翌日になって、紫は頭を抱えて唸っていた。
「うう、あだまがいだい」
二日酔いによる頭痛だったが、紫は俄に信じられなかった。
もう何百年と酒を飲み続けているが、二日酔いになったのは数百年前に鬼と飲み比べをしたとき以来だったからだ。
ただの宴会の場で、最近から考えれば少々飲みすぎかなくらいしか飲んでいなかったはずなのに、
ここまで酷い二日酔いになるなんて考えられなかった。
「……やっぱり、あれ、かしらね」
紫の脳裏に浮かんだのは昨日のお酌をさせた相手○○。
どうしても○○のことが頭から離れなかった。
「この私が人間のそれも凡夫ごときに、こんな思い悩まされるなんてね」
○○は正真正銘の凡夫だった。それは間違いなかった。紫の胸にあるモヤモヤが晴れない。そして、その○○こそこのモヤモヤを晴らす鍵であるとどこかで確信していた。
「このままでは眠るのもままならないわ。しかたない、行きましょう」
誰に言うでもなく紫は呟き、隙間の中に入っていった。
現在○○は配達物をまとめていた。
「ふぅ、昨日は大変だったな」
○○は配達屋を営んでいた。どこへでも金額次第で送り届けるというものだ。無論大変ではあるが、外へ帰るために多少の無理は承知であった。
そして、今ゴチたのは昨日の博麗神社での一件であった。多くの外来人は行くのを止めていたが、仕事であるからと忠告を無視して向かった。
「確かにみんなが止めるのもわかったよ」
まず、そこへ行くにも一苦労であった上に、境内にいる多くの人神妖の気にあてられて気分が悪くなった。しかも大妖に絡まれもした。
「……確か、八雲紫って言ったっけ?」
○○は迷惑だったという気持ち半分、美女のお酌をできるという役得半分というのが本音だった。
○○は忠告の真意を今だ理解していなかった。
「よっしと、これで完了だな。あとはこれを――」
「ごめんください」
(ん? こんな朝早くから誰だ?)
○○は不審に思いながらも、戸を開けた。そこに立っていたのは――
「ごきげんよう○○」
妖艶な雰囲気をもっているこの女性は○○も知っている妖怪、八雲紫だった。
「え? あの? なにかご用でも?」
○○は表面は冷静を装っているが、内面では非常に焦っていた。
「……いえね……あ、いや、何でもないわ」
そしてチラリと視線をずらし
「ちゃんと保管してるわね」
紫が目をやった先には昨日の日傘があった。
「それはまあ、相当大事なものらしいですし、それに――」
「それに?」
「あなたにいただいたものですからね」
○○は臆面もなくそう言った。対して紫はすぐさま後ろを向き、己の顔を○○に見えないようにした。
「そ、そう、殊勝な心がけね」
今、紫の顔はかつてないほど真っ赤に染まっていた。
「今後も大事にするように。それではごきげんよう」
紫は早口で捲し立て、隙間の中へ消えていった。○○はしばし呆然としていたが、仕事を思いだし、すぐさま取りかかった。
(私は何をしているのだろう)
紫は自己嫌悪に陥っていた。あんなことを言いに行ったわけではない。もっと確かめたかったことがあったはずなのに、それができなかった。
(私は一体何がしたかったというの?)
紫の問いに答えてくれる者はいない。自己解決以外道はない。
(だけど、ヒントならもらえるかも)
紫はまた隙間へ潜っていった。
あまりにも美しすぎるその光景はこの世のものとは一線を画していた。ここは誰もが辿り着く通過点、冥界。そしてその中でも一際美しい場所、白玉楼。そこへ一つの隙間が開いた。
「あら、いらっしゃい紫」
縁側でお茶をすすっている死装束を着た少女、『西行寺幽々子』は隙間も見ずに言った。
「何か相談でもあるようね」
無邪気なその笑顔とは裏腹に、全てを見透かしているかのような目をしていた。
「……ええ、その通りよ」
紫は正直に事の顛末を話した。すると
幽々子はクスクスと笑いだした。
「な!? なによ! 何がおかしいというの? 私は本気で悩んでるのよ!」
紫は顔を真っ赤にしながら幽々子に怒鳴ったが、幽々子はどこ吹く風とでも言うようにクスクス笑い続けた。
「ふふふ、ごめんなさい。貴女があまりにも可愛らしかったから、つい」
紫は未だ冷めぬ顔を扇で隠しながら戸惑いの色を示した。
「わ、私が、可愛い?」
「ええ、そうよ」
全くもって理解できなかった。考えてみるが、やはり幽々子の言わんとすることが露ほども伝わってこない。
「教えてほしい?」
意地悪な顔で幽々子が聞く。
「もちろんよ」
いたって真面目に紫が答える。
「貴女、恋をしてるのよ」
「……はい?」
紫の思考が停止した。幽々子はウフフと笑っていた。
「私が……恋?」
紫はふらっと立ち上がり、隙間の中へゆらゆらと入っていった。
「紫、恋は欲望のまま、我が儘にいけば良いわよ」
隙間が閉じる前に、幽々子は今までにない、妖艶でどこか黒い笑顔でそう言った。
しばらく、思考の渦に飲み込まれていた。そして、それが集約したとき、一気に顔が熱くなった。
(わた、私が人間に、恋をしてる)
紫は理解はしても認められなかった。なぜ、あんなただの人間に惚れたのかがわからないからだ。
そして、一つの決断をした。
「毎度どうも」
あの宴会から1ヶ月が経とうとしていた。○○は今日も外界へ帰るために一生懸命働いていた。
しかし、最近おかしなことがある。やたらと誰かの視線を感じるのだ。周りを見ても誰もいない。気のせいかと思っていたが、日に日にその視線の粘着度が増していくのが感じ取れた。
「……一体何なんだ?」
それに比例して○○はどんどんやつれていった。
「どうした○○、顔色が悪いぞ?」
声をかけてきたのは今日の配達先、寺子屋の教師を勤める『上白沢慧音』だ。
「あ、いえ、何でもないですよ。少し疲れているだけ……!?」
瞬間、視線の粘着度がまた上がった。そう、この視線、女性と接する度に異様な気配とともに粘着度を上げていくのだ。
「本当に大丈夫か?」
慧音は心底心配そうにしていたが、○○はこれ以上悪化させたくないので取り繕い、その場を去った。
仕事が終わり家に着くと、玄関先に誰かが立っていた。
「あら、おかえりなさい」
それはもはや恒例の来訪となっている客、八雲紫だった。
「あ、紫さん、いらっしゃい」
○○は紫だけは安心できた。なぜならば紫と居るときだけあの視線が嘘のように消えてしまうのだ。最近では下の名前で呼ぶくらい仲良くもなったし、紫とずっと一緒にいたいとまで思っていた。
二人は家に入り、食事を作り上げ、一緒に食べた。
「その、いつもごめんなさいね。食事を御一緒させていただいて」
「いえ、そんなことはありませんよ。むしろ僕が助けられてるくらいですから」
「助けてる? 私が?」
頭にクエスチョンマークを浮かべた紫を見て、○○は失敗したと思うと同時に良い機会だから話してしまおうと考えた。
「その実は最近視線を感じるようになって――――」
全てを話終えると、紫は扇子を開き、顔半分を隠しながら、何か神妙な面持ちで考え込んでいた。
「紫さん?」
「○○、あなた、私をどう思う?」
いきなりの質問に○○は面食らった。が、その真剣な面持ちを見て、○○も誠意をもって答えた。
「僕は、その、失礼かもしれませんが、えっと、紫さんのこと……す、好きです。紫さんほど安心できる人と居られたら幸せだなって思います」
○○は真っ赤になりながら答え、恥ずかしさのあまり俯いてしまった。瞬間、紫がニヤリと笑った。
「嬉しいわ○○。私も○○のことが、大好きよ。だから、貴方を守ってあげる。そのかわり、私と結婚してちょうだい」
こうして、○○は外界帰還を諦め、紫と結婚した。だが、後悔はなく、幸せそのものだった。あれから視線を感じることはほとんどなくなっていたが、未だに、紫以外の女性と接していると視線を感じていた。紫曰く、解決には尽力しているが、中々難しいとのこと、それならしょうがないと、我慢を続けていた。
「うふふ、ダメよー、他の女と接するなんて。貴方はもう名実ともに私のものなんだから。賢者と言われども、貴方を私のものとしようども、嫉妬って中々抑えられるものじゃないんだから、いつ、この感情が暴走するかわからないわよー」
今日もまた、○○を見続ける。
最終更新:2012年11月12日 10:40