腕が刃となった、一匹の化け物がいました。

その腕は、触れるモノ全てを切り裂きました。

孤独に震え、手を伸ばしても、その先は皆、赤色ばかり。


女が一人、おりました。

女は、化け物と恋に落ちました。

抱き合う程に、身が裂かれようとも。




その傷痕さえ、彼女は愛しました。








新月に舞うは刀月、満月に咲くは想影~第四章~









靴が砂を噛み、ざりざりと音が鳴る。
空にはぽっかりと半月が浮かんでいて、それが私の影を地面に描いていく。

踊る様に、期待にくらくらと酔いしれる様に、ゆらりふわりと舞う影。
近付く程に胸が高鳴って、誰もいない道も寂しくは無かった。

見慣れた玄関を前にして、一度立ち止まる。
私は力を使い、一つの歴史を消した。

“今夜、私がここに来たと言う歴史。”

これなら誰にも解らないから。
邪魔は、させないから。

指を掛け、ゆっくりと、静かに戸をずらす。
この向こうには、私の愛しい人が。

一度タガが外れてしまえば、あっさりとためらいは消えて行った。

とても簡単な、単純な事なのだ。
ただ、心を向けてしまえば良いのだから。

惑わせて、私に沈めてしまえば良いのだから。

彼が寝静まっているのを確かめ、そっと部屋に忍び込む。
相変わらず閂も掛けないで、無防備だな。まだ泥棒は斬ってしまえば良いと思っているのか?

布団の傍には漆黒の刀が置かれ、それが月明かりに照らされ、艶めかしく輝く。
隣で歪んだ花の様に乱れる、彼の黒く、長い髪と同じように。

そっと手を伸ばし、その瞼を塞ぐ。

余計なモノは見えなくて良い。
ただ、私の温度と、声と、心と。それ以外はお前の世界には要らない。
その刃に隠した優しさも、孤独も、私は全て知っている。


____いっそ、その目を潰してしまえば、お前の世界は私だけになるのだろうか?

____その刀を壊せたのなら、その手は私の手を握ってくれるのだろうか?

____その命を奪えたのなら、最期の記憶は私で…。




「…あんたか。」


瞼に掛けた手を掴まれ、それを払うと彼は上体を起こした。

ぱさりと降りた長い髪と、低く気だるげな声が私の目に、耳に触れる。
それだけで胸が締め付けられて、切なくなって、暖かくて。


「どうしているかと思ってな。どうだ?何か変わりは無いか?」

「こないだここで酔っ払いが暴れた以外は無いな。…様子見にしちゃ、随分遅い時間じゃねえか?」


彼が突き出して来た懐中時計は、日付を既に跨いでいた。
それはそうだろう、この時間を狙ってきたのだから。

燐寸を擦り、燭台へとその火を落とす。
ゆらゆらとゆらめく蝋燭の灯りが鋭い双瞼を照らし、その瞳の奥には、私の姿が映る。
そこに映る貌は、とても嬉しそうなのに、何故か泣いているかの様にも見えた。

少しずつ距離を詰めて、彼の髪に触れて。
そして、絡み付く様に抱き締める。

離さない。
その傷も、心も、何もかも私のものに。

彼の手が私の肩に掛かり、押しのける様に身体を離そうとする。
近付くなと、これ以上触れてはならないと、そう視線は警告を告げてくる。


「冗談だろ?
…これ以上はやめときな、俺も本気になっちまう。」

「………。」


何を恐れているのだろう。
何も、怖がる必要など無いと言うのに。

彼は、手負いの獣に似ている。
人並外れた強さの裏で、その心は何処までも脆い。

寒さに震える子猫の様な、その心の奥。
ただ、そこまで手を伸ばして、暖めたいだけなのに。

肩を押さえ付ける手を払い、その頬に触れ、私はまた、額の傷に口づけをした。


「私は…本気だぞ?」


今、私はどんな顔をしているのだろう。
一人の女の顔なのか、それとも、飢えた獣と同じそれなのか。

この身だけでなく、きっと心も半身は獣だ。
心の飢えが腹を空かせて、彼の中を、何もかも私で塗り潰してしまえと騒ぎ出す。

動揺しているのか、いつの間にか、彼の肩は力が抜けていた。
軽く押すだけでその身は態勢を崩し、私はその上に跨る様に肩を押さえ付ける。

両手でその頬を、髪を撫ぜ、彼の耳元に近付く。

もう、何も迷う事など無い。
私の心は、既に決まっているのだから。


「…○○、愛しているよ。」


か細い声で、だけど、強く。その言葉を口にする。
彼は一度その目を見開くと、すぐに目を細め、何かを諦めたかのように溜息をついた。


「まさかあんたから聞くとは思わなかったよ…。
ずっと、言うつもりは無かったんだがな。だけどもうダメだ。

…その言葉、そっくり返させて貰うぜ?」


皮肉交じりな、だけど、優しい頬笑みと共に返ってきたのは。
すっと、待ち望んでいた言葉。


ああ…ああ!!

やっぱり、何も恐れる事など無かったんじゃないか!!
彼を解るのも、愛されるのも、私だったのだ!!
もう大丈夫だぞ…○○。

脅えないでいいんだ、ずっと、私が傍にいるから。

「ふふ…そうか。」

唇を奪い、深く、舌を絡めた。

何も遮るものは無い。
ただ、互いの求めるままに。

首筋の傷に彼が口づけたのを最後に理性の糸は千切れ、後はただ、二匹の獣がそこにいるだけだった。

私とて長く生きている手前、初めてでは無い筈なのに。
何故だろう、純潔を散らした遠い昔よりも涙が溢れていて。

嬉しいのか、哀しいのか。
或いは、その両方なのか。

全身に感じた彼の体温と存在を前に、それは最後まで解らなかった。

傷を舐め合い、絡め合うだけの、二匹の獣の宴。
やがてそれも果て、いつしか混濁した意識の奥へと私は呑まれて行った。


繋ぎ合った手だけは、最後まで離さないままで。






夏は揺らぎ、秋は暮れ、冬が過ぎ、春が舞う。
そうして一年、二年と過ぎた。

関係が深まって以来、彼は変わった。
依頼に向かう時の目さえ、それまでとは違う、何か意志を宿したものへと。

彼を縛る鎖は、断ち切られた訳では無い。
それでもその変化は、私には嬉しいものだった。

だけど…一つだけ、不満がある。


「○○。」

「なんだ、“先生”?」


私の名を、彼は決して呼んではくれない。
「癖が抜けないから」と彼は言うが、やはり、まだ隔たりがあるような感覚を覚えてしまうのだ。

何も遠慮など、いらないのに。
慧音と言う私の名を、ただ口にするだけだ。

それだけで、もっと近くに寄れる。
私の愛する声でその名を呼ばれるだけで、もっと、もっと満たされて行けるのに…。






ある日の事、私は寺子屋での業務を終え、休憩を取っていた。

子供達もとうに帰り、私以外はここにはいない。
住居としている離れへ戻れば、より静かな静寂が広がるばかりだった。
いつかはここで、彼と暮らしたいと願う。

そうだ、○○がここで暮らす日が着たら、体育の一環に剣術を取り入れようか。
○○が指南をすれば子供達の護身に役立つし、彼の心もきっとその中で解れる。

そうして寄り添って、二人で暮らせたのなら…それはとても、幸せな事だ。


「夜分遅くに失礼致します、先生。」


玄関から響いた声で、私は我に返る。
この声は里長か…はて、何か重要な事があったろうか。

「先生、○○に依頼をお願いしたいのですが…。」

「どうしたのですか?あなたが来るとは珍しい。」

仲介を頼むのは、いつもなら守衛だ。
しかし今日来は里長直々の依頼。何が起きたのだろう…。

「うむ、門に矢文が刺さっておったそうでな…その内容が…。」

「…見せていただけますか?」


その文を手に取り、目を通す。
それは赤い字で書かれたもの。これは…血文か?


“退治屋○○に、一対一での決闘を申し込む。
期日は本日夕刻。場所は××峠の桜の下。

尚、来なければ手下の妖怪50匹を人里へと差し向ける。
必ず、一人で来るように。誰かは来れば解る。”


「これは…。」

「今や○○は妖怪の中では、悪い意味で名の通ってしまった者。怨みを持つ妖怪も少なくはありませぬ。
恐らくは、その中の者では無いかと…。」

そうか…○○が退治屋となり、もう5年が経つ。
更に斬り殺した数は増え続け、今や妖怪からさえ『血色の化け物』と呼ばれ、恐れられている始末だ。

少しずつ優しさを見せてくれてはいるが、やはり現実は…。


「解りました。○○に伝えましょう。」

「はい、ありがとうございます…。」


胸騒ぎがする。
これだけ尾ひれが付いてしまった彼に決闘を申し込むのは、余程腕を試したい者か。
或いは…並々ならぬ怨念を、彼に抱える者か。

酷く重い気分を抱えたまま、その依頼を彼に告げる事にした。



「…決闘、ね。思い当たる節なら腐る程あるが。」

「………。」

淡々とした表情で果たし状に目を通し、彼はすぐに仕事の準備に入った。

血文と言う事からしても、怨みの深さは相当なものだと言う事は解る。
しかし慣れた物だと言わんばかりに、あっさりとその文を火にくべて燃やしてしまった。

普段決して口にはしないが…吐き捨てられた怨みや因縁は、恐らく相当な数なのだろう。
…それは恐らく妖怪だけに限らず、人間からもだ。

「一人、サシで殺し合いたいって言いそうなのがいたしな。尤も、そいつが生きてればだが。
まあ…殺すだけさ。くく…。」

一瞬浮かんだのは、彼が少年の頃に浮かべていた狂笑。
愉しそうで、そして哀しそうな、血に餓えた獣の顔。

未だに彼の中の悪鬼は、深く息づいているのだ。

また…また遠くなってしまうのか。

彼の背中にすがり付いて、私は震えていた。
今にも消えてしまいそうな、その大きな背中に。

「○○…死ぬな。絶対に生きて帰ってくれ!!」

「…ああ。」

失いたくない。
悪い予感が胸に絡み付いて、怖くて。

家を出る後ろ姿は滲んで、形を亡くして行く。
ただ、それを見送る事しか出来なかった。


死なないで…行かないでくれ…○○…。









「………。」

桜の花弁が舞う木の下に、一人の剣士が立つ。

その表情は静かで、激情の波などは一切見受けられない。
視線の先には一つ影が映り、それがゆらり、ゆらりと、ゆっくりと近付いて来る。

その影は、金色の髪に赤い瞳を持つ、一人の男。
その姿から、彼が人では無い事は容易に見て取れた。


「やっぱお前か…妖怪がたかが5年でそんだけデカくなるなんざ、俺は相当好かれてるらしい。
お前らが身内の敵打ちとは、一体何の冗句よ?」

「意外だなぁ、覚えてるなんて。
妖怪は心の生き物だよ?お前を殺したいってずっと思ってたら、随分強くなれたよ…親兄弟は、皆あのまま死んだけどね。」

「そいつはどーも。あのまま素直にお前も死んどきゃ、御家族揃って彼岸旅行だったのにな。
…忘れるかよ、記念すべき俺の初仕事の的だぜ?」


進み合う歩はゆっくりと、しかし、その足音は次第に意志の強さを増す。
そして互いの口元は耳まで裂けんばかりに弧を描き、狂笑と共に、合図を口にする。


「「じゃあ、殺ろうか。」」


その刹那、血の花が舞った。




「………。」

「……ははっ、僕の負けだな。」


桜の野に、傷だらけの男が二人。

一人は左目から血を流す、人間の剣士。
そしてもう一人は片腕を無くし、斬り裂かれ倒れ伏す、妖怪の青年。


「片目持ってかれるとはな…やるじゃねえの。」

「それだけ…だろ?何でだ、何で僕が人間のお前に勝てない…。」

「さて、ね…まあ、中身はお前らと大差ねえよ、俺は。
俺の二つ名は知ってるだろ?“血色の化け物”って。」

「………。」

彼は刀を降り、血を払う。
舞い踊る桜の中にあっても、その雫は濃い赤を放ち、地面にその痕を描いた。

「…俺にもな、守るモンはある。
そいつ以外は心底どうでもいいし、そいつの為なら外道にだってなるって決めてる。
狂ってんだろ?だから俺は人でも妖怪でも無い、ただの化け物で良いのさ。」

「…守る為に、僕らを殺したと?
僕らはただ、死なない為に人間を食べようと、必死だっただけなのに…僕の親だって…。」

「………。」

その問い掛けに、答えは無い。

長い黒髪に隠され、彼の表情は伺い知れない。
ただ、その影には、複雑に絡んだ感情が揺らいでいた。

「…お前の親父、最期までお前ら庇おうと必死だったよ。あん時の傷はまだ腕にある。
だけどな…それでも殺った。譲れねえのは、お互い様だからよ。」

「そう、か…確かに狂ってるよ、お前…。」

「はっ…だから言ったろ?化け物だって。
…悔しけりゃ、また殺しに来い。お前じゃ俺には勝てねえよ、今のままならな。」

彼は刀を収めると、妖怪に背を向けた。
その背中は、何故かとても脆いものに妖怪の目には映った。


“守るモノ、か…僕にはそんなものは無いな…。あるなら、それは…”


にたりと笑みを浮かべると、妖怪はその腕を掲げた。
指先から爪が伸び、それは鋭利なものへと変わる。


「ひひ…僕を支えるのは、やっぱり怨みだけだよ。」


腕が伸び、○○の背中目掛けてその爪が襲いかかる。

「!!」

気付いた頃には遅く、もう避ける事は叶わない間合い。
眼前にその爪が迫ったその時。





「____○○!!」




彼をかばう影から青銀の髪が揺れ、そして血が飛び散る。
背中に傷を受けた彼女は倒れ伏し、それは走馬灯の様に、ゆっくりと○○の眼に映った。





「____慧音!!!!!」




彼が初めて彼女の名を呼んだ声。
その声は、意識を無くした彼女に届く事は無かった。




「慧音!!おい、しっかりしろ!!」

息はまだある。
しかし意識は無く、背中に受けた傷はとても深いものだった。

彼の両手は血に塗れ、それは腰に刺した刀の柄さえも濡らす夥しさ。
柄に巻かれた黒い糸を、その血がより赤黒く染め変えて行く。


「ひゃひゃひゃ…何?その女がお前の守るモノ?
丁度良いなあ…どの道お前の絶望顔が見れるなんてついてるよ…。」

倒れ伏したまま、妖怪はけたけたと嗤う。
彼にとっても最後の力だったそれは、確かに○○の守るモノを奪った。
その事実に、何処までも愉しそうに。

「………。」

慧音をその場に寝かせると、ゆらりと彼は立ち上がる。
俯き、長い髪に隠されたその表情。
それは妖怪の方へ向き直ると顕となり、それを見て彼はより愉悦の笑みを深めた。

暗く、そして生気の無い表情。
絶望を通り越した、それ以上の何かに達しているその表情は、やがて小さな笑みを形作る。


「はっ…だから言わんこっちゃねえ…。」


自嘲の表情を浮かべた“それ”は、ゆっくりと妖怪の元へと近付く。
妖怪は力無く立ち上がり、その歪な笑みを深くする。


「ひゃひゃ…ねえ、どんな気分?大切なものを壊されるのって?解ったでしょ?あひゃひゃひゃひゃ!!!」

「…確かに最悪だな。お前の気持ちはよーく解ったぜ…。」


一度俯き、血に塗れた手で、血に塗れた柄を握る。
そこに一切の力みは無く、そして迷いも無かった。

「ついでにお前も殺してやるよ…これで僕の復讐は終わりだ!!」

「そうだな…だけどよ。」

「……!!」

顔を上げた彼のその表情に、妖怪は戦慄した。

それは人のモノでも無く、血に飢えた妖怪のモノでも無い。
狂いの笑みは無く、悲しみも無く。

あるのは何処までも澄み切った、純粋な『殺意』。


「ひっ…あ…。」

「妙に頭がすっきりしてんだよ…なんつーの?身体が軽いって言うかさあ…。」

「こ、来ないで…。」

「やっぱいいや、二度とお前のツラは見たくねえから。」

「ひ…ば、ばけ…」




「死ね。」




死の直前、妖怪の口は、確かにその言葉を形作った。

『化け物。』

○○の姿に対する、純粋な恐怖の言葉を。


血と肉が飛び散り、妖術の炎が更にそれを焦がす。
後には妖怪の塵さえ残らず、ただ焼け爛れた野が広がるばかりだった。

立ち尽くす彼の表情に一切の感情は無く、傷付いた慧音を抱え、彼はその場を後にした。







「○○!!」


飛び起きた私の目に入ったのは、見慣れた自室の光景。
夢…?いや、だけどあれは…。

「っ…!!」

直後、背中に激痛が走った。
これはあの時の傷…あれはやはり現実だったのだ。

じゃあ、○○は…?

「慧音、目が覚めたのかい?」

襖の音と共に現れたのは、妹紅だった。
世話をしてくれていたのか…一体誰がここまで。

「○○に頼まれたんだよ。良かった…あんた一週間も眠ってたんだよ。」

「そうか…ありがとう。
…そうだ!!○○は無事なのか!?」

「………。」

何故だ、何故何も言わない…?まさか、○○の身は…。


「…会わない方がいいよ。」

「何を言っているのだ?生きているのだろう?なあ…。」

「あいつ…里に戻ってから袋叩きにされてね。
戦いで満身創痍で、片目もやられてたってのに…里の奴ら、“慧音が怪我をしたのはお前のせいだ”って…。」


そんな…あれは私が彼の身を案じて勝手に飛び出しただけなのに…何で…。


「…妹紅、留守を頼む!!」

「慧音!!」


急がねば。
急いで、彼に会わなければ。

着の身着のままで走り出し、私は彼の元へ向かった。
何たる事だ…何故、彼が…。





蝋燭の薄明かりが照らすのは、一人の男の影。
左目は包帯に隠され、まだ生きている右目が、何かを追う様に視線を動かしていた。

男は煙管に火を付け、溜息を誤魔化す様にその紫煙を吐き出す。
あの日から吸い始めた、まだ慣れぬ苦味に顔をしかめながら。

「…○○。」

玄関から響くのは、彼を呼ぶか細い声。
その声を聞き、彼は玄関へと歩を進めた。

左手には、彼の愛刀を持って。


「…あんたか。」

「○○…生きていたのだな…。」


そこにいたのは、彼が愛する一人の女。
女は涙を滲ませながら、包帯に隠された左目へと、愛おしそうに手を伸ばす。


「こんな…痛むだろう?傷の具合はどうだ。」

「大した事じゃねえ。だからさ…。」

「…!!」


彼女の手は振り払われ、そしていつかと同じように、首筋に刃先が触れる。
その刃は彼の手により、真っ直ぐに彼女の首へと向けられたもの。

確かな拒絶の心を以て向けられた、鋭利な刃。


「…これで解ったろ?
俺に関われば、いつ死ぬかも解らねえ。下手すりゃ寺子屋ごと焼討ちされるぜ?」

「な、何を言っているのだ?あれは私が勝手に…。」

「…終わりなんだよ、あんたと俺は。」

「あ…ああ…あ…。」


女は涙を滲ませながら、震える腕を刃へと伸ばす。
慈しむようにその両手で刃を握り締め、ぽたぽたと、掌から零れた血が足元を濡らす。


「なあ…何もかも憎いなら、私を斬ればいいじゃないか。私は半人半獣だ、だから少しくらい斬られたって…。
だから○○、あの時みたいにもう一度名前を呼んで…。」

涙を流しながら、女は懸命に笑顔を作り、懇願する。
その血は刃を伝い、やがて彼女の白い浴衣を赤く染めている事にも気付かないまま、ただ、必死に。

「……っ!!」


”パン!!”


乾いた音。
それは彼の手が、彼女の頬を打った音。


「いい加減にしろや、人の気も知らねえでよ…。」


残された彼の右目からは涙が伝い、隠された左目からは、血が伝う。
その顔は苦痛に満ち、そして肩は震えていた。

「こういう奴さ、俺は。
いいか、死にたくなけりゃ二度と俺の前に出てくるな。」

「待って…!!」


大きな音を立てて戸が閉められ、そして彼の姿は隠された。

女は地面に伏し、膝をついたまま、ただすすり泣いていた。
その瞳から全ての彩を失ったまま、やがてふらりと何処かへ消えるまで。







その日、更に夜も更けた頃。



“トン…トン…”


「お前か…今日は疫病神の千客万来かね。」

「……。」


彼の前に現れたのは、藤原妹紅。
皮肉交じりな彼の笑みを目に収めると、彼女の表情は一層鋭さを増した。


「…さっき、倒れてる慧音を拾ったよ。」

「そうか…せいぜい風邪引かねえ様にしといてやれよ。じゃあな。」

「待ちな。」

乱暴に戸を閉めようとする彼の腕を掴み、妹紅はその勢いのまま家へとなだれ込み、彼を押し倒す。
力任せに左目の包帯を掴み、そして引き剥がした先に現れた物を見て、彼女はある疑問を確信へと変えた。


「やっぱりか…あんた、妖怪になりかけてるね。」

「………。」


包帯の下に隠されていた左目は、赤い瞳を宿していた。
それは人のものでは無い、彼が人から外れつつある事を証明する赤。


「本当はあんたも気付いてるんだろ、自分がどうなるかなんて事は。」

「…ああ、薄々だったがな。だけど予定外だ、たかが5年でこうなるとはよ。なんで解った?」

「私も退治屋だったからね…あんたみたいになった仲間を、何人も殺して来たのさ。」

「そうか…こうなっちまう日が来たら、ひっそり消えて死のうかとでも思ってたんだがな…。」

人の範囲を越えた強さを手にしつつあった彼は、自らの行く末に気付いていた。
そして、その時が来てしまった際の決意も。

「あたしが殺して来た仲間も、同じだったよ。強い奴ほど早く妖怪になって、その度に頼まれたのさ。“殺してくれ”ってね。
…昔付き合ってた退治屋の男を、それで燃やした事もある。」

「………。」

彼女は頭を押さえ付けていた手を離し、そして彼の胸倉を掴む。
ぎりぎりと布が軋みを上げ、その手にはいつしか血が滲んでいた。


「…さっさと殴れよ。憎いだろ?親友があそこまでボロボロにされてよ。」

「そうだね…あんたは殴っても殴り足りないぐらいの馬鹿だよ。」

「いっそ燃やしたらどうだ?それで全部終いだろ。」


自嘲に満ちた笑みが、妹紅を捉える。

そこに希望は無く、そして絶望も無い。
絶たれる望みすら放棄した、全てを諦めた男の顔がそこにあった。


「いい加減にしな!!!」


胸倉ごと持ち上げられ、彼は頭を床に叩きつけられた。
彼女の顔には怒りが満ち、そして涙が流れている。

何かを思い出しているかの様な、塞がらない傷から溢れ続ける血の様な、涙が。


「残される奴の気持ちが解る!?あんたを失った慧音の気持ちが!?
あんたは逃げてるだけだよ…あの頃から、何にも成長してないクソガキだよ!!

恋人が自分の炎で燃えて行く肉の匂いが、灰になる瞬間の辛さがあんたに解るっての!?

…慧音には、私と同じ気持ちは味わって欲しくないんだ。
選びな…慧音に謝って、二人で里から逃げるか。それとも根性無しの半妖として、ここで私に燃やされるか。
独りで勝手に絶望して、共に在る努力もしないで燃やされるなら…あんたはその程度だったって事だろうね。」


「………。」


手を離し、無言のまま彼女は○○の元を去った。
彼は茫然と天井を見上げ、そして手で右目を塞ぐ。

妖怪化した左目に映るのは、何も変わらない景色。
彼だけの、彼が彼であるが故の景色。

特別な事は何も無い、心に映る視覚だけがそこにあった。



「慧音、俺は…。」







幾日かが過ぎ、私も大分平静を取り戻していた。
○○がまた塞ぎこんでしまったのは、やはり私のせいなのだろうか…また、振り出しに戻ってしまった気がする。

何故なのだ。
何故、○○が忌み嫌われなければならないのか。

あの妖怪は、近頃急激に力を伸ばし、他の妖怪を暴力で従えた実力者であったと聞いた。
そんな者が里を襲えば、死人を出さずにいる事は無理だったろう。

決闘と言う形とはいえ、彼はその妖怪に勝利し、里が襲われる事は防がれたのだ。

…何故、勝手に彼をかばった私が責められず、彼ばかりが。


「さて、そろそろ会合の時間か…。」


今日は里の会合がある。
やはり納得は出来ない、今度こそ、私の意見に頷いてもらわねば。

里長の家へと赴き、そして客間へと向かう。
既に何人かは来ているのだろう、襖の向こうからは幾人かの話し声が聞こえた。


「里長、ご決断を。あの者は危険です。」


その声を聞いた時、私の足は止まった。
彼の事だとすぐ解るその話の内容に、そっと聞き耳を立てる。


「確かにのう…奴は既に、人の域を越えておる。
あのまま妖怪化すれば、儂等の手には負えなくなるな…。」

「ええ、そうなれば恐らく、里が滅びかねない事態になると…。」

「八雲殿曰く、次の退治屋は育ちつつあると聞く。
○○は確かに強いが…慧音先生の件で、人の情を知ってしまったからの。始末が悪い。」

「ええ…ですから…。」

「解った、許可しよう。

“明日の丑の刻、奴の寝込みを襲い処刑する。”

化け物とはいえまだ人の身、家ごと燃やしてしまえば殺せるだろう。」

「はい、すぐに準備をさせます。」



処刑?

…何を言っているのだ?こいつらは。
何故○○が殺されなければならない、おかしいじゃないか。

ああ…簡単な事だったのか。
最初から、迷う必要など無かったのだ。


だってこいつらは、単に己の偽政の為に孤児を犠牲にするような、人でなしだったのだから。

人の人生を地獄に突き落とし、その犠牲の上にぬくぬくと胡坐を掻くような畜生なのだから。

私の愛する人を化け物呼ばわりした、石を投げ、人一人を妖怪に堕とすような本当の意味での化け物は。こいつらだったのだから。


____コノ里ノ存在全テガ、彼ヲ喰ライ尽クソウトスル化ケ物ナノダカラ。



「…その話、詳しく聞かせていただけますか?」

「け、慧音先生…ひっ!?ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」





ほら…上手に描けたろう?

障子はこうやって飾ると綺麗なんだ。
真っ赤な絵の具で、真っ赤な蝶や花みたいに障子や壁が飾られて…。

汚らわしい化け物などいない世界を、二人で作ろう。
何もかも隠して、そして書き換えてしまえばいいんだ…。

誰も邪魔しない、平和で幸せな、私達だけの歴史を。



○○…今、迎えに行くよ…。










続く。








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最終更新:2012年03月16日 12:52