昨晩感じた快楽が、今は嘘のように消え果ていた。さながら無間地獄にでも突き落とされたかのような焦燥感を持って、○○は輝夜の膝に頭を預けながら次の日をすごしていた。
あの日、逆さ吊りになって鈴仙に蹴ってほしいと嘆願した事。
そして待ち望んでいた渾身の蹴りが入る直前、鈴仙が真横へと綺麗に吹っ飛んでいった事。
そこまでは覚えているのだが。その後何が起こったのか、○○にはその部分の記憶が全く無かった。
永琳が○○の名を呼びながら、バタバタと走り寄り。そして○○の眼前に顔を近づけ、頬の傷跡を見て少し顔を歪ませた。
その後、首筋に注射針でも刺されたかのような痛みを感じた。
その痛みを感じてすぐに、意識が暗転。気がついたら輝夜と同じ布団で寝ていた。



「そしたら妹紅との会話がね、妙に噛み合わなかったのよ。肝心な所で自分が何をしたのか分かってない感じ」
永琳からは多分注射を打たれたのだろう。そうでなくては意識を一気に失った事の説明がつかない。
薬の副作用か、精神的な衝撃から立ち直れていないだけなのか。頭の回転はやたらと鈍かった。
頭の回転が鈍いせいか、その日は動く気力も湧きにくかった。
朝起きてから、食事の以外の殆どの時間を○○は輝夜の膝の上に頭を預けて過ごしていた。

「それで何かおかしいなぁ~と思ってね。永琳だけ戻らせたのよ」
そうしたら、案の定よ。と言い終えてから、勝ち誇ったような表情で輝夜は窓の外を見やった。
窓外から見える庭の一角には、逆さ吊りとなった鈴仙がいた。鳴子の類は、輝夜が永琳に強く言って一部を外させていた。
「昨日は妹紅にも一応勝てたから、気分が良いわぁ」
パタパタと扇子で起こした優しい風を○○に当てながら、輝夜はケラケラと笑っていた。
当の○○には、輝夜の会話も半分近く頭に入っていなかったのだが。
ただ回転の鈍くなった頭でも、今の状況が良くないなというのだけは。漠然とは感じていた。
感じるだけで、それ以上どうと言う事は何もないのだが。
それでもその種の事を考えているだけで、妙な疲労感が○○を襲う。
遂にはその疲労感に負けて、目を閉じてしまった。
「あれ?○○、寝ちゃったの」
そんな心中を知ってか知らずか。輝夜の言葉はのん気その物だった。





「よっ、鈴仙。ヘマ打っちゃったね」
逆さ吊りになった鈴仙の下に、てゐがやってきた。
言葉こそはいつもの軽口でからかっていたが。表情の方は少し違っていて、妙に真面目な面持ちだった。
それも当然だ。やり方の違いから鈴仙とてゐは協力関係には無いが、目標は同じくしていた。
その事から敵対関係と言うまでの険悪さは無かった。多少癪ではあるが、鈴仙の試みが成功してくれても良かったとも考えていた。
○○が悦んでいる姿を見ているだけでも、それなりに楽しくなれるのは事実だろうから。
と言うか実際、○○の嬌声だけでもそれなりに。箸休め程度の物には昇華させる事ができていた。

あの日あの時、てゐは厄介者を巻こうと永遠亭内をうろつき回っていた。
もういっそ外に飛び出そうかなとまで考えた頃だった、件の轟音が気こて来たのは。
正直な話。この永遠亭を襲うなどと言う事を、実行してただで済みそうな輩はほんの僅かしかいない。
輝夜と永琳の威光。それは部外者でも十分に理解できるくらいの強さだった。
そんな二人の配下についているイナバ達ならばそれは尚更、最早骨身に染みて分かっている。
それが分かっているから。イナバ達は反射的に、この轟音を引き起こした主がそん所そこ等の手合いでないと判断したのだ。
だから皆、一気に青ざめて。役目など放り出して恐慌状態に陥りながら、外へと逃げ出してしまった。

しかし、てゐは冷静だった。
てゐが知る限り、今の永遠亭に襲撃を受けるような剣呑な空気は無かった。
主要な勢力達とも、別に険悪な雰囲気を作っていると言う事も無い。妹紅は例外だが、アレは勢力ではなく輝夜との個人的な確執があるだけだ。
この轟音の主が、妹紅ならば別に構わない。彼女はイナバ達に危害を加えた事は無かった。
精々、荒っぽく止めに入った永琳と何度かやり合ったくらい。

他勢力の襲撃は考えにくいし、妹紅が主犯ならば放っておいても構わない。
しかし、てゐは妹紅以外の人物を。妹紅以上に怪しんでいた。
「鈴仙……かなぁ。もしかしたらこれは」
そこに思い至った理由は、妹紅の声が聞こえないからだ。
妹紅が襲撃して来た際。彼女は大声で自分の居場所を知らせてくる。少しでも早く輝夜とあいまみえたいからだ。
しかし今日はそれが無い。かと言って、妹紅が自分の居場所を隠す利点も思い浮かばない。


そんな事を考えながら、てゐの足は自然と轟音のした方向に向っていた。
途中永琳の「あの女ぁぁぁ!!」と言う声が聞こえてきたので、手近な部屋に隠れた。
ほとぼりが冷めたのを見計らって、また歩みを始めると合点が行った。
永琳が日頃常駐する処置室、ここが滅茶苦茶になっていた。
そしてこれ見よがしに貼られた、見覚えのあるお札。妹紅が使っている物と見て間違いなかった。
「搦め手で……怒らせにかかったのかな。多分普通に来ても相手しないだろうし、今の姫様は」
でもなんで師匠の部屋なんだろうなぁと、少し引っ掛かったが。


「まぁ、良いや。○○の所に行こう」
別に妹紅が主犯でも、それで構わなかった。妹紅絡みの騒動はほぼ輝夜の、残った部分も永琳の範疇だから。
放っておいても構わないだろう。今までもそうだったし、それが変わることはこちらが妹紅の不興を買わない限りは無いだろう。


ルンルン気分で○○の所に向っていたてゐだったが。輝夜の部屋の近くに着いたとき、様子のおかしさに気付いた。
先客に鈴仙がいた。それは別に構わないのだが、どうにも二人の様子がおかしかった。
○○は頬を押さえているし……鈴仙の腕は、平手打ちを放った後のような形だった。
ここに来て鈴仙が行動を起こしたと言う事か。確かに、妹紅相手ならば輝夜の沸点は意外と低くなる。
その上今回は永琳にも喧嘩を売ったようだし。○○が1人っきりになったのならば、けしかけない筈が無いだろう。

しかし、どうにも都合よく話が転がっていると思った。
妹紅の襲撃、しかもその襲撃場所が永琳の部屋。これにより輝夜と永琳の二人を、一気に怒らせた。
○○の傍を二人が一片に離れると言う事に対して。どうしても、何か作為的なものを感じざるを得ないのだ。
(妹紅と鈴仙・・・つるんでる?)
そうして、そんな考えが自然と頭をついた。てゐのその考えについての考察は。
(有り得る!!だって鈴仙は妹紅の家を、1人で監視してたじゃないか!!)
全肯定であった。それだけでなく、その手があった!と悔しさを滲ませる仕草も見せた。


しかしそんな悔しさは。意外とすぐに飛んで行ってしまった。
「おおう!……うおぉ!!」
「うへへ……可愛い声出すなぁ。○○って」
○○が虐められて、その事によって○○の口から出てくる嬌声。これを聞いているだけで、てゐはある程度の充足感を感じていた。
勿論、はたから盗み見たり聞いたりするより。実際庭の中に入った方がより楽しいのは分かる。
しかし「最後まで上手くいくのかなぁ……」これが、鈴仙が立てた計画の仔細を知らないてゐの、率直な感想だった。

上手くいくようなら、機を改めれば良い。
どうせ○○は逃げないし、今回は観客の立場に甘んじる事にした。
○○が逃げたり、いなくなったりする事はないのだ。慌てる必要は無いと言う考えだった。
結果的にその慎重さが功を奏した。

甲高い音を放つ、鏑矢の音。これが聞こえた時「あーやっぱり」と言う感想しか思い浮かばなかった。


触らぬ神に祟り無し。てゐはすぐに永遠亭の敷地外に逃げた。
鈴仙がどんな目に会って、今朝から逆さ吊りの姿を晒しているかはよく知らなかった。とにかく朝方帰ってきたらこうなってた。

とりあえず、聞きたい事が合ったので。てゐは接触を図る事にした。
鈴仙は輝夜の部屋から見える位置で逆さ吊りになっていた。この接触を見られるのは、厳密に言えば良くは無い。
しかし輝夜に対しては、戦線を布告したも同然の状態。
多少輝夜の部屋の窓が気になるが、この程度なら些末であろう。
それに、鈴仙の方も大声を出す気力が無さそうだし。小さめの声で話を進めれそうだった。




「何よ……てゐ。軽口でも叩きに来たの?」
「妹紅をけしかけたの?姫様と師匠に」
てゐは鈴仙と口喧嘩をする為に来たのではなかった。ただ確認したい事があったのだ。
妹紅が襲撃してきた事の真相をだ。

輝夜に聞けば嬉々として話してくれるだろうが、それは癪だった。なので鈴仙から可能な限り聞き出したかった。
「・・・…だとしたら?」
「師匠も、一緒に相手してくれるように頼んだの?」
「もっと話を詰めとくべきだったわぁ・・・・・・意外と早く気付くんだから」
小さめの声とは言え、ここは輝夜の部屋から見れる位置にある。出来るだけ早く会話を切り上げたかった。
なので、矢継ぎ早に聞きたい事だけを鈴仙に浴びせた。何処まで聞き出せるかは分からないが。

「気付くって?」
「あの時……寺子屋の教師が帰ってこなけりゃなぁ…………もっと話をするべきだったな妹紅さんと」
当の鈴仙はてゐの言葉を聞いているのだか、聞いていないのだか。うわ言の様にぶつくさと、何かを後悔しているような口ぶりだった。
しかし、これだけでも分かった事はある。妹紅と鈴仙に協力関係が合った事だ。

(十分か。続きは藤原妹紅に直接会って、仔細を聞いてみよう)
鈴仙はまだぶつくさと呟いているが。最初から粘る気は余り無かった、二人の協力関係に対する裏を取れただけで十分だった。
そう思って、後ろを振り返ると。
「げぇ!」
てゐはあからさまに“不味い”と言う表情を浮かべた。ある意味、輝夜以上に嫌なものが見えたからだ。
「てゐ様ー!何を話されてたんですかぁ!?」数多くいるイナバ達の一匹が、そこにはいた。とってもわざとらしい笑顔で。
「犬じゃないけど兎だけ……姫様の犬めー!!」捨て台詞を残して、てゐはそのイナバから逃げ出した。


このイナバには、輝夜が○○を遊郭街から連れ帰ったあの日。風呂の焚き付けを押し付けた事がある。
その際、このイナバは輝夜から何か命令を受けたのだろう。
あの日以来、とにかくてゐの周りを付きまとっていた。
「てゐ様ー!」
「追ってくんなああ!!」

「え、てゐ様いるの!?」
「てゐ様ー待ってー!」
「増えるなああぁぁ!!」
しかも、最初のうちは一匹だけだったのに。最初のイナバを中心に、次々と協力者が増えている始末であった。
てゐは今ではこのイナバ達を、輝夜以上に厄介な存在として認識していた。







「てゐ様ー」「てゐ様ー」「てゐ様ー」
永遠亭を飛び出して、竹林に舞台を移しても、イナバ達はまだてゐの事を追いかけてきていた。
「来るなあああ!!どっか行けええぇ!!!」
件の、風呂焚きを押し付けたイナバだけが指令を受けていたのは最初だけで。今では永遠亭の全イナバがてゐの監視役なのでは。
てゐを見てもこれと言った反応を見せないイナバもいるから、多分そんな筈は無いのだが。
実はそうなんじゃと思いたいくらいに、てゐを見つけた際の情報の広がり方がちょっと寒気がするくらいに早かった。

「てゐ様ー」「てゐ様ー」「てゐ様ー」
「ひいい……!これ、今までで一番多い数が追いかけてないかぁ!?」
「てゐ様ー」「てゐ様ー」「てゐ様ー」
永遠亭を飛び出す頃に比べて、明らかにその数は増えていた。そこに強い恐怖感を覚えざるをえなかった。
幸い、まだこの大群に捕まった事は無いが……捕まってしまった時の事を考えると、身の毛もよだつ思いだった。
その上今回は、追跡者の数が過去最多。感じる恐怖も過去最大だった。
「誰かぁ!!助けてくれウサああ!!!」
てゐの口から、柄にも無い誰かへの助けを乞うぐらいであった。


「うっせえええ!!!」
半ば自棄になって張り上げた、助けを呼ぶ声。意外な事に、願いは届いた。
「お前等、全員まとめて焼き兎にすんぞぉ!!?」
「キャアアア!!!」
「逃げろー!」「焼かれるー!」「食われるー!」
その声が聞こえて来るや。今まで必死にてゐの事を追いかけてきたイナバ達が、回れ右をして何処かに行ってしまった。
イナバ達は、この声の主に強い恐怖感を植え付けられていたのだ。

しかし、てゐにはその恐怖感を植え付けられる経験が無かった
「よう、永遠亭の兎の……小さい方だな」
「藤原妹紅!」
だから、声の主である藤原妹紅を見ても。いきなりやってきて、自分を助けた事に対する驚き以外の感情は浮かばなかった。
「助けてやったんだ。ちょっと手伝えよ……多分、お前にとっても損な話じゃないと思うからさ」
「……話が早そうで助かるウサ」
この時のてゐは、策士の顔をしていた。
その顔に妹紅も、いかにも悪巧みをしていそうな笑みで答えた。

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最終更新:2012年08月05日 22:23