「はい、お疲れ様○○。これ、今月分のお給金ね」
○○は自身の雇い主であり、薬学について師事している八意永琳から給金の入った袋を手渡された。
「有難うございます。確かに受け取りました」
「今日は昨日言ったとおり、今日の昼と、明日丸一日はお休みだからね」
○○は給金を手にしている為。可能であるならば、思いっきり締まりの無い表情をして喜びたかった。
しかし、今○○の目の前には。自分の雇い主の八意永琳が、優しく微笑んでくれている。
それを前にして、だらしの無い表情は出来ない。
「じゃ、じゃあ。八意先生、今日はこれで失礼します。私は今から里のほうに行ってきますので」
出来るだけいつも通りの表情を繕うが。表情の端々が、いつもより固くなっているのは自覚していた。
勿論、永琳はそんな○○の様子などお見通しだが。彼女は決してそんな○○の様子に、悪い気など起きなかった。
むしろ、愛しさすら感じていた。主である蓬莱山輝夜の存在が無ければ、思いっきり抱きしめたかった。
「うふふ、本当に可愛いわね貴方は。もっと思いっきり喜んでもいいのよ」
しかし、頭をなでる位の事は。輝夜からも許しを貰っている。
「うわっ!先生ッ!?」
永琳と輝夜は並の主従関係ではない為。永琳の○○に対する情念も、輝夜は許す所か「三人ってのも乙な物ね」とまで言ってのけている。
ただし、そんな情念を永琳は巧みに隠していた。少なくとも、今はまだ人間のみである○○がそれに気付ける事はないだろう。
「うふふふふ・・・・・・」
「もう・・・先生ったら。からかわないで下さいよ。じゃあ・・・里の方に少し行ってきます」
○○は永琳の柔らかい指を、そして仄かに香る匂いを味わい、いささか動悸が激しくなっていた。
○○も健全な1人の男である。そして○○は八意永琳の事を、恐ろしいくらいの美人と認識していた。反応しないわけが無い。
○○は、反応しきる前に部屋を後にした。○○の後姿を見つめる永琳の目は相変わらずだった。
「からかってなんていないわ、○○・・・・・・輝夜があなたに思いを伝えたら、私も告白するから」
「そしたら、三人で一緒に仲良く、お布団やお風呂にでも入りましょう・・・・・・うふふ」
○○がいなくなったことにより。永琳はその情念を、そして上気した表情を隠さなくなった。
そして、○○の足音が完全に聞こえなくなった折を見計らうように。
1人の、兎耳とブレザーが特徴的な人物が。顔を半身だけ覗かしながら、ジットリとした目で悶える仕草を続ける八意永琳を見つめていた。
「あら、ウドンゲ。やっぱり貴女も近くにいたのね」
「白々しいですよ、師匠。近くにいるって分かってたくせに」
ウドンゲこと、鈴仙・優曇華院・イナバ。それが彼女の本名である。
正確にはこの名前は彼女が師匠と呼ぶ八意永琳と。永琳の主である蓬莱山輝夜の付けた名前を合わせた物だが。
そのウドンゲの眼付きに歩調を合わせて、声色も明らかに八意永琳に対して不満感をあらわにしていた。
「嫉妬した?」
「姫様は別に良いって言ってるんですよね?仕事中にそれとなく手を触るくらいなら」
「ええ、“姫様は”・・・ね。でも私が嫌なのよ」
語尾をわざとらしく上ずらせる永琳の姿に。ウドンゲは、眼前の永琳に明らかに聞こえるくらいの。大きな舌打ちを鳴らした。
しかし、永琳はその舌打ちの声を聞いても、うふふと相変わらず上機嫌に笑っていた。
「布団の匂いは全部そっちに渡してるじゃない」
「てゐと半分こですけどね。大体、一番匂いのつく寝具である、枕は師匠と姫様が取っちゃってるじゃないですか」
段々と、ウドンゲの言葉の端々に刺々しさが増してきた。
「ずるいですよ師匠、それに姫様も。お二人だけ○○さんに触ってばっかりで」
「うふふふふ。姫様がもうじき○○に思いを伝えるわ。そしたら次に私が告白するから・・・」
告白の場面を夢想しているのか。永琳は「キャッ」と乙女のような声を出し、両手を頬に当て。体を左右に揺らしていた。
ウドンゲはそんな師匠の様子に大きな溜め息をついた。
「その次に私とてゐの番が来ると考えていいんですよね?」
ウドンゲは夢想を続ける永琳を無理矢理現実に引き戻し、話を強引に進めた。
「ええ、愛人や妾の立場なら・・・姫様も構わないと言っているわ」
「姫様だけじゃなくて・・・師匠も、それで構わないんですよね?」
ウドンゲはこの場面で、最も強い当たり方で永琳に答えを迫った。
「ええ、構わないわ」
それに対しても涼しい顔で、永琳は首を縦に振った。
「言質、取りましたよ?私とてゐが愛人、妾の立場になっても良いんですね?」
「用心深いわねぇ・・・・・・所で、てゐは?」
てゐの事を聞かれたウドンゲは、苦い顔を浮かべた。
「さっき、勝負に負けて・・・今○○さんの布団を独占されてます」
あらあら~と。茶化すように悔しさを滲ませるウドンゲの顔を見ながら、永琳は笑っていた。
「あ、そーだ。ねぇウドンゲ、さっき○○が使ってたタオル・・・使う?私はずっと着てた白衣を貰うけど」
ウドンゲの本心では白衣の方がよかった。しかし。
「・・・・・・いただきます」
実力でも、永遠亭内の権力でも。八意永琳には到底及ばないのは、火を見るより明らかだった。
白衣を手に入れれる可能性など絶無。だったら、多少の屈辱は感じるが。何も無いよりは、タオル一枚でも持っておいて、○○を感じたかった。
「ふふふ・・・・・・」
自室に戻った○○は。永琳から手渡された給金を数えながら、大層な笑みをこぼしていた。
給金の量は可も無く不可もなく、適正な量であった。それ故に、労働の対価としての重みがより一層大きかった。
○○はもう今回の給金の使い道を随分前から決めていた。
給金の半分以上を持って、遊郭へ行き。春を買いに行くと、決心していたのだった。
「確か料金は・・・本を見ないと分からないな」
先ほど貰った給金の半分以上を、財布に大事にしまった後。○○は戸棚の奥に隠していた、ある本を取り出す。
○○の取り出した本には、様々な女性の絵が描かれていた。
しかし、普通の絵ではなかった。描かれている絵はどれもこれも妙に艶かしかったり。服を着ていなかったり。いわゆる男女の営みをしている物までも合った。
そう、○○が手にしている本は。いわゆる春画を集めた物であった。
○○がこの春画本を厳重に、見つからないように保管しているのには訳があった。
蓬莱山輝夜の存在である。彼女は度々○○に話しかけたり、遊び相手に指名したり、里への買い物に行く際のお供にしたりと。かなり気に入られていた。
そして、ある日の事であった。
「○○~いるー?」
「姫様ッ!?」
「あ・・・・・・・・・」
輝夜は○○の部屋に入る際。ふすまを軽く叩いたり、声をかけたりなどと言う。気の利いた事はしなかった。
だから、隠す間もなく見られてしまったのだ。春画を前に、下半身の着衣を脱ごうとしている○○の姿を。
幸い、今まさに脱ごうとしている所だったので。物自体は見られていないが、非常に気まずい時間が流れた。
数分か、数十秒か、それとももっと短いか。いくらかの沈黙の後、輝夜は無言でその場を去って行った。
○○は何も言えなかった。何を言えばこの場を納められるのか、何も思いつかなかったから。
別に悪い事をしているわけでは無いはずなのだが。湧き上がる罪悪感が止まらなかった。
怒られる事も覚悟して、○○は着衣を整え正座の姿勢でいるしかなかった。
このまま輝夜が戻ってこない。それをある程度望んではいたが、輝夜は戻ってきた。手には枕を持って。
そして、輝夜はその枕をポンと○○に投げてよこした。
「○○、その枕あげるわ。だから、こんな物いらないわよね」
そして、輝夜は○○の傍らに置かれていた春画を手に取り。一思いに、何の躊躇も無く、思い切り破り裂いた。
輝夜は○○が使おうとした春画を、何回も何回も破り裂いた。辺りには紙ふぶきの様に春画の残骸が降り注いだ。
春画を破り裂く輝夜の顔を、○○は直視できなかった。今まで見た事もないような、般若ですら可愛く思えるような面をしていたから。
ただ紙を破るだけなのに。それを終えた輝夜は、妙に疲れた雰囲気をかもし出していた。
髪も振り乱れて、いつも着用している豪華な装束にも同じような乱れが合った。
そして息も絶え絶えになりながら、輝夜は○○の部屋を後にしようとした。
しかし、部屋を一歩出たところで。輝夜はピタリと止まり、○○の方に振り向いた。
その顔は表情と言える物が無く。何を考えているかの手がかりが何も見えない為、○○の恐怖を煽った。
「ねぇ、○○」
「・・・・・・はい。何でございましょうか、姫様」
一体何を言われるのか分からない○○は。小動物のように震える事しか出来なかった。
「今日の夜・・・私の布団で一緒に寝る?」
「・・・・・・はい?」
何を言われるのか分からず震えてはいたが。こんな事をいわれるとは思っていなかった為、○○は素っ頓狂な声で聞き返した。
「言葉通りの意味よ。今日、私の布団で、一緒に寝たいかどうか聞いてるのよ」
「いや・・・それは・・・滅相もございません。私には・・・・・・勿体無いお心遣い・・・・・・」
またしばらくの間沈黙が続いた。
「・・・・・・そうね。手順を飛ばしすぎね。良いわ、今の言葉は忘れて」
春画を読む○○は、不意にこの時の事を思い出し。背筋に寒気を感じるのを何度も経験した。
そしてこの時も。
今日は春画本の絵ではなく、後ろの方に載っている遊郭街に名を連ねる、店の紹介文を読んでいても・・・寒気を不意に感じた。
恐る恐る振り返るが、ちゃんとふすまは閉まっているし。この部屋には自分以外の誰もいない。
「さっさと里に向おう・・・・・・料金は遊郭街についてから確認しよう」安堵の溜め息を漏らし、○○は春画本を鞄にしまいこんだ。
最終更新:2018年03月02日 22:54