月の影

「○○・・・探したわ」
「依姫か・・・もう少ししたら戻る」


古びた気密服を着込んだ青年に少女は語りかけた。
かたや、少女は青年比べおおよそ防護服のような服を着ていない。
その光景のみを見ていれば、シュールな舞台劇を見ているような印象をうける。
が、青年の周りには生命の息吹すらない寒々とした光景が広がっていた。

此処は月の都の郊外
月人や警護の月兎達すら寄りつかない、死の大地に○○と呼ばれた青年は佇んでいた。


今は過ぎ去りし、米ソ冷戦時代。
「労働者の楽園」こと、ソビエト連邦は焦っていた。
アメリカが一足先に月面へ人類を送ったのだ。
そして、無謀な宇宙開発を行っていく。

或る者は尿袋に電気が通電し

或る者は空気が上手く供給されず、陸で溺れ死んだ

○○は秘密裏に宇宙へ送り出されたが、月着陸船が月地表へと到着することなく爆発四散した。
○○は最新式の気密服を事前に着用していたため、吹き飛ぶことなく地表へと降り立つことができた。
地上へ戻ることができず絶望が頭を支配した。
空気の残量が残り少なくなった頃、ヘルメットに兎耳を付けた少女が○○を拘束する。
「いよいよ俺もお仕舞いになっちまったのかな・・・・・」
消えゆく意識の中で○○は地上に残した母親を想った。

○○が目を覚ました場所は地獄でも天国でもなかった。
「依姫様!捕虜が目を覚ましました!」
背の低い、兎耳を付けた少女達が走りまわる。
「静かにしなさい!」
黄色いリボンを付けた少女が一喝する。
それが○○と依姫との出会いだった。

KGBのファイルに月の都市についての言及があったが、○○は一切信じていなかった。
ただの岩の塊である月に都市を作って住む意味がなく、その類の話はトロツキーが未だに生きていると信じるのと同様眉つばものだと断じていた。
現実はどうだ
月には極東の日本とよく似た都市が広がり、洋服を着た人々と彼らにかしずく兎耳をつけた人々。
あまり出歩くことはできなかったが、彼らの文明は○○の故郷と比べても洗練され進化したものだった。
地上の話をすることに抵抗はなかった。
ましてや彼を月への片道旅行へ送った指導部についての義理はない。

「地上はそうなっていたのですね」
「ああ、自分のことと体面しか興味のない馬鹿の所為で俺は此処に来させられた」
「・・・・地上にはもう俺の居場所なんてないだろうしな」

ふと指輪が目に入った。
見た目は党指導部が承認した指輪に偽装してあるが、内側にはロマノフ王朝の紋章「双頭の鷲」が刻まれていた。
母親が出発の朝手渡してくれた唯一の家宝。
朝から深夜まで休まずコルホーズで働き、空軍士官学校へ送ってくれた母親。
大昔に滅んだロマノフ王家の再興なんてどうでもいい。
悲しい顔の母親が笑顔で過ごしてくれることが、彼の唯一の願いだった。

「本当に見るだけなんですね?」
「ああ、君には迷惑をかけないさ・・・」

その瞬間、首筋に手刀を受け兎耳を付けた少女は意識を失った。

「これで君は裏切り者じゃない・・・・」

○○の目の前には復元された月着陸船があった。
乗り込み、手慣れた手つきで離着準備をしていく。

「降りなさい!○○」

窓の外には依姫がいた。

「あなたが行こうとする場所はどんな場所なのか知っているでしょ!なぜ・・・」
「俺は冷戦なんて関係ない!だが、母親が泣いたままなのは許せないんだ!!」
「行かないで!私はあなたのことが・・・・」
「地上の人間としてのサンプルとして興味深いってか?」
「そんなこと!」
「嘘をつくな!俺はこう見えても軍人だ。お前達が俺をどう扱うつもりなのかはお見通しだ!」


「嘘だろ・・・・・そんな!!!!!」
目の前には解剖された老若男女の解剖死体が並べられている。
ここは○○が抑留されている建物の地下。
うっかり口を滑らせた世話役の少女からこの場所を聞き出した○○は目を疑った。

テーブルに縛りつけられ、白衣の人物が記録をとる中月兎の少女と交わらせられる少年
外科手術で頭に兎の耳のようなモノを植え付けられた少女

ファイルを読んでいるうちに、見知った人物の名を見つけた。

「地上との戦争と地上人の月兎化に関する考察」 綿月依姫

○○が地上帰還を決意していることを露知らず、依姫が彼を訪問する回数は増えていった。
地上には恋人はいるのか
軍人といっていたが、地上の軍隊の訓練は何をしているのか
今まで人を愛した事はあるのか
○○は嫌悪感を隠しながら、入念に計画を立てていく。

そして彼は依姫主導で復元された月着陸船を知った。

「私は一軍の長・・・だから常に最悪の場合を考えなければならない」
「お前も党の糞野郎と同じことを言うんだな・・・・警戒こそが我々の武器ってか!!!」
「そんなことないわ・・・・私は貴方を愛しているの!永きを生きていても女の情念も孤独も消せなかった・・・・だから私は貴方に・・・・」
「兎共に慰めてもらいな!!!!」

俺はイグニッションパネルを作動させ、手元のボタンを押した。
逆噴射ノズルから発射された爆弾が天井を破壊し、そのまま宇宙へと飛び出した。

眼下に地球が昇ってくる。
「故郷は地球か・・・・」
けたたましい警戒音が鳴り響き、○○の意識は刈り取られた。


「貴方はもうそんなモノを必要としていないわよ」
「解っているさ・・・・」

○○はヘルメットを脱ぐ。
そこから現れた○○の頭には黒々とした兎の耳がついていた。
依姫は爆散した○○の身体を回収し、月兎へと転化させたのだ。
足りない部位をクローニングで補ったその身体は、がっちりとした軍人であった○○の身体を少年にまで若返っていた。

「帰るわよ。部隊のレイセン達が待っているわ」
「ああ・・・・」

月の都へと向かう二人を蒼い地球が照らしつづける。



研究所地下
手術台に一人の少年が一糸纏わぬ姿で横たえられていた。
傍らには慾情を迸らせた依姫が見つめていた。

全ては幻
○○はうっかり者の月兎にも会わず、宇宙船にも乗り込んでいない。
○○は死なずして月兎に改造されたのだ。
義理固い○○は一度死の淵から救ってくれた彼女を否定できない。

「依姫様・・・仕上がりは如何ですか?」
「完璧よ」
「気に入ってくれて幸いでございます」

麻酔はもう少しで切れる。
そしたら涙をみせて彼を抱きしめてあげよう。
望むならその場で交わってもいいだろう。

「ペットに愛されるコツは惜しみない愛を与えて逃げられなくすること」

依姫の瞳にいつもの輝きはなく、暗い情念が渦巻いていた。
最終更新:2012年03月12日 21:13