ガタガタと揺れる牛車の中。その中は、狭さも相まって輝夜好みの香の匂い。極端な表現をすれば、輝夜の匂いで充満していた。
ただ、先ほどまでいた遊郭のきつめの香の臭いがうっすらと輝夜の匂いの上に漂っている。
“邪魔だな“どういう訳か、自然と○○は。遊郭の臭いに対して、そんな感想を抱いていた。
その上、どうにも物足りなかった。
その牛車の中で、輝夜は○○を掴んで離そうとしなかった。
その上、輝夜は○○の着衣のあちらこちらに鼻を押し付けて。くんくんと匂いを嗅いでいる。
「体にまでは染み付いては居ないとは思うけど・・・・・・」
匂いを嗅ぎながら、そのような事をぶつぶつと呟いている。
「永琳!帰ったらすぐに風呂に入るわ!○○を洗わないと」
今の輝夜には、先ほどまで見る事の出来た、激昂と言った感情はない。
輝夜の表情は不安感で一杯だった。遊郭の臭いが○○に付く事を事のほか嫌がっているようだった。
「あの・・・姫様」
○○には、輝夜の思考がよく分からなかった。もし、輝夜が○○に対して怒りを抱いているのであれば、触るのは勿論。先ほどのような口付けは絶対にありえないはずなのだから。
「ん?なあに、○○」
「怒ってはいないのですか・・・?遊郭に出向いた私に対して」
だから思い切って聞くことにした。
その質問に輝夜はきょとんとした表情を見せた。
「何を言ってるの?」そして、想像通りの言葉が紡ぎだされた。
「そうね、遊郭に対してならいっそ焼き払いたいとすら思うけど」
「私に対して怒っていないのは・・・もちろん、有り難くはあるのですが。その、何となく腑に落ちない物が・・・」
「・・・?○○に対して怒る事なんて、ある訳無いじゃない」
輝夜は○○の懸念に対して、全く分からない。ちんぷんかんぷんと言った表情ばかりを浮かべていた。
輝夜の中では、もう全てが自己完結していたからだ。
遊郭の人間が○○をたぶらかした。かつて破り捨てたあの春画も、その一端だった。その方向で全ての話を決着させていた。
そんな輝夜の突飛な発想。○○がそんな事を推測するなど、出来ようはずも無い。
二人の会話は全くと言って良いほど噛み合ってなかった。
○○は必要以上に恐縮して、輝夜はそんな○○にちんぷんかんぷんと言った表情をしている。
籠を引く牛の制御をしながら、永琳の方もチラチラとこちらを見てくる。
その永琳の表情も。やはり輝夜と同じく、怒りや憤怒と言った激情の顔は無かった。
明らかに、何かに対して困ったような、心配するような。言葉で表現するならば、そんな表情をしていた。
彼女からも、やはり怒りや侮蔑の感情は見えてこない。
何故ならば永琳もまた、輝夜と対して変わらない発想の下にいるのだった。
「っ!もしかして!!」○○の様子にうんうんと唸っていた輝夜がある事に考えをめぐらせた。
その考えに辿り着いた輝夜は、またその表情に怒りの色を広げていった。
「やっぱり買わされちゃったの!?」
その表情を見た時。○○は自身でも気付かなかった、物足りなさに気付いた。
そして、輝夜のこの表情こそが。物足りなさを埋める一番の答えだと・・・そう考えてしまった。
「永琳!戻って、やっぱり焼くわ!あんな所!」
ただし、○○が求める匙加減は非常に繊細で微妙な所に合った。
「いえ・・・!姫様、買わされていないのは本当です。ただ・・・分からない事だらけで」
○○は別に争いごとを求めてはいない。どうにも、一度火の付いた輝夜は簡単に血を見る所にまで話をぶっ飛ばしてしまう。
そういった話も、ただの勢いから口をついただけなどではなく。この人ならやる、やりかねないではなく間違いなくやる。
そう確信できてしまうから、自分以外の場所に火の粉が飛ぶ事は。どうにかして止めたかった。
○○の理想は、もう少しばかり緩い勢いだった。
クルリと○○の方向に顔を戻した輝夜は、○○の目をのぞく。
その、心の奥底まで覗かれそうな。真っ直ぐに注がれる眼力。そう、この程度でいいのだ。
牛車を操る永琳も、牛の歩みを止めて。横目でじっくりと○○の顔を注視していた。
輝夜が見つめる表情は難しい物だったが。永琳の表情は、相手に思考を悟られないような無表情であった。
(姫様に真顔で見つめられるのよりも・・・・・・何だろう、何で“怖い““恐ろしい”の感情が少ないんだ)
○○はそう思いながら歯を食いしばっていた。何故だかは分からないが、笑みがこぼれそうだったからだ。
不意に、永琳の顔が何かを合点したような表情に。ほんの一瞬だけ変化させた。
そして、ニヤリと。そんな封に笑った顔を、はっきりと○○に見せた。その顔は明らかに、○○に見せるために作っていた。
輝夜から見て、永琳は背中の位置に居る為。そんな従者の淫靡な顔を、輝夜は見ていなかった。
それを良いことに、とでも言えばいいのか。
永琳はアゴを上げて、○○を見下ろすような仕草を見せたりする。
○○は自分の琴線が。とても強く弾かれるのが分かった。
ドクン、ドクンと。心臓が大きく鼓動して出てきた振動が、全身を駆け巡っているようだった。
「○○、顔が赤いわよ。それに、心の臓も大きく動いてるんじゃないの?」
輝夜は○○の顔に更に自分の顔を近づけ、また先ほどのようにクンクンと鼻を利かせる。
だが、今回はそれに留まらなかった。
軽く口付けというよりは、ペロリと。輝夜は○○の頬を舐めてきた。
「っッ!!?姫様!?」
「逃げない!」
狭い籠の中だと言うのに、少しの間合いも許せないのか。後ずさろうとする○○を輝夜は押し倒した。
「何を隠してるの?」
そして、思いっきり顔を近づけてそう問いかけてきた。
視線の端では、声を上げずにクスクスと笑う永琳の様子が見えた。そして、笑いながらもその目ははっきりと○○を捕らえていた。
「今貴方の頬を舐めたけど・・・買わされていないのは多分本当ね。おしろいの感じが無かったから」
そう言って、輝夜はまた○○の。今度は髪の辺りをクンクンと嗅いで来る。
「後匂いもね・・・殆ど貴方の匂いしかしない。肌を合わせてたらこんな物じゃすまないわ」
「だから、買わされていないってのは信じるわ」
その一言に、○○は安堵の溜め息を漏らした。流血の事態は避けれそうだったから。
「でもね、何だか隠されているような気がするの」
「・・・私が、姫様に対して。隠し事を・・・ですか?」
輝夜はコクンと頷く。
「それもあるし・・・分からないって、何が分からないのよ」
輝夜の問いかける姿には、遊郭の時程の棘や憤怒の感情は無い。
ただ、有無を言わさず。自分に全てを答えろと言う意思がありありと見えるだけだった。
この、○○に対して問いかけを続ける。輝夜の聡明な顔付き。
そして、そんな輝夜の後ろでクスクスと笑いながら。○○を見つめ続ける永琳の眼差し。
○○はもっと。出来るだけ長い時間。この二つの顔を見ていたかった。
「答えなさい、○○」
しかし、そんな○○の思いは。答えを早く知ろうとする輝夜は、知る由も無い。儚くも、○○は針を進めるしかなかった。
「・・・・・・姫様。私は男ですよ?」
「遊郭での口付けといい。籠の中でも、私に密着して。あまつさえ、先ほどは私の頬を」
最後まで言い終わってから、輝夜はまた○○に口づけをした。
口を離して、ペロリと自分の唇を舐める輝夜の姿は。色っぽく艶かしかった、欲情しないはずが無い。
「これくらい。○○が相手なら、私はいくらでもできるわよ」そしてまた軽く、○○の口を塞ぐ。
気負いも、恥ずかしさも無く。喉が渇いたからお茶を飲むかのように、簡単に。輝夜は○○との口付けを交わしている。
「だから・・・・・・それが分からないのです。姫様はどうして、私と体をこうも密着させるのに積極的なのか」
次に出す言葉は、○○の中では始めから決まっていた。正確には、籠に押し込まれたあたりから言いたかった言葉なのだが。
その言葉を言うのに、○○はかなりの戸惑いを見せる。
そして、その言葉を頭に浮かべると。○○の体も熱くなっていく。
「ええ・・・・・・ですから」
「早く言いなさい。何が言いたいの?」
何となくだが。輝夜からの命令口調は、耳に心地よく感じられた。
輝夜の命令に、生唾を飲み込み。意を決して言葉を紡ぐ。
「・・・・・・興奮してしまうんですよ、私も男だから!姫様は、私の中ではとんでもない美人なんですから」
「その・・・よ、よ・・・・・・欲情するじゃないですか!!私が、姫様に!」
輝夜はきょとんとしていた、ポカーンと口を開けてもいた。ここまで気の抜けた姿は、○○も始めてみる物であった。
「・・・良いじゃない別に」
「え?いや・・・何故」
声に篭る力も、気の抜けた物ではあったが。内容は相変わらず○○にとって釈然としない物だった。
「何故って言われても・・・だって、私は○○の事が大好き・・・・・・・・・あー!!!忘れてた!!」
一番重要な部分をさらりと流してから。輝夜は重大な事に気づいた、色々と段取りをすっ飛ばしている事に、やっと気付いたからだ。
「あたしまだ○○に告白してないじゃない!!」
輝夜の後ろにいる永琳は、「はぁー」と大きく溜め息を付いていたが。どうにもわざとらしかった。
どうやら、彼女はわざと助け舟を出さなかったようだ。
最終更新:2012年03月16日 12:38