ベベン、ベン、ベベン……。
「あーァ、おそろしやおそろしや――、人の情とは恐ろしや――――。」
それは風呂屋に向かう途中に出会った。
その男はくっきりと俺の脳に焼き付けられて未だに記憶が薄れない。
「おや、お兄さん随分きれいな歩き方をするね……。 外来人かい?」
彼は俺を決して呼び止めたわけではない。
その奇妙な風体に俺が思わず足を止めてしまったに過ぎない。
琵琶法師、というものだろうか…?
「お兄さん、わたしゃそんな御大層なモンじゃないよ。 わたしはただのめくらでこうやって語り物をして食い扶持を稼いでいるだけさね」
なるほど、言われてみれば男の発音には声がこもる北国の人間じみた訛りがある。
それに僧衣を身に着けているわけでもなく、脇に煤けた茶碗がある。
きっとこれに人々は小銭をほうりこむのだろう。
すると突然、男はその茶碗の中身をまさぐった。俺は思わず考えが男に悟られたかと思い、慄いた。
「ああ、今日は稼ぎがすくないねぇ……。 どうだいお兄さん、一つ聞いて行かないかい?」
俺はその男の奇妙さに立ちすくんでいると、男は琵琶を爪はじいて語り始めた。
「ああ、恐ろしや恐ろしや。 人の情とは恐ろしや」
「かつて男がおりました、その男はやがて一人の妖怪の女と恋に落ちます」
「二人はとても幸せでした。 しかしあるとき男は大怪我を負います」
「ですが男は腕の良いお医者のおかげでケロリと治りました」
「妻が退院した男に会いにゆくと、男は半狂乱になって泣き叫んで妻から逃げます」
「男は恐ろしい妖怪はみな同じものに見えてしまっていたのです」
「ですが妻はそんな事を知らずにいて、大層傷つきます」
「妻は健気にも男が正気に戻り、自分の元に戻るのを待ち続けました」
「ですが男は妖怪は恐ろしくてたまらないと、お医者様と関係を持ってしまいます」
「しかもそのお医者様も人間では無いということに気づきもせずに」
「男の帰りを待つあまり、恋慕が積もり積もって妻は気狂いになる一歩手前でした」
「やがて妻は男の関係に気が付くと――」
それまで、琵琶を爪弾いていた男の手がピタリと止まった。
「妻は男をお医者様の元から引きはなすと、男を座敷牢に入れました」
そして抑揚もなく、淡々と諭すように語り始めた。
「そのあと妻は男が自分を恐れるのは目があるからだと、目を潰します」
「さらにお医者様が男に恋慕したのは、その朗らかに笑う顔の所為だと顔を焼きます」
「そして自分から逃げるのは、手足がある所為だと四肢を捻り折りました」
――この時、俺は目前の男の右肩にから伸びる手が左手の向きになっている事に気づいた。
「ああ――、恐ろしい。 人の情とはおそろしい――――」
まさか、目の前にいる人物は……。
「お兄さんも、ゆめゆめ浮気なさる事ないように――」
俺は、銭も払わずにその男から逃げ帰った。
もしかすると彼は未だ、街角で琵琶を弾いているのかもしれない。
面の下に火傷を隠し、あの捩くれた手で……。
最終更新:2017年06月10日 23:29