…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
私がこの部屋で起きるとき、何時もこのイマイマシイ音が脳裏を劈く。
まるで話に聞く巨大蜂のようではないか。見たことも実際に音を直接聞いた事もないが。
そんな忌まわしい音も、目を開く頃には消え果て、私の視界には小さなシャンデリアと赤い天井の壁紙が見える。
大の字になって寝ていた床からもっさりと起き上がると、僕の居る部屋が映し出された。
窓の無い、20畳程の部屋だった。
いや、一応窓はあるが……窓枠だけなのである。
窓枠の向こう側にはキチリと組み合わせた煉瓦に白い漆喰を塗った壁があるだけ。
その無機質さを誤魔化す為か、造花をあしらった花瓶がポツンとおいてある。
今寝っ転がっていた床はふかふかした真紅の絨毯が敷き詰められている。
部屋の壁際には高級そうな洋式の家具が幾つか置かれ、ベットは天蓋付きの見るからに柔らかそうな寝具ときていた。
入り口と覚しきドアには覗き窓が付いていて、成人男性の顔半分程の隙間には銀の小さな格子が入っている。
ドアの作りも見るからに頑強そうで、部屋の優雅な雰囲気と断絶していた。
他にも2つほど『トイレ』『浴室』とプレートに書かれたドアがあったが、それは部屋の外へ出るものではないのだろう。
起きあがり、近くにあった細工が細かい鏡台を覗きこむ。
いつもの私の顔だった。私は、起きた後自分の顔をこの鏡台で確認する。
私はこの部屋の住人であり、起きる時あの忌まわしい音が聞こえる事、そして鏡台に映っている自分の顔。
僕はそれだけしか記憶がない。
それ以外の記憶がないのである。
なんでこの部屋に閉じ込められているのか。
僕が誰でありどうしてこの部屋に連れてこられたのか。
全然思い出せないのだ。そして、これから何が起こるのかも忘れている。
暫くの間、家具の中を開けてみたり、浴室やトイレを調べたりしてみたが、自分に連なる何らかの情報は一切無かった。
すべき事が無くなり沈黙した部屋の中では、ボンボン時計(精巧な柱時計)のタッタという音だけが響いている。
沈黙に耐えきれず、私は思わず大声で喚いた。
誰か、誰か、と叫び、誰かが来る事を期待した。
例え五月蠅さに嫌悪を示した看守(ここは何処かの病棟かも知れない)がやってくるかもしれない。
だが、私にとっては得体の知れない場所と自分自身しか存在しないこの状況の方が耐えられなかった。
何度か叫んだ後、何事も起きず沈黙しか返って来なかった事に絶望し、クラリと身体が揺らいだ。
そのままストーンと倒れそうになったが、慌てて踏み留まる。
「……お兄様。○□お兄様。お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様、お願い、もう一度お兄様のお声を……聞かしてエ――ッ」
その舌っ足らずな声が聞こえたのは突然だった。
沈黙が支配していたこの部屋に、他者の声が介在した。
それは私にとって福音となる筈……だったのに。私は愕然となり縮み上がる他ないのである。
声が聞こえてきた方の壁を見やる。
そこには名も知らない幼女と男(何故か私の顔だった)の肖像画が置かれている場所だった。
思わずその肖像画の幼女が喋っているのかと思ったが、幸いにもアレが生き物でない事は先程の探索で調査済みだった。
ならば、この声は壁の向こう側、そこにあるかも知れない部屋から聞こえているのだろうか?
私の混濁した思考など知らぬとばかりに、その声は私の耳に響いてきた。
「お兄様、なんで私に返事を聞かせてくれないの? お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様お兄様……お兄様。
私だよお兄様、お兄様に妹にして貰ったフランだよ……ずっと一緒に居てくれるって約束したのに……お兄様、お兄様ァ―――!」
僕は思わず数歩壁に近付き、やはり数歩ヨロヨロと後退った。
肖像画の目がギロリと動きようものなら絶叫してトイレに逃げ込んだかもしれない。
シカシ、しかしながらそんな異常は発しなかった。
発しなかったがソレ以上のイジョウは私の鼓膜と精神を破壊せしめんと壁の向こう側から語りかけてくる。
「お兄様ァ、なんで返事をしてくれないの? 私だよ、フランだよ、
フランドール、フランドール・スカーレットだよ。
お兄様の妹で、お兄様が何時もお部屋に来てくれて一緒に遊んだフランドール・スカーレットだよお兄様―――」
ずるり、べたん。そんな感じで腰が砕けて床に割り込む。
しかし、視線は壁から離す事が出来ない。
「私の事忘れちゃったのお兄様……そんな事は無いよねお兄様、お兄様をそこまで壊した事なんてないもん。
お兄様の手足の指を怒って弾けさせた事はあったけど、お兄様は苦しんだ後で許してくれたんだよ?
フランは謝る事はないよ、ただ、力の制御が出来るように頑張ろうねって。そう励ましてくれたのがお兄様なんだよお兄様ァッ―――」
思わず私は己の手の指を見る。室内靴と靴下を脱ぎ捨てて足の指も確認した。
……どちらも傷跡すらなく、壁の向こうで叫んでいるフランドールという女の子らしき存在が叫ぶ言葉とは異なっていた。
即ち、これは嘘だと思いたくなる。
壁の向こう側で叫んでいる彼女の言葉は全て狂言であり。
フランと呼ばれる少女は有り得ない存在に言葉をかけているのではないかと。
しかし○□という私の名前らしきものを喋り、私の知らない私の事柄を自分と絡めて叫ぶ彼女は何だろうか?
狂気に精神を犯された存在なのだろうか。
「フランは悪い事しちゃったの。お兄様が私の部屋から出ない様にって酷い事しちゃったの。
お姉様や
パチュリー達みたいに、ダイスキな人をアイシタいからって……自分のものにしたいからって○□お兄様を私の能力で壊しちゃったの。
それがチャントと生き返って……私の隣の部屋に住んでいるってお姉様から聞いたんだよ。
幽霊とかじゃなくてチャント生き返って……お兄様お兄様お兄様お兄様……なんで返事をしてくれないの。まだ私の事怒っているの?」
そして私を『壊した』という少女は、小さな声で、しかしはっきりと聞こえる声で、こう私に告げた。
「あの時の事を、あの晩の事を覚えてないのお兄様?」
壊れている、私が壊れている?
自分が着てた室内着を脱ぎ捨て、裸体を見やる。鏡台も使って背面もみた。
何も傷付いてない。何もコワレテナイ。無傷で怪我の痕すら見えない。
覚えてないか、だと? 覚えて等いない。私はこの部屋に居る事とあの忌まわしい音、それ位しか記憶がない。
私の記憶がないのを知らないのか、それとも知っていて思いだして貰う為にああいう風に叫んでいるのか。
想像も及ばない怪奇な事実を叫び、私の過去の記憶を喚び起すべく死物狂いに努力し続けているのだろうか?
フランドール・スカーレットなる少女は。私を壊したと主張する少女は。
アハハと乾いた笑いが出るかと思ったが、喉がギリリと引きつっただけだった。
声はまだ絶えず壁の向こう側、声がはっきり聞こえるから僅かな薄さだろうか?
隣室があるとすればそこから声が絶えず聞こえてくる。私の返事など委細構わず、そのような口振りで。
「返事をしてよお兄様ぁ……タッタ一言、でいいから私を呼んでよお兄様お兄様お兄様……ごめんなさいお兄様」
もはや服を着直す事も想像できず、裸のまま私は室内に立ち尽くす。
「たった一言、返事をしてくれればいいんだよ。そうすればお姉様だって納得してくれて私とお兄様を会わせてくれる。
きっとそうに違いないんだよ。私が狂ってなんか居ないって。○□はちゃんと生き返っているって理解してくれるもん。
ごめんなさいお兄様。壊しちゃってごめんさいお兄様。フラン頑張ったんだよ。弾けたお兄様の破片を一生懸命集めたんだから」
唖然とした私の耳に、新しい音が聞こえる。
ポト、ポンポン。ポト、ポンポン……何か、柔らかいもので壁を叩く音だ。
ギリリと歯が食いしばり、ミシミシと音を立てる。
恐らくは、そのフランという少女が壁を素手で叩いている音だろう。
―――妙な違和感を、感じた。
何で、フランはわざわざ壁を叩いているのだろうか。
何で、彼女は能力を使わないのだろう。
それがどんな壁であれ、彼女の能力を上回るガイネンで無ければ破壊はカノウ―――。
「お兄様ぁなんで返事をしてくれないのお兄様、フランの苦しみを解ってくれないのお兄様。
毎日、毎日、毎晩毎晩、こうして呼んでいるのにお声を、返事を聞かせてくれないの。幾ら謝っても許してくれないの。
あんまりだよお兄様。あんまりだよあんまりあああ、お兄様、ああああ、お兄様ぁお兄様ぁ―――」
思考が切断され、フランの嘆く声が私を支配する。
グルリグルリと意識が空転し、私の脳内を断絶する。
ああ、なんで私の喉はまた叫び声を上げられないのだろう。
ああ、なんで返事をしてやれないのだろう。
私と○□というフランの兄、それが同一人物であるかだなんてわかりはしない。
私は自分が何者でありどういう名前なのかすら知らないのだから。解る筈がない。
そんな男があれ程、狂わんばかりに兄を慕う少女に偽りの兄の声を掛けられるだろうか。
本当ならそれで全て解決する筈、筈だ。だが、その可能性にシコウが及んでも私の喉は声を発しようとしなかった。
「今の私はひとりぼっちなんだよお兄様、お兄様を壊してしまって、495年間お姉様に閉じ込められた時みたいにまた自分の部屋でひとりぼっち。
お姉様にも他のみんなにも誰にもたよる事ができない、お兄様以外には誰もたよる事ができないひとりぼっちなんだよ……。
お兄様も同じ。壁一枚挟んで私とお兄様だけがここにいるの。お兄様はフランの事、忘れてしまったの?」
「…………」
私はもう、どうして良いか解らなくなった。
ただ、息を潜めて少女の慟哭が終わるのを待つべきか、嘘でもいいから彼女の声に答えるべきか。
どちらもできず、服を着る余裕もなく、裸で蹲り耳を押さえる他になく。
「酷いよお兄様……酷いよ、酷いよ、酷いよあんまりだよああああああああああああああああああああああああああああああああ」
耳を塞いでも聞こえてくる、魔力でも帯びたような声が脳髄に浸透してくる。
「お兄様お願い……フランを助けて、フランに返事をして……どうぞフランを……助けて、助けて……ああ、お兄様ぁ……………………」
途切れぬ声が響き渡る中、私は必死に室内を駈け巡った。
ベットの下に潜り込んだり、浴室で乾いた浴槽の中に身を潜めたり、トイレの便座に顔を突っ込んでみたり。
どうすればフランドールなる少女の声から逃れるか、試したがどれも効果が無かった。
そうこうしているウチに、何時しかフランドールの声が途絶えていた。
聞こえるのはコッチコッチと鳴り響くボンボン時計の秒針の音。
安堵できたのかどうか、私には解らない。
ノロノロと絨毯の上に撒き散らかされていた服を纏い、ベットの上に身を投げる。
そうしてボンヤリ天蓋を眺めていくウチに、私の意識は微睡んでいった。
ああ、恐らくは、また目が覚めたら床の絨毯の上で目覚めるのではないかと。
そんな確信に近い意識をもったままで。
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
紅魔館の書斎。長衣を着た魔法使い□□が2つのカルテを見詰めている。
深々と溜息を吐き、二人の人物名が書き付けてあるカルテを机の上に放り出す。
傍らで本を読んでいた彼の妻が、何事かを□□に囁く。
静かに首を横に振った□□の頬を、静かに涙が伝った。
そんな自分の夫の様子に肩を竦めつつも、妻の魔女は読書を再開した。
彼女が呼んでいる本はとある入院患者が書いた書記、題名は―――。
…………ブウウ――――――ンンン――――――ンンンン………………。
そしてまた、時計の音がなる。
○□は繰り返す、どことも知れぬ部屋の中で時計の音と共に目覚め。
フランドール・スカーレットなる少女の嘆きと叫びを聞き、やがて眠りに付く。
○□は部屋の中で躍る。何かから逃れるように、何かから目を逸らすように。
―――ここは一体どこであって、今は何であって、私は何なのだろうか。
○□はまた、何時も目覚める部屋で意識を覚醒させるのであった。
紅魔館地下
多数の妖精メイド達が、とある一室の閉鎖作業を行っていた。
全ての家具などが撤去された部屋の中に、煉瓦がドンドン運び込まれ、積み上げられていく。
その作業の傍ら、手違いで残されていた最後の家具がメイドによって運び出されようとしていた。
それは、一人の人間と吸血鬼の仲睦まじい肖像画だった。
その地下室の隣室。
その部屋で495年を過ごしていた少女はご機嫌だった。
椅子に腰掛け、対面にいる長衣に白衣を羽織った□□の問いに答えていく。
□□は彼女の返答に頷き、服をめくってその少し大きくなったお腹を外気に晒した。
「動いているね……経過は順調だよ。フランちゃん」
「そうなの……うふふ、元気で良かった○□」
クスクスと笑い満足げなフランを、□□はどこか痛ましそうに見ていた。
子宮の中で息づく胎児の動きに、何故か哀れみを感じていた。
(胎児よ、何故躍る。母親の心を知って解って、恐ろしいのか?)
そして、胎児は今日も躍る。
最終更新:2012年03月14日 21:10