみれのまま、刀を杖代わりに野を歩く男が独り。
最後の気力を振り絞り、○○は何とか生き残った。
幸い致命傷を外れていた事が勝因ではあった。
しかし、それも負傷直後の話。
時間の経過で血を流し過ぎた彼の視界は歪み、意識は朦朧としている。
「はは…ダメだな、こりゃ…」
どさりとその場に倒れ込み、死を覚悟した。
もうすぐ彼は死に、死骸は妖怪に喰われるのであろう。
“地獄は懲役何年ぐらいになるかね…いや、俺は彼岸すら渡れねえか。
はたて、ごめんな。”
その心の声を最後に、彼は意識を手放した。
倒れこむ彼の傍に、音も無く舞い降りる影が一つ。
それは高下駄を履き、髪を二つに結った少女。
彼女は彼を自身の膝に寝かせ、微笑みを浮かべる。
スカートの中から短刀を取り出し、その鞘から刀身を抜き出す。
彼女は手首を彼の口元にかざし。
___そして、短刀で自らの手首を切った。
「………。」
目を覚ませば、見慣れた天井。
手を虚空にかざし、指を動かす。
「…何で、生きてる。」
一瞬夢かとも思ったが、確かに俺は生きている。
“あの状況からどうやって?”
そう思考と視線を部屋に巡らせていると、視界は見知った顔を捉えた。
「はたて…?」
そこにはあったのは、横で眠るはたての姿。
その瞼からは、一筋涙が零れていた。
“助けてくれたのか…世話ばかり掛けちまってるな。夢じゃ、ないよな?”
そっと彼女の髪を撫でる。
もう慣れた、だけど愛おしい感触。
「ん…。」
はたての瞼が開く。
ぼーっとしているのか、その視線はまだ虚ろだった。
「あ…○○!!」
「お、っと…ぐうっ!!」
抱き付かれた衝撃で、脇腹の傷に痛みが走る。
ああ、間違い無い。やっぱり俺は生きていた。
「お前、いてえよ…。」
「あたしの心の痛みに比べたらそんなのかすり傷でしょーが。
全く心配掛けて…本当に…本当に死んじゃったのかって…。」
いつぞやの時みたいに、こいつの顔面は洪水だ。
ただ、もう面倒だとは思わない。
「…心配掛けちまったな。
ありがとな、はたて。だから泣くな。」
「うん…うん。もう、あんな無茶しないで…。」
子供をあやすみたいに抱き締めながら、何度もはたての背中をさすった。
いっそ俺が退治屋で無くなれたなら、もうこんな顔をさせないで済むのだろうか。
それでも退治屋を辞める事は、俺には死を意味する。
誰が決めた訳でもなく、里の暗黙の了解で処刑される。
だから、いつかこの身が朽ちるまでは、何がなんでも彼女と共に在ろうと思った。
絶対に生き延びる事。
その決意をこの日、より強めた。
私が泣いたのは、自己嫌悪と後悔、それと嬉しさからだった。
あの時、下級共を彼に焚き付けたのは私だ。
『条件』をクリアして行くには、一度○○が瀕死になる必要があった。
だから、たまたま冬に彼が斬った妖怪達を見かけた時、考えるより先に声を掛けた。
本当は途中で助けに入るつもりだったけど。
攻撃を受けながらも、彼はそのまま妖怪を斬り殺してしまった。
ぼろぼろになった彼を見た時、後悔した。
覚悟はしていた。
身勝手だって事も解っていた。
彼を自由にする為には仕方ないと、何度も自分に言い聞かせた。
彼が目を覚ました時は、本当に嬉しかった。
このまま死んでしまったらどうしようって、不安で仕方が無かった。
そして、それとは別の嬉しさもこみ上げてきた。
“これでずっと、彼と生きていける”って。
傷付けてごめんね、○○。
だけど、これもあなたの為なの。
人が人を辞めるには、方法は2つある。
まずは、強い怨念や情念を抱えた者が、死後に別の物に転ずるか。
あともうひとつは…
10年近く妖怪を斬り続けてきた彼には、その下地が既に出来上がっていた。
本当に、運が良いと思う。
そして、“それ”を膨れ上がらせる引き金を、彼に自分の生き血を飲ませる事で引いた。
あの日の傷も、すっかり癒えた。
が、彼は自身の身に、奇異の感情を覚えていた。
仮にも脇腹を抉られた傷。ましてや、あの日は出血多量でもあった。
しかし、彼の傷は『たった5日』で癒えてしまっていたのだ。
“はたては山の薬草だって言ってたが…こりゃすげえな”
彼は気付かない。
少しずつ、自身が人ならざる者へと変わり始めている事を。
○○の身体の変調は、その後も少しずつ表れ始めた。
まず、力が少しだけ増した。
薪を運んでいた時、前よりほんの少しだけ持てる量が増えた。
鍛練を以前よりきつくしていた彼は、それには気付かなかった。
だが、次に五感が鋭さを増した。
微々たる差ではあれど、遠くの物や音も、人間よりも強く認識出来るようになった。
“おかしい。”
そうして次第に表れる自身の変化に、疑問を抱き始めていた頃。彼の変化を決定付ける事件が起きた。
また依頼が入った。
相変わらずの、チンピラ紛いな下級妖怪達の群れ。
それらを何事も無く切り伏せ、惨殺する。
あとは埋めてしまえば、いつも通りな筈だった。
“いつまで続くかね…この日常は。”
煙管に火を点け、妖怪達の肉片を見やる。
“ドクン…。”
「が…はっ…!?」
視界に肉片が入った刹那、強烈な動悸が彼を襲う。
渇く。
揺れる。
血流が激しさを増す。
立っていられない程の心臓の鼓動に、思わず倒れ伏した。
そして彼の口から無意識に出たのは…
「…ニ…ク。ニクダ…ニク…。」
妖怪の血肉を求める、飢えた言葉。
“…え?今俺は何て…”
自身の言葉に驚愕を覚えるが、伸びて行く手は止まらず。
そこで、彼の意識は途切れた。
「…………え?」
次に目を覚ましたのは、自身の部屋。
最初は夢かとも思った。
しかし、部屋の隅に乱雑に置かれた物を見て、彼は絶句する。
「な!?これは…」
そこには愛刀と、『血まみれの服』の一式。
彼はいつも、仕事には使い捨ての服を纏い、それが血で汚れている。
つまり、先程の事は全て現実であると言うこと。
“俺は一体…。”
強い不安を抱え、彼はそれらをすぐに処分しようとした。
目の前の欠落に、目を伏せる様に。
「○○、いるー?」
「!?…何だ、はたてか。」
一瞬心臓が止まりかけた。
が、そこに現れたのは、恋人であるはたて。
「あ、今何か隠したでしょー。
さては春画かなぁ?あたしという者がありながら…」
「ちげえよバカ。仕事だったから、服を処分してただけだ。」
「ふーん…そう。」
バツの悪そうな○○とは対照的に、はたては何故か嬉しそうに目を細める。
その表情に、彼は何処か異様さを感じていた。
“最近やたら機嫌良いんだよな…こいつ。まあ、考え過ぎか。”
一度芽生えた違和感を振り払い、平静を装った。
自身が記憶を欠いている間の事に、一抹の疑問を覚えたままで。
○○の慌てた姿を見た時、私は計画の進展を確信した。
人が妖怪へと転じるには、大まかに言えば二つある。
一つは、強い念を抱え、死後に妖怪となる事。
そしてもう一つは、物理的に、血肉を媒介とする事。
本来なら、最初から肉を喰らうぐらいのきっかけが要る。
しかし、妖怪の肉を喰えと言われて喰うバカはまずいない。
だけど、○○には下地があった。
仮にも10年近く。殺し合いとしての、それも、とても残忍な形の妖怪退治をしてきた人。
浴びてきた返り血も、半端な量じゃ無いはず。
例えば皮膚呼吸。
例えば、飛び散った血煙。
それらを自然と吸い続けて来た彼は、肉を喰わずとも、少しだけ人間から外れ始めている筈。
そう思った私は、彼を瀕死にさせて、自分の生き血を飲ませた。
もしダメだったら天狗の薬を使うつもりだったけど、そんな必要は無かった。
結果は予想以上で。
彼は生き血という引き金で、すぐに半妖に近い存在になった。
先天的な半妖と違って、それは病気に近いもの。
完全な妖怪になるべく本能が働いて、妖怪の血肉を見れば、血が疼いてしょうがなくなる。
“肉を喰らえ、妖怪になれ”ってね…
彼が人間でなくなれば、妖怪を斬る必要が無くなるもの。
人里で生きる必要が無くなれば、彼は自由になれる。
それに、あたしとずっと生きていける。
彼は自分の一生の間だけでもあたしと、って思ってくれてるみたいだけど。
やっぱり、彼が先に逝ってしまうのは耐えられないもの。
皆、苦手だった。
何を考えてるか解らない他の連中も、天狗の社会全部も。
それでもこれじゃダメだって外へ出るようになって…だけど、やっぱり外は怖くて。
そんな時に、彼と出会った。
彼に助けられた時、本当は怖かった。
だけど、彼はありのままでいてくれた。
いけすかない奴だって思ったけど、彼は“ただのはたて”として接してくれた。
天狗らしさを押し付けるでもなく、ただのあたしとして。
誰かと食べる食事の暖かさも、誰かの温もりも。
思い出させてくれたのは、きっと彼。
彼はあたしに助けられてばかりだって思ってるけど、ただお返しをしてるだけ。
独りの痛みは、あたしにも解るから。
だから、呪いは断ち切らなきゃ。彼を自由にしなきゃ。
その時は、二人で手を取り合って…
きっと。
最終更新:2012年03月12日 20:57