幻想郷の何処かに、ひっそりと一軒の飯屋があるという。
10席程度のカウンター席のみの小さな店。
真夜中に音もなく暖簾を出し、朝方に音もなく閉店する。
お品書きは数種類の酒と、その日お客がリクエストして食品があれば作る。
名も無い飯屋に集うのは、心に隙間を作った男と、愛に溺れた女。

「美味いなぁ……マスター、これ、本当に美味いよ」

常連客の□□は、身体を前後に揺らしながら卵サンドを食べている。
何故彼の身体が揺れているかと言うと、彼の妻である慧音が背中に頭突きをカマしているからだ。
ただ、とても力ない感じなので、本当に身体が揺れるだけなのだろう。
□□も卵サンドをゆっくりと味わう方に集中していてて、彼女の動きは受け流している感じだ。

「大学の近くのパン屋で授業前に良く買い食いしてたもんさ……もう、食えないけどね」

うーうーと呻き声が追加されるが、□□は最後の一口までしっかりと味わって帰っていった。

「ご馳走さん。また、来るよ」

□□は慧音に引き摺られるようにして帰っていった。
慧音はこの飯屋に□□が来るのが嫌いらしい。何時も訪れて半刻もしない内にやって来てあの有様だ。
此処のメニューには外来の品々が多い。外来人の客が多いのは、外の世界の味と思い出を求めているから。
そして、女達は外の世界に気を取られる旦那や思い人を連れ戻しに、または気を逸らしにやってくる。

「こんばんわ。まだやっているかしら?」
「冷蔵庫から出て来るな」
「あら、ここは私の出入り口よ。別にいいじゃない」

冷蔵庫の中は真っ暗だった。
その中から出て来たのは妖怪の賢者である紫。

「飲むんだったら客席の方に回ってくれ……俺は暖簾を降ろしてくる。今日は早じまいだ」
「あら嬉しい。私に付き合ってくれるのね」
「どうせ断れないだろうしな……お前、酒臭いぞ」
「ええ、宴会があったからね。今日のお客さん少なかったでしょう。神社で大きな宴会があった。つまりはそういう事よ」」
「そうか……何を飲む?……むぐ」

客席からカウンターに乗りかかり、身体を伸ばした紫が○○の唇を奪う。
暫く淫靡な音が聞こえた後、紫は満足げに客席に腰を下ろした。

「まずはこれよ……相変わらずつれない男ね。私の元に戻る気はないの?」
「……愚問だろう。あんたの執念深さは知っている。強引に連れ戻す気ならとっくにやっている、だろ?」

クスクスと妖艶に、どこか粘着さを感じる流し目を○○に送る紫。
そうだ、○○はこの妖怪に魅入られて後、彼女の手から一度たりとも逃れ出た事など無い。
この店で出される食材や酒は何処から来るのか?何故、外来の品々が容易く手に入るのか?
少し考えて見ればわかる話である。

「どのみち、この世界に居る限りはアンタの掌の上さ。なら、俺は俺のしたい事をやるだけだよ。
それがこれさ。囚われた御同輩に少しだけでも腹と心を満たして貰う……本当はもっと楽しい酒場が良かったんだけど……アンタへの意趣返しもあるからな」

楽しげに口元を扇子で隠しながら紫は問う。

「貴方への恋と愛に焦がれ飢えた私のような女も満たしてくださる?」
「はぁ……紫、あんたも解っているだろう」

2つのぐい呑みへ外来の大吟醸酒を注ぎながら○○は皮肉げに呟いた。

「底に穴が開いた器に幾ら酒を注いでも満たされないよ」

二人はその晩酒を酌み交わし、そして肉体と情も交わしたという。
しかし○○が言ったように愛も欲も限りはない。ただ一晩の癒しでは、幻想郷の愛は潤みもしないのだ。




この飯屋は、集う客筋から営業時間と客層を掛け合わせた渾名で『深病魅食堂』と呼ばれているという―――。

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最終更新:2012年03月14日 22:09