門番から指差された建物に入ると、まず○○の鼻腔を事のほか刺激する匂いがあった。
淫靡な匂い。そう表現するのが正しいだろう。
永遠亭でも、輝夜の趣味で色々なお香が焚かれていたが。ここで焚かれる物の匂いは、永遠亭では嗅く事がない物だった。
輝夜の好んで焚くお香は。清楚で、余り主張せず。上品な匂いの物ばかりだった。
それに対して、この遊郭で嗅げるこの匂いは。上品かと問われれば多少首を傾げる物だが。
淫靡で、刺激的で。嗅いでいると、どことなく挑発的な遊女の顔が脳裏に浮かぶようだった。
今まで嗅いだ事のない新しい匂いに、○○の興奮は否が応にも高まっていく。


「ここで・・・丁度良い店の案内もやってくれるのかな?」
匂いに頭をいくらか上せさせ、体も熱くなるのを感じていた。
中を見渡すと、色々な店の売り文句や遊女と出来ることなど。それらをデカデカと書いた看板がいくつも掲げられていた。
初心者はここから選んだ、気に入った店に行けという事だろうか。
熱くなる体。それを抑えざるを得ない○○は、待てを命令された犬のようだった。

「しまった・・・先に説明を聞かないと。見るのはそれからじゃないと時間が勿体無い」
可能ならば、一番琴線に引っ掛かった看板の店にそのまま直行して。すぐに相手してもらえる遊女を買いたかった。
しかし、門番から言われた。先に説明を聞いて、記帳を済ませないといけない事の旨。すっかりと失念していた。

○○は、早々にその二つを片付けたく。事情の分かりそうな人間を探すが。
何故か誰もいなかった。いるのは、自分以外の客が看板をじっくりと見たり。友人連れの場合は猥談に花を咲かせている。そんな光景しかなかった。

「誰もいな・・・・・・うわ、あの人しかいないのかぁ・・・」
キョロキョロと辺りを見回して、やっと見つけた事情が分かりそうな人間。その人物は、奥の番台に鎮座している初老とおぼしき男性だった。しかし、寝ていた。
ご丁寧に座布団を番台に置かれた小さな机に敷き、突っ伏した状態で寝ている。かなり熟睡しているようだった。
○○から軽い溜め息が漏れる。こうやって探している間も、遊郭関係者らしき人間は誰も入ってこなかった。
他の人間を待っていても、果たしていつやってくるか。彼を起こして話を聞きだすのが最も早い道だろう。


コツコツコツ・・・と、わざとらしく足音を立てて近づいたが。番台を枕代わりに寝ている男が、起きる気配は無い。
「あの・・・すいません」
反応は無かった。
「・・・すいません、起きてください」
申し訳無さそうな小さな声が、半端でよろしくないのか。相変わらず起きる気配は微塵も感じられない。
「失礼、起きてください。説明を聞いて記帳をしろと、門番に言われてきたのですが」
仕方が無いので、○○は寝ている男の肩を揺らした。
そういえば、今朝もこんな事をしたなと、既視感を覚える。ただし、今朝と違って今の場合は焦らされたせいで、多少イライラが溜まって来ているが。

(仕事しろよ)
揺らし続けながら、心の中で舌打ちと毒づく言葉を打った。男は相変わらず夢の中だった。
肩を揺らす手を止めて、突っ伏す男をにらむ様な目で見つめる。
さっきまで肩を揺らす為に使っていた手に、何と無しに力が篭る。
このまま、軽くはたいてやろうかとも思った。しかし、全くの他人相手にやるのは余りにも失礼。
それ以上に。勘違いされ、門番を呼ばれでもしたら面倒くさい事この上ない。
そうなれば、きっと永遠亭の皆にも。自分がここに来た事が知れてしまうだろう。それだけは絶対に嫌だった。

永遠亭の面々に、自分が遊郭に来た事が知られてしまう。そんな最悪を思ったとき。
いつか輝夜が自分の春画を破り裂いた時の顔を思い出した。
その瞬間、寒気がした。面倒ごとは絶対に起こしてはならない、あの時の輝夜の目が自分に向くなど。考えただけで寿命が縮まりそうだった。

仕方なく、はたくと言う選択肢は除外したが。相変わらず目の前の男はぐっすり眠っている。
「どうしたもんかねぇ・・・・・・」
地作呟くその声も。のれんに腕押しのように、するりと通り過ぎてしまった。




竹やぶの中を一人の男が必死の形相で走っていた。
仲間が上手く時間を稼いでくれていると言う、全幅の信頼はあった。だからと言って、自然な時間稼ぎには限界はある。
余り時間をかけては、仲間達に申し訳が立たない。仲間達の負担を減らす為にも、自分が一分一秒でも早く、たどり着かねばならない。

「もう少し・・・もう少しだ・・・・・・見えた・・・!!」
走って走って、走りぬいて。男は遂に、目的の場所へと到達した。
男の眼前に見える館の玄関先では、長いウサギ耳が特徴的な女性が掃き掃除をしていた。
その人物は、息を切らしてやってきた男の姿を見て、顔を青ざめさせた。
そして、ほうきを投げ捨てて。館の中へと入っていった。

彼女は別に、鬼気迫る表情でやってきた男の表情に怯えて逃げ出したのではない。
また、男の方も。その人物が、逃げたのではないと分かっていた。だから、別に彼女を追うなどと言う事は考えなかった、考える必要がないのだ。
膝を突き崩れこむその男の表情には、やりきったと言う達成感があった。
全ては、もう○○の預かり知らぬ所で、手が回りきっていたのだから。
自分が、遊郭の人間がここに来ると言うだけで、この館・・・・・・永遠亭の者達は全てを理解してくれる。


「師匠ー!!遊郭の人が来ましたああ!!○○さんがぁー!!」
恐らく、先ほど館の中に走り去った者の声だろう。その声は、悲痛に満ちた叫びだった。
話にしか聞いていなかったが。○○と言う男は、相当この永遠亭の面々に思われているようだ。
パッと見ただけだが、あのウサギ耳の女性はかなりの別嬪だった。あんな上物は、遊郭に限らずまずお目にかからないだろう。
そんなのに思われている。普通ならば、男として、とても喜ばしい冥利に尽きると言った物のはずであるが。

その男は、全く羨ましいとは思わなかった。





“遊郭”優曇華院が叫ぶこの一言に狼狽した永琳は、手に持っていた試験管を床に落としてしまった。
シャラシャラとした音を立てて、粉々に砕け散るガラス。ガラスの破片は小さく小さく砕け散り、後の掃除が大変な事になりそうだった。
しかし、そんな事はまったく気にならなかった。いや、頭によぎりもしなかった。

そして、永琳の脳裏に。ある、過ぎ去った出来事が思い起こされる。
―はい、今月のお給金―
「しまった!!今日の○○は、いつもよりお金を持ってる!それに・・・今日と明日は休みじゃない」
○○が可愛くて、余りにも愛おしくて。給金を払う日と、休みの日を被らせた。その○○の喜びそうな行為が、結果として完全なる裏目となってしまった。

「師匠・・・・・・○○ざんが・・・ゆ゛うがくに・・・・・・」
頭を抱える永琳の元に自分の弟子である、優曇華院がやってきた。その顔は涙でボロボロに濡れていた。
当たり前だ。不特定多数の男と体を合わせる遊女ごときの存在が、○○が体を合わすなど。
「ん・・・おえぇ!!」
そこまで考えて、永琳の身に強烈な吐き気が襲った。その嘔吐感に抗えず、ビチャビチャと床に吐しゃ物をぶちまけて行った。
ウドンゲは、そんな師匠の様相を目の当たりにして。堰を切ったようにわんわんと泣き出した。


ゴミ以下の遊女如き存在と○○が肌を合わせる。
考えただけで寒気と、更に吐き気。そして、そんな薄汚い連中に○○を近づかせてしまった事に対する悔しさで。涙ぐらい流して当然だ。

しかし、今自分が吐き気に負けて。シクシクと涙を流すわけには行かない。そうなってしまっては。姫様にも顔向けが出来ないし、何より○○を守れなくなるから。
○○と輝夜。この二つを思い浮かべ、永琳の顔付きは戦場の表情へと変わった。
手近にあったタオルで口を拭い。いつもの、月の賢者・八意永琳が戻ってきた。


「ウドンゲ、泣いている場合ではないわ。私は姫様と遊郭に行きます、○○を助ける為に」
そして、泣き喚くウドンゲを優しく抱きかかえつつも、凛々しい口調で彼女を鼓舞した。
彼女に近づく際の足取りも、短いながらしっかりとした物だった。
「師匠・・・・・・・・・はい!」
敬愛する師匠から感じた、確かな優しさと力強さ。その二つに、彼女の気力は一気に引き戻されてきた。
そうだ、今ここで泣き喚いてばかりでは、○○さんが助からなくなる。今なら間に合う!

「貴女は、○○の部屋を捜索して。一切合財、全部ひっくり返して構わないわ、○○を汚染する物を全部見つけ出して」
永琳からの命令に、ウドンゲは力強く頷いた。そして、脱兎の如く駆けた。行き先は勿論、○○の部屋だ。

「てゐ!!」
「はいはいはい!今向ってるウサ!!」
そして、次に永琳はてゐを呼び出した。その声には、ウドンゲを励ます時に用いられた優しさは感じられなかった。
完全に、戦っている声だった。その声に、いつもはおちゃらけた様子のてゐも、滅多に見られない真面目な面持ちだった。
「姫様を起こして!私は移動手段の牛車を用意します」
(うわー、これもしかしたら一番嫌な仕事かも)
「返事は!?」
「はい!!」
しかし、拒否権などあるはずも無い。てゐは永琳に急かされて輝夜の部屋へと走り出した。
(○○の部屋を家捜しする役の方が良かったなぁ・・・絶対怖いよ、この状況の姫様は)




「うーん・・・・・・騒がしいわねぇ。何かあったのかしら」
いつもは相当な事でも起きない輝夜も、この騒々しい様相に。流石に目を間覚ました。
そして、自分の部屋に近づいてくる慌しい足音が1つ聞こえてきた。
同じ慌しいでも、今回は何だか違う様子だった。てゐの悪戯にはまったウドンゲも、勿論慌しく走る。
しかし、どこか遊んでいるのだ。追う方も追われる方も、本気の走りではない。
だが、この音絡みえる走り方は。本気の物だった。
「・・・・・・ただ事じゃ無さそうね」
そして、緊迫した事態を感じ取った輝夜の顔付きから、眠たげな物が消えていった。

「姫様!あっ、起きてた!!」
布団の上で起き上がっていた輝夜に、てゐが驚く。
「当たり前よ。何だかいつもの感じじゃないもの。で、何が合ったの?」
てゐは、こんな威圧感と威厳のある輝夜を見るのは久しぶりだった。
いつもの、妹紅との殺し合いに興じすぎ。規則正しい生活の欠片も無い彼女を長く見すぎていた為、こんな表情ができることをてゐはすっかり忘れていた。
そして、今起こっている事を伝えれば。その表情が一触即発に、憤怒の表情へと変わるのは目に見えていた。
その恐ろしさを思うと、息を呑みほんの数瞬間を空けざるを得なかった。
「何が合ったって聞いてるのよ。早く言いなさい、てゐ」
しかし、事態の緊迫差を見抜いている輝夜には、その数瞬すらまどろこっしい物だった。
答えを中々いわないてゐに、声が強くなっていた。


「・・・・・・○○が、遊郭に・・・行っ―
“遊郭”永琳同様、その単語1つだけで十分だった。
ただし、永琳はその単語に狼狽を見せたが、輝夜は違った。



「永琳んンン!!!!!」
きっと永遠亭一杯に届いただろう、蓬莱山輝夜が、自身の従者を呼びつけているであろうその憤怒の感情に満ちた怒声は。

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最終更新:2012年03月16日 12:35