「…あ……、ぅ…ッ…」

気がつくと、視界は真っ赤だった。
○○は一瞬死んだからこんなに赤いかと思ったが、染まっているのは自身ではなかった。
ぼやけたピントを合わせると、そこは赤い絨毯、壁や天井でさえも紅。
唯一白いのは寝ているベッドのシーツ。
まずは動けるか確かめてみる、手首、腕、肩、上体、足…
どこもおかしくない、青年は違和感を募らせる。
自分は確か父と母と三人で車に乗っていて、急にカーブを切って滑り込むように止まって…
そうだ、自分は事故に遭ったんだ。
そしてどこなのか。
初めて自分が病院ではないどこかに連れ込まれたと認識した。
はっきりした意識で改めて確認する。
高価な調度品や質感の良さそうな絨毯と、何かしらのお屋敷であることが分かる。
しかし同時に違和感を感じ取る。
窓がない、壁や天井がただ赤いだけではない。
まるで本物の血でペイントしたような鮮やかな赤色だった。
ポケットをまさぐるが携帯が見つからない、完全に丸腰だった。
そして包帯や絆創膏も、ましてや傷口もなく手当てされた形跡がない。
なのにこの部屋に合わせるかのように彼のワイシャツは赤黒く塗りたくられていた。

「お目覚めかな」

不意にドアの軋む音と共にふと甲高い声が入り込む。
重なる幾つかの足音から何人か入って来るようだ。
胸に伸しかかる重圧に雰囲気からこの屋敷か何かの建造物の所有者が目を通しに来ると青年は畏まって様子を見届ける。
どこかのブルジョワジーか大統領か誰かの令嬢、そう人物像を鑑みると生唾を飲んだ。
しかし露わになった出で立ちに拍子抜けした。

「な…」

一言で言うなら翼の生えた女の子。
加えて珍妙な身なりで、年齢は高くてせいぜい十代前半程か。
だがそれなりに主としての貫禄のある威圧感を醸し出していた。
その後ろに紫色の寝巻き格好の少女とお付きのメイドを侍らせて。

「見たところ外来人とお見受けする。紅魔館へようこそ、人間よ」

「え!?外来人って一体…、俺はなんでここに?」

代わって紫色の髪の知的な雰囲気が漂う少女が前に出る。
患者の異状を診るように○○の顔を頷きながら眺める。

「図書館に突然貴方が放り出されたのを回収したのよ、まぁ彼奴の仕業だろうけど…
 検査した結果、身体に異常はないどころか魔法の器があるようね。
 通りで治癒の術式に反応が良くて快復も順調だったわ」

「魔法?なんだよそれ、何の冗談だ!?」

「ここは幻想郷、外に有り得ないものが在る世界。お前は恐らく幻想郷から我々へのプレゼントといったところだ」

男の記憶が視界の妙によって頭をかき混ぜ濁していく。
自分がやろうとしていることはと、必死にひねり出す。
そして思い出したのは家族の安否を確認を確認しなければならないこと。

「何なんだよ…そうだ、父さんと母さんは…?皆のところに行かなきゃいけないんだ!」

「さぁ知らないな。このまま食料になってもらっても良かったが、貴方には魔法の素質がある。
 だから才能に免じて選択肢をやろう。魔導を得て従属するか、魔法実験の素材となるか、それとも…我々の"食料"か」

「か、構っている暇はないんだ!頼む、早く通してくれ!」

乱暴に少女達を振り払い横切ろうとする。
しかし錯乱した頭に突然の衝撃を感じ取る、気づいたら翼の少女に突き飛ばされていた。
痛みに苦しむ暇もなく組み伏せられ、禍々しい翼に取り囲まれる。

「わきまえろよ人間、それとも助けた恩を仇で返すつもりか?」

魔法の実験素材か、それとも下僕か、二つを選ばなければ血肉は闇に還される。
今まさに獲物を狩る化け物の目が○○を喰らい尽くそうとしている。
初めて彼は目の前の少女が化け物だと恐怖した。

「お、俺は…、待って……俺は…、ただ…」

「腹を括りなさい、何度も聞いてはやらない」

目の前に迫ってきた少女は真っ白い手を差し伸べて影の深い笑みを零す。
それは跪いたまま口付けしろと言わんばかりに。
ただの非力な人間に過ぎない○○は恐る恐る手を伸ばした。

分岐点に追い詰められた外来人が選んだ運命は―――







半年後、紅魔館にて―――

穏やかな春先に見合わぬ風が吹き抜ける。
まだ冷たさの残る光が窓から漏れる中、廊下を急ぎ抜け正門へ向かう魔術師の男が一人。
血色の悪い肌、端正な顔立ちに、水色か薄紫というには少し色彩がみずぼらしい色合いの白髪、それがこの男の姿。
荒々しく扉を開け放ち、胸に挿した一輪の薔薇を揺らし、上品な紺碧のコートを風になびかせる。
門の手前に広がる庭園には白黒の魔法使いの少女。
青年は分かっていた、門番を踏み倒し侵入してくる手癖の悪い存在を。
そして彼女の目的が貴重な蔵書の奪取であることを。

「止まれ」

怒気に満ちた一声で制止して少女の眉間の延長線に薔薇を突きつけ手を伸ばす。
人間の身でありながら魔法の力を日々の鍛錬のもと行使する彼女を尊敬はしていた。
だが負の面を見せるときだけは別、己の都合のためだけに図書館を荒らされたのなら黙ってはいられない。
魔導に魅入られた鈍い漆黒の瞳が魔理沙を睨んでいる。
同じく彼を筆頭に土の人形や腐敗した屍体が少女を取り囲む。

「貴様、正当な手段で入って来たのではないな?」

「いんや、正式入場さ。にしても暫くぶりだな、あれ全部アンタの作品か?」

「黙れ、貴様が我が師の蔵書が目当てであると分かっている。
 出て行け、さもなくば侵入者として処断させていただく」

「チッチ、借りに来ただけだぜ!先輩としては意外だなぁ、ここまで成長してるだなんて…、と!」

そう口火を切って八卦炉を取り出し、薔薇に対抗するように男に向ける。
一触即発の弾幕勝負、口の中の空気が乾いていく。
形勢は少女の方が優位だった。
八卦炉の光がゴーレムやアンデッドを土くれに還る余地も与えず消し去っていく。
彼女は何度も異変解決に貢献しているちょっとした百戦錬磨というべきか。
対して男は魔法が使えるといえども弾幕を撃つこともできない。
だからこうして身をよじらせ避けることしかできない。
折角のコートに砂埃を被る、このまま弾幕の雨を浴びるのも男にとって無様でしょうがない。
しかし彼には勝算がある。

「貴女に素敵なプレゼントを」

男は薔薇を高く掲げ、天の魔方陣を仰ぐ。
それに応えるように地面が小刻みに揺れたかと思うと、足元に亀裂が走っていく。
魔理沙は巻き込まれないよう後ろに飛びのく。
禍々しい無数の蛇を生やした、物々しい女の生首のような形をした化け物が地中から這い出す。
化け物の粘膜が滴る髪は舌なめずりし獲物ににじり寄らんばかりにうねる。
男はその化け物の上をステージとするように魔理沙を見下ろす。
見たら心臓まで石になりそうなくらいの威圧感を放ち、巨大な異形のギョロつく二つの眼球が少女を捉えて離さない。

「うわッ!やばっ、ここで失礼するぜ…」

魔理沙は一歩引いた。
幾ら彼女でも彼の魔力がこの未知の化け物を使役できる程のものであれば対応が難しい。
生理的に受けつけない、相手にすべきではない、そう思った彼女が次に動くのは早かった。
次は彼に何かしら対策して再度訪れよう、そう見越しての撤退だった。
こうして白黒が大慌てで去って衣玖様を見届けた男は溜め息を漏らす。
芳しく薔薇を携えた手を青空に掲げ、空を仰ぐ。
高く掲げる花の先から靄のような気体が抜け出していき、そのうねりにうんうんと頷く。

「ようするに今日は厄日だと申すか…」

そう呟いた後には薔薇の鮮やかな赤は色あせて乾いていく。
枯れた花の遙か上には何もない、ただの変哲のない大空に戻っていた。
男の足元にも、周囲にも見渡せど化け物はもういなかった。

「服に埃が…、これだから弾幕ごっこは嫌いです」

そして薔薇を宙に放り投げ花弁を散らした。
一枚一枚の紅い血飛沫がひらひらと青年を中心に舞い踊る。
舞台の幕が降りたように、男の達成感は強張る眉間を解きほぐしていった。

「その割には楽しそうよね」

余韻に浸る背後から別の女性の声が耳に入る。
男は振り返って後ろに張り付く存在を確認する。

「むっ、咲夜殿でしたか」

「お手柄だったわね、○○」

男は先ほどの侵入者退治を労うメイド長をよそにこれまでと今を深く鑑みる。
紅魔館に従事するようになって数年、○○は幻想郷の空気に慣れ親しむようになっていた。
最初は冷たくあまり相手にしてもらえなかった咲夜とも、今は打ち解けている。
今でも図書館の魔術師パチュリー・ノーレッジを師として魔法を学んでいる。
いや、学ばざるを得なかった。
彼には才能があった、故に幻想郷に魅入られてしまった。
生き延びるには、この吸血鬼の住まう屋敷で生かしてもらうには魔力を身につけるしかなかった。
いざ月火水…から始まる基本要素を学んでみれば一週間で網羅し、方陣の組み方を実践してみればすぐさま描けるほどにマスターした。
それも初見の楽譜をすぐさまピアノで弾きこなせるように。
恐れながらも死に物狂いでそうなるまで魔力を磨き続けてきた。
そして嫌々ながらも、師があまり乗り気でなかった死霊魔術を学んでいた。
その傍ら、主からの指示で使用人の業務を務め、更には食品加工や処理もさせられていた時期もあった。
同属の返り血を浴び続ける自分に何度もむせ返ったことがある。
折角の才能を持つ○○は紅魔館に足りない汚れ役の要素を補うためにその研究や仕事を命じられていたが拒否などできない。
すべては延命のため、見限られて食料にされたくないがために。
しかし、物覚えの良さが師のパチュリーに、到底彼女に及ばないとはいえ一流の魔法使いらしくなったと好評された。
そして誠実な働きに当主やメイド長から一定の信頼を得て、汚れ役の任務をさせられることがなくなっていった。
今は命令もあるとはいえ自ら進んで屍体操作や影占いの研究を師の援助のもと続けている。
こうして研究と修行の成果をロケット技術の開発や館の警護に貢献して、現在のネクロマンサーとしての役目を確立したのだ。
しかし死体を負の力で弄る行為そのものは地底の火車と同じく良い顔はされないだろう。
他者からの批評がどんなものか途端にある事ない事まで気になりだしてしまった。
返り血の光景を忘れられず着こなしている白いはずのシャツが真っ赤に見えてしまう。
自身からゾンビのような肉の腐った臭いがしてくるような錯覚を覚えてくる。
そう潔癖を意識し始めてから、身体を清めるのもより丹念になった(上司の咲夜から香水がきつすぎるとか入浴時間が長すぎるとか窘められたことがある)。
この品の良さそうなコートに袖を通すのも、薔薇で体裁を飾るようになったのもその頃からだったか…
感慨深くこれまでを振り返りつつ服の裾を取り払う。

「それより○○、お嬢様がお呼びよ」

「はい、では失礼します」

しかし今の自分を紅魔館に繋ぎとめるのは恐怖なのか屋根の下に泊めてくれる恩義なのか。
今だけは考える暇もなく、主のもとへと男は再び小走り気味に急いだ。





紅魔館内部、何度も角と分かれ道を曲がり長い回廊を抜ける。
途中で一人一人顔の違う妖精メイドと行き交う。
制服が漏れもなく整えられているのもメイド長の威光あってのものか。
これでもう少し真摯に業務に臨んでくれたら紅魔館がいかに統率と秩序の謳歌する城となるのだろうか。
現に彼女らが隠してるつもりの話題が自分であると思うと。
そんな彼女からの評判は聞いてのとおり。
白々しい程に謙虚で聡明かつ生真面目な従者。
だが同時に晴れやかに着飾り、腐敗臭を覆い隠す卑しい人間でもある、とのこと。
彼への賞賛と忌避が矛盾していて拮抗している故、彼女らからすれば掴み所のない人物であるようだった。
しかし評判批判など目の前にある忙しさの前に霞んで見える。
表情変えずに聞き流し、通り過ぎる侍女達の噂話を拾い集めながら令嬢のもとへ向かう。
二回ほど扉をノックして簡単な入室許可を得てからドアノブに手を掛ける。

「失礼致します」

「来たか○○、一悶着あったようだな」

部屋の中には椅子に腰掛け既に淹れてあった紅茶で一服する少女。
彼女こそ○○の主、レミリア・スカーレット。
どうやら一刻前の騒ぎを察していたようだ。
○○の召喚法では地脈を媒介に利用したものであるため主が懸念していたのも無理はない。
拙いことをしたのかと○○は覚束ない挙動で襟を正した。

「あまり土を弄くるなよ、やりすぎて地脈が傷つけば館が崩れ去る」

「申し訳ありません、ですがゴーレムの召喚では地盤に影響はありません」

「分かっている、だが気が乗らないだろうがそろそろ弾幕を覚えろ。
 男といえどもスペルによる決闘は最も正当な採決になる、体面を考えるな」

スペルカードに則った弾幕の掛け合いは少女の遊び、これが○○の見解。
男が介入するには抵抗があって弾幕にはまだ手を染めずにいた。
しかし自身が騒ぎに加担したも同然と自戒し、教えを請うしかないと諦めた。
こうして注文を受けるがままに身に着けざるを得ない力はいくつあったか、○○の息は詰まるばかりだった。

「か、畏まりました…」

後でパチェにも言っておくと加え、レミリアは空っぽになったカップを皿に収め一呼吸置いた。

「ああ、けど…貴方を呼んだのは何も説教しに来たわけじゃないわよ」

「今夜博麗神社で宴会があるのよ、それについていくよう頼みに呼んだの」

「宴会、ですか…!?」

○○は突然の誘いにたじろぐ。
まさか自分がお嬢様からこのような催しごとに招かれるとは想ってもみなかった。
こんな浮ついた宴は下賤な自分にはお似合いではないと気負いしてしまう。

「そう、暫く上付いた娯楽もなく働きづめで気分転換になると思ってね。」

「わ、私は……、えと…、さ、咲夜殿とは…行かれないのですか?」

「拒否はしなくても躊躇はするのね」

○○は少し声色が鋭くなったのを感じて、反応に詰まった。

「レディーからのご厚意を無碍にするほど貴方は偉くなったのかしら」

「失礼を申しました!で、ではお供させていただきます…」

「フッ、何もエスコートしてもらうことはないわ。
 咲夜もパチェも了解を取ったから肩を抜きなさい、それより…」

レミリアはポットを指差し○○に目配せして、淹れろとサインする。
すぐさま指された方の隣にある紅い液体の入った容器に手を掛けようとする。
そのときだった…

「……つッ!」

突然指先から針に触れたような小さな痛みを感じて、○○は手を引っ込める。
人差し指から一滴ずつ鮮血の粒が溢れていく。
前のときも指を切ったことはあるが、それは鋭い匙や紙の縁で切るような自身の過失によるものだった。
その度に血を要求されるのだ。
しかし最近は同じ動作をするにしても血を流すような仕草はしていない。
自分がいつ食器のどこで怪我をしたのか、理解できず真っ白になり固まった。
そしてレミリアの方に目を移しハッと我に返った。
彼女はティーカップの縁を軽く指ではじき、薄気味悪い笑みを浮かべていた。
指差す方向は器の奥底。

そのまま血を入れろ―――

○○の震える手を器の上にかざし一滴ずつ注いでいく。
また自分の血を欲されてしまうのか、ガタガタと指先が揺れ血の滴り落ちる焦点がぶれていく。
主に動揺を読まれまいと、なんとか理性で指を心と一緒に押さえつける。
そしてカップの底が少し見えなくなった程度で指をどけ、ポットをもう片方の手に取る。
レミリアはこうして差し出されたカップを受け取り感慨深く一口目を味わう。

「上出来ね」

やはり自分の期待した味だなと満足し、二口目を喉に流し込む。
今度は直にと、○○を見つめながら更なる期待を膨らませて。
○○はそれを複雑な思いで見つめていた。
自分の血を味わってもらうのはあまりいい気がしない。
それも職業柄汚らわしいと忌避されてもおかしくないはずだ。
実際、メイド長やもう一人の吸血鬼でさえ彼の作ったお菓子の前に難色を示したことがある。
それなのに彼女は違う、こうして死の臭気に取り憑かれた男の血を味わっているのだ。。
最近お嬢様の自分に対する気持ちが分からない、忠誠の裏で疑問は彼の中で何度も木霊する。
何のために自分を手元に置いているのか…捨てる日は明日にでも来るのか…
その目は彼女への畏怖と背徳感と違和感と諦観と、そして怒りで混濁していた。






宴会の舞台、博麗神社。
人妖問わず酒を飲み明かし享楽を共にする一大パーティー。
そこは乱痴気騒ぎや弾幕の華で賑わっていた。
その中に紅魔館の主も従者と共に我先にと巫女のもとへ弾幕を肴に向かった。
うろたえる○○に席で遠慮なく楽しめとだけ残して。
とはいっても酒を浴びるように飲み干す少女達の輪の中に入ることには抵抗があった。
仕方なく○○はまだ咲かぬ桜の下で一人飲めもしない一升瓶の酒をグラスに注いで口にする。
苦い、こんな不味い透き通る水を皆飲んでいたのかと、苦いだけに苦笑した。
今日は厄日だと口寄せの結果が出ていた。
眉をしかめ舌を痺れさせつつも、コートの裏ポケットをまさぐる。
手に取ったのは一本の菊がデザインされた万年筆。
幻想入りした際に持ち越していた物はこれだけ。
肌身離さず身に着けていた万年筆を眺め、自分の胸に沈み込むように俯く。

「父さん、俺は…」

「何しょげてんのよ」

声をかけられた方に顔を上げると心臓が跳ね上がる。
目と鼻の先には酒が廻り赤くなった少女の顔。
腰をぐいと折り顔を覗き込まれる傍ら、豊満な胸が揺れているのがチラリと見えて○○は目のやり場に困った。

「師匠(せんせい)…」

静かな酒の席に加わったのは、○○の師である魔女だった。
パチュリーは元々それほど酒に強い方ではなく、夜風に身体を冷やしに来たところだった。
よっこいしょと彼女は同じく木の幹を背もたれにして○○の隣に座った。
このときの彼女を○○は最も苦手としていた。
酒の臭いと女特有の何ともいえない匂いが混ざるのが鼻につく。
間近に迫る赤く火照った顔が艶やかに見えたのか、○○は師に負けないくらい赤面する。
なんとか冷静さを繕い、彼女の目線を追うと筆を持つ手に伸びていた。

「それ万年筆?綺麗じゃない、見せてくれる?」

「申し訳ありませんが…」

「はぁ、ケチくさいわね…先生と一緒にお勉強する仲じゃない」

彼の少し慌てる仕草に、陰気で皮肉を交えた笑みを浮かべた。
ちょうど先程の一言を発するときの声色のように。

「いえ、これは12歳のときに父から貰った大事な…」

「ふぅん、父親……ってなに貴方、ファザコン…?」

「ちょ、ファザコンって…(何か師匠のテンションが異様に高い…)」

飲めもしない酒を口にしたときよりも笑みを引きつらせる。
完全に酔いが回っている。
普段の彼女は大人しめで理知的で、寡黙なことが多い。
元々控えめな性分である○○は時折見せるパチュリーの饒舌さに引け目をとっている。
大概、彼女の言霊には猛毒を包んであることが多い。
加えてあまり誰彼とべったりと絡まれるのを元から得意としてはいない。
そんな謙遜な彼にパチュリーやレミリアにとって弄りがいのあるもので、ついからかってしまうのだ。
○○は目を逸らし俯いて嫌気が差した表情を隠しておく。

「それより一人で何してんのよ、ひょっとしてパパのことを思い出してた…?」

「いえ、少し考えごとを…」

師には弟子の素っ気ない態度の影に気づいていた。
そっと筆を執らない方の手に、もう一つの手を重なる。
吸血鬼にも劣らぬ真っ白、けれども今確かに温もりが包み込む。
そして一呼吸置き、話を切り出す。

「そんなに私達が恐いのかしら」

何気ないつもりで発した一言に○○の瞳孔が開く。
どう答えればいいか思案し口ごもる。
先程の万年筆を大事そうにしまい、深呼吸して間を置いた。

「違うと言えば嘘になります…」

重みのある言葉を受けパチュリーは表情を消してじっと次の句を待つ。
弟子の苦悩に真摯に聞いてやらなければならない、ただ何も急かすことなく。
ただじっと見つめて重苦しく連なる言葉を待った。

「私だけが生きているのが後ろめたい、けど両親が待っていると信じていたい。
 でも皆を頼っている今、言い出せはしませんでした」

「帰りたいなんて―――」

ギリッ…!

「ぎぁ…!」

添える手を強く掴ませるあまり爪を食い込ませる。
痕が残ったものの幸い出血はない。
いつの間にか手に力が入っていたことに気づき咄嗟に手を放す。

「あ、ごめんなさい…」

「お気になさらず、はは…」

○○は愛想笑いでどうにか痛みを誤魔化す。
そして一先ず話の続きを切り出す間を選んだ。

「…正直死にたくないって思っていましたよ。けど生き延びるためには仕方ないって…」

「私達を、恨んでるの…?」

「お言葉ですが、それもあります。ですが今感謝しています。
 本音はどうであれ自分を置いてくれるのは事実です。
 もし師匠が助けてくれなかったら、外の両親に顔向けなんて…
 だから忠義を尽くし、向こう側の両親はきっと元気でいると信じるまでです」

「…………」

ただ黙り込む。
○○がどんな思いで魔術を紐解いてきたか。
恐らく強者にへつらわなければ死んでいたという運命を何度呪ったことか。

「私もいきなり弟子に取ることになって、どうしたらいいか分からなかった。
 けど教える立場になって初めて自分の知識がこんなに役に立つものだって実感できたわ」

恐る恐る口にした次はただ押し黙って聞いてるだけだった。
○○はただ人をたやすく粉微塵にできる力が自分に向けられることを恐れていた。
そんな彼にとってこの独白は好意的なものと受け取っていいはずだ。
なのに、心の奥底が彼女を、幻想の少女達を否定しているようだった。

「ねぇ、もう"様"をつけるとか師匠よばわりはやめて」

「!?」

○○は胸の下から跳ね上がり何と言ったらいいか口ごもる。
そっと爪痕の残った手の甲を舐めて癒すように撫でる。
彼女の指先がとてもねっとりして離れないかのようだった。
恐る恐る、琴線に触らないようにゆっくりと言う。

「今は……、私と、一緒にいてくれる?」

この一言が発せられた瞬間、熱源から手を放すように○○は絡みつく手を振り払った。
そして大事そうにもう片方の手を当て、痙攣する口を重々しく開けた。

「な、なりません!貴女と私はそんな繋がりではありません…、私はただの…」

「そうね、ごめんなさい…聞かなかったことにして…」

振り払うように顔を背けて声を震わす○○を見て、今のは失言だったとパチュリーは自戒する。
帰りたいと言ってた傍からなんて無神経なお願いをしてしまったのか。
ただの従者だと言いかけたのかと、彼女は来たであろう先の句を思い浮かべる。
その先読みから○○の命を共に出来ないという悲観を瞬時に感じ取った。
であれば今このときを二人を繋ぎとめるのは何なのか。
考えるほどに溝が深くなり、眩暈さえ覚えてしまう。
今は後のことを考えないでおこうと、彼女は暗く沈みこんでしまう自分をなんとか押さえつけた。





「そうだ、個人レッスンといこうじゃない?」

また酒の味を濁すわけにはいかないと立ち上がり切り出す。
先程までの暗い表情をが嘘のようにぱぁっと晴れていく、無論作り笑いなのだが。

「い、いきなり何ですか…?」

「レミィに言われたわよ、今から弾幕やってみなさい」

「弾幕、ですか」

嘆息して急かされるように重い腰を上げながら○○は己の手の平を見つめる。
突然やってみろと言われても勝手が掴めない。

「いいからイメージして、自分の手の平から打ち出すのを…」

○○は伸ばした手を宴会の方向に向けて少し上目に傾けて目を閉じる。
そしてアドバイスのとおりに今まで見てきた少女達の弾幕を思い浮かべる。
頭で念じても思ったとおりに手の平の光が膨らまない。

「手に力を入れなくていいわ」

パチュリーは緊張を解きほぐそうと手首にそっと自らの白い手を添える。
ガタンと○○に入っていた力が抜け、光の弾が強く輝いていく。
実感を持った彼の口元に喜びが零れる。


ふと彼女は○○の傍らでこう思う。
今まで少し教えただけの物を異常なまでに確固たる知識として吸収してしまった。
自分の知ってる魔法で教えられることが尽きてしまうのかと憂いたこともあった。
そして序を果たした今度は紅魔館に貢献するようになり、師から離れていく。
ついには彼自ら異形の生成の仕方を見出してしまった。
またしても彼はすぐに弾幕を覚えてしまうのか。
教え子の成長していく姿は目にして嬉しいはずだ、それでも…
そのうえ自分の魔法で弟子が日に日に穢れていく。
彼の周りには誰がいる?グール?メドゥーサ?ゴーレム?
違う…、そんな汚らわしい化け物じゃない。
それともレミィ?咲夜?小悪魔
前は腫れ物に触るようだったのに、皆いつの日か○○を可愛がるようになっていた。
なんだかその中に自分が入り込む余地がないように見えた。
この優秀な執事を育てたのは他でもない、私だと言うのに―――
今掴んでいる彼の固く脈の筋が浮き出た手に一瞥する。
その手は酷く黒ずんでいて腐り落ちてしまいそうに見えてしまう。
弟子を愛しく想う反面、それを迂闊に口に出せない自分がいる。
そしてどことなく自分を遠ざけようとする○○に苛立ちさえも覚えてしまう。
そう葛藤を巡らせると感情が激しく頭を揺さぶってくるのだ。


「うわぁ!」

急に思わず力が入って○○の手がぐいと傾く。
その驚きで手の平に固めていた弾幕の光を手放してしまう。
パチュリーは咄嗟に○○を尻餅をつく寸でのところでかわす。
呆気にとられる二人をよそに火薬が爆ぜたように弾幕が向かう先は…

「うううぅぅゥぅぅぅぅーーーーッ!!」

目標を捉らえた途端、血が引いていく程に○○の顔は青ざめた。
その先には後頭部をさすって悶絶するレミリア。
二人は慌てて駆け寄るが別に大事には至っていないと見て取れた。
しかしレミリアは痛そうに頬を赤らめて涙ぐんで○○の方を睨んでいた。

「○○!今のアンタでしょう!?」

向こうで痛みに転げ落ちた彼女の怒鳴り声に○○は大手を振って半狂乱に違うと否定した。

「ち、違う…、ミスは私のせいではないッ!!」

「フフ、見苦しいわよぅ○○殿~」

異様にねっとりとした笑顔を貼りつけて一歩ずつにじり寄って来るメイド長。
その目は獲物を前にして恍惚に研ぎ澄まされていて、手中に忍ばせてある銀色のナイフのようだった。
宴会の面々は固唾を飲み、二人の様子を見守っている。

「さ、咲夜殿!?こここれは、ぁ…!」

ピチューン!
花弁が舞うように華やかに制裁を加える従者の晴れ姿に宴会はまた盛り上がる。
これは良い肴になったなと、鬼は喝采を上げた。

「はぁ…パチェったらどんな教育してきたのよ…」

「貴女に似たに決まってるでしょう…」

打たれた頭を撫でて痛みを和らげつつレミリアは、事が済んで手の平の埃を払うお付きのメイド長とほぼ同時に浅い溜め息を吐く。
一方、倒れても尚弁解する○○にパチュリーは逆に感心する。
付き合いあってか紅魔館の面々は○○の人物と欠点を見知っていた。
彼の慇懃無礼でやや軽薄な性分や厚かましく保身に走る言動には少し呆れ気味だった。
だが見ているとそのパニックにあたふたする姿、そしてその無様な姿を咲夜が戒める光景は必見だった。
その中で魔女は不適に笑う。
道化と見たのは慌てる○○なのか、とばっちりに涙ぐむ親友なのか。
それとも行く先を憂いて嘆く己の運命なのか。
その口元が下弦の月のように軋む微笑を、誰も目にしてはいない。








続く







おまけ

おぜう「馬子にも衣装といったものかしら、良いコートを選んでくれたようね」
咲夜「あの…○○には給料を渡したことないのですが…」
おぜう「え…、じゃあ金の出所は一体…」
咲夜「そういえば妹様や美鈴のご相手した後に何か貰ってたような…」
おぜう「もしや、○○のコートはお駄賃で!?」



次回は美鈴とフランの関係を書いてもう少し掘り下げます。
起承転結を意識してるけど病む過程にあたる承~転の部分が難しいです。

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最終更新:2012年07月17日 01:27