「終わった・・・な」
○○の叫び声は余りにも大きく、場の空気を震わした。その余りの空気の震えと声の大きさに、彼の孫は思わず目を閉じていた。
声が聞こえなくなり、震えも収まった頃合に、恐る恐る目を開ければ。大広間の出入り口付近で聖白蓮の後姿が見えた。
聖はすすり泣きながらも、○○を必死に抱きかかえていた。抱えきれずにこぼれている手足はだらんとしている。きっと意識を失っているのだろう。

その様子に彼の孫は安堵のため息をひとつ付いた。まだ聖白蓮がどんな反応を見せるか分からない、この後の振舞い次第では逆上してまた命の危険を感じるかもしれない。
その可能性がある為、体の力は完全には抜けない。それでも、山は越えた。
狂乱状態の○○よりは聖白蓮の方がまだ随分話せる相手だ。
平身低頭、○○の体を気遣う言葉を使いながら、命蓮寺への帰宅を促す。これが最良の道だ。
出来るだけ穏便に、そしてさっさと帰って欲しい。その本音に気付かれていようが出来るだけ表には出さず、いつも通りの受け答えをすればいいはずだ。

「光陰矢のごとし・・・かなアイツにとっては」
ふっと口から漏れた言葉。慣用句の意味は、時間の流れは矢が飛ぶように速い。
○○にとっては長くて数年と思っていたのが、実は数十年も経っていた。それが最後に見せた狂乱の主な原因だ。
その慣用句を口にするだけで止めていれば、まだギリギリ尾を踏まずにすんだのに。
聖は涙を浮かべながらも、鬼の形相で彼の孫を睨んだ。後半の“アイツ”と言う部分に反応するように。
―しくじった。最後の最後で、怒らせるような真似をしてしまった。祖父ならば、こんな凡ミスは犯さなかっただろう。
目を伏せながら、自分の詰めの甘さに歯痒さを感じていた。

            • 聖白蓮はすすり泣きを始めたばかりだった。
聖白蓮のみならず、泣き始めた者は感情が非常に昂ぶっている。そこに向って安易に話しかけるのは自殺行為だ、しばらくは刺激を与えてはならない。
すすり泣いていると言う状況でなくとも、話しかける際には細心の注意を、そして相手が完全に見えなくなるまで愚痴はこぼすな。
相手によっては愚痴すらこぼしてはならない。
幼い頃から、祖父からそう何度も言い聞かされた事を思い出していた。実際口の滑りに関して、彼は何度も祖父から怒鳴られていた。
「おじい様・・・申し訳ありません・・・・・・おじい様?」



彼はすっかり失念していた、この緊迫した事態に。終わりかけていた物がもう一つ合ったのが。
祖父は孫である彼の問いかけに、この大事な時に口が滑りしくじった事への謝罪にも、何の反応をしなくなっていた。
○○の気絶、これで山を越えたと思い、安堵したのか。その老人の顔は、妙に安らかな物だった。

顔面蒼白、その一言で彼の心理状態を言い表すには十分だった。
自分の腕の中で、先ほどまで目を開けて、意識があったのに。もうその老人は、か細い呼吸しかしていなかった。
「おじい様・・・!おじい様!」
しかし、まだか細いながらも息はある。そこに希望を見出し、返答を期待して、何度も声をかけていた。
「おじい・・・あっ・・・・・・聖様、お願いが・・・・・・」
何度目かの問いかけで、彼は聖を怒らせてしまった事を思い出した。
顔を上げると聖は自分達の方を睨まずに、また○○の方へ顔を戻していた。
表情を確認できないのが却って恐ろしかった。
「良いわよ、別に。貴方達はもう帰っても」
帰ることを許されはした、言おうとする前に望みが叶ったのでそれ自体は嬉しかったが、棘のある声だった。針のむしろには変わりなかった。
「むしろ邪魔。黙ってていても、気配すら鬱陶しいわ」
付け加えられた言葉に、殺意が篭っているのが感じ取れた。このままこの場にいれば、命が危ない。
「し・・・失礼しました」
ここまで言われると。黙って飛び出した方が良いのか、それでも一言だけは言うべきなのか、非常に悩む。
結局は一言だけ、謝罪と退出の二重の意味を込めた言葉だけ残して、祖父を抱えて飛び出したが。
どちらが良かったのか、きっとどっちを選んでも悩んでいただろう、これで良かったのかと。

出入り口を通る際、どうしても聖白蓮のそばを通らなければならない為。生きた心地がしなかった。
無駄吠えする駄犬のそばを通る時とは違う、こちらをじっと見据える狼が近くにいるような。生き死ににも関わる明確で、巨大な恐怖だった。




星は皆を連れて、里へと到着していた。
星の最大の危惧は、○○が聖を無視して博麗神社へと向う事だった。その為博麗神社に先回りし、しばらく待っていた。
しかし、幸いと言っていいのか。○○が訪れる気配は無かった。
博麗神社には来ないと判断した星は、こちらには見切りをつけ里に向ったのだった。


既に博麗神社を切り盛りする、ひいては幻想郷自体の安定を司る博麗の巫女は、○○が来た時から数えて、何度か代替わりしていた。
その為、今の博麗の巫女と○○は全く面識が無い。
それ以前に、博麗神社と○○は。○○がまだ人間であった頃から接点は非常に少なかったが。
○○は貴重な外来人である。逃がさない為に博麗の巫女自身多少の注意を払い、時期が悪いと言った嘘の理由で幻想郷への逗留を長引かせていた。
その為、○○は知らなくても当時の博麗の巫女である、博麗霊夢は○○の事を多少は知っていた。

もし、まだ博麗の巫女が霊夢の時に○○が記憶を取り戻し、博麗神社に駆け込んでいたならば。
霊夢は事の顛末を知っている為、体の良い理由で落ち着かせ、匿う振りをして。
最終的には死なない程度にぶちのめし、こちらに付き返していただろう。そうなりそうならば、まだ良い。

博麗の巫女と言うのは、いつの代も口が悪い。
全く面識も無く、知識も無い○○が狂乱状態で博麗神社に駆け込み。
分かる者には分かる、○○から発せられる大層な妖気を振りまきながら、外に出せと喚き散らせば。
きっと、落ち着かせるなどといった事はせずに。人外を外に出すわけが無い。と言った旨の言葉を、きつい調子と表現で投げつけるだろう。
そんな物、何も知らない○○が認めるわけが無い。
そのまま喚き散らせば、本格的に“退治”されるかもしれない。もしそうなったら目も当てられない。

もっとも、それ以前に。○○が博麗霊夢の顔を覚えていて、記憶の中にある博麗の巫女との齟齬に戸惑い暴れだすかもしれない。
それ以前に今の博麗の巫女の名前は“霊夢”ではないので、○○が時の流れを知りそうな要素が博麗神社には大量に合った。


数十年という時の流れ。それを知る事そのものが、○○の心にとって致命的な一撃である。
知ってしまえば、○○の狂乱はより一層高まるであろう。
そうなった際、それを止める為の存在が、事情を知っている命蓮寺以外の者であることは、最大級の不安要素である。
事情を知っているとは言え、里の者に。ただの人間に今の○○を止めれるとは思えない。止めようともしないだろう。
はなから事態収拾のための勘定には入れていなかった。


この数十年、○○は聖の愛情を受け続けてきた。
そうでなくても、まだ平和だった頃に聖からの法力指南を受け、蔵の中で法力を使い飢えと渇きをしのぎ、人を超える下地は出来上がっていた。
そのよく出来た下地に、これまた揺るぎようの無い聖の愛情を持って、種は育てられた。
もう、今の○○は。数百年の時をゆうに超えれる、命蓮寺の皆と同じ高みにまで引っ張り上げられたのだ。
博麗の巫女と言った一部の例外を除き。ただの人間に太刀打ちできる存在ではなくなった。
でも、この数十年は確かに楽しかった。聖だけではなく、星も、村紗も、一輪も、ナズーリンも、そう考えていた。
皆同じ胸中であった。○○は、この命蓮寺の一員であると、家族の1人であると。
そう断言できた。こんな事が合った、今この瞬間でも。


里の正門では所在なさげに座り込んだりうろうろしている連中がいた。
そいつらから、寄り合い所の大広間に聖がいて。○○もそちらに向かったと言う事を聞き出した。
星達の姿を見受けると、わぁわぁとざわめき出したが。星は正門の向こう、里の奥の方を見るようにして、そいつ等の事はあまり視界に入れないようにした。
とにかく簡潔に、時間をかけずに。必要最低限のことだけを、彼らの顔も見ずに聞いてさっさとその場を後にした。


「はんっ・・・見事な物だ」
寄り合い所までの道すがら、辺り一体の民家に人の気配が一切無い事に星はむしろ感心していた。
あの時から何も変わっていない、むしろ洗練されて行っているのではないか。数十年前は、途中から急ぎすぎてあんな大騒動へと発展したが。
今ならば、もう少し上手くやってのけてしまうかもしれない。もしかしたら、気付かないだけでこの数十年の間にも、いくつか仕事をこなしているかもしれない。

静か過ぎる往来を、星は苦笑交じりに見渡していた所、何かに気付いた。
「・・・今何か聞こえなかったか?」
その普段ならばありえないほどに静かな状況は。いつもならば気付かないような物を気付かせる事に繋がった。
「そう言われれば・・・何か聞こえるような気はするが」
急に立ち止まり、疑問を呈する星にナズーリンは頭上の耳をぴくぴくと動かして聞き耳を立てていた。
「誰か来るよ・・・聖かな?だったらいいんだけど」
奥の方を見つめていた村紗の希望的観測に、一輪はまず表情で否定の意を示していた。
「違うと思うわ・・・・・・」

「誰かいないのか!?医者を呼べ!早く呼んでくれ」
近づいてくる人物はどうやら男性のようだった。何かを背負いながら、くるくる回って辺りの家々に向い、焦りを込めた怒声を撒き散らしていた。

「あいつか・・・・・・」
その声の主に聞き覚えは嫌と言うほど合った。奴の孫だった。
星は奴の孫が嫌いだった。その一番の理由は、そいつの顔付きがよりにもよって父親ではなく、祖父である奴に随分似ていたから。
そして、自分達と会う際の平身低頭っぷりも。その奴に似た顔とあいまり、いつかの事を強く思い起こさせるから余計に。
以前、何かの会合で。奴の孫が○○の事を“あれ”と表現した事があった。
失言である事は明白だった。その言葉に聖は茶菓子を口に運ぶ手がピタリと止まり、奴は面白いくらいに顔が青くなっていた。
名前すら省いたその表現の仕方に、聖の目の前だと言うのに星は感情を抑える気も無く、湯飲み茶碗を思いっきり投げつけた事を思い出した。

聖はそれ以上の激昂を諌めて制止こそしたが。湯飲み茶碗を投げつけた事に対しては。
「気持ちは分かるけど、まともに相手するだけ疲れるだけよ。こんなの」
多少、溜飲が下がったような様子で。熱い茶をぶっ掛けられ、固い湯飲みをぶち当てられ、苦痛に歪む表情を浮かべる奴の孫を、クスクスと流し見ていた。
その帰りに、聖はぼそりと呟いた。
「あの程度で激昂してたら・・・他の奴だと殺しても気が収まらないわよ?」
「アイツやアイツの孫は、まだマシな方よ、むしろ哀れに思えてくるくらいよ」
「そう思ったら、あの一族に関しては・・・あんまり怒らなくなったし、イライラも減ったわ」

そんな言葉をクスクスと笑いながら。嘲笑の意味の込められた笑いだった事はよく覚えている。
「何で誰もいないんだ!?お前達、一体何処にいるんだ!!」
奴の孫が叫ぶ声は、段々と涙交じりの物になっていた。
あの時は、星は聖が何故○○を“あれ”などと言う物のような扱い方をしているのに。何故堪える事ができたのか不思議でたまらなかった。
だが、涙声を響かせる奴の孫を見ていたら。何となく分かった気がした。

「聞いてないぞ!!ここにも人がいないなんて!!決めた事と違うじゃないか!!」
なるほど、皆怖くて逃げているのだな。正門で所在なさげにしていた連中も聖達のいる寄り合い所に近づく事すら嫌がったのか。
事前に奴等が里の者達とどんな取り決めをしていたかは知らないが、どうやらその取り決めはすっぽかされたようだ。


涙と狂乱で自分たちが見えないのだろうか。人の視力でも、星達の姿がギリギリ見える所に立っていても気付くそぶりが見えない。
地団駄のような物を踏みながら、“涙交じりの”から“泣き声”と言った方が正しい声で、奴の孫は天に向って吠えていた。

いつしか星の顔からは、最初に奴の孫を見て浮かべていたしかめっ面が無くなっていた。
「哀れだな・・・・・・」
その無様な様子に、怒りや憎しみは確かに湧かなかった。
聖の言っていた言葉の意味、今の星は確かに理解できていた。



ある意味これは面白い見世物だった。しかし、いつまでも見物している時間は無かった。
奴の孫に関しては、哀れとは思った。しかし心配や気遣いといった感情は殆ど浮かばなかった。
今星達が心配しているのは、その身を案じているのは。正気を失っているであろう○○と、いつまででも○○を愛し続けられる聖の二人だった。

歩みを再開して、奴の孫との距離が近づくにつれ。天に向かって泣き叫ぶその声が星たちの耳をつんざく。
声を張り上げれば誰かが気付くと思っているのだろうか、その場から一歩も動こうとしない。
「おい!」
適当な所まで近づいて、星は奴の孫に声をかけた。
気遣うというよりは、耳障りで鬱陶しいから仕方なくといった感じだった。

「―!?と、寅丸ざ・・・ま、ゲホッ!ぞれ、に、皆様も・・・うぇふ!えふ!がはっ!!」
急に声をかけられて、しかもその声をかけられた相手が、命蓮寺の面々。
いわゆる、里の者達が常に“様”付けで呼んで恐れている者達からであった為。
喋る事もままならず、咳き込み、過呼吸のような症状を見せていた。
そんな孫の背中に背負われている奴は、安らかな顔をしていた。
その顔に、星の眉根がピクリと動く。
○○が奴等の手により捕らえられたとき、コイツは山を越えたと感じ、全ての疲労が流れ込んだのか。安らかな顔で眠ってしまった事を思い出した。
ただしあの時はただ寝ただけだったが。今回は、もう目が覚めなさそうな眠りではあるのだが。それでもその顔は、あの時には無かった、シワなどがあっても分かる。
あの時に見せた安らかな顔と、寸分違わない表情だと言う事が。ただあの顔にそのままシワやら染みやらを付けただけである。


「人なら正門の方に沢山いたぞ」
星は立ち止まる事も無く、すれ違いざまに人気のある場所を教えただけだった。
「へ・・・ゲフッ・・・・・・あの・・・皆さん・・・・・・」
星以外のの三人は、奴の孫を完全に無視して星に付いていってしまった。
星の胸中に多少の変化はあったが。それでも、奴等の事を気にかける気も義理も時間も無い。
ただ、一言声をかけた以外は、足早に目的地に向うだけだった。

追いかけてくるような気配は感じられなかった、こられても困るだけだったが。きっと正門の方へ向かったのだろう。
それに、あの二人が外に出ていると言う事は、事態はもうほぼ終わったのだろう。
腹の底では恐れおののいている自分達に声をかける理由はもう彼には無い。
それなのに、そして今のように殆ど相手にしないような態度を取られて、声をかけるような気概や胆力があるとは思えない。

「はっ・・・・・・」
頭の端で奴の一族の事を、そしてこれから本格的に当代として活動するであろう奴の孫の事を考えていると、星は鼻で笑う事と独り言を抑えられなかった。
「お前達の方が余程生贄らしいよ」

里の人間は○○を聖への生贄として捧げようとした。
里の人間は聖を知恵も無い・・・合ったとしても悪鬼羅刹の如く暴虐を尽くし、欲望を満たそうとするような存在としか見ていなかった。
だが実際は違う、聖は○○の事を何が何でも独占しようなどとは考えていなかった。
ボロ雑巾のようになるまで○○を追い詰めたあいつ等は・・・最後は聖が○○を取って食うとでも考えていたのだろうか。
そう考えていたから、○○の心を最早治癒は見込めない程にズタズタにして、聖に付きだすことだけを考えていたのだろうか。
そんな事、絶対にありえないのに。

ボロボロになった○○を聖は献身的に世話をした。不安定な時に、殴りかかられたりしてもそれは変わらなかった。
状態が安定した後も。○○が過去の記憶を思い出し、再び苦しまないように、必死で○○の為に動いた。
今は不幸にも○○が過去の記憶を思い出してしまい、狂乱状態にある。
きっと○○は分けも分からず聖に罵声を浴びせたり、手を上げたりしていただろう。
でも、そんな程度で揺るがない事を星達は確信していた。
聖の愛情はなおも変わらず○○に降り注がれ。また○○と聖が少々見聞きするのがこっ恥ずかしい、甘い生活を送る。
そうなる事を、何が合ってもまたそこに戻ろうと聖が身を粉にして努力する事を、全員確信できていた。


しかし、里の人間の彼らに対する対応や隠している腹の底は、どうなのであろうか。
上辺と口先だけでは敬い、慕い、丁重に扱っているようだが。
実際の所は本人が気付いていないだけで、置かれている立場は○○とほぼ変わらないのではないか。
「聖の言っていた意味がようやく分かりましたよ・・・なるほど、哀れだ」

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最終更新:2012年03月14日 21:26