「興奮して・・・何も分かっていないんだろうな」
ネズミからの報告に合った、片腕で大の男を持ち上げた時と同じように。星はほんの少しだけ、○○が自分の体の変化に気付かず事態が終わっている事を期待した。
寄り合い所の入り口は見るも無残に破壊されていた。
足を使ったのか手を使ったのかは分からないが、生身の人がやりましたと言っても信じないだろう。
野生の熊なり猪が突っ込んだ後と言った方が、事情を知らない物は納得できる壊れ方をしていた。
廊下の床板も、所々に亀裂が走っていた。別に驚きはしなかった、むしろ踏み抜いている物がなかったのでそちらの方が意外だった。
床板には亀裂が走っているので、○○が辿った道は容易に分かった。
皆、履物など脱がず。そのまま土足で上がりこみ、亀裂を辿り二人がいるはずの場所まで向う事にした。
道中は無言であった、一体何を喋ればいいのか分からなかった。それに、下手にぎこちない会話をするよりは、皆無言の方が楽だった。
「うわ・・・・・・これ、誰の血かな」
亀裂の終点である大広間にたどり着き、壁に描かれた縦に真っ直ぐ伸びる血の跡を見て村紗が息を詰まらせた。
“誰の”とは言ったが、村紗も含めおおよその見当は付いていた。
聖か○○、どちらかの物だろう。
この程度の怪我で死ぬような事などありえないし、どちらもこれぐらいの出血量の怪我ならばすぐに治るのでそこまでの心配は必要ないが。
やはり、家族がそれなりの怪我をしたという事実は。およそ真っ当な精神を持っているならば、心に来る物があるだろう。
星はチラリと大広間の中を確認するが。足元にふすまの破片、部屋の端に鏡台の残骸がある以外は人の姿は無かった。
「おかしいですね・・・これ以上広い部屋はないし・・・・・・場の状況的にここのはず」
「ご主人、聖はこっちだ」
いぶかしんでいる所に
ナズーリンが呼ぶ声が聞こえた。
その声の方向に目をやると、ナズーリンは大広間に併設された水屋の入り口に立っていた。
「○○もこっちにいる・・・ただし、意識は無いが」
辛かったろうに、そんな言葉が口をついた。○○が意識をなくしているということは、恐らく発狂ですら発散できない心労から卒倒してしまったのだろう。
その心労の原因とは何かと問われれば。時の流れに気付いた、これ以外に思い当たる節は無い。
水屋の中では聖が濡れた布巾を手に○○の顔や手を必死に拭っていた。
聖の拭う○○の顔や手にはべっとりと乾いた血がこびりついていた。聖はそれを拭おうとするが量が多く、いたずらに延ばしている感があった。
時折、聖の顔が○○の顔に近づくが、口付けでは絶対にないだろう。それは聖の肩の振るえで分かった。
濡れた布で拭うには余りにも汚れが多すぎる、大量の湯でも被れば一思いに綺麗に出来るのだろうが。
残念ながらこの水屋に湯を沸かす気の利いた道具や用意は無かった。
湯の代わりに水を被せても見た目は綺麗に出来るだろうけど。そんな凍えるような仕打ちを聖が○○にするはずが無い。
だから聖は手近な布を手に取り、○○の体にこびり付いた・・・・・・恐らく、○○自身の血を丁寧にそして必死に拭っているのだろう。
聖の手にする布はもう元の白さが消えうせ、水を溜めていた瓶の中身も真っ赤に染まっていた。それが○○にへばりついた血を拭う障害になっていた。
聖は星たちに気付いているのだろうか?聖は○○を綺麗にするのに必死ですぐ後ろで見つめている星達に対する反応は何も無かった。
「・・・・・・聖」
一呼吸、二呼吸と間をおいて。ようやく意を決した星が聖に声をかけた。
「ごめんなさ星・・・もう少し待って。○○から匂いが取れないの」
そういってまた聖は○○の顔に、自分の顔を近づける。また肩の震えが大きくなった。
この水とその布ではな・・・・・・でも、それを言えば聖はより一層、悲しむだろう。
「取れないの・・・・・・全然・・・何回も、拭いてるのに」
鼻をすする音が聞こえた。泣いているのだろう、見なくても分かる。
「ごめんね・・・○○・・・・・・ごめんね・・・」
グスッ、ヒックと。鼻をすする音と、甲高い息遣いが大きくなっていく。
「星、私戻って二人のためにお湯沸かしてくるね」
そんな聖の姿にいたたまれなくなったのか、村紗がもらい泣きを浮かべながら星に許可を求めてきた。
「ええ、お願いします。二人のことは任せてください」
その言葉に村紗はコクンと頷いて、外に向って駆けて行った。
次は聖を落ち着かせて、○○と一緒に命蓮寺に帰るだけだ。
こんな汚れ切った水と布では、いつまでたっても○○は綺麗にならないし、染み付いた匂いも取れない。
「聖」
星は聖の肩に手をやり、優しく言葉をかけて行った。
「ここの少ない水と布で○○をそこまで綺麗にできただけで、大した物ですよ」
ほんとに?その言葉を言う聖の様子は。涙を手で拭い、悲しみで歪みきった顔を星に向け、そして声は、蚊の鳴くような声だった。
「勿論です。きっと・・・いや絶対に。○○も許してくれますよ」
「いつもの○○なら、絶対に許してくれますよ、聖。綺麗にし切れなかった分は、二人で風呂に入ればいい、村紗が先に帰って用意していますから」
ただし、その“いつもの○○”は。命蓮寺によって都合よく記憶を改変された○○なのだが。
そこに気づきそうな者は・・・・・・誰もいなかった。
「私はね・・・・・・もう○○には何も辛い思いなんてさせたくなかったの」
涙を拭う事も忘れ、目からダラダラと涙をこぼしながらも、聖は○○の顔を見据えていた。
「それなのに・・・・・・○○が嫌な事を思い出しそうになった時・・・それを解決し切れなかった」
独白を続ける聖の目からあふれる涙は勢いを増すばかりであった。
星はそれを止めずに、聖の思いの丈を、涙と一緒に全部吐き出させることにした。
「聖、ゆっくりでいいですから、いるのは私だけじゃありません。ナズーリンに一輪、今はいませんが、湯を沸かしに戻った村紗も」
肩を優しく抱きかかえ、そして優しく声をかけ続け。三人とも、心ならば四人全員が、聖の傍らに付き添い続けた。
「解決し切れなくて・・・嫌な事を全部思い出させちゃって・・・・・・」
「それで・・・その嫌な事に振り回されて、泣き喚く○○を・・・助けれなかった・・・・・・ずっと、オロオロしてただけだった」
○○を抱きかかえる聖の腕が、一層力みを帯びていく。
そしてギュッと。聖は嗚咽を混じらせながらも、意識を失っている○○を、力いっぱい抱きしめた。
「○○は私の事も嫌な事の一部として見ていたわ」
「・・・・・・でもね、私は・・・○○とずっと一緒にいたいの!」
それは聖の心の底からの叫びであろう。
○○を抱きかかえる聖の腕の力強さからは。絶対に離さない、誰にも渡さない、何が合っても守りたい。と言った感情が星には透けて見えたような気がした。
「守りたかったのに・・・助けたかったのに・・・・・・」
聖はまた、さめざめと泣き出した。
「聖、それで良いじゃないですか。また一緒に暮らせば良いじゃないですか・・・いつか絶対に上手くいきますよ」
○○とずっと一緒にいたい。星にも他の者にも、聖のこの思いを否定する気など毛頭無ければ、その材料も存在しないと信じていた。
「聖、貴女が○○と一緒にいたい、いようとする事に異を唱えられる謂れなど何処にもありません」
「誰にも二人の幸せを邪魔など、してはなりませんし。出来るはずがありません、私達がいますから」
「○○が聖を思う気持ちに嘘偽りは無かったんです・・・だから、やり直せます。何度でもやり直しましょう」
そう、聖には○○を守り抜く盾となる決意があった。ならば、自分達は二人を守る矛になりたかった。
あの時、毒にも薬にもなれなかったから。今度こそは二人に降りかかる魔の手は、全て叩き潰したかった。
「姐さん、命蓮寺に帰りましょう。○○と一緒に」
「聖、君は1人で抱え込みすぎている。迷惑をかけたくないと思っているのならば、むしろ心外だぞ」
「そうですよ、家族じゃないですか。○○も含めて、皆この命蓮寺の」
○○も自分達の家族。そんな表現に聖の体の強張りが少し和らいだ。浮かべる表情も、柔らかくなっているのが横からでも確かに分かった。
「今は村紗がいないから少し締まりませんが・・・一足先に命蓮寺に帰って風呂を沸かしてくれています」
「良いじゃない少し緩いくらいの方が。そっちの方が、気楽に行く事ができるわ。ね、○○」
皆からの暖かい言葉に、気力を取り戻したのか。聖は自分から立ち上がることが出来た。
「○○、村紗がお風呂を沸かしてくれているんですって。一緒に入って、サッパリして・・・またやり直しましょう」
○○を抱きかかえ、優しく声をかける聖のその姿に、星達から安堵の溜め息が漏れる。
これでやり直せる、これでまた元の少しばかり甘ったるい日常に戻る事が出来る。
「聖、風呂の中見たいに人の目が無い場所では何も言わないが・・・・・・」
ナズーリンがいつもの“役割”に則った言葉を口に出す。しかし、その顔には渋面ではなく、確かな笑みが合った。
聖と○○の甘い関係は、最早命蓮寺の維持に欠かせないものとなっていた。
「なんだか今の姐さん、また直視できない感じがしてきたわ」
「そりゃそうですよ一輪。この笑顔は本来○○の為にあるんですから。○○以外には甘すぎます」
聖にとって○○は間違いなく精神的な支柱であった。○○がいるから、○○と中睦まじくいるからこそ明るく振舞える。
そして、聖以外の者も。聖と○○の姿を見て微笑ましい気分になり、聖同様精神の安定を得る事ができていた。
ナズーリンの小言も、結局は辻褄合わせでしかない。およそ一般的な価値観と乖離しすぎないようにする為の物でしかなかった。
○○の記憶や思考に齟齬が生じぬように。ほころびが生まれればまた○○は傷ついてしまう。
命蓮寺の行動の根底には○○の存在があった。突き詰めれば、皆○○の為に動いていた。
乖離、矛盾、ほころび。これらを必死に覆い隠し、つぎはぎの様に思い出を重ねていって。
○○が過去に体験してしまった“嫌な事”から必死に遠ざけ、見えないようにしていた。
聖と○○の間に生まれる物は、笑顔だけで良い。その思想が今の命蓮寺の絶対不可侵の掟だった。
そして、これからもずっと。それが変わる事はないだろう。
「皆、ごめんなさい。心配かけちゃって、命蓮寺に戻りましょう。私たちの家に」
「村紗が先に戻ってるから、帰ったらちゃんと“ただいま”って言わないとね」
弾む聖の声。聖だけではない、これで○○も。もう大丈夫だ。
その笑顔は、朗らかそのものだった。こんな笑顔がある“家族”は幸せそのもののはずである。
そう、傍から見れば。
「―がっ!うえっはあ!!」
○○の寝覚めは最悪であった。
「え・・・あれ・・・?寝てた・・・・・・?」
まず合ったのは息苦しさだった。○○は何故だかあまり落ち着かなかった。息が詰まる、上手く呼吸をする事が出来ない。
心臓も、激しくバクバクと鼓動を打っていた。そう、まるで恐怖を前にしたときのように。
「うわ・・・・・・凄い寝汗」
何か悪い夢でも見ていたのだろうか。寝る前の事を思い出そうとするが、寝ぼけているせいか、何も思い出せなかった。
「○○、起きたのね」
手の平や顔にあふれ出していた寝汗を、敷布団や掛け布団で拭っていると。横から女性の声が聞こえた。
「あ・・・・・・聖・・・あれ・・・・・・・・・ああそうか」
頭をかきむしりながら○○は小さく呟く“またやっちゃったんだ、、まだこんなに明るいのに“その顔は、ほんの少し恥ずかしそうであった。
「うふふ」
恥ずかしそうな顔をする○○を見て。聖は一気に嬉しそうな雰囲気を爆発させ、○○に口付けを施した。
「そうよ。貴方の恋人の、聖白蓮よ」
何度も何度も、聖は○○と口付けを交わした。絡みつくのは○○の唇だけでなく、聖は全身を使って○○を抱きしめるように密着の度合いを高めていった。
その口付けの嵐は聖と○○の域が苦しくなるまで続いた。
「ふぅ・・・・・・ところで○○、起きる時苦しそうだったけど・・・・・・・・・」
心配そうに・・・と言うよりは泣きそうな顔で、聖が○○の寝覚めの悪さを心配した。
聖の、○○の頬をさする手がほんの少し震えていた。
その心配の仕方に・・・・・・○○は特に感じる所はなかった。
「大丈夫だよ、たまたま夢身が悪かっただけだと思うよ。何の夢かも忘れてるし、どうってこと無いよ」
むしろ、心配させた事に少し心を傷めるくらいだった。
この時には、もう寝汗の事など全く気にしていなかった。
横に聖がいたことから。戯れて、密着したまま寝てしまい・・・そのせいだとすら考えていた。
○○は優しく答え、頬を触っている手を上から重ね。もう片方の手で○○は聖の頬を触った。
「そう!良かったぁ・・・・・・」
聖の泣きそうな顔は一変、涙は引っ込みまた元の満面の笑みに戻った。
そしてその満面の笑みは、衰えるどころか熱を増すばかりであった。
理由は○○が聖の頬を触っているからだろうか。
聖はもっと触って、と言わんばかりに○○の手に自分の頬を擦り付ける。
聖は頬を触る○○の手に触り。その手を頬から顔へ、唇へ、そして胸のほうへいろんな所に誘導していった。
胸のほうへ誘導された辺りで○○は「あっ・・・・・・」と小さな声を空気と一緒に漏らした。
そして、とても気恥ずかしそうな表情を浮かべる。その表情を聖は愛おしそうに見つめる。
「ひ・・・聖。続きは暗くなってから・・・・・・そろそろ起きないと、ナズーリンの小言が増える」
「うふふふふ、そうね。ねぇ、○○」
「何?聖」
「起きた後もしばらく、手繋がない?」
「もちろん、いいよ」いつも通りの優しい笑顔で○○は聖の提案を受け入れる。
その笑顔に、聖はまたうふふと笑い。口づけをした
最終更新:2012年03月14日 21:26