『あの日』以来、よく夢を見る。

それは様々な罵倒や苦悶を見せて来るが、結末はいつも同じだった。
俺の手とは似ても似つかない、小さな手に握られた針と糸。

その先が縫って行くのは、いつだって。






Spiegel von Hartmann-3.少女Kとの異常な日常-







いつもより早く目が覚めたようで、太陽の向きが若干遠い。
眠い。目をこすろうと無意識に伸びた手は、左頬が濡れているのを感じて止まった。
また片目だけ泣いていたのか…こいしに『とりかえっこ』をされて以来、寝起きはいつもこうだ。

細胞の記憶って奴なのだろうか、恐らくはこいしの記憶と思われる夢を毎晩見る。
それは結末の見えている映画を、過程だけ変えて何回も見させられる様な夢。
夢だと解っているからこそ、泣くような心情には至らない筈なのに、起きてみればいつもこうなっている。

“まだ寝てるか…。”

隣に目を遣ると、こいしは静かに寝息を立てていた。
起こさないようゆっくりと布団から出て、そのまま家から出る。
まだ霧が晴れない程の早朝みたいだが、たまには一人で散歩するのも良いだろう。
そうだ、川にでも行って、冷水で顔を洗うか。井戸水じゃ目が覚めそうもない。

冷えた空気を肺いっぱいに吸い込みながら、いつもの森を歩く。
特に視力が変わった訳でもなければ、拒絶反応が起こる訳でもなく。
元はこいしの物だった左目は、問題無く機能している。

俺も自分が思う以上に、壊れているのかもしれないな。
あんな事があって、それでもこいしを突き放す気にはなれなくて。

ただ、最近は少し疲れているのも事実だ。
元々幻想郷に来てから、ずっと独りで生きていたのだ。
だからたまには、こうして物思いに耽りたくもなる。

“ん?靄か…。”

不意に能力が反応して見えたのは、今まで見た事が無い青い靄。
悲しげな、深くて暗い青色をしたそれは、徐々に濃さを増して立ち込め始める。

これは何なのだろう?
色彩のイメージ通りなら、悲しみの類なのだろうが…一体誰の…。


「○○…。」


耳に入ったのは、聞き慣れた、だけど聞いた事の無いトーンの声。
振り返ろうとした時には、もう腰に衝撃が走っていた。
…探しに来たのか。

「こいし、どうしたんだ?」
「…ぐすっ。だって、起きたら○○がいなくなっちゃってて…怖くて…。」
「…はぁ。」

特に最近顕著だが、こいしは俺と離れるのを極端に嫌がる。
普段底の見えない事ばかり言う癖に、こうなった時はやっぱり子供
だと思うのだ。

寝巻きのまま、靴も履かずに飛び出して来た姿を見ると、罪悪感には駆られる。
仕方ないな…やれやれ、俺もつくづく甘いものだ。

脇に両手を入れ、そのままひょいっと抱え上げた。
後は片腕に座らせる様に抱え上げれば、バランスは取れる。

「これでいいか?やれやれ、怖い妖怪さんにも見付かった事だし、取りあえず帰るとするか。」
「えへへ…捕まえた。」
「はぁ…本当現金だな、お前は。」

丁度顔が向き合う位置な訳だが、そうすると、元は俺の物だった片目と視線が重なる。
余り好きにはなれなかった、暗い深緑。

…逆にこいしには、俺の記憶が見えているのだろうか?


「ねぇ…。」


顔が見えない程にきゅっと抱き付いて来たかと思えば、さっき俺の名前を呼んだ時と同じ、冷たい声が聴こえた。

青い靄が、格段に違う濃度で視界に掛かる。
冷気の様に、冷たく纏わりつく青色。その元は、彼女で。

唇を耳元に近付け、囁く様に、こいしはその言葉を口にする。


「…“  ”って、だあれ?」
「……!」


その名前は、とっくの昔に切れた恋人の名前。
俺がまだ外の世界で、人間として暮らしていた頃、数年付き合っていた女の名前だ。
…やっぱり、こいしにも見えていたのか。俺の『眼』の記憶が。

「…昔好きだった人だ。今は何をしているのかも解らないがな。」
「ふーん…そう。」

朝の澄んだ冷たさとは違う、湿った寒気がする。
俺の首に腕を回したまま、こいしはそれからただじっと俺を見つめていた。

いつもの純粋な笑みとは違う、妖艶さすら感じさせる微笑みで。





ずるいよ。
私の知らない○○を、あんなに知ってるなんて。

…もう心を読まなくても、記憶は見えるの。
あなたの、記憶だけは。






やわらかい感触がする。
どこか懐かしくて、だけど今は思い出したくない様な、そんな感触が。

あいつは、どうやって笑っていたっけな?思い出せない。


「………。」


…夢、か。
起きはしたが、どうにも目を開ける気にはなれない。
夢の余韻なのか、頭に柔らかい感触がある気がした。
…いや、待て。だったら何でこんな生々しい。

「お前か、こいし。」
「えへへー、どう?膝枕だよ。」

目を開けると、覗き込んでくる、俺と揃いの瞳と目が合った。
くりくりとした瞳で、にへらと笑いながら髪を撫でてきていた。

「…固い。」
「ひどい!!」

杞憂だったか…なんて事は無い、俺の記憶が見えた所で、単に記憶の中の“  ”と張り合っているだけだ。
こいしはと言えば、膝に俺の頭を置いたまま、人の髪を摘み上げたりして遊んでいる。

…そう言えば、最近髪が黒い部分が減って来た気がする。
半妖になった時に殆ど変色してしまっていたが、これでも多少は黒い髪も残っていたのだ。気にし過ぎか?

「綺麗な髪ね。」
「そうか?単に伸ばしっぱなしなだけだが。」

あいつもこいしみたいに、よく俺の髪をいじって遊んでたっけか。
確か一回寝てる間に編み込みにされて、ほどくのが大変だったような…

「…って何してる!?」
「え?編み込み。ほら、可愛いでしょ?」

ああもう…ボーっとし過ぎたか。こんなに束にして…。
きゃっきゃとはしゃぐこいしに向けられた鏡に目を通すと、何とも言い難い様相の男が一人。
…これはひどい。

「ある意味そこらの妖怪より恐ろしいぞ、これは…。」
「えー?そんな事ないって。かわいいって。」

人の気なんぞ欠片も気にする気配も無く、こいしはひょい、といつもの定位置に陣取った。
背中を受け止め、何とは無しぽん、と頭に手を置く。
これもすっかり癖になってしまったな、何と言うか。

「…ねえ。」

またか。
何が不満なのか解らないが、急に豹変するのは心臓に悪い。
青い靄の事はまだ黙っているが、今もこうして俺の目の前には現れていた。
…今度は何だ?

「それもいいんだけど…たまにはぎゅってして欲しいな。」
「……。」

少々張り合い過ぎじゃないか?
…いや、俺が意識し過ぎなだけか?

だけど、それは俺が昔、“  ”によくやっていた行為で。
偶然や気まぐれで片付けるには、妙にデジャヴを感じさせる。

囲う様にこいしの肩に腕を掛け、後ろから胸元に引き寄せる。
だけど感じるのは、“  ”とは違う、とても小さく、幼い身体。
行為は同じでも、やはりそこに感じるモノは違う。

「これでいいか?」
「うん、やっぱり○○はあったかいね!!」
「そりゃどうも。」

ご機嫌が直ったようで何よりだ。
だけど、うっすらと、まだ青い靄が見えたままで。
何だろう、悲しさと、何処か落胆を感じさせるような青にそれは変質していた。

こいしの表情を見れば、とても幸せそうに笑っているだけだ。
そう、笑っているだけ。

その胸の奥も本当に笑っているのかなど、俺には知る由も無いまま。








…やっぱり私じゃ、『これ』の後には行けないか。
だけどいいもん。これでまた、私が塗り潰したんだから。

____でも、もっと塗り潰したいよ。私で。






「○○。」
「どうした?まだ何か…!?」


優しく片目にキスをされたかと思えば、直後に瞼を割って触れてくるぬるりとした感触と、痛みが走った。

本来の、俺の深緑の片目。
彼女は、それを愛撫するように舐め上げて。

「こいし…?」
「ふふ…おまじない。ずっと○○といる為のね。
こんな事は、まだされた事無いでしょ?私が最初。だから、あなたが死ぬまで覚えていて欲しいの。」
「……。」

ふよふよと、彼女の第三の眼に繋がる青い糸が俺の周りを漂う。
その動きに、俺は何故か縛られる様な感覚を覚えていた。
逃がさすまいと、離すまいと、今にもまさに縛らんとしかねない様な、強い意図を。

“こいしは、いつまでここにいるつもりなのだろう?”

不意にそう考えた時、背筋に何か冷たいものが伝った。







こいしの得体の知れなさから目を背けたまま、ただ時間ばかりが過ぎた。

気付けば数カ月が過ぎ、俺がここに来てから1年が過ぎた。
今もこいしとの生活は続いていて、彼女が時折青い靄と共に異常な表情を見せる事以外は、何も変わってはいない。

…いや、『何も』は言いすぎたか。
厳密に言えば、俺自身は少し変化しつつあった。

青い靄でしか見えなかったものが、徐々に何を訴えているのかを理解出来始めていた。
確かに、訴えているのだ。
「悲しい」や「寂しい」と言った、目に見える意思を持って。

能力の変質なのか、また妖怪化でも進んでしまっているのか、それは解らない。
ただ、前よりもこいしの笑顔に隠した痛みが見えてしまうようで、それが解るたび、どこか悲しくなる自分がいた。

「どうしたの?」
「いや…何でも無い。」
「ふーん…。」

あれから何度となく、こいしの過去を夢に見た。
時には吐き気すら催すような気分で目覚める事もあれば、焼かれる様な虐待の苦痛に叩き起こされる日もあった。

他人の心も、記憶も、確かに見えない方が良いな。
ましてやそれが、膿塗れの凄惨なモノであるほどそう感じる。

そのせいか、最近胸に痛みを感じる事が増えた。
縫い合わされたものが無理矢理開こうとしているかの様な、つっかえた様な僅かな痛み。

心理作用により、火傷をしていなくとも火ぶくれが出来ると昔聞いた事がある。
それが確かなら、彼女の第三の眼の痛みが、無意識に移ってしまっているのだろうか?

…考えても、埒が明かないな。
少し横になろう、気にしなければこの痛みも、少しは治まるだろう。

だらりと寝転がり、天井のシミを何となく数えてみる。
木目は様々な模様を描くが、妙なモノも多い。
ふと目に止まった模様が、不気味にこちらを嘲笑っているかの様に見えて、何とも言えない気持ちになった。

そういえば、こうやって独り思案に耽るのも久々か。
いつもなら、こいしがじゃれついて邪魔をしてきたりするが。

……そういえば、こいしは何処に行った?確か横にいるはずだが…。


「………!?」


いない。
起き上がって部屋中を見渡してみるが、やはり何処にもいなかった。

彼女の不在を実感した瞬間、喉元に何かがせり上がって来るのを感じる。
…恐怖?何故?

「こいし!!何処にいるんだ!!」

自分でもびっくりする程、大きな声で彼女を呼んでいた。
不安で心臓が軋んで、目の前も乱れて行って。

…ああ、怖いのだ。俺は。
今、こんな形で、彼女の生きてきた世界を知るなんて。


独りにしないでくれ、こいし…。


「こいし!!」
「どうしたの?」
「……!!」


それまで突然何も無かった場所に、彼女が『見えた』。
動転していた俺は、確かめるように手を伸ばして彼女に触れた。

…あたたかい。ああ、良かった…。

「こいし…。」
「……痛いよ、○○。どうしたの?」

小さな肩が軋むほど、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
何か夢でも見ていたのだろうか?一体今のは…。


「怖がりな所も、おそろいだね。大丈夫、いつでも一緒だよ。」
「ああ…。」


安堵からか、涙が零れた。

突き離せない理由なんて、結局シンプルだ。
なんて事は無い、俺もまた、こいしに依存しているのだ。

愛してもいない、きっと大切でも無い。
ただ、独りが怖い。それだけの理由で。

鏡合わせの、揃いの瞳と目が合う。
彼女は暖かな笑みを俺に向けると、優しく頬を撫でてきた。

「だからね。あなたが寂しい時は、ずっと近くにいるから。」
「……!!」

それは、触れる様なくちづけだった。
何処かうるんだ瞳で俺を見る彼女は、絵画の中の人の様で。

それはとても綺麗で。
とても、遠い存在に見えて。

それがただ嬉しくて、悲しくて。


また、涙が零れた。







そうだよ。ずっと一緒だよ。
“あんな女”みたいに、あなたを見捨てたりしないから。

だから、もし私の前から『消える』なら…。





続く。





タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2012年08月05日 19:51