その日、上白沢慧音は里の外れへと向かっていた。
用件は、○○への仕事の依頼。
戸を叩き、案件を告げる。
今回は相手が手強く、○○には少々荷が重い。
それを告げると、彼は退治屋としての目付きに変わる。
それはいつも以上に気迫を感じさせるが…。
“今のは…?”
彼が気迫を纏った時、一瞬だけ彼女が感じ取ったのは、紛れもない『妖気』。
それを人間である○○が放つ事は、まず有り得ない筈。
“いや、今はそんな場合じゃない。”
「相手は手強いが、頼んだぞ、○○。…いいか、必ず生きて帰ってくれ。」
「…ああ、元よりそのつもりだ。」
疑念を振り払い、慧音はその背中を見送る。
もう、自分の知る彼がいなくなるような。そんな予感と共に。
敵は多勢だった。
そして中心にいるのは、中位程度の力を持った人型の妖怪。
下級を専門とする彼には、圧倒的に分が悪い。
だが、それでも刀を握るしかない。
生きる為に。
生きて、またはたてと共に笑う為に。
「おおおおおおおおお!!!!!!」
咆哮と共に、血まみれの戦が始まった。
負傷しながらも、何とか雑魚は全て片付けた。
残るは一匹。
実力は彼より上だが、覚悟は決まった。
“ドクン…”
そこに、以前と同じ動悸。
抗いがたい衝動を無理矢理に押さえ、刀を杖代わりに身体を支える。
「ぐ…!!ぜえ…ぜえ…」
「大した根性だなぁ、坊主。
まさか俺一人になるとは、腐っても半分って事かぁ?」
「半分…何の事だよ…?」
ぐらつく意識の中、切っ先を敵に向ける。
戦闘中から異常には襲われていた。
血が騒ぎ、そして速く動けた。
猛烈な目眩を感じてはいたが、それでも雑魚を倒せたのはそのお陰ではあり。
「いや…その様子じゃ、お前は後からって所か。ひひひ…うっかり俺らの肉でも喰ったか?
退治屋様が妖怪の出来損ないなんて、ざまあねえなぁ…。どうだ、腹が減ってしょうがねえだろ?」
「なっ…!?」
突然の宣告。
しかしその言葉で、今までの異常が点と線で繋がって行く。
「そんな…まさか。」
「心当たりアリって所かぁ?まさかも何もねえよ…さっきから匂うんだよ、俺らと同じ匂いがさぁ。
ひひひ…これ程面白い事もねえ。お前は“自分の宿命”を、知らねえんだもんなあ。
斬ってみろよ坊主…斬って俺を喰えば、“お前も俺の仲間”だぜぇ?
さあ…来いよ。」
「黙れ…黙れええええええええぇ!!!!!!!!!!!!!!」
一閃。
妖怪の首が飛び、鮮血が辺りを赤く染める。
妖怪は抵抗の素振りすらすら見せず、撥ねられた首は不吉な笑みを浮かべたままだった。
「はぁ…はぁ…あ、ぐ…!!」
死体の山を確認した瞬間、先程以上の猛烈な渇き。
気付けば妖怪は解体され、彼の手には肉が握られていた。
“ダメ…だ…これを口にした…ら…。”
片手に握った刀を、何度も自らの足に突き刺す。
しかし、それでも手は止まらず。
口内に感じた血肉の味を最後に、また彼の意識は途切れた。
夢を見た。
12歳の夜に似た、何かに襲われる夢。
だけど、そいつらの手には武器が握られていて。
鍬、鎌、鉈。
涎を垂らしたあれは妖怪じゃなくて…人間?
腕には誰かを抱えている感触があった。
女の子?
何故?
人間達がこっちに近付いて来た。
武器を降り下ろそうとしてる。
狙ってるのは…腕の中の女の子。
何でだ。
この子は息も絶え絶えだ。おい、待て。
やめろ…
「やめろおおおおおおおおお!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」
叫び声で目が覚めた。
視界はぼやけているが、あの時と同じで、自分の家で目覚めた事は解った。
落ち着きを取り戻すと、異様な倦怠感と熱が身体を襲う。
拍動は速く、呼吸も乱れていた。
すると、頬にひんやりとした手が触れる。
霞んで上手く見えないが、この感触には覚えがあった。
「…うん。」
小さな肯定の言葉。
“ああ、また生きて彼女に会えたのだ”と、俺は少しだけ安堵を覚えた。
ただ、それも多分最期なのだと。
自身の体調から、俺は感じ取っていた。
俺はきっと、妖怪になるのだろう。
あの妖怪は、恐らく先代のこの家の主だ。
最後には妖怪になるのが退治屋としての宿命なのだと、今更になって気付いた。
…いや、妖怪は精神に依る生き物だ。
歪な精神の俺では、きっと妖怪ですらない化け物に変わってしまう。
そうなれば、俺は最早俺では無い。
はたてと共に生きる事も叶わず、そして死んだも同然だ。
理性の無い化け物など、人からも妖怪からも嫌悪され、封印されるのが関の山だ。
「…はっ。」
そう思うと、笑いが込み上げて来た。
化け物。
今までの俺と、一体何が違うのだ。
妖怪を残忍に殺し、人からは疎まれ、血煙の中で笑う。
はたてと共に在れた時間こそが、きっと奇跡だったのだ。
何も変わらない。
悲しさも怒りも捨てて、より相応しい形になる。それだけだ。
「…はたて、もうお別れだな。自分の身体の事ぐらい…自分で解る。
今日斬った奴が言ってたよ…俺はもう、妖怪になるんだと。
まあ…俺じゃあ妖怪未満の化け物だろうが…な。」
「……。」
はたては何も言わない。
こいつは天狗だ。
俺がどうなるのかぐらい、見当は付いているのだろう。
「だからさ…もし俺がその通りの化け物になったら…殺してくれ。最期の頼みだ。」
随分と身勝手だと思う。ただ、今の望みはそれだけだ。
もう共に生きられないのなら、せめて、はたての手で。
はたては手を伸ばし、俺の傍らから何かを手に取った。
眼前に細い影が見える。
ぼやけた視界でも、それが何かはすぐに解った。
俺の愛刀。
呪縛でしか無かった、その刀身。
ああ。
今、殺してくれるのか。まだ俺の理性があるうちに。
やっぱりはたては優しい。
手を伸ばし、はたての頬に触れる。
この温もりも、きっと最期だから。
「はたて…最期にお前に会えて良かった。」
触れる指に、彼女の瞼からこぼれた雫が触れた。
ごめんな。予定よりもずっと早く、お別れだなんてな。
いっそ俺が妖怪に生まれていたなら、どれ程良かったろう。
そしてはたてに出会えていたなら、きっと俺は…。
…やめだ、今更何が変わる訳でも無い。
彼女の左手が、頬を撫でた。
右手には、刀が握られている。
「…大丈夫だよ、○○。」
優しい声。
ぼやけた視界でもはっきり解るほど、切っ先が近付いた。
左手は、俺の頬に触れたまま。
「そんな風には、あたしがさせないから。」
直後、真っ赤なモノが視界に触れた。
____それは、彼女の手首から流れたものだった。
“くすくす…長持ちするかと思ったけど、あの子も引退かしらね。
まあいいわ。まだ少し頼りないけど、『次の○○』は、もう育っているのだから。
彼には呪われた役目を与え続けたのだから、最後のお膳立てぐらいはしてあげなくちゃ。
そうね…燃え上がる恋には、ドラマが付き物だもの。”
『彼女』が色彩の境界を操ると。
その髪は鮮やかな金色から、艶やかな黒髪へと姿を変えた。
あくまで人間を装い、通りを歩く。眼前には、里の男が一人。
「ちょっとそこのお方、大変よ!!あの退治屋が…」
はたての手首から血が流れる。
口内に、鉄の味が広がる。
抵抗を覚える心に対して、身体はその血を欲する。
喉の動きは止まらず、次々に体内へと吸収されていく、はたての一部。
「が…はぁ…あ…。」
ようやく出血が弱まる。
大部分の血は、既に俺の体内へと流れ込んでいた。
「はた…て…何を…。」
「何って…○○を助けるためだよ?
大丈夫、これで○○も妖怪になれるから。」
「…!!」
衝撃。
はたての口から告げられた言葉は、それに尽きた。
妖怪になる?
まさか…まさか!!
「あ、もしかして今頃気付いた?遅いよー。
あんたが怪我した時に薬草を使ったって言ったけど、あれは嘘。
本当は、今みたいにあたしの生き血を飲ませたんだよ?
あれから順調に妖怪になってったみたいで安心したわー。
思ったより早かったけど、愛の力ってやつかしら?」
確かに変調は、あの大怪我の日が起点だった。
はたてはからからと笑っている。
俺が全てを話した夜と同じ、異様な空気を纏い。けらけらと。
「何故…だ…?」
「だから全部○○の為だってば。
いい?あんたが妖怪になれば、退治屋ではいられなくなるでしょ?
それに、ずっとあたしと生きていける。良い事づくめじゃない。
…だって、あんたがいない世界なんて考えられないもの。
○○が苦しんでる所は、もう見たくないの。」
「はたて…お前は…。あ!?ぐ、う…」
心臓が止まるかと思う程の、強烈な拍動が俺を襲う。
呼吸が上手く機能せず、身体は熱を増す。
体内の隅々が、何か別の物であるかの様に蠢き、次第にめりめりとした肉と骨の躍動が聞こえた。
「あ…が…はたて、離れ…」
このままでは、はたても危ない。
しかし。
警告を口にする前に俺に重ねられたのは、はたての唇で。
「大丈夫。○○なら、化け物にはならないよ…。
もう、独りにはさせないから。」
そっと彼女の両腕が俺を包み、耳元に響いた言葉。
「あ…あああああああああああああああ!!!!!!!!!」
直後、背中に肉が裂ける痛みが走る。
思わず力一杯に叫んでいた。
それは苦痛からなのか、それとも生命としての咆哮なのかは解らない。
「はぁ…はぁ…」
身体が焼ける感覚の後、呼吸が落ち着きを取り戻す。
やがてぼやけていた視界も徐々にはっきりし、熱が引いて行く。
身体の一部が増えたかのような感覚。
背中を見れば、翼が一対生えていた。
はたてと同じ、真っ黒な鴉の翼が。
「はは…マジかよ。本当に人間じゃなくなっちまった…。」
思わず出た感想は、自分でも拍子抜けした物だったと思う。
これからどうなるのか。
そんな事も考えたが、今はそれよりも大事な事があった。
「…はたて。
まさかあの時あいつらをけしかけたのは、お前なのか?」
そもそも不自然だった。
“自分の居場所は、誰かが垂れ込んで知った。”
あいつらはそう言っていた。
最初に疑念が浮かんだ時、信じたくはなかった。
だけど、俺の行方を追え、且つ妖怪に声を掛ける事が出来る奴など、一人しかいない。
「…うん。あたしが、けしかけたの。」
静かに紡がれたのは、肯定の言葉。
心は決まった。
“ザクッ!!”
「え…?」
刀を奪い、はたての頬を掠める様に壁に突き刺した。
嘘をつかれた、陥れられた怒りもある。
だけどそれよりも、ずっと許せないのは…
「…何で、俺に嘘をついてまでそんな事をした。
何で自分を傷付けてまでそんな事をした!!
妖怪にされた事は、今更どうにもならねえ。
どの道俺が辿っていた運命かもしれない。
けどな…。嘘をついて、あまつさえ自分の体まで傷付けて。それは黙ってられねえ。
俺が一番見たくなかったのは…お前が傷付いてる姿なんだよ!!」
「…!!」
ただ、悲しかった。
はたてに嘘をつかれた事も。
彼女が自分の為に、手首を切り裂いた事も。
何より、憎かった。
はたてにそこまでさせてしまった、自分の脆さが。
「あたしは…ただ、○○を助けたくて。
あたしは…あ…あぁ…。」
彼女の瞳から、涙がこぼれた。
手を伸ばし、その涙を拭う。
そのまま、そっと彼女を抱き締めた。
「…覚えてるか?あの夜の事。
あの時、俺が全部を話した夜だ。」
思い出すのは、あの夜の事。
はたてが、俺の為に自らの掌を傷付けた日。
「あの時な、思ったんだよ。
もうお前には血を流させたくないって。
いつかは里から逃げて、お前と生きて行きたいって。」
「……。」
彼女はただ、腕の中で泣きじゃくる。
その肩は、とても小さなものに見えた。
「人である事からは、ずっと逃げられないと思ってた。
俺が俺でいる限り、ずっとここに縛り付けられるんだって思ってたよ。
はたて、ごめんな…またお前に血を流させた。
…結局、また八つ当たりだ。
元はと言えば、そうさせちまったのは俺の方だ。
だけど、もう俺なんかの為に自分を傷付けないでくれ。頼む。」
「あ…ご、ごめんな…さい…あ、ああああああああああああああ!!!!!」」
小さな嗚咽が、やがて大きな泣き声に変わる。
俺ははたてを抱き締めたまま、口付けを交わした。
二度と傷付けまいと。
いつか、彼女を守れるようにと。
そう自分に、誓いを立てて。
互いの涙も乾き、俺は片腕に彼女を抱き寄せたまま、壁にもたれ掛かっていた。
「…さて、これからどうしたもんかね。」
現実として、これは急を要する問題だった。
妖怪になってしまった以上、俺はもう退治屋は廃業な身だ。
里の奴らに見付かれば、どうなるかは想像に難くない。
「取り敢えずは逃げるとして…そこからは…。」
「いっそ天狗になっちゃえば?
あたしと同じ翼だし、きっと烏天狗の血が濃いはずだから。
後からだと、キツい修行が要るみたいだけどねー。」
一人言に割って入ったのは、はたての声。
いつもの快活さも戻り、それに少し、安堵を覚えた。
「…そうだな。
ま、どうせお前と生きてくつもりだ。それも良いかも知れねえ。」
「ふふ…でしょー?大天狗様は何とか口車で…」
「はたて…?おい、はたて!!」
急に言葉が途切れ、はたての体から力が抜けた。
「ひでえ熱だ…おい、しっかりしろ!!」
先程撒いた包帯には、赤色が滲んでいた。
手首を切ったのだ、やはり血を失い過ぎている。
幾ら妖怪と言えど、すぐに回復出来る状態ではないのは明白で。
そうして彼女を横にさせた時。
「いたぞ!!やっぱり化け物になってやがった!!」
響いたのは、数人の怒声。
それが里の者である事は、すぐに解った。
見えたのは、斧、鋸、鉈。或いは、鍬や槍。
戸を突き破り、武器を構えた男達が飛び込んできた。
一同に、恐れと嫌悪を携えた表情。
その矛先は、俺とはたてへと向けられていて。
「前から化け物じみた奴だと思ってたんだ!とうとう本物になりやがって!!
いいかお前ら、そいつはまだなりたてでロクに動けねえ!おまけにそこの天狗も弱ってる!
殺るなら今だ!!殺せええええええええぇ!!」
怒号と共に、振り上げられる凶器。
襲いかかろうと歩を進める、男達の姿。
それを見た時。
俺の脳裏には、さっき見た夢と、12歳のあの夜の光景が重なった。
まさに獲物を喰らって安心せんとばかりの、あの妖怪達の姿が。
…ああ、何も変わらないのだ。
あの妖怪達も、目の前のこいつらも。
そして、俺自身も。
恐怖を消し去る為か、飢えを満たす為か。
或いは、怒りの矛先なのか。
何かを追いやり己を満たす為、ただ自分より弱い者を貪り、蹂躙する。
安心を求め、都合の良い者に全ての汚れを押し付ける。
「お前らも、結局俺や妖怪と変わんねえのな…」
ただ、今の俺にも守る者はいる。
それすらも、喰い尽くそうとするのならば____
刀を握り、数度斬りつける。
妖怪になりたてとは言え、烏天狗の血のお陰か。
随分と速く、その一連の動きを繰り出す事が出来た。
「あ…?」
一瞬の静寂の後、ぽろりと首が落ちた。
…とは言っても、それは構えられた凶器の首ではあるが。
「てめえらみてえなクソ共の血がこいつに掛かるのは、我慢ならねえからな。通せよ、邪魔だ。
もしこれでも変な気を起こすってんなら…
____その時は、殺す。」
「ひっ…!!」
はたてを抱きかかえ、押し黙る男達の間を通り抜ける。
まだ不慣れな翼で、俺は空へと飛んだ。
丘に降り立つ。
里の外れから火柱と煙が上がり、かつて住んでいた家が焼かれているのが解る。
はたてを自分の膝に寝かせ、俺はそれを淡々と見つめていた。
「…○、○?」
「起きたのか?まだキツいだろ、寝とけ。」
「ふふ…そうね、もう少しこのままがいい。」
まだ回復には遠そうだが、それでもはたては微笑んだ。
髪を撫でてやると、彼女はくすぐったそうに目を細める。
「…燃えちゃうね、○○の家。」
彼女は何処か寂しげに、遠くの火柱を見つめていた。
俺達も、あそこに思い出が無かった訳では無い。
その顔を見て、ふと感傷を覚えた。
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎いならぬ、妖怪憎けりゃ家まで憎い、って所か。よくやるわ。
アルバムぐらいは持ってこれりゃ良かったかね。」
「そうね…でも、思い出はこれからまた作ればいいじゃない?
あんたもやっと自由になれたんだし。」
「…そうだな。」
しかし、結局はあの家も、かつての呪縛だ。
感傷もあまり意味は無いか。
煙が空へと昇り、炎が徐々に弱まって行く。
呪いの終わりを告げる様に、少しずつ、少しずつ尽きて。
ふと、今の自分について考える。
結果だけ見れば、俺はこいつの策略に嵌まっただけなのだろう。
ただ、手遅れだったとは言え、それでも生きていく事を選んだのは、最後は俺の意志だ。
俺は妖怪として、これからもはたてと生きていく。
それはきっと、彼女によって掛けられた呪い。
だが、それもかつてのものに比べれば、随分可愛らしくて自由な呪縛だ。
腰には、唯一手元に残った愛刀が差してある。
忌まわしいはずのそれも、今はそうじゃない。
運命を切り開いてくれたのは、紛れもなく、はたてとこの刀なのだから。
俺もはたても、狂っているのかもしれない。
だけど、本当に正常な奴なんてこの世にいるのだろうか?
少なくとも俺の見てきた世界には、そんな奴はいなかった。
何もかも狂っているのなら、二人で笑い飛ばしてしまおう。
例え、それが共に堕ちる暗闇だとしても。
「行こうか、はたて。」
「うん!!」
彼女を抱え、空へと舞い上がる。
何を見に行こう。
何をして笑い合おう。
これから先、大きな壁が現れても、きっと越えられるはず。
はたてが、側にいるのなら。
見上げれば、空には黄金色の三日月。
それは鋭くも、何処か暖かな光で。
12歳のあの新月の夜から、少しだけ時が進んだ気がした。
10年後。
青銀の髪を揺らし、一人の女が歩く。
そこは妖怪の山へと続く道。
その道を、何かを待つように彼女は進む。
「おい、そこの。」
一瞬の風切り音の直後、彼女の前に降り立つのは、鴉天狗の男。
その腰には、飾りの無い刀が差してある。
「山への女の独り歩きは感心しねえな。
たまたま俺が通ったから良かったが、この先は哨戒共がいる。面倒事が嫌なら、さっさと帰った方がいいぜ?」
「いや、それなら大丈夫だ。用なら今済んだからな。
里の若い退治屋が、妙な天狗に絡まれて稽古を付けられたと言っていてな。
あれはお前だろう?○○。」
彼女は優しく微笑み、天狗へと話し掛ける。
何か懐かしい者を見るような、そんな視線で。
「確かにあの退治屋のガキに稽古を付けたのは俺だが、生憎、それは俺の名じゃないぜ。
その名前の奴なら、10年前に火事で死んじまったろ?
まあ、あのガキの剣は殺す事しか考えてねえ剣だからな、見てらんなかったのさ。」
うざったそうに髪を掻き上げ、彼はそれを否定する。
確かに人間としての彼は、もう死んでいるのだから。
「ふ…そうだったな。
あの時は、私も里の者達を止める事が出来ず、奴は焼き討ちにされて死んでしまった。
私がかつて面倒を見ていた子の一人だったからな。
結局最後まで助けてやれず、随分と後悔しているよ。」
「…そうか。まあ、恨んではいないと思うぜ?
あいつは、ずっと望んでたからな。
押し付けられた役目から解放される事を。
っと、そろそろ帰らねえとな。
うっかりこんな所見られたら、カミさんが恐ぇんだ。」
「ふふ。まあ、女房が強い方が家庭は上手く行くと言う。
家族を大事にするのは、良い事だと思うぞ?」
「そいつはごもっともだ。あんたもさっさと帰りな。ぼーっとしてると夜になっちまうぜ?」
翼を翻し、彼は背を向ける。
「○○。」
そうして帰ろうとする彼に、女は再び声を掛けた。
「…お前は今、幸せか?
人である事も捨て、長い時を生きる身となっても。」
「……。」
天狗は振り返らない。
背を向けたまま、その質問にこう返した。
「愚問さ。
あいつと出会う前の方が、俺にはずっと長くて、孤独な時間だったよ。
…じゃ、気を付けて帰れよ。先生。」
「そうか…強くなったな、○○。」
天狗は一つ手を振ると、空へと舞い上がった。
その羽ばたきは、何処までも力強く、自由で。
守るべきものの元へと、真っ直ぐに飛んで行くのだった。
かつての暗闇ではなく。
夕暮れの光に、その姿を照らされて。
最終更新:2012年03月12日 20:57