男は綴じた胸の内、想いを揺らしておりました。
女は綴じた胸の内、想いを殺しておりました。
迷いに迷い、先へと着けず、揺れては離れて行くばかり。
しかして心はやがては溢れ、口づけ交わす、月の夜。
糸縫い傷に、刀傷。
舐め合う様に、抱き合って。
それでも奥の、言の葉は。
溢れぬままに、すれ違うのみ。
新月に舞うは刀月、満月に咲くは想影~第三章~
「○○、起きろ。朝だぞ。」
「…何で態々人ん家来てまで叩き起こすかね、この人は。」
私が○○の監視役となり、数週が過ぎた。
相変わらず悪態は絶えないが、今は前のように追い返される事は無い。
少しずつだが、距離が縮まって来ている手応えがあった。
昔の様にとは行かなくとも、いつかはまた、本来の笑顔を見せてくれるかもしれない。
布団から起き上がり、いつもまず彼が手にするのは刀。それを腰に提げ、そして顔を洗いに向かう。
彼にとっては日常の習慣なのだろうが…やはり、刀を身に付けなくとも日々を過ごせる事を望んでしまう。
「また来るよ、○○。」
「はいはい、物好きなこって。」
○○の家を後にし、往来を歩く。
そう言えば、今日は休日だったか。いつにもまして人が多いのに気付く。
平和だ。
しかし、この平和も薄氷の上の物なのだと、あの子が帰って来てから感じる。
幾つかの犠牲の上に成り立つ、束の間の平和。
何も知らなければ、人々はそれに気付く事すらも、犠牲者に感謝の念を抱く事も無いのだろう。
…そう思うと、少し悲しくなる。
ふと往来に目をやると、幾つかの視線を感じる。
そして、密かに響く話し声も。
「またか…あのガキ、冥界の剣士の弟子らしいじゃねえか。」
「ああ。先生自ら監視役を買って出たらしいが、あいつが何か妙な妖術でも使ったんじゃねえか?
先生をたぶらかしやがって、あの化け物め…。」
ああ、またなのか…。
○○の監視役となってから、すっかり日常になってしまった噂話。
いつも通り無視を決め込み、何事も無く私は歩を進める。
あの子の事情など、里の者は何も知らないのだ。ただあの子の歪みばかりに尾ひれが付き、そして悪い噂ばかりが広がる。
言いたければ言えばいい。あの子を前にすれば、何も言えない癖に。
あの子に付けられた、『化け物』と言う蔑称。
それは人でもあやかしでもない、ただの歪な者と言う意味なのだろう。
あの子の悲しみも苦しみも、何も解ろうとしない癖に。
あの子を壊したのは、他ならぬ私達、人里の大人だと言うのに。
平気でそんな呼び名を吐き捨てる者達の方が、私の目には余程歪に映った。
最近、私は自分が解らなくなる時がある。
今まで人里の守護者として、里の為に行動してきた。
しかし、今はそこに疑問もあるのだ。
“私の愛する里は、本当に在るのだろうか?それはまやかしなのではないか?”
○○が里に戻り、里の闇を知ってしまった日から、それはずっと、私の中に影として揺らめいている。
果たしてこの里に光は…いや、よそう。何事にも、明と暗はある。
私はただ、己に従い行動するのみだ。
聞きたくも無い噂話は流れど、それでも里は平和だ。
その平和に何処か冷たさを感じながら、私は帰路へと就いた。
何事も無いように、いつも通りに。
また幾日かが過ぎ、朝は用事により顔を出せなかった為、夕方○○の家に向かった。
庭で鍛練をしている様子も無く、中を覗いてみても蛻の殻。
買い物にでも出たのだろうか?そう思い、暫く待とうかと思った時だった。
「留守に上がり込むとは、いよいよ泥棒の体になり始めたか?」
「ああ、○○。上がらせてもらって………!?」
その声に振り向き目に入ったのは、額から血を流す彼の姿。
何かに当たったのだろうか、流れた血のせいで、片目は塞がれていた。
「一体どうしたのだ!?こんな…」
「どっかのバカが石投げて来たんだよ。物陰からで見えなかったが。
なに、俺が油断してただけだ。大した事じゃねえ。実戦なら死んでたからな、良い薬だよ。」
「見せてみろ…。」
治療をしようと前髪を掻き分けると、そこにはぱっくりと開いた傷があった。
血は今も止まらず、ぼたぼたと○○の頬を流れ続けている。
こんな…酷い…。
「すぐ縫ってやる。少し痛むが、我慢してくれ。」
消毒を施し、傷口を縫い合わせる。
これだけ深い傷であれば、恐らく一生痕になってしまうだろう。
おのれ…よくもこんな下劣な真似を…。
「はぁ…犯人探しならやめてくれよ?それこそバカ共の相手をしなきゃならねえ。
ガキの頃は解らなかったが、あんたは顔に出やすいんだよ。」
「…ああ。」
一度怒りに我を忘れかけたが、○○の言葉で我に返った。
確かにそうだ。私がここで犯人を探し出した所で、その報復はこの子に回ってくる。
それこそ本末転倒。…だけど、納得など出来る筈も無い。
「結局俺を前にしたら何も出来ねえバカ共さ。だからいちいち追い掛けたって……!?」
一度傷を撫で上げ、私は○○を抱き締めていた。
悔しくて、ただ、今にも消えてしまいそうなこの子の存在を確かめたくて。
涙が止まらなかった。
近付けば近付く程、この子の置かれた世界の冷たさが、手に取る様に解ってしまう。
私は近くにいるだけで、結局、何もしてやれていないじゃないか…!!
「…離せよ、血が付くぜ?」
「ああ…すまない。」
慰められているのは、きっと私の方だ。
突き放す様な○○の優しさが、今はただ、痛かった。
「すまないな…○○。また来るよ。」
「ああ。」
私は足早に、○○の家を後にする事にした。
確かに距離は縮んだが…同時に、無力の重さも痛感する事が増えた。
私がしっかりしなければならないのに、情けない所を晒してしまった。今日はもう、恐らくは○○もこんな私は見たくないだろう。
「…先生。」
「どうしたのだ?」
「その…傷、ありがとな。」
戸を閉めようとした時に私に掛かった言葉は、何よりも優しかった。
俯いて、表情を隠しながら。だけど、確かな感情を以て紡がれた言葉。
それだけで、何かが救われた様な気持ちになれた。…単純だな、私は。
「気にするな、また何かあったら言うと良い。何が起きても、私だけはお前の味方だ。」
「………。」
それは、自分に言い聞かせる為の言葉だったのかもしれない。
努めて優しい笑顔を向けようとしたが…きっと、私はぎこちない表情を浮かべていただろう。
最後まで彼は顔を上げないまま、私はそっと戸を閉め、彼の家を後にした。
「………!!!」
気を抜いた瞬間に、思わず歯を喰いしばった。
流石に痛てぇな。我ながら、よく耐えたモンだと思う。
あの人には見付かりたくなかったが、案の定帰ったらいやがった。つくづく間が悪い。
また泣かせてばっかだな、結局。
傷口にしろ、胸にしろ、酷く鼓動がうるさい。
本当は嬉しいんだ、あの人に会えるのが。
あの夜から、思い出とは違う感情が俺を掻き乱すから。
…人を好きになるって、こういう事なんだろうか。
だから尚更、遠ざけたかった。
こんな俺に関わって欲しくなくて、何度だって刀を向けて。
俺に近付いても、離れても、あの人は傷付いてしまう。
妹紅にどやされて、少しだけでも素直になろうとしたけど…俺が手を出さなくても、俺の事情が今度はあの人を傷付けて行く。
情けねえよ。師匠がくれた刀とは、逆を行く主だなんて。
ずっと、今だって迷いを断ち切れてないままで。
刀を抜いて、じっと刃を見る。
狂っちまった俺でも、本当に自分が斬りたいモノぐらいは解る。
こいつは…いや、こいつを振る俺は、いつかそれを斬れるだろうか。
答えなんて見えないまま、気付けば外は明るくなっていた。
クソみてえだな。
自分の中とは真逆な能天気な朝陽がやたらと目に沁みて、ひりひりした。
だから、この涙はそれのせいだ、きっと。
きっと。
○○の額には、あの日、私が縫い合わせた傷が残った。
彼が髪を伸ばし始めたのは、それ以降の事。
それはやがて肩に、そして背中に達し、傷はおろか、その表情を隠しがちなものになっていた。
気付けば、3年が過ぎていた。
だけどあれ以降は何も変われないまま、今も監視役として彼を見守る日々。
○○を退治屋と言う鎖から外す糸口は、具体的には掴めないままだ。
そして最も来て欲しくない瞬間が、彼に依頼を告げる時。
退治に出向く時は、普段降ろしている髪を束ね、額の傷が顕になる。
何より、瞳があの狂気に満ちたものに変わるのだ。
彼を見送る時、その2つが、私の胸に棘として刺さる。
私はいつも、「必ず生きて帰って来い。」と声を掛ける。
独りでは無いと、帰りを待つ者がいると解って欲しい。
彼が本当に狂気に堕ちきってしまわぬよう、人である事を捨ててしまわぬよう願いながら、言葉を掛けていた。
「遅いな…何も無ければいいが…。」
里の門の傍に立ち、○○が帰るまで待ち続ける。
私にとっては、最も長く感じられる時間だ。
門を叩く音が響き、守衛がその重々しい扉を開ける。
ぬらりとした動きで、酷く重い空気を纏いながら、一人の剣士がその門をくぐる。
今日もまた、血染めの姿を引き摺りながら。
「○○、よく生きて帰って来てくれた…。」
「…ああ。」
互いに、喜びの顔は無い。
憔悴しきった彼の姿を見ると、やはり胸を締め付けられてしまうのだ。
成長した彼は、もう青年と呼べる風貌となっていた。
しかし、16と呼ぶにはあまりに大人びてしまったその姿が、尚痛々しくも見える。
時刻は夕刻で、近くには行き交う人々の流れ。
○○と同じ年頃の少年少女が手を繋ぎ、恋に花を咲かせていた。
彼は人並の幸せを、手に入れられるのだろうか…。
「疲れているだろう、今日は私が食事を作ろう。」
「ああ、恩に着る。」
彼の後を付いて行こうとすると、夕陽の赤と血染めの姿が重なり、一瞬、その姿を見失いそうになった。
大丈夫だ…例え彼の存在が否定されたモノでも、必ず私が見付ける。
絶対に、見失うわけには行かないんだ。
○○の家に着いた私は、湯を沸かし、入浴を促した。
籠に脱ぎ捨てられた衣服を浴衣と入れ替え、脱衣所に置いておく。
少しでも、彼が血を見る事が減るようにと考えての事だ。
仕事に纏って行った衣服を手に取り、それを広げて翳す。
元は違う色だったが、今や端々まで赤く、翳すと血が床に垂れた。
これが全て、今日彼が斬った者達の血なのだ。
そして、いつか○○を妖怪へと引き摺りこむ呪いでもある。
その蝋燭の灯りに映える赤は、私を嘲笑っているかの様に見えた。
「上がったぜ。そんな汚ねえモンまじまじと見て、どうしたんだ?」
「…!!」
心臓が跳ね上がった。
振り向けば、布で髪を拭いている彼の姿。何故だろう、やましい事は考えていない筈なのに…。
「何突っ立ってんだよ?疲れてんだ、ちょっと座らせてくれ…。」
「あ、ああ、すまない…。」
囲炉裏を挟む形で対面に座ると、刀を取り出し、刀身に付いた血を拭き始めた。
あの刀がある限り、どれだけ私が手を尽くしても、彼から血やその匂いが遠ざかる事は無いのだろう。
ふと刀から彼へと視線を戻すと、また肉体的に成長したのが見て取れる。
濡れた長い黒髪が線を描き、それは鎖骨を撫ぜ、浴衣の開いた胸元まで弧を描く。
をれがより眼鼻立ちの輪郭を描き、そして男としての色香を感じさせた。
…って、な、何を考えているのだ私は!!よりよって彼に対して…。
「…っと、熱はねえかな…。」
「ひゃあっ!?」
「痛てえ!?」
し、しまった、思わず張り倒してしまった!!
まずい、すっかり気が動転してる…。
「痛ぅ…ひどくねえか?ぼーっとしてたから様子見ただけなのによ…。」
「い、いきなり近付いたらびっくりするだろう!!大体私だから良かったが、お前は常識と言う物がだな…!」
「熱計んのに近付かねえでどうすんだよ…。」
すっかりしどろもどろになってしまった私を、○○は呆れながら見つめている。
腰に手を当て、溜息をつきながら見下ろす視線。
こうして見ると、本当に背が高くなったな…。
「ったく…いつまでもガキじゃねえんだからよ。少なくとも、これが出来るぐらいにはなったぜ?」
「あ…。」
彼の手が、私の頭を撫でた。
その手はかつての物よりずっと大きく、そして皮の固い、一人の男の手。
そして私の目に入ったのは…頭一つ高い位置から見下ろす、彼が幼少の頃以来見せなかった、本当の笑顔で。
「○○…お前…。」
「ん?何かあったか?」
気付いていないのか…今、自分が見せた顔に。
だけど、それでも良かった。
私といる時に、幸せそうな笑顔を見せてくれた。今はそれだけで、胸が満たされたから。
「いや、大丈夫だ…何も無い。」
「そうか。まあ、あんまり無理はしない方が良いぜ。
せっかくだが、今日は帰んな。」
背中を押され、家を後にする。
戸を閉めたのを確かめた瞬間、気が抜けてへたり込んでしまった。
そうか、もう、一人の男なのだな、○○は…顔が熱い。
「…と、言うわけなのだ。
妹紅、私は教育者失格かもしれない…。」
「何いきなり落ち込んでんのさー、さっきまでのろけ放題だった癖にー。」
「も、妹紅!!」
数日後、久しぶりに妹紅と酒を交わしていた私は、あの日の出来事を話していた。
しかし失敗だったか…妹紅が意地の悪い笑みを浮かべた瞬間、からかいの弾幕を喰らう羽目になった。
うう…思い出す度顔が熱い。
「こりゃあいい肴になるよ、“教師と不良生徒、禁断の愛”なんて天狗にすっぱ抜かれたりしてねえ…ひひひ。」
「…ふん!!」
「あだっ!?」
一撃頭突きをお見舞いしてやった。
少々おしゃべりが過ぎるぞ、全く…私はそんな…。
「いたた…慧音ぇ、そんな怒んないでよー。
…とまあ冗談はさて置いて、別に良いとは思うけどねぇ、私は。」
「いや…仮に私の気持ちがそうだとしても、な。
私と○○では歳も相当違うし、何よりな…。」
そうだ、私は○○に恨まれているはずだろう。
第一、仮に憎しみが風化していたとしても、彼にとっては、私は異性とは見られないはずだ。
これはきっと、抱いてはいけない感情なのだ。
「寿命や気持ちと立場の問題かい?慧音も随分後ろ向きになったねぇ…嫌いな奴にそんな事する奇特な奴はいないさ。
ましてやあれだけ強情なクソガキがだよ?大丈夫だって。」
「しかし…。」
「はいはい、言い訳はナシね。
こう考えてみたら?“寿命が長いって事は、その分幾つになっても乙女だ”って。
半人基準なら充分若くて綺麗な時期だと思っとけば、大した事じゃないって。」
「だ、誰が年増の行けず後家だ!!」
「いや、そこまで言ってないって。気にしてたの…?」
「う…。」
「まあまあ、この際逆光源氏でも狙っちゃいなよ?
10年耐える頃には、きっと丸くなってるって。」
「……。」
妹紅には、○○の行く末だけは話していなかった。
きっと妹紅がそれを知れば、○○の為にこそ、その事実を告げるだろう。
そうなれば、○○の心は暴走してしまうかもしれない。
それを恐れた私は、誰にもその事は話していなかった。
「そ、そうだな。そうと決まれば今夜は飲むぞ!!
ミスティア、熱燗一つ!!」
「お、行っちゃうー?」
一瞬見えかけた暗闇に目を逸らす様に、私は自らを酔わせた。
度の強い熱燗は、ひどく胸に沁みた気がした。
「あーあ、何やってんだ俺…。」
眠れない。
あの日の事を思い出すと、どうにもダメらしい。
嬉しさ半分、後悔半分って所か。やれやれ、意地張り続けんのも限界かね。
手をそっと天井に翳して、指の隙間から薄闇を覗く。
頭の中に浮かぶのは、あの髪の感触と、間近で見たあの人の顔。
もっと、触れていたかった。
声を聞いていたかった。
叶うなら、抱き締めてしまいたかった。
だけど…それだけは、越えちゃいけない。
あの人が縫ってくれた傷に触れて、優しい手を思い出す。それだけで良い。
温もりを欲しがる心を斬っちまえるなら、どれだけ楽になれるだろうな…。
“ドンドンドン!ドンドン!”
…空気読めや。
ったく、一体誰だこんな夜中に。
ああもうしょうがねえ、一発脅しでも掛けるか…。
「何?人の安眠邪魔する奴は殺すよ…はぁ?」
「すいませーん、酔っ払いを保護してくれる親切なお家はここですかー?」
妹紅じゃねえか、なんでまた…。あー、うぜえのが来た。
「…迷惑な酔っ払いをもれなくブチ殺す処刑場ならここで合ってますがね、姐さん。
あんたなら三回ぐらい殺っても復活出来んだろコラ。蓬莱人のタタキになりたくなきゃ帰れ。」
「いんや、泊めて欲しいのは私じゃないよ。慧音ー、ほら、○○だよー。」
「おおー!やっろ出らか○○…。」
「げっ!?」
はぁ…この白髪女、絶対狙ってんだろ。ニヤニヤしやがって。
なんつー爆弾を連れて来やがった…。
「○○ー、なんらかぐるぐるしれ気持ち良いのらが…。」
うわ、完全に終わってやがる。
どんだけ呑んだんだか…顔も首も赤いし、こりゃヤバそうだな。首どころか胸まで…
「…って近っ!?抱き着いてんじゃねえよ!!」
「良いらないか、くらくらするのらから…。」
いきなり人に胸押し付けやがって、刺激が強すぎんだよ。
クソッ、面倒なの連れて来やがってこの…。
「なーにー?慧音の胸に見とれちゃった?○○も男の子だもんねー。」
「何らと?そうか○○、ならばとくと味わうのだ!!」
…こいつはアレか?火を点けるのは妖術だけじゃねえのか?こ、殺してえ…。
「べ、別にそんなんじゃねえよ。大体俺が泊める義理自体だな…」
「そっかー、退治屋さんだから、家に乗り込んだ悪い半人半獣を退治しなきゃだよねー。
超強い 股 間 の 名 刀 、持ってるもんねー。
でもそれぐらいで真っ赤になってちゃ無理だね。あ、もしかしてあんたって童貞?」
…ああ。こいつ、殺そう。
「ほー、流石に1000歳越えのアバズレ様は年季がちげえみてえだな。
…だったら遠慮無くてめえの腐った脳ミソの貫通式してやんよコラアアアアア!!!!!!」
「真剣!?やば、やりすぎた!!」
「待てやこのアマアアアアア!!!!!」
チッ…逃げ切られちまったか。
まあいい、今度会ったらタタキにしてやろう。誰も喰わねえけど。しかしまあ…
「よく寝てやがるな、この酔っ払いは…。」
まずは玄関先に寝っ転がってるゴミ掃除からか…はぁ。
取り敢えず布団まで運ぼうと担ぎ上げてみると、随分と軽かった。
そうは言っても一応女だし、今は俺の方がデカいもんな…昔は随分デカく思ってたが。
“むに…。”
………。
いや、背中に何か当たってんのは気のせいだ。
気にしたら負けだ、負け。さっさと運んじまうか…。
「う…ん…。」
「起きたのか?ったく、呑みすぎだぜ。」
「○…○…。」
「何だよ?」
「きもちわ…おろろろろろろろろ!!!!」
「コラアアアアアアアアアアアアアア!!!????」
ああ…やっぱ今日は厄日だわ…。
「すぅ…すぅ…」
「はぁ…あれだけやってよく寝やがってまぁ…。」
風呂沸かし直さなきゃだわ着替えなきゃだわ掃除しなきゃだわ、お陰ですっかり目が覚めちまった。
妹紅も妹紅だ、あの確信犯が。
「………。」
こういう時だけは女の子、って感じだな。
いつか俺がされたみたいに、眠るこの人の髪に触れる。
頭じゃ解ってるけど…目の前にいると、やっぱ駄目だな。こんなにも、胸が締め付けられて。
こんなだから俺の中の迷いは、今も斬れないままだ。
この3年で、何匹妖怪を殺したのかは解らない。
おかしな話だよな、自分以外の生き物を殺せる癖に、自分の迷いは斬れないなんて。
化け物が恋をするなんて、な。本当は、あっちゃいけねえんだ。
いつかこの気持ちも斬り殺さなきゃならないなんて、解ってる。
だけど…せめて今だけは、我儘を許してくれ。
「ん…○、○…?」
「うんうん唸ってたモンだから、どうしたかと思ってよ。ったく、人の肩ゲロまみれにしやがって。」
「へ…?
こ、ここはお前の家じゃないか!?何故私は…確か妹紅と酒を…あーーー!!!す、すまない!!私は何と言う事を…。」
「おいおい、落ち着けよ…。」
自分じゃ気付いてねえんだろうが、つくづくころころと表情が変わりやがる。
あーあ、何でこうもこの人は可愛らしいかね。
慌てふためくのをあやすように、ぽん、と頭に手を置いた。
ダメだって解ってんだけどな、どうにもこんな顔されちまうと。
「ん…。」
俺の手を受け入れる様に、彼女は黙り込んだ。
髪を梳く指が頬に伸びて、そして見えたのは、首筋の薄い傷。
かつて俺が付けた、この人に向けた刃の痕。
まだ残っちまってたのか…。
痛みがまた胸に絡み付いて、ひどく切なくさせる。
こんなにもいとおしい。なのに、俺は何度も刃を向けた。
呪いの言葉を吐いて、傷付けて。だけど、それでも見捨てようとはしてくれなくて。
本当に馬鹿だよ…あんたは。
「…!」
ただ、力一杯に抱き締めた。
相当ビビったんだろう、彼女の肩がびくりと震えたのが解る。
…そりゃそうだよな、今までが今までだ。こんなん、都合が良すぎらあ。
暫く無抵抗だった彼女の腕が、胸の中で動く。
もがこうとしてるんだろう、さて、頭突きの一発でも来るか、それともビンタか…。
「○○…もっと近くに。」
返って来たのはその言葉と、抱き返してくる腕だった。
子猫が甘えるみたいに、彼女は俺に身を寄せる。
頬を撫でてくる片手が上に伝い、指先が触れたのは、瞼の上の傷。
その両手が俺の長い髪を掻き分けると、彼女はその傷に口づけをした。
この人の香り、頬に触れる髪の流れが、血をざわつかせて行く。
「意趣返しなら余所でやってくれよ…やり過ぎたか?」
「冗談で女を抱き締めるなら、お前はいずれ刺されるだろうな。」
薄闇に浮かぶ頬笑みは優しくて、その瞳には涙が滲んでいて。
だけど、それでも互いに『その言葉』を口にする事は無くて。
初めて交わしたくちづけは。
悪い夢から醒めた後に似た、何処か空虚な味がした。
「はあ…。」
溜息を付きながら、とぼとぼと通りを歩く。
酒の勢いこそあったが、あの夜、とうとう○○に口づけをしてしまった。
それでも尚、気持ちを伝える言葉は出ないままだった。
互いの立場が、尚も歯止めを掛けてしまう。
「これで、良かったのだろうか…。」
彼の気持ちを思えば、これが正しいのかも知れない。
あの時抱き締められた時だって、単に彼が惑わされただけとも思えて…それはとても、切なく思えた。
だけど…。
「これで、良かったのだな…。」
立ちはだかる壁は、思うよりも大きい。
それに、私は人間ではないのだ。
いつか退治屋の宿命から彼を解き放って、そして普通の人間の娘と恋をして…私は、その行く末を見守ればいいのだ。
そうだ、教師だからこそ、苦しむ教え子を手助けするのは当たり前の事じゃないか。
だからこの想いも、胸にしまって…。
「好きです。」
…告白か、また気まずい場面に通りかかってしまったな。
同じ言葉を彼に告げられたなら、どれほど良いだろうか。
どれ、一体幾つぐらいの子達だろう。
私は声の方を向いて、その光景を見ようとした。
「…○○。」
少女の目の前には、見慣れた長い黒髪の剣士。
少女はなけなしの勇気を振り絞ったのだろう、涙を浮かべながら、緊張で肩を震わせている。
ああ…良かったじゃないか。彼を見ている存在は、私以外にもいたのだ。
きっと心配は要らない、私は彼を解き放つ努力をするだけで…
「…ごめんな、好きな人がいる。」
「…はい。」
振られてしまったか…ん?好きな人がいる?
そうか、あの夜の事と言い、○○もやはり一人の男に…
“ぬるっ…”
ふと掌に違和感を覚えると、掌は血塗れになっていた。
何処か切ってしまったのか?そう思いよく見れば、それは爪が喰い込んで出来た傷。何故こんなになるまで手に力を…
「ん?目が…」
そうして掌を見つめていたら、今度は視界が滲んできた。
こすると手には水滴が付いて…ああ、何で私は泣いているのだろう。
…簡単じゃないか、本当は解っているだろう。
気持ちが届かなくて悲しいって、彼に手を出したあの少女が憎いって。
ずっと、ずっと離れたくないって。
何も、ごまかし切れてなどいないのだ。
彼を解き放つのも、彼の手を掴むのも、本当は私が良いんだ。私であって欲しいんだ。
大体、見ず知らずの女に何が解る?
何も知らない癖に。彼の痛みも、その歴史も、負わされた未来も。
その剣に守られている、自らの命も。
私なら、全てを解る。
私なら、あの傷も癒せる。
あの額の傷は、私が縫い合わせた物だ。
この首の傷は、彼が私に付けた物だ。
互いの痕を残し合う程に、強く、結ばれている筈なんだ。
泣きながら少女が帰ったのを見計らい、私は久々に力を使った。
まず、少女の○○への心という歴史を消し、そして、彼に告白したという歴史も消した。
これで、あの光景も彼の中から消える事だろう。
私だけで良い。
彼の綴じた心を開くのは、私だけで…!!!
自分をごまかすのは、もう止めだ。
さあ、○○…私が救い出してやる。
だから、受け入れてくれ。この想いも、今度はちゃんと伝えるから。お願いだ、○○…。
誰もいない林に立ち尽くす彼女は、泣きながら笑っていた。
皮肉にも自身が最も恐れ、そして心を痛めた、彼の殺しの時の表情と同じように。
そこに返り血は無く、彼女は身綺麗なまま。
しかしその胸の内は、彼女自身の心から流れた血で、真っ赤に染まっていた。
続く。
最終更新:2012年03月16日 12:52