聖と手を繋いで縁側を歩いていると、ナズーリンが前方から歩いてきた。
聖と○○の姿を見受けたナズーリンは、壁に背中を預け腕組みをして○○と聖の顔を交互に確認した。
「仲良き事は美しきかな」
聖と○○がナズーリンの前を通り過ぎようとする際、ナズーリンがぼそりと呟いた。
表情を確認されるだけでも恥ずかしさを感じていた○○の羞恥心は、この呟きで更に高まり。顔がカァッと赤くなったのが、本人にも分かった。

聖の方は「ナズーリンの言うとおりね」と相変わらずうふふと言う擬音が似合いそうな笑顔で、嬉しそうに○○の手を握り締めていた。
ナズーリンの言葉に嘘偽りは無いだろう。時間と場所をわきまえずに戯れる事にいささかの苦言を呈しているだけで。
聖と○○が付き合う事には何の異論も無い、むしろ後押しをする立場にいる。それは確かに分かるし。あの言葉も半分は本心だろう。
しかし、先ほどの言葉を呟く際のナズーリンの顔がニヤ付いていた事から。もう半分は茶化されているようでは合ったが、聖にはのれんに腕押し状態だった。

聖は自身の五指を巧みに○○の指に絡ませて手をつなぎ続けている。振りほどく気など無いが、絡ませてある聖の手以外では容易には離れないだろう。
聖はずっと笑っていた。うふふ、うふふと。
「今日はなんだか特に嬉しそうだね」
○○の記憶の中にある、○○と二人でいるときの聖は常に笑っていた。
とても楽しそうに、とても嬉しそうに、とても明るく。
○○の記憶には、聖との思い出で満たされていた。
「そう言えば今日って・・・何だっけ、何も無かったのかな」
否、今の○○の記憶には、ほぼ聖の事しかなかった。ただ聖との楽しい思い出だけが。ただし、その奇異な現象に○○が気付くそぶりは無い。
「聖、今日は何をすればいいのかな?」


聖達はあれから何度も話し合った。以前と同じ轍を踏まない為に。
前回○○の記憶を改竄する作業の際、聖達は全てを作り上げようとした。千年分の記憶を全て。
だが、それは叶わなかった。土台無茶な話であったのだ、千年分の連続した記憶を矛盾無く、人工的に積み上げる事など。
だから、聖達は○○の記憶を必要最低限の物を残し、限りなく少なくした。
命蓮寺で共に住まう家族の事、自分が住んでいるのが幻想郷と言う場所である事。そして聖と恋仲である事。
その三つ以外は、全て封じ込めた。

「今日は特に何も無いわよ。だから、今日はずっと私といましょう○○」
三つの事柄以外の全てを封じ込めた。それは、○○の人生経験も同時に殆どゼロに戻してしまった。
「そうなんだ、じゃあ聖の言うとおりにそうしよう。今日は聖が人里に行く用事はないんだね」
「ええ、そうよ。今日はお留守番しなくていいのよ」
今の○○の精神年齢は、幼児のそれと大して変わりなかった。人を疑う事を全く知らないのだ。

“人里”と言う物が有る事は、仕方なく○○の知識として残しておいた。
命蓮寺が○○に行ったこの行為は、産み直しに近かった。
○○は、傍から見れば。喋る事はできるし、2本の足で矍鑠(かくしゃく)と歩き回る事も出来る。
多少の難しい表現や言い回しも出来る。しかし、それ以外はまっさらな無地の帳面とほぼ同義であった。
聖と、そして命蓮寺の皆で。このまっさらな帳面に聖と命蓮寺にとって最も都合の良い内容を書き込んでいく、これから何年もかけて。
それは、子育てに限りなく近い。但し、限りなく近いというだけで、それは似て非なるものであった。

○○が育っていく過程で、いつしか○○は「自分も聖の手伝いがしたい」と言い出すであろう。
聖を始め、命蓮寺の皆はそれは余り望んではいない。もう余り命蓮寺以外の者とは関わってほしくなかったから。特に、人里と○○。その関わりの度合いはゼロが望ましかった。
しかし、○○が聖の為を思うこの望みを、無碍に断る事などできないし。無理に拒否し、押し止めれば、それはまたほころびと成りかねない。
だから、“人里”と言う場所の知識は残しておいたのだ。
仮に、“人里”の知識を消してしまっていたら、度々外出する聖や命蓮寺の皆を見て。「自分も外に行きたい」と言い出すであろう。
そうなると、“人里”と言うものについて1から教えなければならない。

何故人里の存在を教えてくれなかったのか?何故人里で仕事をしている事を隠すような真似をしていたのか。
もし、そう問いかけられたら。その問いに対する完全な回答が、残念ながら誰にも思いつかなかったのだ。

子供と言うのは、育つに連れて好奇心が大きくなる。この命蓮寺の敷地内だけで、その好奇心を満足しきれる自信は無かったから。
今の○○は、日々の家事仕事と、聖との戯れでそれを満たす事が出来る。
しかし、いつしか外に対して興味を持つだろう。その興味を無理矢理押さえ込めば、○○は隙を見て外に出かけてしまうだろう。
もしそうなれば。○○が言う、あの奇妙な空き地に対して感じていた“何か”を確認しに、ついたての中に入っていった時と同じ結末を迎えるであろう。

だから、仕方なく○○の知識に“人里”を残したのだった。



「○○・・・・・・」
聖は手を繋ぎながら徐々に○○との距離を詰めていく。聖にとっては、○○本人は勿論の事。○○の息遣い、体温、匂い。その全てが愛おしかった。
愛おしいとは少し異なるが、○○の方も聖が出来るだけ近くに居ることを望んでいた。
記憶の操作を終え、○○を部屋に運ぶ際。聖は星からある推測を話された。


「今の○○は、聖の記憶を除けば。本当に微々たる記憶しか持ち合わせていません」
「その微々たる記憶では。己が何者なのかと言う問いかけ、この部分が非常に不安定なはずです」
「聖、今の○○の記憶は、ほぼ全て貴女で組み立てられています」
「赤子や幼児と同じと思ったほうが良い。幼子は親がいなくなると、不安になって泣き出してしまいます」
「○○が1人でいても大丈夫になるまで、どれくらいかかるかは分かりませんが。可能な限り○○のそばにいるべきだと私は考えます」


最も、星の言葉が無くとも。しばらくはそうしたであろうが。聖は星の言葉に従い。しばらくは、四六時中○○のそばに付くつもりであった。
そう、母のような気持ちで。母親が我が子を抱きしめるのに、理由など何もいらない。

○○の手を握っていた聖の手は、いつの間にか○○の腰に周り。もう片方の手も背中に回っていた。
「聖・・・・・・ここじゃ・・・・・・ああ・・・でも」
まぁいいか。最後の言葉を言い終わる前に、○○は聖の抱擁を受け入れた。聖の存在が近ければ近いほど、○○は安心感を覚えるから。
聖に抱きしめられる○○は、まるで家族に愛される子供のように。穏やかな心と表情であった。



「おやおや・・・・・・二人とも、こんな所で」
くくくと笑うように、聖とナズーリンとはまた別の人物の声が二人を茶化すように声をかけてきた。
「あっ・・・!と、寅丸さん!?」
寅丸星に抱擁の場を目撃された○○は、恥ずかしさから身をよじり、聖から離れようとするが。
「うふふ、別にいいじゃない○○。私たちの仲は皆知っているんだから」
聖はガッシリと○○の体を捕らえており、脱出は叶わなかった。
星はナズーリンと同じくニヤニヤと、微笑ましさ半分と茶化し半分で二人の様相を見物し続けていた。
「村紗、一輪。二人ともこっちに来て下さい。面白い物が見れますよー」
「ちょっと!寅丸さん!?」
しかも、星はこの場に更に自分以外の見物人を呼び寄せようとしているではないか。
より一層の恥ずかしさに直面した○○は、更に体をくねらせ、身をよじり。聖が両腕で作る、自分を捕らえる輪から抜け出そうとするが。
「ぜーったい離さない。いっそ皆に私たちの仲が良い所を見て貰いましょうよ」
「そんな!聖まで!?」
聖はそんな状況を楽しむように○○を捕らえ続ける。
○○の方は、思いっきり暴れれば聖の作るこの手で作った輪から抜け出せるとは、聖の力の入れ方から判断はしたが。
恥ずかしさは確かに感じていた。だが、同時に感じる安心感。そして、楽しそうな聖の姿を見ると・・・・・・
どうしても、身をよじると言う行為以上の事が出来なかった。



「なになにー?星、何があるの?」
「村紗ったら、おおよその見当は付いているくせに」
二人の声と足音が聞こえてくる。その二人とは、先ほど星が呼び寄せた一輪こと雲居一輪と、村紗こと村紗水蜜の二人の他はないであろう。
二人分の声と足音が聞こえた折、○○と聖の目が合った。その目が合った瞬間、聖は○○に見せ付けるようにペロリと悪戯っぽく、そしてわざとらしく見せ付けるように。舌なめずりをした。

これは不味い。そう思っても、これから聖が何か恥ずかしい事をしようと分かっていても。止める事も逃げる事も今の○○には出来なかった。
「えいっ!」
「んー!」
観念した様に○○の体から力が抜けるとほぼ同時に、聖は○○の唇を、自身の唇でふさいだ。



「うっわぁ、見てるだけでのぼせそう」
「あらあら。こんな所でイチャついてたら、またナズーリンの小言が飛ぶわよ。あら、噂をすれば姐さんと○○さんの後ろに・・・」
聖と○○の熱い口付けは命蓮寺の面々全員の元で、何度も何度も行われる事となった。
「んー!んー!」
○○は自分が考えていた。恥ずかしさの絶頂と言う物を軽々と超えた所にまで、放り投げられていた。
その光景を目撃した一輪と村紗は。例に漏れず、星やナズーリンと同じように微笑ましい物を見守りつつも茶化すように、ニヤニヤとしていた。
そして、聞こえてきた一輪の呟きが正しければ。後ろにはナズーリンの姿があるはず。彼女に至ってはこの短時間で二回もイチャ付いている所を見られた事になる。


彼女たちが自分と○○の恋路を応援する立場にいるのは、疑いようも無い事実だ。
それでも、それでもやっぱり。この状況は堪える。今日一日どんな顔をして彼女達と顔を突き合わせればいいのか。
「やれやれ・・・・・・まぁ見ているのが命蓮寺の面子だけだから。別に構わないと言えば構わないんだけどね」
「今日のお昼ご飯は何だい?甘い物を口に突っ込まれすぎたから早く塩気のあるものが食べたいよ」
○○の顔の火照りが益々大きくなっていく。一体○○の羞恥に悶える心は、どこまで高く放り投げられる事になるのだろうか。

「姐さん、○○さん。キリの良い所で切り上げてくださいね。お昼ごはんが冷めちゃいますから」
「二人ともー席はちゃんと隣どうしにしとくからねー」
「では聖、○○さん。私達は先に行っています、お幸せに」
「もういっそ接吻をしながら歩いたらどうだい?私にはキリのいいところが見つからないよ」
散々な言われようだった。段々諦めの心が広がっていくのが分かった。



「そうだ、こうすればいいんだわ」
「え、聖何を。うわぁ!」
お昼ごはんが冷めるので早く行かなければならない。しかし、○○との“触れあい”はもうしばらく続けたい。
その二つを両立する為に聖が導き出した結論は。○○を抱きかかえる事だった。
「お姫様抱っこっていうのよねこれ?村紗が教えてくれたわ」
「お姫様っ!?それって、今の状況だと・・・」
「そうね、今の状況なら○○がお姫様ね」
あっけらかんと答える聖に、体の力が益々抜けていくのが分かった。この人には敵いそうになくて。

ナズーリンの野次を実行するかのように。お姫様抱っこをされた○○は、軽い口付けを何度も受けながら皆の待つ部屋へと連れて行かれた。
その姿を見た村紗は爆笑して。ナズーリンは「ほんとに接吻しながら来た・・・」と絶句していた。



食事中も聖は止まらなかった。
村紗が気を利かして聖と○○の席を隣どうしにした効果もあってか。聖は常に○○に密着して来て、○○からすれば食事がしにくい事この上なかった。
しかも、いわゆる「はい、アーンして」程度ならばギリギリ羞恥心に耐える事ができていたが。
「んー、んー」出汁巻き卵を一切れ口にくわえて、口移しを求めてきた時は、流石に見られながらでは応じる勇気が出ず。
手で出汁巻き卵を聖の口から引っこ抜いて食した。
ちなみに、村紗は食事中ずっと爆笑していて。ナズーリンは「扇子が欲しいなあ」と呟き。
一輪は「姐さん、口移しならこっちの方がやり易いわよ」と煽り。星は「あ、お気になさらず。続けてください」とニヤニヤ顔で見守っていた。



「ひ・・・聖。先に部屋に戻ってるから」
○○は恥ずかしさに耐え切れずに、聖を置いて始めに自分が寝ていた部屋まで走っていった。
○○を1人にしたくない聖は、一瞬表情が固まったが。
命蓮寺の中、しかも自分の部屋ならば。そこまで心配はいらないと思い直し「まって、○○ー」とすぐに立ち直った。


「聖、申し訳ありませんが二つだけ報告したい事が」
「何?出来るだけ短くね」
その切り替わり方は見事としか言いようが無かった。聖は星の報告に対してすぐに威厳と威圧間を持った表情と声を作る事ができていた。

聖が○○を追おうとするこの状況での報告。それは、○○に関わる事であるのは明白だろう。
「アイツの祖父が亡くなりました」
「ああ、そうなの。意外と持ったわね。で、もう1つは?」
聖はもう奴の一族になど殆ど興味が無かった。後々の事を考えて、“人里”と言うものがあるという知識だけは○○に残したが。
しかし、それ以外の。祭りの時に行った炊き出しや、里での活動の際奴の孫が仲介役となっていた事などは全て封じ込めた。
もう聖は奴の一族と関わる気は全く無かった。○○の記憶の安定と、自分の精神衛生のために。
だから、「意外と持った」という冷たい一言で仕舞いにしてしまった。

「私の中では、こっちが本題です。あの鞄と、中に入っていた帳面。一応私が持っていますが、どうしましょう?」
星としてもそれでよかった。奴の一族との縁が切れるのなら、嬉しい限り、こちらから願いたいぐらいだったから。
星の本題は、あの鞄と帳面にあった。
○○がまだ人間だった頃に使用していた鞄と・・・今は取り壊した蔵の中で書き記した自分達への恨みつらみを、洗いざらい書き記した例の帳面。
○○の目に留めてはならないのは大前提としても。最終的な処理の仕方について聖に伺いを立てるのが筋だと星は考えたから。
だから、わざわざこうやって引き止めたのだ。帳面はともかく、鞄は最愛の人の持ち物だから。それに、星としても少々処理に困っていた。

「必要ないわ、処分して。跡形も残さないで」
「分かりました。では燃やしてしまいますね」

聖の決断は非常に早かった。
どちらも最愛の人間の持ち物のはずなのに、一秒とかからずに星に「跡形も残すな」と命じた。
そう星に命じると、またすぐに「○○~」と言うような。甘い声と表情に戻った。
その様子に星は、先行きの事に不安はいらず。上手く行きそうだと安堵した。
「聖の気合の入り方が半端じゃありませんね・・・これなら安心だ」







夕方、星は風呂焚き場に足を向けた。手には風呂敷包みがあった。その中身は例の鞄、中には勿論あの帳面をつめて。

風呂焚き場には二人の先客がいた。その先客とは、封獣ぬえと村紗水蜜の二人だった。
ぬえは村紗からもやってきた星からも背を向ける位置で、黙々と手斧を手にして、中腰の姿勢で薪を割り続けていた。
足音に気付き一度だけ星の方向に顔を向けたが。
疲れきったような、妙に生気のない顔で、表情を動かす事も無く、やって来た星に対して何の言葉漏らさず。また薪割りの作業に戻った。


村紗の方は、星に気付く事も無く。一生懸命に火を起こし続けている。
鵺の割った薪をポイポイと放り込んでいき、空気を送り込む為の中を空洞にした、木製の棒切れのような物をくわえてフーフーと吹き続けている。
「村紗、今日も風呂焚きですか?毎日有難うございます」
「え?あぁ、星か。大丈夫、好きでやってるから。おまじないみたいな物かな、私にとっては」


あの日、村紗は一足先に命蓮寺に戻り風呂を炊いて待っていてくれていた。
命蓮寺に聖達が帰ってきた際。その時には聖の気力は大分戻っていたとは言え、それは1人で立って歩ける程度の物で本調子ではない。

帰ってきた聖の様子に、村紗も皆も、まだまだ気を緩める事が出来て居なかった。
それが、村紗の炊いた風呂に聖が○○を連れて入浴し、○○の体を綺麗にし終えると。
聖の顔色が普段のそれと遜色無い程度にまで回復したのだった。
このときの聖の心労の原因は、○○の体に付いた血とその匂いが取れない事だった。
その両方が村紗の炊いた大量の湯。つまりは風呂によって綺麗にできた事なのは明白だった。

「やっと汚れも匂いも取れたわ・・・村紗ありがとう」
「大丈夫・・・もう石鹸とお湯の匂いしかしないわ。肌も元の色に戻ったし」
実際、聖は風呂から上がった後。○○の体に染み付いた匂いと、血の汚れが洗い流された事を。最も喜んでいた。
そして村紗には何度も何度も。一足先に命蓮寺に帰り、風呂を炊いておいてくれた事を感謝していた。
その喜びが忘れられないからか。あの日以来誰に言われるまでも無く、村紗は自発的に毎日の風呂焚きをやっていた。



「特に今日は○○が起きて初めての日だからね・・・聖は絶対○○と一緒に入るだろうから。気合も入るよ」
「村紗」
星の言葉が突然厳しさを帯びた声に変わった。
「あ・・・・・・ごめん。迂闊だった」
「気をつけてください」
村紗の今の発言は、もし○○に聞かれれば少々厄介な事になる可能性が高かったからだ。
それに気付いた村紗は急にシュンとした面持ちを見せた。

今村紗は危ない橋を渡った。ただ、危険を冒しているのは星の方も同じだった。
なので、村紗を戒めたのは、自分を棚に上げたような格好になってしまい。少し悪い気がした。
「大丈夫です・・・・・・私も今の村紗と同じ、危ない橋を渡ってます」
星は気落ちする村紗の横に屈み、例の鞄と帳面を。その二つを包んだ風呂敷ごと、今湯を沸かしている炎の中に放り込んだ。
「なので、早く渡りきらないと」


「星・・・これは?」
「危険な物です。かけらすら残さず、全て灰にしてください」
「この中身って一体・・・あっ・・・・・・!」
炎の中で、鞄と帳面の身包みである風呂敷が焼きはがされ、その中身が露出すると。村紗は短い声を漏らした。
その声を上げてすぐに、村紗は一気に真剣な面持ちに変わり。炎の中をまさぐるのに使う棒切れで鞄を炎の奥に突っ込み、更に薪を投入して見えなくしてしまった。
それだけに留まらず。炎に向って一生懸命に息を吹きかけ、炎の勢いを大きくしていく。

新たに投入された薪と炎。その両方で見えなくなったのを確認した星は立ち上がり、その場を後にしようとした。
「しっかり燃やしてくださいね」
去り際に残した星の言葉に対して村紗は。コクコクと黙って何度か頷くだけで、炎の勢いを維持するのに躍起になっていた。

途中から、ぬえが薪を割る手を止めて。後ろを振り向いてその様子をずっと見ていた。
風呂敷の中身は、聞かなくてもぬえには分かっていた。○○がまだ人間だった時に使っていた鞄と例の帳面だろう。
ぬえが見る村紗の横顔は、使命感を帯びたような表情をしていた。
その表情を見続けていると、ぬえは自分の顔が変な歪み方をするため。また背を向けて薪を割る作業に戻った。


件の帳面が○○が記憶を取り戻すきっかけになったのは。例の騒動の後、村紗の口から聞いた。
星が命蓮寺を飛び出す○○に、鞄を返したと言う事も一緒に。

今ぬえは、騒動の後でまた村紗の精神状態が不安定になっていないか心配で。度々こうやって一緒にいるが。
どうやらその心配は余りないようだ。決して良い意味でないと言う所がミソなのだが。

(自分の鞄と、自分の記憶を思い出す、今となっては唯一の手段である。あの帳面をくべた火で沸かしたお湯に入るんだよね・・・○○は)
(うっわー・・・・・・もう何の言葉も出ないよ)
絶対に口には出さない心の声を呟きながら。折角背を向けたと言うのに、ぬえの表情には妙な笑いが自然と込み上げる始末であった。












この日、○○が目を覚ましたあの時から数えれば初めて。聖は○○と主に外出をした。
その行く先は、残念ながら人里であったが。
○○がもう一度目を覚ましてからあれから数年経った。
幸いにも、○○に記憶を取り戻すような兆候は見られない。その精神状態は極めて安定していた。


「ねぇ、お節介じゃなければで良いんだけれど。何か聖の仕事の手伝いって出来ないかな?」
しかし、ある日の寝床で。○○の口からこの言葉を聞いた時。遂にこの時が来たと聖は身構えた。
「確かに、聖に比べれば・・・いや、命蓮寺の中じゃ自分が一番未熟なのは分かってる」
「でも、こんなに良くして貰ってる割りに、やっている仕事の量が少ないような気がするんだ」
「聖は時々人里に行ってるんだよね・・・?」
○○のこの思いは。聖としては物凄く嬉しいものでは合った。
しかし、外に出す事は。記憶を思い出すきっかけを何処で手に入れてしまうか分からない。
ましてや人里。面識の全く無かった妖怪の山などならともかく、人里には余り連れて行きたくなかった。
しかし、○○の興味関心は人里に向いていた。聖自身人里での付き合いが最も多かったから仕方のないことなのだが。


聖だけではない。もう命蓮寺は人里の大人には何も期待していない。
しかし。まだ色眼鏡を持たぬ子供相手ならばあるいは。あるいは、自分達の思想を信じてくれるのではないか。
その淡い期待を捨てきれずに、人里との付き合いはまだ続けていた。


「はい、じゃあ今日のお話はこれで終わりです」
にこやかに今日の分の説法を終える旨を口にする聖。一輪が子供たちへの説法を昔から熱心に行っていた理由が分かった気がしていた。
確かに、多少想像の斜め上を行くような行動をすることはある。でも、大人達相手に喋るよりは遥かに心労が少なかった。

しかし、親が問題だった。自分の説法を聞く時間より親の話を聞く時間の方が多い。しかし、まだ淡い期待は捨てきれていなかった。
このお辞儀も思いっきり教え込まれた物なのかと思うと。少し悲しくはなるが。

「今日は私の他に○○がいるから・・・・・・そうね、○○。何か挨拶と一緒に気の聞いたお話でもしてみない?」
「え!いや、そんな。挨拶はともかく話なんて用意してないのに」
「ことわざや慣用句を使って、ためになりそうな短い物でもいいのよ」
○○は困ったようだったが、子供たちの自分を見つめる視線を見て観念して口を開く。

「えーっと・・・○○と言います。みんな始めまして、これからよろしくお願いします」
自己紹介を終え、次に何か話す題材を探す○○を、聖は目を細くして愛おしそうに見守りながら茶をすすっていた。
「そうだなぁ・・・慣用句・・・・・・ことわざ・・・あ、1ついいのがあるな」
ただ、○○が紡いだ次の言葉に聖の心はかき乱される事となる。


「光陰、矢のごとしって言葉。皆知ってるか―
よりによって、その言葉を選ぶとは。
その慣用句を耳にした時。運悪く聖は茶をすすっていた。余りの焦りに聖はすすっていた茶を飲み込むのに失敗して、思いっきり噴出してしまった。

「ゲホッ!えふっ!!」
「聖!大丈夫!?」
話を中断して慌てて○○が駆け寄る。
「だ、大丈夫よ。ちょっと飲み込むのに失敗しちゃったわ。ごめんなさい、○○話の邪魔をしちゃって」

光陰、矢のごとし。その言葉は、○○が記憶を取り戻したあの日。○○が全ての事実に気付き、絶叫と共に気を失った後。奴の孫が口にした言葉だった。
確かに、あの時の○○にとってこの光陰、矢のごとしと言う言葉は余りにも的確だろう。
姿形の若さと相まって、○○の体感時間は実態とはかけ離れた物だったはずだから。
しかし、奴の孫がその言葉を吐いたのは。○○が気を失った後だ。聞こえていても覚えているはずはないし、何より○○の記憶はもう一度全て封じた。


ふと、一輪の言葉が脳裏によみがえる。
○○の記憶をもう一度封じ込める作業の際に言った、一輪のある提案が。
「姐さん。正直な話、鈍痛じゃ生温かったと思うの」
「次に、楔が外れそうになったら。一発で泡を吹く勢いで卒倒するようなキツイのじゃないと・・・また外れると思うの」
「姐さんが○○を傷つけるような真似、絶対にしたくないのは分かる・・・でも、楔が外れるのが一番○○が傷つく事だと思うの」
聖としては、○○が記憶に近づいた際に発動する鈍痛でさえ。断腸の思いで施したのに。
それなのに。泡を吹くような卒倒をしてしまうような術は・・・施せなかった。

しかし、1つだけ確かな事があった。
何もしなければ、今回打ち込んだこの楔も。古くなれば・・・・・・外れてしまう。



既視感 了

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2012年03月16日 12:11